第8章

根津權現裏(第9話)

焚書刊行会

小説

3,510文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

 はくさんがもきのでんしやは、かなりんでいた。わたしこしけにこしをおろすのには、ふたじようきやくに、ゆうすこしずつすべかってもらわねばならなかった。
 ると、でんしやじようきやくすうは、いまのりすててきた駿するだいきのそれよりは、いったいこうけいものばかりだった。たとえば、ようふくけたものしくはふくものは、セルやネルのうえへ、あわせおりかさねていた。なかにはインバネスをひっけているものもいた。わたしはそれをみていると、またさびしいおもいにめられてきた。それはがいしゆつしてから、なにわすれものをしたようながするので、かんがかんがえしてあるいてきて、ちようあわせたでんしやびのりして、いざきっおうとして、ぐちわすれてきたのにづいたときこころちだった。こうなるとひとわたしむねうちのみに、しととあきさめりそそぐもののようにおもわれてならなかった。そして、いたあしきずって、わざわざうしごめあたりまでけていったあわせしんも、ときのはずみからだとはえ、ろくろくそれをりだしもせずに、いまこうして、ぶんとはかくぜっしたなりのひとたちあいだかこまれて、さびしくかえっていかなければならないのかとおもうと、あわれさあじなさが、一どきげてきた。うちにもになるのはあしだった。うえあしわるくしては、それこそきっつらはちだとおもうと、こころはただひとすじに、ひだりあしむかってあつまってきた。えがたいあんられて、あつまってきたこころは、なみだぐましいまばたひとつしないで、じっとそれをめていた。
 やがて、でんしやかすちようへきてまると、いくにんかのひとがおりて、いくにんかのひとはいってきた。るとそれらのひとたちは、みなかわなかからでもいあがってきたいぬのようになっていた。でなければ、に、れそぼったかさっていた。それにると、そとはまたあめになったらしい。
 わたしなになく、うんてんしゆだいほうけると、むこがわはしりに、二十歳はたちぜんおんなひとけているのがについてきた。かみ銀杏いちようがえしにっているらしかった。えぎわはへんぺいにみえてくはなかったが、しかし、ふくよかなまえがみびんとが、どんなにかおいんえいふかくしていたかれない。それととくしよくだった。ほそだが、それだけにまたれのながだった。それがわたしには、あのエメラルドのようにおもわれた。あのしやくのようにもおもわれた。また、あのりんのようにもおもわれた。って、おとこむねへ、すくなくともわたしこころのようにし、わたしこころきゆうして、うれしくよろこばしてくれたからだ。
 で、わたしぬすむようにして、じっとそれをていると、ときはまだわたしむねへ、つきばかりまえわかれてしまったせんぞくちようおんなおんなさきったが、それのおもしがはっきりとうかんできた。ことおんなつきをていると、かおえぎわからはなかたち、それから、くちつきまでが、あのさきをまのあたりているようにおもわれてきた。それはほかでもない。つきがなくらい、さきのそれにていたからだ。それがいまがたぐらざかとおってくるあいだに、いっしんおもいつめ、かんがえつくしたこころちを、でまた、あらたふかおもいかえさせてきた。そして、これからわたしは、しとしととりだしてきたあめれて、ぶたにもたとえたいぶんえると、あかあせとにりかたまっているやぶとんにくるまって、さびしくひとしなければならないのだとおもうと、わたしいっのこと、ままでんしやてんぷくしてくれればいともおもった。そして、わたしでんしやしたきになって、ころされてしまえばいとおもった。がしんでんしやわたしこころちなどをさっしてくれようはずがない。それはたださきさきへとけるのみだ。うちわたしたまらなくなってきて、じっじていた。
 やがてのこと、
はくさんはくさんうえ。」としやしようこえきこえてきた。ときわたしははっとおもって、ようやれにかえってきた。そして、でんしやまるのをって、しずかしやしようだいほうからりてきた。ろんわたしは、ときこうほうふりえろうともしなかった。しかしわたしは、これがだんなら、なにしのんでも、わたしがそれまでをつけていたおんなまえとおるとうだけの、ないかいをつくるために、くらあしをしても、わたしえてうんてんしゆだいほうからおりたに相違ちがいない。だがときかぎっては、だんよりは一だんぼうえてはいたが、そうだ、一だんぼうえていただけに、わたしわざはんたいがわからおりてきたのだ。
 したへおりたつと、あめよこしぶきにりしきっていた。わたしいしざきから、ようためりてきていた、やぶじやにそれをしのぎながら、さかなちようほうあるきだした。
 すると、へまた、ふかあなでも穿うがたれたように、一どきしよくよくかんじてきた。もうそうなると、あしはこゆうもなくなってしまった。で、どうしたものかとおもって、まるでひろうようにしてあるいてくるうちに、ふとわたしは、だいかんのんまえに、いっけんすしがあったのをおもいだしてきた。するとわずかにそれにはげまされて、ゆうあしきずりながら、てんとうへきてみると、もうおもてしまっていた。それをときにはわたしは、ねんりゆうりゆうしんしてけんちくしたじゆうきよを、一うちに、しつかいゆうしてしまったのをにするようなちがした。わたしていかいるにしのびないもののようになって、しばらっていた。そして、ることもなくみてみると、ちようすきから、かすかにとうれていた。わたしは、なにためしだとおもうところから、もんになっているところのしてみたのだ。すると、ぞうなくそれがなかほうきしみこむひように、なかから、
なた。」とこえがしてきた。
すしすこいただきたいんですが、ねがえましょうか。」
 わたしは、あいこえみみにしたときには、ちゆうしつして、おもいあきらめていたものを、ぐうぜんにしたときのようなうれしさをかんじた。
「いかほど。すこしならますが。」
 なかからはわたしこえおうじて、こうあいさつきこえてきた。
みませんが、二十せんだけ、いや、二十五せんだけねがいます。」とってから、あとをつづけて、「海苔のりまきを二三ぼんこしらえてください。」といおわると、わたしへぴたりとして、がつしようしたくなってきた。
「はあ。」
 またなかからは、わたしことれると、かんたんにこううのがきこえてきた。
 そっとなかのぞいてみると、ひとわかものがいて、それがわたしために、すしにぎっていた。やがて、
「おちどうさま。」とこえとともにさししんぶんを、かねひきえにうけると、わたしはもうってきた。わたしは、じっそくばかりもあるいてきて、しんぶんくと、こんはもういちじゆうきようでもってつつんであった。つつみのよこぱらから、ひとつまみだして、くちれることにした。ほんとうしたをつけてべなければならないのだが、わたしにはちょっとそれをにするてはなかったところからも、もうそううことはわすれたようになって、ちゆうほおってしまったのだ。
 すしは、まぐろはだ烏賊いかたまやきにぎりと、ほかに、海苔のりまきむっつはいっていた。わたしじゆんじゆんにそれをくちにしながらも、またしみじみとかねしくなってきた。かねさえあれば、こんなさもしいおもいをして、ちゆうあるきながら、わずか二十五せんすしむさぼわなくともいのだ。それにつけてもかねはいほうほうはないものか。そうだ。わたしかねさえたしてくれるなら、わたしうしないかけているけんこうも、かいふくすることがるのだ。そして、それにって、かんぜんとはいかないまでも、すくなくともげんざいよりはもすこかくじつに、せいかつしようることがるのだとはおもうが、しかし、かねほうほうは、かなしいかなげんざいぶんにはめぐまれていない。めぐまれていないとすれば、しよせんぬすかたりをするほかにはかたがない。ところでわたしには、それをだんこうするがない。──そううことは、わたしりようしんゆるさない。そうおもいつめてきて、りようがわてつらなるいえいえときには、えがたいしっじようられもした。そして、すしべつくして、じようきようちすてたときには、よるごととごとが、べてかいこんたねとなってせまってきた。
「ああ、までこうしたせいかつつづけねばならないのか。」
 なようだが、またこうおもうと、はらはらとりょうから、あつなみだちてきた。なみだはらってみると、はもうだんざかぐちになる。わたしへかかったときには、それこそ、いっしよううかびあがることのない、ふかあななかへでもはいっていくような、さびしいとうよりもあんな、あんなとうよりはむしおそろしいおもいにられてきた。を、ひとあしごとにあしもとにして、しずかにしずかにおりてきたのだ。だからさかちゆうにある、せんとうようも、またりんうなぎようも、──うなぎの二かいでは、まいおそくまで、しんない(※ようげいいっしゆ)をおしえているのだが、それらのようにはもくらずに、まるでつんぼしやうまのようにしてろしてきたのだ。

2020年9月22日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』第9話 (全45話)

© 2020 焚書刊行会

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