ママ

蝶子

小説

3,003文字

死ぬほど追いつめられるってどんなときなんだろうか。

「ユウ子さんがなくなったらしいのよ。私も最近お父さんから聞いたんだけどね」

お母さんが言った。ウエイトレスさんがテーブルに置いたばかりのレモンティーに注いだガムシロップのもやもやがいつもよりも長く目の前に漂ってすうっと底に引っ張られていく。
「だあれ。その人。」
心当たりはあったけれど、続きを聞くのが怖くてとぼけたふりをする。赤いプラスチックのストローと氷同士とがぶつかるカラカラと言う湿っぽい音も私の声を邪魔してほしかった。
「あの人よ、お父さんの。」お母さんはすべては言わず、「もう5年も前のことらしいのよ。」とかけていた眼鏡を眼鏡ケースにしまう前に丁寧に眼鏡拭きでふき取った。

 

ユウ子さんがお父さんと出会ったのは彼女が経営するスナックだったらしい。お父さんは子どものころに私が起きている時間帯に帰ってきた記憶はほとんどない。起きている時間帯というか、12時よりも前に帰ってくることはほとんどゼロに近かったし、土日も家を空けていることが多かった。その理由にはどうやら仕事だけではなかったようだ。お母さんが言うには、お父さんは昔から女癖が悪かったようで当時は特に浮気相手にうつつを抜かしていた時期らしい。お母さんはお父さんの帰りが遅くなるたびに子どもの私にもわかりやすく落ち込み、夜中からの夫婦げんかが絶えなかった。

小学生の私はお父さんが誰とセックスしてるかになんかまったく興味なかったし、お父さんのセックスよりもむしろ飼っていたカブトムシの産卵に夢中だった。

 

私はユウ子さんに会ったことがある。もう10年以上前のことだ。

 

―☆―

 

スナックのお店をたたんだユウ子さんはデパートの販売員さんとして働いていた。もちろん私が突き止めたわけではなくて、ユウ子さんがそこで働いていることを突き止めたのも、私を連れて彼女に会いに行ったのも母だった。

真夏。子どもらしく多汗だった私の体は、店内の冷気に冷やされて少し寒さを感じていた。家から少し遠い、大きなデパートわざわざ来ることは珍しくて、今思えば母はいつもよりも強く私の手を引いて、いつもより早歩きだったような気がする。

二階の衣類品売り場でデパートにまっすぐ向かった母は服を見るふりをしながらユウ子さんを目の端で探していて、まだ母より背の低かった私は視界に入っていなかった。一人の女性が私たちの近くに近寄ってくる。私の手を握る母の手のひらが汗ばんで、私の手を放した。

「そのお洋服、素敵ですよね。」

母は答えなかった。

母が大きく深呼吸をする。後から聞いたことだけれど、彼女のネームプレートを確認していたらしい。変な沈黙に私は二人のほうを見上げた。

デパートの制服に身を包んだユウ子さんはほっそりとしていて鎖骨が浮いていて、肌は不健康なまでに白かった。目は少しくぼんでいてパッチリと大きくて、口元は控えめな色合い。黒い髪を後ろにひとまとめにしていて、母よりも少し年下に見える。綺麗な女の人だな、と思った。

母は三拍呼吸を置いて、

「うちの主人のお知り合いですよね」と尋ねた。

ユウ子さんは不思議そうな顔をしていたが、次第にその青白い顔からさらに血の気が引いて、口をパクパクとさせても声帯を失ったようにその口からは音が一つも出なかった。

「これからも、よろしくお願いします」と母は言うと私には目もくれずにその場を立ち去った。

ユウ子さんんはピクリとも動かなかった。「これからもよろしく」の言葉に似合わない二人の様子に混乱した。私は、お母さんを追いかけなければと思ったけれど、ローファーが床をすべらず、なぜか足がその場に張り付いたようだった。

そのとき初めて、ユウ子さんの目が私をとらえた。それまで色を失っていたユウ子さんの目が初めて私のほうを見てそのくぼんだ目に光の玉が現れた。ユウ子さんの口が開く。私は彼女の口がやっと息を吸うのを見た。小さな口元を一生懸命に動かして

「お父さんに似ているのね」とユウ子さんはは言った。

顎をきゅっとあげてユウ子さんのほうを見て「またね」と言うと、彼女は私のほうへ手を振ってくれて、お母さんの「おいで!」という声がやっと私のローファーの裏にくっついた粘着質な何かを取り払ってくれたようだった。

 

―☆―

 

お母さんのホットコーヒーの湯気が空気に茶色いシミを作ってしまいそうで、気が気じゃなかった。
「しかも自殺だったらしいのよ。」

と声を潜めたのに、私といえば「えっ」と大きな声を上げてしまう。
「実はね、私あの人のお店に行ったことがあるの。あなたが中学生くらいのときに、お父さんとね。もうそのときは別の人がママをしてたんだけど、たまたま彼女、来ていたのよ。おみせに。」
興奮気味に矢継ぎ早に喋るお母さんに相槌だけをうちながら私は早く続きを話すようにと促す。
「彼女あなたと同い年かな?一つ下?の男の子の子供がいるのよ。自衛隊の男の人と結婚しててね。でも彼女とお父さんって、私たちが結婚するより前からの関係だから。私てっきり、彼女の長男はうちのお父さんとの子どもだと思ってたの」
「どいうこと?」
「だから、ユウ子さんとお父さんってずっと関係があったの。」
「そうじゃなくて、なんでその長男がユウ子さんとお父さんの子どもなのよ」
「彼女、うちのお父さんと不倫しながら自衛隊の男の人と付き合っていたのよ。どっちの子どもか分からないじゃない?うちのお父さんの子どもの可能性もあるって話しよ。」
「ふうん」気が気じゃないときほど、気の抜けた声が鼻から抜けた。
「だから言ったの『もしうちの夫との子どもだったら、お金のこととか頼ってくださいね』って。そしたら、それから半年もしないうちに彼女、行方不明になっちゃったらしくてね。」
「行方不明?」
「そう、そしたら、ユウ子さんの旦那さんからうちのお父さんに連絡があったんだって。『妻が荷物をもって行方不明になった。お前のところにいるんじゃないか』って。もちろん、お父さんはかくまってなんかないし。どう探しても見つからなかったようね。」
「酷い話しね」飲んでいたレモンティーのコップの涙が私の手について、私は無造作に自分の服の裾でその水分を拭った。
「その数ヶ月後だそうよ、あるワンルームで亡くなっていたらしいのよ」

「そうなんだ」と言うよりもほかに、私に言葉を編むことはできなかった。そうなんだ、という一言さえも私が発した言葉には思えなくて、ばらばらとその場に崩れ落ちた。

「だからね、私思うのよ。私があの女の長男を『うちの夫との子ども』って言ったから、彼女死んじゃったんじゃないかって。だって、それが本当だっとしたら、夫にも子どもにも20年以上嘘をついていることになるのよ?信じられないでしょう?」

母の目は丸く、黒く光っていた。その口ぶりはどうにも、他人事のようで「ご近所の旦那さんが昇進したそうよ」といううわさ話をかたる口ぶりで居心地を悪くさせた。

「あなた、弟がいるのかもしれないわね。お父さんは俺の子だとか言われたことなんかないっていっていたけれど」

そういって母は笑っていた。声を上げて笑ったわけではないけれど、その口元は明らかに‘笑み‘を表現している。

「レモンティーのお替りいる?」私に優しく語り掛けるお母さんに、「いらない」と微笑み返して膨らむ自分の腹のおなかに優しく手を添えた。

 

2020年7月26日公開

© 2020 蝶子

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