其の翌日も岡田がやってきた。
また其の翌翌日も同樣だった。
それからも私達は、殆んど每日缺かさずに逢っていたと云っても好い位だった。無論其の間には、私の方から出掛けていったことのあるのは、云うまでもない。
ところでこれは、其のことがあってから、たしか二三日してからだったと思う。があるいは四五日してからだったかも知れない。岡田が私のところへきて、
「君、無知な女ほど、憫れな者はないなあ。」と云うのだ。私は、それが何を意味するものか分らなかったから、
「それがどうしたんだい。」と云うと、彼は、私の云った言葉などは、耳にも入れないように、
「全く、無知な女ほど、憫れな者はないよ。」と同しようなことを繰返すのだ。
「そんなことは、云わなくたって、分ってらあなあ。どうしたんだい。」と云うと、
「いや、昨夜僕が、三日月へ行ったと思いたまえ……」と云うから、
「ああ、それで分った。ふさの局が、螢を捉えて、『どうして螢は啼かないんでしょうね。』と、こうおっしゃったと云うんだろう」と、私は途中から、自分の方へ話を引きとって、こう云うと、
「ううん、そうじゃないんだ。昨夜やっこさんが、一つ二つ話をしている中に、早く一緒になりたいと云うんだ。此の頃此處にいるのが、つまらなくてならないと云うんだ。僕はそんな出來ない相談相手になっていたって始まらないから、口から出放題なことを云って、好加減に跋を合していると、終いにやっこさんは、『私、砲兵工廠の女工になっても好いわ。そしたら、なんとかならないことはないでしょう。』と云うんだ。それ聞いて僕は、なさけなくなっちゃった。」と云うのだ。其處にはもう、絕息し切った戀人の顏面を見守っているような調子があった。そうだ。信賴し切っていた者の手で、見事に裏を掻かれた時のような、悔恨と、悲痛さと云うようなものがあった。
「好いじゃないか。向うの云い分には、少しも不思議がないじゃないか。僕に云わせると、そう云われて、氣を惡くしている君のほうがよっぽどどうかしてるぜ。僕なら、淚を流して喜ぶなあ。」
「と云うのは、どう云う意味なんだえ。考えてみてくれたまえ。假りにも此の僕がだ。自分のワイフを女工に出して置いてさ、每日每日、其の歸りを待って居れるかどうか。僕は厭だ。死んでもそう云うことはいやだ。」
彼は、敵から届けてきた、勸降狀を手にした時のような風なのだ。そして、そう云うことを敢えてするくらいなら、寧ろ當初の覺悟通り、城を枕に討死してしまいたいと云ったような切迫感が、言外に溢れているのだ。私は、彼が感情家であることは能く知っていた。だから、自分自身のことを外に向って說く場合には、ともすると其處に幾分の誇張の伴うことも分っていた。それだけに此の時も、また彼は其の病癖を起しているのだと思うと、私は全然それと同感だったとしてからが、其のまま、直截に發表する氣になれなかった。と同時に、私はそれを耳にすると、私一人が何時までも、あの俊寛のように孤獨遠流の悲哀をし續けねばならぬ者のように思われてくる外の一面には、私は飽くまで私の好まぬ女と彼とを同棲させて、それに依って生れてくる不幸の前に、彼を泣かしめてやりたいと云う、卑しい心持ちに制せられたところから、私は半ば意識して、無理にもそれに反對しなければならなかった。で、私は彼の言葉が切れると、
「僕には分らないなあ。君の心持ちは。だってそうじゃないか。當然愛の歸結は、其處までこなければならないじゃないか。だから、僕は寧ろ君は、此の際女に感謝して、其の希望を容れてやるこそ、君の採るべき最善の道だと思うなあ。」と云ってやった。
「君はまるで、僕の心持ちが分らないんだ。そんな箆棒なことが出來るもんか。」
「出來るもんかって、僕ならするなあ。それが一等本當な道だろうじゃないか。何も君のように、そうがみがみと、當りちらしやしないじゃないか。ただ僕は不愉快だから、不愉快だと云うんだ。」
「左樣でございますかよだ。」と云って、私はちょっと、熱しかかってきた話の腰を折って置いて、「じゃそれで好いじゃないか。とにかく此の暑さだ。もうそう云う話は、またの日にしようじゃないか。僕はもう此の間の火傷でもって、體中がひりひりして困ってるんだから……」と云って、私は、流れていくバットの煙の後をみていた。すると岡田は、捩子の切れた時計の振子のような目つきをしてきた。そして、
「何も、そうまで云わなくたって好いじゃないか。」と云った彼の舌端には、針を銜えて啣んでいるような銳さがあった。私は此の時、獨り自分の檻へ引っこんで、寂しい呪われたような自分を勞わっていたのだ。丁度其處へ、彼がこう云ってきたので、私は不意を食って踊りあがったが、それがまた一層私の反感を煽ってきた。そして、私は、顫えあがる胸を抱きしめながら、なおも凝と押しだまって、バットを吸っていた。
「何も僕は、君の反感を買おうと思って、こう云うことを云うんじゃないんだ。今日僕は、此のことを君に話して、君の意見を聞きたいと思ってやってきたんだ。だから僕は眞劍なんだ。それを君は、何か僕が、面白おかしく、惚氣でも云いちらしにきたように取って、頭から茶化して掛かるたあ、ちと甚かろうじゃないか。これは君一人に云うんじゃないが、一體に世間の奴らは、女の話とさえ云えば、頭から莫迦にして掛かるが、それが僕には分らないんだ。其の癖世辭や追從なら、仕事の手を休めても聞きたがるんだから、可笑しくなるじゃないか。と云うと君は、今度は僕を攻めてくるだろう。そりゃ今までは僕も惡かった。だから僕はあやまる。僕も何時か君が、淺草の女と戀しあっていた時は、少しも厚意らしい厚意さえも見せなかった。ある場合には僕は、好んで自分自身を低くするようなことばかり云っていたが、あれは僕がまだ至らなかったせいだ。で、君が今あの時の復讐をするのだと云うなら別だが、しかし君は、そんなけちな人間じゃあるまい。それに、君はもう其の經驗者なんだから、此の上何も好んで、そんなくだらない眞似をしなくたって好いじゃないか。」
彼はこう云って、其處の壞れ火鉢へ、靜に彼の手にしていた敷島の灰をはたいた。そして、またそれを口にしてからも、目はやはり下の方へ向けていた。
ところで私は、彼からそう云われると、將に百斗の冷水を浴びせられたような氣持ちがした。私ははっと思うと同時に、今まで抱いていた反感も皮肉も、立ちどころに一掃されてしまった。そして、後には慚愧と悔恨のみが殘されてきた。
「だって、何もこれが喧嘩じゃあるまいし、君は何も僕のことを、いや僕だって、何も君のことを惡く云ってる譯じゃないじゃないか。君はいけないよ。人がちょっと晝寢をしてると、其の寢込みを襲ってきて、大身の槍を突きつけて置いて、勝負呼ばわりをするんだからなあ。惡いとこは、僕だってあやまるよ。」
私の云いぐさは、慘めなほどしどろもどろだった。かなしいかな私には、其の時はそう云うより外はなかった。それから、意識がはっきり自分のものになってから、私は幾分調子を改めて、
「で、君はどうしようと云うんだ。それが何より先決問題じゃないか。」と云って、恐る恐る彼の方へ目をやった。彼の面上には、まだ餘憤の片影が漂っていた。
「それが僕にははっきりしないんだ。それで實は迷ってるんだ。」「僕に云わすれば、何も迷うがものはないじゃないか。それこそ外の問題と違って、此のことばかりは、君の料見一つに依って定まることじゃないか。つまり君が、あの女に凡べてを許しうるかどうか。言いかえると、君はあの女の凡べてを容れうるかどうかと云う問題だ。それさえつけば、あとは易易たる問題じゃないか。」
「ところで、それが分らないんだ。」
「困るなあ、君のようでも。僕に云わすれば、こう云う問題は、相手の女に就いて、それ相當の智識がなければ駄目だと思う。ところで君は、女の身分、敎養如何、性格などに就いて、多分の有識者だろうじゃないか。少くとも、僕なんぞよりは、君の方が遙に有識者なんだ。だからそれに依って、君は能く考えてみるのが何よりじゃないか。そうだ。それに今のところ、他人に全然分らない點まで、君一人が摑んでるんだから……」と云っていると、其處へ岡田が不意に飛びこんできて、
「なんだい、それは。僕一人が摑んでるって云うのは。」と云って、凝と私の顏をみた。それを受けて私は、
「それはなんだよ。君はまた、こう云うと怒るかも知れないが、君はあの女の、肉體の凡べてを知っているじゃないか。……」と云ってくると、案の定彼は、
「君は、直ぐそんな下等なことを云うから困るよ。」とばかりに、火のようになって憤ってきた。
「なにも下等なことはないじゃないか。よしまた、今百歩を譲って、これを下等なことだとしても好い。それが僕達からみて、女の第一條件だとすれば、それを口にすることは、此の場合止むをえないじゃないか。僕はそう思うんだ。其の女が如何に身分あり、敎養ある上に、最も良き性格及び最も好き容貌の所有者であるとしてからが、其の女の肉體に缺點があって、僕達が性慾上の對照とするに足りない者だったら、瓦にも均しいものだろうじゃないか。ところで、君の女は、其の正反對だと云うじゃないか。だから僕は、此の問題は僕なんぞに計るよりも、一に君の獨斷に俟って然るべきだと思うよ。」
「そりゃそうも云えるさ。いや、そりゃたしかに眞理だ。だがしかし、僕はそう云うことはどうでも好いんだ。──早い話が、あの女は、學校敎育などは、四五年しか受けたことはないらしいんだ。それにあの女の家は、松戶の荒物屋なんだそうだよ。しかし、そう云うことは、僕にはどうでも好いんだ。僕はあの女が、凡べてを僕に委ねてさえくれれば僕は凡べてをはなからやり直してやる積りだから。ただ僕は君に聞きたいのは、あの女の容貌なんだよ。どうだろう君、あの面つきの女と、僕は結婚して好いだろうか。」
「そいつあ困ったなあ。」
「どうしてさ。少しも困る譯がないじゃないか。僕はそれを忌憚なく君に云って貰いたいんだ。」
「だって君、それこそ能く云うやつじゃないか。ええ、縞と女房は好き好きだって。だから、其の點に就いてなら、僕にはなんとも云えないなあ。」
「そりゃそうだろうさ。だが、若し君が僕として、僕の立場になって、これを取扱う場合にはどうする。」
岡田は、私の返答如何に依って、最後の勝負を決しようとするもののように、滿身の力を籠めてこう云うのだ。だから其の刹那には、私はどうしようかと思った。が、要は、自分の内に信ずるところを、卒直に云うより外には仕方がないと思ったので、
「さあ、其の場合はだなあ。君怒っちゃいけないぜ。僕は直截に云うんだから。──これが僕なら、僕ははなから、ああ云う女は問題にはしないなあ。」と云って、私は彼の方を見た。彼は滿身の力を籠めて質問しただけに、此の私の返事は、彼に取っては、丁度出端を叩かれたもののように思えたことだろう。其の證據には彼は、
「そうかなあ。」と云って、靑菜に鹽でも振られたようになってきた。私はそれを見ると可哀そうだとは思ったが、しかしそうかと云って、他にこれと云う方法も見つからないので弱ってしまった。仕方のないところから私は、
「そうだ。僕なら問題にしないが、君の場合は、今問題にしつつあるのだから、君はもっともっと、考えてみる必要があると思うなあ。──君の目から見て、好ければそれで文句はないんだからなあ。斷って置くが、ただ僕は厭なんだ。」と云って、口を噤んでしまった。すると岡田は、
「だから僕も考えているんだ。」と云って、目を伏せてしまった。それから私は暫く押しだまっていたが、しかし、何時までそうしていても始まらないから、
「これは君も知っていてくれるだろうが、僕には丁度、君が戀愛至上主義者であり、また結婚尊重論者であるように、僕は容貌至上主義者なんだ。僕から云えば、女の凡べては其の女の容貌に現われているものなんだ。つまり、容貌は、女其のものの象徴なんだ。だから、それが氣に入らない場合には、僕はもう其の女は問題じゃないんだ。此處でちょっと斷って置かなきゃならないのは、僕の好きな容貌なるものは、飽くまで僕一個の好きな容貌で、他人から見て、それがどんなに醜く、またどんなに卑しく見えようが、そんなことは、僕には問題じゃないんだ。僕は今までの經驗に就いても、多くの場合、少くとも僕の友人は、僕の好む女を、卑しみ憎む場合の方が多かったんだからなあ。で、今これを僕から云えば、君にはまことに申し譯がないが、君の女のような女は、幾くら聰明であり、善良であっても、僕なら問題にしないんだ。と云うのは、僕は君の女のような容貌の女は決して聰明であり、從って、善良な者だとは信じられないんだ。だから、僕に若しかの女が、巨萬の持參金づきでくると云うなら、隨分と我がままな言いぐさだが、其の場合は、僕は其の持參金だけを貰って、あとは、一昨日お出と云ってやりたいんだ。だがしかし、誤解してくれちゃ困るよ。これは飽くまで、僕一個の趣味であり、僕一個の見解なんだからなあ。」と云ってやった。そして、此の上はもう、此の問題に就いては、一切容喙しまいと思った。
「そりゃ分ってるよ。そうかなあ。」
私の言葉が切れると、岡田がこう云って歎息した。
「まあ君は、もう少し落着いて、其の上でもう一度、ゆっくり考えてみるんだなあ。それに限るよ。」
もう私は、これで口を利くまいと思った。
「まあ、そうだなあ。」
岡田は、同じようなことを云って歎息した。
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