ナッちゃんの足は、人魚姫のそれのようだ……つまり人間の中で最も上質な足ってことで……陶器のような白い肌……豊かなふくらはぎ……蠱惑的なくるぶし……五つの小ぶりの指……滑らかな土踏まず……かかとから小指にかけてのぶどう色のあざ……水槽から引き上げた彼女の足はなまめかしく濡れていた。
辰宮くんは彼女の右足をタオルで丁寧に拭きとり始めた。
「ねえ、ぜんぜん痛いままやねんけど」
今からおよそ一時間前、ナッちゃんは大学構内の階段を踏み外したために右足を捻挫した。彼女の右足は骨が折れたように激しく痛んだ。今は夏季休暇のため、構内はがらんとしていた。足首をおさえながらその場でうずくまっているところに、彼女と同じ軽音サークルに所属する辰宮くんが偶然通りかかった。
心配する彼に捻挫したことを告げると、「うちの家系、医者だから治療してあげるよ」と彼は言った。
その言葉を真に受けた彼女は、つんざく足の痛みに耐えながら、大学のすぐそばにあるという彼の住むマンションに向かった。
部屋には何槽もの水槽が置かれていた。彼のいう治療とは、ドクターフィッシュが泳ぐ水槽に足を浸けることだった。果たしてそんなことで捻挫が治るのだろうか。案の定、何十匹ものドクターフィッシュに足の角質を食べられたところで彼女の捻挫が治ることはなかった。
足をきれいに拭き終えた辰宮くんは「じゃあ今度はデシに代わってシショウの僕がやってみせるね」と言った。
なぜか彼はドクターフィッシュのことをデシと呼んだ。それが正式名称なのだろうか。
彼は両手で彼女の足を大事そうに持ち上げると、自分の顔を彼女の足の裏に近づけた。小指の付け根をじっと見つめたのち、唾液で光る舌を伸ばしてそれをちろりと舐めた。
「ちょ、なにしてんの?」
「言っておくけど、これはあくまでも治療だからね。勘違いしてるかもしれないけど、そういう性癖では絶対にないからね。絶対に。ほんと勘違いしないでよ。足が好きとか、人間の足を崇拝しているとか、そんなんじゃないからね。絶対に。だからね、このことは誰にも言わないでね。僕だってこんなことやりたくないんだから」
そう言い終えると、再び彼女の足の指を舐め始めた。足にはいくつものツボがありそれを刺激することであらゆる病気やケガが治る、というようなウンチクめいたことも並べ立てていたが、しだいに口数は少なくなり、やがて足を舐めることだけに没頭していった。彼の瞳はうるみ、唾液は絶えずあふれ出た。ある時、彼は足の指と指との間から彼女の顔を盗み見た。彼女は蔑むような眼で彼のことを見下していた。今にも足蹴りされそうな状況にありながら、彼はどこか恍惚とした表情で、ちろり、ちろり、と彼女の足を舐めることをやめなかった。
五つの小ぶりの指をぜんぶ口にくわえて舌でころがしていると、突如としてそれが喉の方に入り込んできた。彼は一瞬目を丸くしたが、その行為が彼女の意志のもとでなされたものだと分かると、彼の鼓動はザラザラと高鳴った。
「辰宮くんって変態なん?」
ふいに彼女が口をひらいた。
「えっ……いや、だから、これは治療の一環として……」
「変態やろ?」
その強めの関西弁に、彼の心臓はきゅ、と縮んだ。
「い、いやだなあ、まったく。これだから、やりたくなかったんだ。僕はただ、よ、良かれと思って……だ、だったらその捻挫した足を、う、動かしてごらんよ。だいぶ痛みがひいてるから」
半信半疑のまま彼女が右足首をくるっと回すと、たしかに先程までの痛みは嘘のように消えていた。足の外側に広がっていた青あざもすっかりなくなっていた。
「うそ、治ってんの?」
「治ってるよ、そりゃあ。さっきからずっと治療してたんだから。そりゃあ、治るよ。まったく、ひとを変態呼ばわりしてさ、ほんと、たまんないよ……」
彼女が立ち上がって足踏みしてもまったく痛くなかった。神業を見たような、それでいてバカバカしいギャグを見せられたような、なんとも言えぬ思いに駆られた。
その時、彼が再び彼女の右足に触れようとした。彼女はすばやく足を引いてそれをさせなかった。
「なに?」
「いや、まだ治療の途中だから……」
彼は腹這いになって彼女の足の甲に顔を寄せる。すると彼女が彼の顔面を強く蹴り上げた。鈍い音がした。
「きしょいねんけど」
「き、きしょいって、ひどいなあ……あのね、最後まで治療をやっておかないと、逆に痛みが悪化するんだよ。分かる?」
「それなら今から病院に行って診てもらうわ」
「……えっ? そ、そんな、恩を仇で返すみたいなことして、困るよ」
「なんで?」
「……なんでって、そりゃあ、その、治療の続きを……」
彼は彼女の足をじっと見つめる。ああ……なんと麗しく、なんと尊いんだ……こんな足を見たのは生まれて初めてだ。
その時、彼女の足が動いた。
「帰る」
そう吐き捨てると玄関に向かって歩き出した。彼は慌てて追いかけていき、全身をつかって彼女の足に抱きついた。
「あの……あの……」
「はなして」
彼はしばらく懇願するように見上げていたが、やがて観念したのか、惜しみつつ彼女の足から手をはなした。
すると彼女は静かに足を振り上げた。そしてその足を彼の顔の上に振り下ろした。
虚を突かれた彼だったが、すぐさま彼女の足首を掴むと、まるで水を得た魚のように彼女の足の裏を舐めた。何度も何度も舐めた。
「やっぱ変態やん」
彼女の笑い声が廊下にまで響いた。
夏季休暇中、大学内のパソコン室はがらんとしていた。その窓際の一番後ろの席では、ナッちゃんがYouTubeをみている。彼女の足の先には辰宮くんが身を潜めており、愛でるように彼女の足を舐めている。彼は今、全裸である。彼の衣服はここにはなく、靴置き場に全部入れられている。室内にはこの二人しかいない。鍵は内側からではかけられず、夏季休暇といえども、いつ人が入ってきてもおかしくない。
彼女は時折、彼の顔の上に足を乗せながら、なんや最近ざらざらしてんのよなあ、と彼の肌のざらつきを感じていた。
その時、前方のドアが開いた。
「あっ夏目先輩だ」
松下能太郎が入ってきた。彼女を見つけるや、にこやかな表情で近づいてきた。辰宮くんがデスクの下でガクガクと震えているのが足の裏から伝わってくる。
「何してるんですか?」
のんきな顔をして松下能太郎が尋ねる。
「今な、学祭で演奏するカバー曲考えとって」
彼女はパソコンに繋いでいたヘッドホンを外し、それを肩にさげた。
「先輩ってたしか、キーボードやられてるんですよね」
「違う。ドラムよ」
「今なに聴いてたんですか?」
彼が彼女の隣に来てパソコンの画面を覗きこむ。
「戸川純、の母子受精。知ってる? 戸川純」
「あーはいはい、あれですよね、知ってますよ、もちろん」
「それかな、大森靖子のやつにしよかな思ってん」
「おおもりせいこ? ああはいはい。ちなみに曲名は何ですか?」
「魔法が使えないならってやつ」
「ああはいはい。魔法が。はいはいあれですね。良いですよねあれ」
「ぜったい知らんやろ」
「いや知ってますよ。魔法使えなくて困っちゃうってやつでしょ」
「全然ちゃうわ」
そう言って彼女は笑った。
足の裏からは辰宮くんの震えを未だに感じる。
松下能太郎は彼女の席から一つはなれた席に座ると、自宅では集中できないからと言って小説を書き始めた。
「先輩のこと、小説に書いてもいいですか?」
「は? やめてや」
「あははっ。冗談ですよ」
一時間経過したのち、彼はこれからバイトがあると言って部屋を出ていった。彼がデスクの下にいる辰宮くんに気づいた素振りは、ただの一度も見せなかった。
彼女がデスクの下を覗くと、辰宮くんは依然として体を震わせていた。まるで彼のところにだけ震度七の激しい揺れが起こっているような、それは異常な震えだった。
「どうしたん?」
彼女が尋ねると、彼はきれぎれにこう言った。
「ま……魔法が……解ける……」
彼の体にはいつの間にか、銀色の鱗がびっしりと生えていた。
彼女は急いでパソコン室を出て彼に衣服を着せた。彼の体はみるみるうちに大きくなったが、それに反比例するように、体重は発泡スチロールのように軽くなっていった。「み……港まで……」と弱々しく呟く彼の言葉を受け、彼女は彼を抱きながら港に向かって走った。外は夕暮れで、空は黄金色に燃えていた。
やがて人目から遠く離れた突堤にたどり着いたときには、彼の衣服は体の膨張に耐えきれずに破れていた。彼は人の姿をしておらず、漫画で見るような龍の姿に変貌していた。
海水に浸かるなり、瀕死状態だった彼は立ちどころに元気を取り戻した。龍になった彼の体長はおよそ五メートルで、それは漫画に出てくるような、空一面を覆いつくすほどのものと比べると、かなり小さい方なのではないかと彼女は思った。
「なんやミニチュアの神龍みたいやね」
「シェンロン?」
「ドラゴンボールの。願いごと叶えてくれるいうやつね」
そう言いながら突堤に腰を下ろすと足をぶらつかせた。彼女は龍になった彼を見てもたいして驚いた様子は見せなかった。
彼もまた彼で、龍になっても相変わらず彼女の足の虜だった。海に浸かったまま彼女の足に近づくとおもむろに頬ずりを始めた。
「僕ね、ナッちゃんのすべてが好きなんだ。だから……ほんとうに別れるのが辛いよ……魔法が解けたらもう、人間界にはいられないから……だから、せめて……許される間だけ……こうしていてもいいかな?」
すると彼女は優しく笑い、「ええよ」と頷いた。
彼は彼女の靴を脱がせると、あらわになったその足を慈しむように撫でた。彼の銀の鱗は夕焼けの光に照らされているためか、虹色に輝いている。彼女は目を閉じて足を愛撫する彼の、その長いまつげをじっと見つめていた。
やがて彼は海に潜る前にこう言った。
「実は、僕にもね、人の願いを叶える力があるんだ」
「へえ、ほんまに」
「なんでもいいから一つだけ、寝る前に願ってみてよ」
「ほんまに叶うん?」
「うん。絶対に叶うから。それじゃ、さよなら」
彼は音を立てずに海の底に消えていった。彼が消えたあとの海面には渦が発生した。彼女はその渦を見つめていた。やがてそれがなくなり、日が沈んでも、彼女はしばらくその場に佇んでいた。
十一月。学園祭の日。ナッちゃんらのバンドは、満員の観客を熱狂させていた。メンバー同士で考えた末、最後に演奏するカバー曲は椎名林檎のモルヒネに決まった。今まさにその曲が演奏されているところである。照明の関係ではっきりとは見えないが、舞台の一番後ろでドラムを叩く彼女の姿を見ることができる。彼女の前に置かれたバスドラムの陰には、人の姿をした辰宮くんが身を潜めている。衣服は何も身につけておらず、黒い布を羽織っているだけである。
演奏中、彼は恍惚とした表情で愛撫していた。彼女のその麗しの足を。
波野發作 投稿者 | 2020-09-24 12:14
なんというか、三人称に慣れていないのかなんなのか若干のブレは感じるものの、ストーリーと変態の考察が実に素晴らしい。ビバ変態。全人類は変態であることを宣言すべきである。今すぐ。
鈴木 沢雉 投稿者 | 2020-09-25 11:13
前段は視点が辰宮くんとナッちゃんの間で行ったり来たりしててちょっと読みにくかったです。
古戯都十全 投稿者 | 2020-09-25 20:37
自分に無いものをねだる話かと思います。それがフェチと結びついたらという展開で、場面が変わるごとに徐々にナッちゃんの考え方が変わっていき、最後は共依存のような関係になるところが面白いと思います。
諏訪靖彦 投稿者 | 2020-09-25 21:28
辰宮君のことは夏目さんの妄想だったのかしら。パソコン室の机の下にいたり、誰にも見られることなく港に連れて行っているようだし、夏目さんにしか見えない存在なのかと。夏目さんが好きなアーティストにもそれっぽい雰囲気を感じました。あと、私はあんよよりおててが好きです。
わに 投稿者 | 2020-09-25 22:31
作品としては明らかに辰宮くんがきしょくて、ナッちゃんはフェチを描写するためのひとつの例みたいなもののはずなんですけど、なんだか読み終わってみると、この作品はナッちゃんの話だったんだなという気持ちになりました。
大猫 投稿者 | 2020-09-26 12:11
私の読後感は純愛変態ファンタジーでした。ドクターフィッシュをはるかに超える治癒力を持った辰宮くんはその能力で他の人類を救うこともできるはずなのに、ひたすらナッちゃんです。彼の真心をナッちゃんも分かってくれるところが良いです。
ナッちゃんはやっぱり夏目さんなんですかね。松下能太郎さんがさらりと登場したり、同じキャラで違う物語を紡いだ面白いシリーズになりそうです。
Juan.B 編集者 | 2020-09-26 14:45
足に執着するのは、竜には手足らしい手足が無いからだろうか。また、辰宮の存在自体が幻なのだろうか。願いをかなえるという壮大な設定から、大人数の中の二人へ閉じていく様子は色々な余韻を残す。面白い作品だった。
Fujiki 投稿者 | 2020-09-26 18:40
辰宮くんとナッちゃんの相互依存的な関係が絶妙だ。
龍になった辰宮くんの叶えた願い事は、学園祭で彼に足を舐めてもらうことか? 煩悩を持て余した挙句の変身譚そのものは面白かったけれど、ちょっとよくわからない部分もあった。
諏訪真 投稿者 | 2020-09-26 22:32
凄い変態的なんですが(褒め言葉)、何故足に執着してるんだろうと思ったら龍だからで確かに納得感がありました。
また、何故彼は気持ち悪い(褒め言葉)行為に治癒力があることを知っているんだろう? という疑問も併せて後半で回収されてるなと。
ただ、彼女もまたそんな気持ち悪い(褒め言葉)辰宮をまんざらでもなく思ってるあたりが、何か不思議な蠱惑性を感じました。
小林TKG 投稿者 | 2020-09-28 12:17
前半の素敵な感じから、徐々にマトモになっていったような印象でした。夏目パイセンが受けれてくれた辺あたりから本当にまともになっていきました。夏目パイセン受け入れてくれてありがとう。迎合してくれてっていう感じ。
曾根崎十三 投稿者 | 2020-09-28 18:00
良い変態ですね。個人的に好きなタイプの話です。
三人称の語りなのか、一人称の語りなのか分かりづらくて最初何度か読み返しました。あだ名でいきなり入ったので分かりにくかったのかもしれません。
「脚にこだわるのは脚がないから?」というコメントを見ながら、「そうなのか」とも思いましたが神龍みたいな感じなら短い手足もありますし、個人的には脚にこだわる理由は謎でした。全裸でパソコン室で脚を舐めているのもエロいと思いましたが、謎でしたし、急に魔法が解けたのも謎でした。
とはいえ、別に理由なんてなくてもよいのかもしれません。変態なので。