第1章

根津權現裏(第2話)

焚書刊行会

小説

4,724文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

 ぜんちゆうのことはいっさいらないが、わたしきてからもは、まるでそこ(※がんびよう)のでもるように、どんよりとくもっていて、いんさとったらないのだ。それに、いちなかあきしよせてでもきたように、へんふうぶつみなうすらさびしくしらけてえるのだ。わたしまきにしている、あらいざらしのしろ浴衣ゆかたを一まいつけていると、剃刀かみそりでもきつけられたようなつめたさが、ぜんしんへしみてくるのだ。ことえりもとなどは、いやにぞくぞくとしてきて、なんとなくあじないおもいさえしてくるのだ。
 ひとつはそうったようのせいからでもあろうが、はまた、もうわたしましたときから、わたしひだりあしっている、宿しゆくしつこつずいえんいたみだしてきて、かいさとったらないのだ。わたしかおあらってから、ぶんつくえまえへきてすわって、めるほうあしまえげだしていると、にか、なかりようちゆうにゆうされているような、あるあつりよくかんじてくるのだ。そして、それにって、こっかくうちうちなるこつずいせんざいしているばいきんいちだんはっせいたすけられて、こくこくのうしつつあるもののようなどんつうさをおぼえるのだ。で、わたしになってたまらないところから、ひだりなかゆびでもって、かんしてみると、こっかくのものまで、たとえばいっぴきねずみひまにあかして、いしをもなおみやぶりそうな、あのさいで、しかもえいでもって、ひそかにそれをみつづけているのをにするようなつうかんずるのだ。だからこんゆびいて、てのひらでもってうえからいちめんに、しずかにそれをしていると、なんのことはない、せつされたるらいが、いままさにばくはつしようとして、てんじられたるくちえんしようしてくるのを、じっっているときのそれをめているような、いっしゅめいじようしがたいあるあんおぼえるのだ。
 しこれが、ものように、ただいっときせつへんにつれてのあらわれであって、なかかげをひそめてくれるなら、もうもんだいではない。だがしかし、こうにしてこれが、くまでけいりようしとおしてきて、のうのうをもってしたとどのつまりが、どうでもしゆじゆつをしなければいけないとなったには、どうしたらいのだとおもうと、わたしこころは、もうらいにかかったように、こなじんになってしまった。ときわたしは、ただいちかねしくなってきた。そうだ。かねさえあれば、をもたずいまからんでいって、めいしんさつけてみよう。うえで、にゆういんしなければならないものならにゆういんもしよう。しゆじゆつをしなければならないものなら、しゆじゆつけようとおもうにつけても、まずしいうえかなしまれてきた。まったいまのようにきゆうはくしていては、一にちせんぐすりをするのも、なかなかようわざではない。とって、げんざいぶんっているかぎりでは、だれひとあって、わたしちからになってくれるようなものはありやしない。だいわたしには、ただのいっけんだって、ぶんきゆうじよううったえてくところがありやしない。だからこうして、うてだんだんつうくわわってきてこうゆうにならなくなってきたら、ときかたがない。わたしとはになんらのかんけいがないだけに、わたしもっとけんするところではあるが、あのやくしよへでもきついて、なにぶんあてなり、ほうほうなりをあおぐことにでもするよりほかはないとおもうと、わたしこころは、くらはかなかへでもはいってくようになってくるのだ。
 で、わたしいまさらに、まずしさ、のうさをおもい、そして、えずしっかんなやまされなければならないあわれさをかんがえながら、あおけにたおれて、じっつむっていた。がしかし、せいあるものかなしさには、そうはしていても、てしなきおもいはそれからそれと、いとでもるように、ちつづいてくるのだ。──ぶんこんどうしてきてかなければならないのだ。ぶんなにをしなければならないのだ。そうだ。それよりさきぶんにはなるのうりよくがあるのだとかんがえてくると、わたしはいきなりたましいうばいさられでもしたもののようになってくるのだった。ただわたしときかんじたものは、のうぶんいたむことのほかにはなにもなかった。いたみは、となりしたもののようになって、いたずらに、わたしげんあいのみもたらしてきた。そして、ともすればあいは、れとを、となりしているわたそうともしたが、しかし、きよくさついやしみ、つそれを憎にくんでやまないこころはたらきにって、わずかにそれからだけはまぬがれることがたが、あいいでおこってきたもんだいはなおうえにもきてこうとするには、なにいてもようをしなければならないとうことだった。それは、をもわず、今日きよういまから──こうっているいまからはじまるのだ。はじめなければならぬのだとおもうと、わたしせずして、げんざいぶんつとめている、あるせいねんざっほうもんおもいだしてきた。そうだ。らいうものは、ぜっしてげんざいかんがえられないように、げんざいほかにしてはいっはじめらるべきものではないとう、わかったろんうえたせられたわたしは、ときまたとうぜんに、ぶんげんざいやっているほうもんしやしよくぎようおもいだしてきた。
 ろんには、さつにもすべきしゆう憎ぞうさを、どうあわかんじなければならなかったけれども、げんざいわたしゆるされているしよくぎよううものは、それをほかにしてはないのだとおもうと、いくぶんこころやすんじて、それにたいすることがてきた。そして、ぶんにもっともっと、あらたのうりよくられるまでは、それにともなしゆう憎ぞうさをもしのんでつとめることにするのだとおもうと、ときまた、からかんできた一からすが、とあるいんへきてとまったように、わたしこころおもいついてきたのは、明後日あさって、それをどんなにおくらしても、明後日あさってたずねなければならぬ、とうはかのことだった。するとこんは、それがめられたしゆっぱつてんででもあるようにして、わたしこころは、またげんざいいたみつつあるわたしあしかえってきた。そしてまたしてもいろいろと、けいかんあんじられてきた。だが、これがどうけっになるかは、ひとつこんけいちょうして(※らしわせて)みなければわからないが、しかしいっぽうこうもんだいは、もう今日きようせまっているのだから、ぜんぜんこうなくならないかぎり、二三にちちゆうには、とうはかほうもんしなければならないとおもうと、こんはまたあらたに、もののことがになってきた。
 なにしろけんひとたちは、あわせあわせおりかさねていようとときに、なんぼなんでも、ぶんのようにあらいざらしのやすひとまとっていては、ぶんひとりでいるときはとにかく、ひとほうもんするになると、流石さすがけてくる。だからわたしは、どうにかして、とうはかほうもんするまでに、ものはなんでもかまわないから、あわせを一まいしくなってきた。ところで、げんざいぶんには、それをこうきゆうするかねなどはっていない。とって、それをあきなっているところには、ただのいっけんだってちかづきはない。こううことなら、はるまでていたあわせあわせおりは、くずなどへるのではなかったとおもったところで、もうっつかない。あれはあれで、ぶんにはとうくべからざるひつようから、はらわなければならなかったのだ。よしそれか、一かいいんりようてたにしたところですくなくともとうぶんには、にんべいえん(※こめしお)をいにくとどうようひつようからきていたのだとおもって、のことはそれであきらめたものの、あきらめられないのは、こんまたひつようになってきたあわせのことだ。これをどうにかして、れたいとおもっていろいろとかんがえているうちに、ふとおもいついたのはいしざきのところだった。そうだ。かれじようってたのんでみたら、そっなくきよぜつするようなことはあるまい。かれけっしてそれをよろこびはしないだろうが、しかしじようあかしてたのんだなら、きっふるしの一まいぐらいめぐんでくれるだろうとおもった。で、それとおもいつくと、いっぽうあしのことがになりながらも、ってみなければじっすわってれなくなってきた。とうのは、これもびんぼうにんのあさましさで、あたってみて、ほんとうにそれをにするまでは、すこしもあんしんないところからだ。
 それと、ときひとすすまぬわたしきたてて、いしざきのところへかせたゆうがあった。それはなんだとえば、わたしきてからまだめしいにかずに、まるはんにちうものを、そうったふうかなしいことばかりおもいつづけていたので、もうかげってくるとわたしはなんともえないさびしさをおぼえてきたからだ。こうときには、だれでもいから、ともだちでもきてくれたらとおもったけれど、だれひとたずねてくるものってはなかった。しか今日きようあたりは、おかがやってきはしないかとおもってみたけれど、かれもついぞかおせなかった。もうかれがこなくなってから、五六にちにもなるが、どうしているのだろう。きっかれは、しよくをみつけてあるくのだろうとわたしおもった。で、そとからくるものは、くるもあればこないもあるから、それはてにはならないが、はまたどうしたのか、まいにちきっ二三かんは、此方こちらからくかむこうからくるかして、ばなしをしうことになっているどう宿しゆくよしかわまで、そうちようからがいしゆつしたとかうのでもって、とうとうはなしうどころか、かおあわすこともなかった。それやこれやで、それこそわたしひとり、しんざんおくりのこされたようにされたところから、すこぐらいをしても、いしざきのところへってみたくてたまらなくなってきたのだ。
 で、わたし宿やどときに、てんあんじられたから、ようためかさってこうかとおもったけれども、あしにははんつきばかりまえに、十三せんしてったやまぎりいてくのだから、ひとつはそれとの調ちようかんがえて、たずにけたのだ。そして、りになったらいしざきのところからりてくることにしようとおもったのだ。それともひとつ、わたしめしべてこうかとおもったが、しかし、これもなかをあらためてるまでもなく、ときわたしっていたぐちなかには五十せんあるかなしだったから、そうだ、めしあとまわしにしろとうのでもって、わたしわずにけることにしたのだ。とうのは、むこうでそれとさっして、めししてくれれば、なんのことはないいっぱんたすかるからだ。それがはずれれば、かえりにおでんって、ちやめしべてもことはりるとおもったところから、わたしわざべずにけたのだ。
 ろんわたしときも、おのずからろうせずして、いたずらにひとこうをのみてに、せいかつしようとするぶんしんじようたいしては、くにけないようなさもしさかなしさをかんじた。しまいには、ぶんぶんころしてしまいたいとおもうほどいきどおりをもおぼえた。がどうに、のううえに、きよくびんぼうにんうまれついているわたしは、いましばらく、ぶんまもってけるだけのちからかくとくするまでは、くさ、そのざんさをしのばなければならぬとかんがえにせいせられて、そのくせへびまれているかえるのように、ふるえがちなこころきしめながら、とにかくけることにしたのだ。
 そとてからもわたしは、一にちはやいまきようぐうからだっしたいとおもって、どんなにあたまなやましたかれない。ほうほうは、ちょっとつかなければつかないだけ、わたしはあのどもつみをしているように、いくんではこわし、こわしてはんで、あじないおもいをくりえしたかれない。そうだ、一にちはやぶんも、ほか宿しゆくにんにように、だけりているのではなく、まかないつきになりたい。そうすれば、三しよくをしに、いちいちそとけるひつようもなくなるのだ。げんざいぶんがそれをきらっているのは、つきに十えんと十五えんまとまったかねはらえるかどうかがうたがわれるところから、つうではあるがげんきんでもって、ちかくのめしかよって、ようやくえをしのいでいるのだが、はやくこうったみじめなきようぐうからあしあらいたい。でなければ、げんにまた、明後日あさってめしだいふうけねばならないとおもうと、わたしはもうくらんできて、わからなくなってしまった。

2020年9月14日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』第2話 (全60話)

© 2020 焚書刊行会

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

私小説 純文学

"第1章"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る