これは、それから四五日してからだ。私は正午過ぎに、岡田のところへ、袴を借りに寄ったのだ。──其の日私は、例の雜誌用で、小石川にいる高木博士を訪問しなければならなかったのだ。これも今までに一二度會って居れば、着流しで行っても好いのだが、其の日訪問するのが初めてだったから、世間の慣例に從って、せめて袴だけなりと附けていこうと思ったのだ。ところで、私が友達から貰って持っていたセルの袴は、何時の間にか質に入れてなくなしていたから、これも例に依って、岡田のところから借りようと思って、出掛に寄ったのだ。
岡田の部屋へ通っていくと、彼は部屋中一杯に、古雜誌や古新聞を取りちらし、引きちらしていた。私はそれを見た時には、彼はいよいよ金に窮してきたところから、今度はこれらの物を屑屋へ賣りはらおうとするのだなあと思った。で、私は、
「どうしたんだよ。今度はこれを拂っちゃおうと云うのかい。」と云うと、
「ああ、面倒臭いから、入らない物は、みんな屑屋へやろうと思うんだ。」と云う挨拶だ。私は私で、「何が面倒臭いからだ。」だと思って可笑しくなった。
「ところで、折角の思いつきだが、幾くらにもならないなあ。まあ、せいぜい高く見積って、敷島三つだなあ。」
「そんなやつがあるもんか。もっと高いよ。」
「そうさ。高いのは不二の山で、これだけじゃ敷島だなあ。それを三つッてところは好いところさ。それが厭だと云うなら、旦那、もっと外に、何かござんすまいかだ。」
「つまらないことを云ってらあ。それはそうと、僕は今日越そうと思うんだが、君は忙しいの。」と岡田が云うのだ。なんでも彼の調子に依ると、如何にもそれは、急を要しているらしいのだ、だから彼が私に向って云った、「つまらないことを云ってらあ。」と云うのは単に私の云った古新聞や古雜誌の賣價如何に就いて云ったのではなくて、彼は、微塵彼の焦燥さを知らずに、私がそう云う無駄を云っているのに對して云ったものらしいのだ。だから彼はそう云う閑談を弄しているよりは、彼は彼に取って、もっと重大な轉居問題なるものを說きたくてならなかったらしいのだ。ところで、それを聞く身になると、ことが餘りに急なので、ちょっと聞いただけでは、本當だとは思われなかった。
「また、どうして越すのさ。今日ッて、これからか。」
「ああ、これからさ。で、君が忙しくなければ、僕と一緒にきて、ちょっと間(※間借りできる住まい)をみて貰いたいんだ。」
「なんだい。これから間をみつけるのかい。」
「そうさ。」
「で、どうして越そうと云うんだい。僕は今日これから、小石川へ行かなきゃならないんだが……」
「小石川へ何しに行くの。」
「高木博士のところへ、話を聞きに行かなきゃならないんだ。で、ちょっと、君の袴を借りたいんだ。」
「ああ好いとも、持っていきたまえ。直ぐに行くの。」
「ああ。なあに、直ぐでなくったって好いんだけれど、それよか、どうして君は越そうと云うんだい。足元から鳥が立つようにさ。」
「なあにね、あの女がうるさいからさ。」
「うるさいからって、引越すのか。いよいよ切れる氣なのか。」
「そうなんだ。もうすっかり愛想が盡きちゃった。何しろ此の頃はね、向うから每日のようにやってくるんだからね。そしちゃ、愚にもつかないことばかり云ってるんだ。」
「『早く、一緒になって頂戴な』ってやつかい。」
「そうなんだよ。何處をどうして拔けてきたもんか、昨夜もやってきてね、君が今云った通り、何てんだい、『早く一緒になって頂戴な』って云やがるような始末なんだ。何でもくる路に見てきたらしいんだ。好い茶箪笥が出ていたとか、長火鉢もあったとか云うんだ。またそんなことを、どうして知ったのか知らないが、『みんな安いのよ。』とか何とか云って、これから買いだしにでも行きそうな風なんだから驚いたよ。驚くよりも情けなくなっちゃったよ。で、もうこうなっちゃっちゃ、服藥や注射だけじゃ迚も駄目だから、一層のことメスでもって、切斷しちまおうと思うんだ。でなきゃこれからも、相變らずやってきちゃ、愚圖愚圖せつかれた分にゃ助からないからなあ。」
「じゃ何か、君は本當に、厭になっちゃったのかい。」
「そうさ。厭になっちゃったのに、嘘も本當もないじゃないか。まあ、譯と云うのは、そう云う譯なんだ。で、僕はそう定めると、此の儘一時も凝としちゃ居られないんだ。だから、今の中に越したいんだ。」
「君が本當に厭になったと云うなら、まあそうするんだなあ。ただ悔いをのこさないようにするんだなあ。僕に云わせると、厭になったからと云って、何も今日や明日に引越しするには當らないと思うが……」
「いや、僕は後悔なんぞしないよ。もう今日からは、すっかり生れかわったんだ。それにしちゃ、此處にこうしていちゃ駄目なんだ。何處かへ越さなくっちゃ。此處にいちゃ、幾くら逢うまいと思ったって、向うから押しかけてこられちゃ、三度に一度は逢わなきゃならなくなる虞があるからなあ。」
「君が其の決心なら、そうするんだなあ。で、何かい。引越しの用意は好いのかい。つまり金の問題だ。此處へ拂うのと、新規にいく家へ拂う金があるのかい。」
「ああ、そりゃ何とかする積りだ。此處には持っていないが、何處かへ行って、都合してくる積りだ。それにしても、早くこれから、間を見つけなきゃいけないんだ。」
「まあ、そうだなあ。で、どの方面にするんだ。何方路、此の界隈じゃいけないんだろうから。」
「そうなんだ。で、いろいろ考えたんだが、そうかと云って、神田や牛込では、餘りに馴染みがなさ過ぎるしするから、僕は追分邊にしようかと思うんだ。追分か西片町、でなきゃ森川町邊でも好いんだ。何處か其の邊の下宿屋へいきたいと思うんだ。いろいろの關係上、しもた屋は厭なんだ。もう飽きちゃった。」
「じゃそうするさ。ではどうだい。出ようか。僕に袴をちょっと出してくんないか。」と云うと、彼は立って、押しいれへ納ってあった、小倉の袴を取りだしてくれた。私はそれをつけて、岡田と一緒に外へでた。
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