第10章

根津權現裏(第11話)

焚書刊行会

小説

3,959文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

 ころおかは、おいわけにいたのだ。おいわけは、こうとうがっこう宿しゆくしやちかくの、しようふうかん宿しゆくにいたのだ。
 わたしけではあり、それにあめっていたので、すこまわみちではあったが、おおどおりへて、それからごんげんうらからうえへあがることにしたのだ。
 ちようわたしが、ちゆうになって、ごんげんうらへきたときだった。わたししきは、いくぶんはっきりぶんかえってきた。するとわたしは、くぎづけされたようになって、ちどまってしまわなければならなかった。
 ──はっきりしきぶんかえると、わたしときげんざいおかのいる宿しゆくのことが、はっきりぶんあたまうかびでてきた。つまり、おかのいる宿しゆくと、わたしとのかんけいが、いまさらのようにぶんこころむすびついていて、はなれないのにづいたのだ。そして、しみじみとわたしに、おかしよかなしまれてきた。かれさえ宿しゆくへいかなければ、なにわたしがこんないやな、くるしいおもいをしなくともかったのだとおもうと、くらどうじようしてかんがえても、ときばかりは、おかうちうらまれてきてならなかった。
 これは、それより二ねんらずもまえごとだったが、わたし宿しゆくに、九十いくえんちょっとひやくえんらずのりをのこしててきたのだ。そして、のことは、おかっていることなのだ。
 そもそもわたし宿しゆくったとうものは、おかがもうわたしよりさきに、にいたからなのだ。わたしははうしなってじようきようしたときに、わばわたしかれさそわれて、かれしようかいにいることにしたのだ。そして、ときわたしは、とくにこれとしよくぎようっていなかったところから、これもかれすすめられて、かれころやっていたせいねんざっや、きよういくざっほうもんをして、げん稿こうかれってもらっていたのだが、それからしゆうにゆううものは、せいぜい十四五えんぜんのものだった。だから、宿しゆくりようほうは、はらったりはらわなかったりして、一ねんあまりいたあいだとどこおりが、ひやくえんらずになったのだ。でいろいろと宿しゆくしゆじんこうしようして、さいにそれをげつにしてへんさいしようとじようけんづきでもって、わたしてきたのだ。ところでかれは、わたしよりはずっとまえに、もうていたのだ。
 で、宿しゆくてくるとわたしは、だんざかしたくるまの二かいうつってきたが、それからはときどきではあるが、ともだちいっしよほんごうどおりをあるいていると、宿しゆくしゆじんくわして、からるほど、きびしくとくそくされたものだ。しまいには、宿しゆくしゆじんが、いんさつしたしやくようしようしよってわたしのところへたずねてきて、わたしきんがくしよめいをさせたうえに、なついんまでっていったことがある。だからわたしには、宿しゆく、もういっけん宿しゆくにいてこしらえた、三十二えんうセルのようふくだいきんとどこおっているかんようふくとは、わたしにはけるもんだった。
 ところで、なか宿しゆく、──わたしためには、もっとせきにんあり、あるだけに、それをべんさいしなければ、わたししきいをまたげないあるところへ、えていかねばならないのだから、一めんにはをつけられたようにしようそうしながらも、ほかの一めんには、しんえんのぞんだときのように、ぜんくれがして、あしもひとりでにちすくんできたのだ。
 わたしにはときまた、おかがいとともに、ほそくてきんではあるが、へびのようにひかをして、いろりんかくも、ちよういっすいのようにえる宿しゆくしゆじんかおが、まざまざとえてきた。そして、みずあめでもほおりながら、くちくようなかれ調ちようみみについてきてたまらなくなった。かれきっわたしかおにすると、このたびおかしためいわくさにたいする、うらみといきどおりとをいっしよにして、それをわたしじようげかけてくることだろう。そうおもうと、わたしにはただには、一おかさつしゆくふくしてやりたいちばかりがあって、じんかれあいせきし、たんしてやろうなどとねんがなくなってきた。
「ざまあろい。だからわねえこっちゃない。ぼくためには、げんごくみたいなところへくのが、そもそもちがってるんだ。そんなところへきやがるから、とどのつまりがてめえでてめえのいのちちぢめなきゃならなくなるのよ。」と、わたしいまなおかれつうずるものならこうってかれりつけてやりたかった。なるほどかれは、わたしがこうってってかかれば、かれかれで、きっことのいたった所以ゆえんを、ことあたらしくせつめいべんかいすることだろう。そうだ。そうしたらかれきっ
「だってきみわからないじゃないか、ぼくへきたのは、なにぶんから、きこのんできたわけじゃないんだ。ぼくきみってるとおり、はなきみいっしよに、よそをさがしまわったんだ。いっけん、二けんと、そうだ。ごうけんだ。あたってみたんだ。だがりのいとこは宿しゆくりようたかいし、そうかとって、やすいところは、それこそあなぐらみたいに、一にちのめもれないようなばかりなんだ。するときみは、『おれはこれからたかはかのところへかなきゃならないんだ。』とって、ちゆうからえてなくなったじゃないか。ぼくきみわかれてから、ひとりでとう西ざいかたまち、それからもりかわちようあたりのこらずさがしてみたんだが、おもうようなところがつからないんだ。うちれかかってくる、こころくが、かたがないから、かえろうとおもってあるいてくるちゆうおもいだしたのがなんだ。で、きてみると、こうこうらないがちようがいいっしついているんだ。ところで、ほんとうぼくらなかったんだが、あいあいだけにかんねんして、とおか十五にちつぎ宿やどつかるまでいることにしようとおもって、つまり、一しのぎにとおもって、いまのところへしちゃったんだ。そりゃぼくだって、きみぼくのいるところへづらいことは、ひやくしようしているさ。だからぼくは、よくじつきみのところへって、のこらずわけって、あやまっていたじゃないか。」とうことだろう。だがしかし、わたしっているのは、そういうことではないから、しそうなったらわたしは、
「いや、そりゃわかってる。ただぼくわからないのは、どうしたらきみは、そうまでせいきゆうに、ひっさなきゃならなかったんだい。あのあいもう一にちふつぐらい、ばすことがなかったのかい。きみわせると、『うちれかかってくる。いそぐが。』とう。なんのことはない。しんしようたんだ。一じつせんしゆうおもいでもって、たいてんてきでもさがために、しよこくゆうれきするものくちにするようなことをうが、ぼくにはそれがわからないんだ。どうしたらきみは、そうまでせいきゆうに、それをさがさなきゃならなかったんだい。ぼくにはそれがわからないんだ。」とってやりたい。するとかれはまた、たんていけんのように、フンフンとはなきゆうをしながら、またそれからそれと、われいんねんせつめいすることだろう。だが、われいんねんならば、なにわたしは、いまさらかれくちからくにはあたらないのだ。とうのは、かれくちにするところは、わたしのこらずっていることだからだ。つまりそれは、かれふさからのがれたいところからきていたにぎないからだ。わたしかれが、しんそこからこえふるわし、うるおして、なおもこれをせつしようとするなら、そのときわたしは、
「もうたくさんだ。たくさんだよ。」と、こうってやりたい。そして、わたしは、「それはそれでいとして、ぼくつぎきたいのは、そうったふうきみいっしゆんかんをもあらそって、おんなからのがれようとする、つまりくまでおんなててかえりみようともしまいとする。そんなおんなを、きみはどうしたらつけたんだ。ぼくってるかぎきみきよくたんなる、そうだ、えてきよくたんなるとってもいくらいきみじよせいそんちようろんじやだった。きみことりてえば、おとこおんなこいするときは、おんなけっこんすることを、だいじようけんにしなきゃならない。もちろんすでけっこんだいじようけんとしてるんだから、けっこんどうせいもせずに、おんなべつするようなことは、ゆるすべからざることだとって、りきせつおおいつとめていたきみが、どうしたらこんのようなけんしたんだ。げんこういっおうか、きみこうは、みごとへいぜいきみげんせつうらって、あますところがないじゃないか。」とって、れながらすこしうるさいが、わたしまでもかれついきゆうしてやりたかった。
 おそらくはかれとても、しつもんめいとうすることがなかろう。いまではかれは、りきせつしたろんを、こんぽんからかいして退けたのだから。だがしかし、かれもなかなかかぬだったから、わたしくらついきゆうしても、かれじゆうじゆんこうふくしないだろう。よしおかは、わたしうところをにんし、こうていするとしてからが、かれまえに、きっことのいたったゆうなり、またけいなりをくに相違ちがいない。けだしこれは、ひとかれのみにかぎらず、にんげんにんげんが、ことぜんりようにんげんが、ほんのうてきにそうしなければ、まないものだから、かれひとがそれにれようとはおもえない。
 ところで、こまるのはべんかいせつめいも、みなのこらずわたしっていることだからだ。だから、わたしはそうなると、もう一っかけて、
「いや、のことなら、せつかくだがことわろうか。いや、もうたくさんだよ。それともきみが、でも、いちおうかなきゃまないとうなら、かくもうぼくが、えて、きみかわっていてもい。」とこうってやりたかった。そうしたらかれは、きっくらごうもんされてもいっこうはくしようともしないごうとうさつじんざいこくが、うごかしがたいしようにんしようひんとをきつけられたときのようなひようじようをすることだろう。──ときかれは、あたまへかかったでもはらいのけるように、あたまりうごかすことだろう。そして、めんじようには、ほぞんでもなおおよばないこうかいねんにでも、められるときのようなあらわれをせることだろう。だがしかし、それもこれもかたがない。べてこれみなじつなのだから。──どくしやしよくんなかに、ただのひとでも、わたしうところをうたぐるひとがあるなら、わたしはそれをあかしするために、のこらずそれをかたってもい。とうのは、おかたいふさのいきさつは、じよまくからおおづめまで、わばわたしみなたいかんとくのようなっていたからだ。

2020年9月24日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』第11話 (全60話)

© 2020 焚書刊行会

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