第21章

根津權現裏(第22話)

焚書刊行会

小説

2,583文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

 おかだいこくだけは、おんがあればあるだけに、また、うらみがあればあるだけに、いのちえても、しゆうせいぞうしてこうとおもっていたそれも、ばんむをないじようから、こんはそれをって、ぜんあるいたことのある、ふるどうせてまわったのだそうだ。するとこれはまた、たんとうよりもいっそうじきなのだそうだ。いっとうこうじきうのは、二えんぽっきりなのだそうだ。
「ああ、きたくなっちゃった。どうかんがえたって、わずか二えんぐらいはしがねえられるもんか。よくせきこまればこそ、りにもだいこくろうとうのだ。それが二えんだとうんだからなあ。」
 ときかれは、こうってがいたんしていた。
ぼくはこんなおもいをするくらいなら、──こんななさけない、いやおもいをするくらいなら、いっのこと、ったたんとうでもって、はらってんじゃったほうしだった。」とってからまたかんがえて、「だがしかし、まだにはなれないし……」とって、ふかためいきをしていた。──いきくようなふかためいきをしていた。
 おかは、二えんだとだいこくには、まだまだれんがあって、ばなにはなれなかったのだ。とうのはほかでもない。それはせいどうた、ひとにぎりぐらいおおきさのものだったが、これをにしてみると、けいたいりには、どうたのまれたところで、とてしんじられないほどじゆうりようがあるのだ。で、かれはそれをからいてきたのからないが、これはひよっとすると、ふくちゆうおうごんんでいるせいではなかろうかとわれていたので、かたがたもって、二えんや三えんかねえるはなかったものらしい。
 だがしかし、いっぽうにはそれとともに、かねひつようせまってくる。くらかんがえても、ほかにはこれとって、るべきさくがない。かたないところから、こんたのみにならないそれをたのみにして、かれしゆじんじようをあかしてあいがんしてみたのだそうだ。するとしゆじんは、それを五えんえてやろうとうのだそうだ。そして、しこれがいりようときには、五えんかねひきえにでもかえしてやろうとじようけんづきでもって、それをかねにしてくれたのだそうだ。わたしのところへ、おかはなしもたらしてきて、
かねだかそくだが、しかしこれはったのではないからあんしんだ。ちちかたを、みんなくしてしまっちゃっちゃ、なんだかもうわけのないようながするからなあ。」とって、ときばかりは、さもうれしそうにしていた。しかし、かねも、ならずしてなくなってしまったことはうまでもない。
 で、これはたんわたしいっそうぞうなのだが、あいだかれは、いまさらのようにちちのことをおもいだして、ふかぶんのことをかんがえさせられたことだろう。──ぶんにも、さんらしいさんがあったら、こうまでさびしい、しんおもいはしなかっただろう。それに、だい一はびようのことだ。ぶんってうまれたようなびようさえなかったなら、こんなかなしいおもいはしないのだ。びようゆえりようするようるにも、あまひとらないろうをしなければならないのだ。ちちゆいいつさんともうべきたんとうだいこくとは、かねえてみたところで、わずかに八えん五十せんにしかならないのだ。そして、いっぽうびようほうはとえば、それはこんなおどれだけのようようするかわからない。そればかりか、ぶんこころざしているがくぎようが、ために、どんなにさまたげられるかれない。こうおもうと、もうせいけたことからして、うらめしくなってきたことだろう。ようにしてははうしなったかれには、ははおもいでなどは、くらとうとねがったところで、それはゆるされないのがとうぜんだが、さびしさのあまりにふとははもとめて、おもかげられないもどかしさにあおられたこころは、ぜんちちほうかえってったことだろう。そして、にはまた、ときどきわたしにもはなしたことのある、ちちぼうらんぎようさをおもいだしたことだろう。あるときは、かれあたうるしよくしみ、あるときは、よごれた一まいものうばい、またあるときは、あまりのかなしさおそろしさに、きよえつしながら、ひなのようにちふるえているかれとらえて、いかれるままに、りしきるゆきちまたきだして、なおもしゆはいからはなそうともしなかったちちのことが、それかそれと、あのかげどうろうるように、かれこころうつってきたことだろう。そして、ぶんおなをみたあにあねのことをかんがえて、それらとげんざいぶんとのかんけいおもいおよぶと、さらにさらに、なさにかされたことだろう。それもはずである。ひとあねは、はっきゆうじゆんつまであり、ひとあには、まずしいあらものいとなんでいるのだからだ。そして、あにはやくからいえをしていただけに、いまではかれかれあねとは、きようだいとはのみで、まるでにんのようなかんけいになっているのだ。わたしきっそうだとおもう。かれは一めんには、ちちのこしてってくれたたんとうだいこくたいして、かなりのしゆうちやくかんじながらも、ほかの一めんには、げんざいけるきようだいなる所以ゆえんも、みなざすところはちちあわれなせいかくからきているのだとおもうと、綿めん綿めんとしてきないうらみをおぼえたことだろう。すくなくともわたしはそうおもう。それはさきにもったように、とみたるものは、あたえられたるゆうって、おもうのねんをもうばわれがちなのとははんたいに、まずしいものてるつうは、しばしばしんじようおもかげ宿やどして、ふんえんこんいられるものだからだ。
 かれは、ひやっぽうふうして、しやへだけはかよっていたが、しかし、それもそうながくはつづかなかった。しあわせとなかには、かんほういくぶんおこたってきたので、かれしやがよいを一ちゆうしてしまった。それからざっと三ねんかんっているのだから、わるくなってくるのは、むしとうぜんかもれない。そして、それはとうぜんなだけに、かれはまたりようこうずるようをしなければならないのだ。かれはそれをおもい、いまなおきゆうごとまずしいぶんのことをかんがえると、ちようはりのついていないつり竿ざおわたされて、ちようぎよがためいぜられたようなちがすることだろう。そして、てんわたしとてもどうようだ。わたしぶんあしのことをおもうと、せっちゆうたいままで、せんみちさせられるようなちする。だからも、わたしたちはなしが一たがい宿しゆくしつのことにおよぶと、もうすっかりこころうしなってしまって、かたるところはかなしいばかりだった。そして、おかかえっていったのは、もうかれこれ四まわってからだった。そとはまだ、きつくようなたいようひかりで、じゆもくがわらも、またにわみちも、みなくるしそうにあえぎあえぎしていた。あいだせみこえのみが、ほこきしきっていた。

2020年10月5日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』第22話 (全60話)

© 2020 焚書刊行会

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