私達は其の晩そこで、ものの三時間ばかり飮食してきた。
私は不斷から、餘り酒がいけない上に、殊に其の日其の晩は、釜中に蒸されているようだったから、殆んど盃は重ねなかったと云っても好いくらいだった。──それに私はまだ飯は、前夜食ったきりなので、一つは其の空腹を恐れていたせいもあった。
一人飮んだのは岡田だった。彼はまたどうしたのか、飢えた者が食を得た時のような風なのだ。でなければ彼は、胸中悶悶の情に堪えられないものがあって、それは纔に酒にやるより外に道がないと云った風なのだ。で、私が見ている中に、もう幾本かのビールと、幾本かの銚子を開けてしまった。其の上、驚いたのは彼の態度だった。彼は醉ったせいもあろうが、其の席にいた一人の女中を捉えて、思いきり惡巫山戲に巫山戲るのだ。
「おい、どうしてくれるんだい。僕は君に惚れたんだ。」
彼は自分の膝へ引きよせた女中に、こう云うことを云うのだ。そうかと思うと、自分の顏を、其の女中の膝へ伏せたりしながら、
「遊びにこない。ええ、君、僕のところへさ。」などとも云うのだ。それを受けて女中は、
「お門違いでしょう。お氣の毒さま。」と云うと、
「厭なのかい、ええ、君、好いじゃないか。僕は君に惚れたんだ。」
こう云って彼は、今度はまたやけに、其の女中を引きよせて、頭の髪に口づけをすると云う風なのだ。流石に私も少し、度胸をぬかれた形だった。
「おい、好い加減にしろよ。君はそれで好いだろうが、此の俺をどうしてくれるんだい。」
終いに私も、少し莫迦莫迦しくなってきたので、こう云って野次ってやった。しかし彼は、私の云うことなどは、耳にも入らないような風だった。自分以外の者は、神妙に傍觀していれば好いのだと云う風なのだ。其の證據には、彼は私などには言葉も返さないで、ますます巫山戲ちらすのだ。私は少し情けなくなってきた。
私は、岡田の愛酒家だと云うことは、能く知っていた。彼は常に、僕の酒は親讓りなのだと云っているだけあって、能く盃を手にしたものだ。例えば、彼は私達と一緒に、蕎麥屋へ入ったとする。すると彼は、何時もそう云う時には、
「僕に一本つけてくれたまえな。其の代り僕は蕎麥は止すよ。」と云った風なのだ。其の癖彼はまた、私などよりは、ずっと蕎麥黨なのだ。
で、私はそれまでに、彼とは隨分一緒に飮食したものだ。だから私は、また能く彼の酒癖を知っていた。不斷の彼は、私などと違って、何方かと云えば、寡言沈默と云う方だったが、しかし、一旦酒を口にすると、私などよりは、もっと饒舌になったものだ。そしてともすると彼は、惡く人に突っかかってくる癖があった。しかし彼は、それまでには幾くら飮んで、動けなくなるようなことがあっても、決して其の晩のように、女中を捉えて、そう云った風な厭味なことをしたり、また齒の浮くようなきざなことを云うようなことは絕えてなかった。
一體に彼は、神經質だった。また彼は、極端なる理想主義者だった。從って彼は、凡べての場合に、凡べての事物に就いて、峻烈嚴正な態度を持するのを常としていた。例えば今これを男女間の問題に就いて云うなら、何時如何なる場合にも、男は女を侮辱してはならない。此の意味において、男は女の前に、猥褻なる言語を口にしてはならないと云うのが、彼の持論だった。だから流石に彼は、身を持することもまた謹嚴な方だった。それがどうしたと云うのだろう。其の晩に限って彼は、車夫馬丁の徒にも劣るような醜態を敢えてして、恬として愧ずる色のないのは。全く私には、其の時の彼の態度は、一種の驚異だった。
歸りしなにもなお彼は、其の女中を擁して、容易に立とうともしなかったから、
「おい、そんなに君が執心なのなら仕方がない。折へ詰めて貰って、持って歸ろうよ。」と云って、私が揶揄してやったが、それにも彼は、少しも愧ずる色がなかった。
「常談云っちゃいけないぜ。人を食べのこりだと思っていやがる。」
これが、其の時云った彼の言葉だった。
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