「起きたまえ君、もう幾時だと思ってるんだい。」
私が床返りをうつと、岡田がこう云って、また言葉をかけた。
「もう幾時だい。」
私は眠くて、もう口を利く氣にもなれなかった。それと、一旦起きたが最後、岡田からは屹度、債務者が債權者に會った時のように、夜前から今朝までのことを、殘らず聞かされねばならないと思うと、思っただけでもう私は、無理にも起きるのが厭だった。
「もうお正午近くだぜ。起きたまえなあ。」
私はそう云われると、頭の中で、「嘘をつけ」と思った。第一これが正午近くなら、こうまで私の頭は重くない筈だ。なんのことはない、私の頭は、まるで五月雨に降りこめられてでもいるような風なのだ。よしまた、それが岡田の云う通り、丁度時間が正午近くであり、若しくは正午過ぎであるとしてからが、何も服裝競爭をするような思いまでして、起きるには當らない譯だ。だから私は、
「勘忍してくれ。僕は眠いんだよ。」と云って、やはり蚊帳の中で凝としていた。だが岡田は、そう云ったからと云って、柔順に歸ろうとはしないのだ。
「君は今日、圖書館へ行かないのかい。」と云うのだ。私は、それにはなんとも云わずに默っていた。すると岡田がまた、
「木村博士が洋行するそうだなあ。今日の讀賣(※新聞)を見ると……」と云いかけた。
「それがどうかしたのかい。」
私は少しうるさくなってきたので、少し調子を尖らかして、こう云ってやった。
「いや、別にどうもしないさ。」
岡田は少し不意を食って、驚いたらしかったが、彼はこう云ってちょっと言葉を切ると直ぐそれに重ねて、
「とにかく君、起きたまえな。」と云って、私の方へのしかかってきた。
私は起きるものかと思った。だがしかし、其の時ふと、こうして自分の我を押しとおすとして、それが何程自分を强めるだろうかと思うと、私は恥しくなってきた。其處で私はそれもこれも忍んで起きようと思った。
「じゃ濟まないが、蚊帳を外してくんないか。」
私はこう云って、また床返りをして、岡田の方をみた。岡田は、
「なんだい……」と云いながら、手に持っていた、濡れ手拭と石鹸箱とを、窓際にある机の上に置いて、私の蚊帳の吊り手を外してくれた。私は、向う側の二本が取れてしまうと、蚊帳から出て、机の前へきて腰を下ししなに、
「おい、何か、今日は僕を湯に入れない積りなのかい。」と云ってやった。岡田はそれを受けて、
「湯へ入れない積りかって、なんだい」と云って、私の方へ目を持ってきた。
「だって、そうじゃないか。すっかり✕✕✕✕✕✕(※湯を汚して)きたんだろう。」
「常談云ってらあ。✕✕✕✕✕✕(※湯を汚したり臭くしたりなんて)してくるもんけえ。」
「君は✕✕✕✕(※湯を汚す)氣はなくとも、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕(※二人分の汗やら汁やらを洗い落とすんだから)、湯の方だって、ひとりでに✕✕✕✕✕✕✕(※汚くなるよなあ)。」
「つまらないことを云ってらあ。」
「全く、つまらないことをしてきてくれたもんだ。誰も賴みはしないのに。」
私達は、つい可笑しくなって、苦笑し合った。
「それはそうと、もう葛の葉子別れの場も出ちゃって、ふさの局は、──ふさの局は少し變だなあ。瀨川房之亟としようか。もう歸っちゃったのかい。」
「ああ、歸っちゃったよ。今朝早く。」
「さぞお疲れでござんしたでしょう。」
「つまらないことばっかり云ってらあ。やくなよ。」
「折角の御仰せだが、僕はやくよ。眞黑黑に。それこそ守宮の黑燒きみたいに。それが厭だと云うなら、餘りやかすなよ。」
「別にやかせやしないじゃないか。」
「特別念入りにやかさなくたって、普通以上にやかせられちゃ溜らないや。それに房之亟は、君の座へ出勤しても好いのかい。三日月だって夜興行だのに。」
「なんだい。つまらない。すっかり芝居がかりだなあ。」
こう云って彼は、敷島へ火をつけた。それから、
「だって仕方がないじゃないか。用が出來れば。」と云うのだ。
「そりゃそうだが、其の用が用だから、ちょっと氣に病んでみたやつさ。とかく獨り者は、苦勞性で困るよ。」
「それこそ、大きなお世話だ。」
「なんだと。とうどう僕は、傘屋の小僧かい。時にどうだい。一つ聞こうか。ぼつぼつ始めないか。」
「何をさ。」
「そう物體をつけなくたって好いじゃないか。昨夜からの一件をさ。」
「つまらないことばかり云ってらあ。」
こう云うと彼は、いきなり石にでも降られた時のように、差俯向いてしまった。私は私で、此處でまた、二本目のバットをつけねばならなかった。──それへ火をつけて、口に啣えていると、いきなり彼は、
「だが驚いたよ。あいつは大變な代物だぜ。」と云うのだ。
「どうしたんだい。」
「どうしたも、こうしたもないが、驚いたよ。」
「だって、分らないじゃないか。──どうしたんだい。──なにか。體中へ、一杯にほりものでもしていたというのかい。」
「なあに。そんな意氣なんじゃないんだ。──あいつは、色氣違いなんだよ。✕✕✕✕✕、✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕(※だから一晩中、男の俺のほうが犯されっぱなしだったさ)。」
「なんだい。また火をかけるのかい。とんだかちかち山だ。」
「だって、僕は驚いたよ。それにあいつは、大變な技巧家だ。」
「それを君は、昨夜はじめて知ったのかい。」
「だって、そうだろうじゃないか。」
わたしはまたここで、苦笑をしいられた。わたしは、かれに比べていうなら、誰かこの世に、技巧家ならざる者があろうかと思った。同時にその時、ある不思議な光景が、わたしのところへ映ってきた。──✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕(※その光景とは、次のような内容だ。少年時代、どこかの家の簞笥のなかで小さな畵帳を見つけて、こっそり盗み見ては、其れを誰かに見咎められないか、臆病に不安がっている、というものだ)。
ところで、みるみる中に、此の私という者が、何時の間にか靑年期に入ってきているのである。✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕。✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕。✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕。✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕。✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕。✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕。✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕。──✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕(※夢か現か──靑年の私は、旅館らしき一室で寢ていた。ふすま越しの隣の部屋からは、男と女の妖しい嬌聲が洩れ聞こえてきた。襖越しにそっと覗いてみると、何時か少年時代に盗み讀んだ覺えのある畵帳に描かれていた淫靡な内容其のものだった)。其の時、私の頭は、火のようになっていた。
「ああ、もう澤山だ。此の話は、此處いらで幕にしてくれ。」
私は、思わずこう云って、右手を私の面前で打ちふったものである。
「だって、君がしゃべらしたんじゃないか。」
「だから、僕が謝ってるじゃないか。」
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