酷暑

応募作品

松下能太郎

小説

4,107文字

合評会2020年7月応募作品。太宰治の「走れメロス」の力を借りながら書きました。

ウエダは激怒した。この、玄関前でうなだれて立っているウーバーイーツの配達員を、ただでは帰さぬと決意した。
「どうして遅れたんだ、えっ? おい、言ってみろ!」

その配達員は、返事をする気力もなく、全身に汗をかきながら、今にもぶっ倒れそうである。
「ええい、なんとか言え!」ウエダはドアをガンと一発殴った。「指定した時間から、三十分も過ぎているんだぞ!」

そう言って腕時計を見せた。しかしその腕時計の針は止まっていた。ウエダは、配達員がインターフォンを鳴らした直後に、針を三十分進ませたのち、自ら床に叩きつけて壊したのである。

なぜ、そんなことをしたのか。ウエダはイライラしていた。この日の都内の気温は、四十度を超えていた。今日で六日間連続の四十度超えを記録した。加えて二週間ほど前から、マンション全室が停電しているせいで、エアコンも扇風機も一切つかなくなってしまった。復旧のめどはたっておらず、果てのない灼熱の砂漠に置き去りにされたようである。動かなくとも、汗は絶えず流れ、苛立ちは増すばかりである。ある一室では、女が自らの首を締めながら白目をむき、別の一室では、犬が飼い主の腕を噛み千切った。

配達員は時間ギリギリにやってきた。しかしウエダには配達員が時間通りに来たところで、どのみち難癖をつけて怒鳴り散らかそうと決めていたのである。

 

配達員のサンジョウは始終、俯いているため、その配達先の客の方を見ていない。差し出された腕時計が止まっているのにも気づかない。爆発する客の怒りを、無防備に受け続けながら、己のズボンの上に止まった一匹のてんとう虫を、幻のように見ていた。

十四階の廊下には、夏の強い光線が、容赦なく照りつける。

配達指定時間までには余裕があった。けれども、途中の道路が工事中のために大幅な迂回を余儀なくされた。さらに運悪く、マンションに着くと、停電中のためエレベーターが作動しなかった。指定時間が迫っていたため、サンジョウは急いで最上階の十四階まで階段を駆け上がっていった。コロナウイルス感染予防のため、マスクは着用したままである。壁には所狭しと「マスクを外すことは、罪悪である」というポスターが貼られていた。サンジョウは、強い日射しを直に受けながら、必死に駆け上がった。まるでサウナ内でシャドーボクシングをしているかのような、生死をさまようほどの暑さである。呼吸もままならないなか、いま何階あたりだろうか、十階あたりだろうか、と顔を上げて階数表示をみた。「中5F」と書かれてあった。サンジョウには一瞬、その表示の意味が分からなかった。そこから一階分の階段を駆け上がって階数表示をみると、「5F」であった。次が「中6F」、その次が「6F」……。つまり、実質二十七階まで階段をのぼらなければならなかった。少しでも油断をすれば、ふらふらと、階段の外へ飛び降りてしまいそうになった。駆け上がっても、駆け上がっても、階段は目の前に現れ続けた。

やっとの思いで最上階まで駆け上がったときには、その場に倒れ込みたかった。しかしそんな猶予は残されていなかった。スマートフォンで時間を確認すると、指定時刻まで残り数十秒をきっていた。サンジョウは、急いで配達先の号室のチャイムを鳴らした。

 

サンジョウのあごからは何滴もの汗が、廊下の床に染みをつけ、やがてそれが小さな水たまりになっていた。動くよりも、じっと立っている方がしんどく、かれこれ三十分はこうして立ち続けている。一瞬、視界が真っ白に遮断された。盛夏、気絶寸前の昼である。

客の怒りの沸点は依然として高いままである。サンジョウのズボンの上にいたてんとう虫は、気づいたらいなくなっていた。視界がどんどんかすんでいく。意識がもうろうとするなか、サンジョウは、うわごとのように「妹よ。」と呟いた。

 

サンジョウと妹とは二人暮らしであった。妹は、当時付き合っていた彼氏と喧嘩別れをし、ある夜、サンジョウの部屋に転がり込んできた。部屋が見つかるまでの一時的な避難のつもりが、そのまま居つくようになった。二年前のことである。それが先月、妹は部屋を出て行った。結婚相手とともに新居へ引っ越すためである。そして今日の午後、二人はLittle Forestという教会で式を挙げた。

これまでの生活において、妹が部屋にいることで不満に思うことは多々あったが、妹のいなくなった生活は、炭酸のぬけたコーラのように味気なかった。部屋の中はそれから、不健康そうな青白い光にどっぷりと浸かってしまった。

もちろん妹の晴れ舞台が嬉しくないはずがない。妹とサンジョウには、父も母もいなかった。小さい頃から二人はずっと一緒だった。思い出もたくさん共有している。しかしそれが今日をもって、すべて過去となる。妹の苗字がサンジョウからナツメに変わるのと同時に、結婚相手との新たな日々が始まる。そのことで、妹と過ごした時間すべてが完全なる過去になってしまう。

サンジョウは、式の最中、急にそのような負の感情が押し寄せてきて、居たたまれなくなり、スーツを着たまま式を抜け出した。妹は気づいただろうか。妹の表情は始終、白いベールに隠れて見えなかったが、きっと悲しんでいたに違いない。許せ、妹よ! ひとりよがりのこの兄を、どうか許せ!

 

「おい、てめえ、聞いているのか!」

ウエダは、配達の遅延について理不尽に怒鳴るのを止めない。注文した料理が冷めるではないか、お前は時間にルーズである、という文言を、壊れたテープのように何度も繰り返している。
「いい加減、顔を上げたらどうだ!」

ウエダは、これまで以上に語気を荒げて叫んだ。そこではじめて、サンジョウは顔を上げた。ウエダは、まっぱだかである。仁王立ちで、腕組みをし、サンジョウを睨んでいる。柔道の師範代のような、堂々とした立ち姿である。
「俺は、お前を殴る! そしてお前は、俺を殴れ!」

ウエダが唐突にそう言った。目はあらぬ方向をむいていた。

サンジョウは、それまで瀕死に近い状態だったにもかかわらず、急に元気を取り戻した。挑発するようにむやみに首を回しながら、
「スカッと一発、いや何発でも、やり合おうではないか。」

こぶしを構えて戦闘態勢に入ったが、サンジョウの目もまた、あらぬ方向を向いていた。

ウエダがまっぱだかのまま、廊下に出てきた。
「まずは、俺から行くぞ。」

ウエダは、はじめに己の手のひらにこぶしをあてたのち、サンジョウの左ほおをぽかりと殴った。サンジョウは後ろによろめいたが、倒れなかった。それどころか、マスクを外して下唇を突き出し、余裕そうな表情をつくった。
「次は、僕が殴るぞ。」

そう言って、こぶしに息を吹きかけたのち、ウエダの右ほおをぽかりと殴った。ウエダはよろめいたが、倒れなかった。それどころか、口元を拭いながら、にやりと笑った。
「やるじゃねえか。」

それから何度も殴り合いを繰り返すうちに、両者の顔は腫れていった。痛みを伴うものの、それは久しぶりに感じた、人の肌のぬくもりだった。コンビニエンスストアで小銭を受け取る時の指でさえ、触れ合うことの許されぬ日々に、こぶしは言葉以上にものを言い、そして二人に愛をもたらせた。

ある時サンジョウは、汗ではりついたスーツをすべて脱ぎ去り、ウエダ同様にまっぱだかになった。ウエダはそれを見て、ぽたりと涙を流した。サンジョウもまた、喜びの涙を流した。二人はしぜんと殴り合うのをやめ、今度は強く抱きしめ合った。
「おお、同志よ。我が孤独を分かち合う友よ。」
「こぶしで殴り合い、抱きしめたら、もう友さ。」
「この際、お前のことを竹馬の友と呼んでもいいか?」
「ああ、いいとも。そう呼ぶに、偽りはないさ。」
「おお、友よ! 友よ!」
「友よ! 友よ!」

男たちの嗚咽まじりの叫び声が、マンション中に響き渡った。何事かと、住人たちがぞろぞろと廊下に出てきた。停電中のため、どの部屋のエアコンも扇風機も使用できずに、みな一様に、バケツいっぱいの水を頭からかけられたように、全身が汗で濡れていた。

男二人が廊下でまっぱだかになって抱きしめ合っているのを目撃しても、誰一人それを通報する者はいなかった。二人のあいだの邪魔をすることなど考えつかないほどに、誰もがその友愛の儀式に目を離せられないでいた。住人たちの目は一様に、球の形をしておらず、まるでとけたチーズのようである。

間近で見合わせるサンジョウの顔は、ウエダの顔をしており、ウエダの顔もまた、サンジョウの顔をしている。年齢も、体つきも全然違う二人であったが、殴り合ったことで腫れあがった顔は瓜二つだった。二人はそれを、運命共同体の証であると喜んだ。
「俺はお前で、お前は俺で。」
「僕はあなたで、あなたは僕で。」

サンジョウは、気持ちが高ぶるあまり、膝を廊下の床につけた。眼前には、ウエダの陰茎が雄々しく屹立している。その先端には、先程いなくなったてんとう虫が止まっていた。

サンジョウはふと、どうして自分は妹の結婚式を抜け出して、スーツを着たまま、ウーバーイーツの配達をやろうとしたんだろうか。考えてみるとわけが分からない。そもそもあれは妹の結婚式だったのだろうか。式の最中に、妹の顔をはっきりと見たことは一度もなかった。妹? そもそも自分に妹などいただろうか。サンジョウは己の記憶、思考、行動になにひとつの自信がもてなかった。この酷暑は何もかもを歪めさせるようである。生きるとは! 死とは! 存在とは! そんなことはもはや、どうでもよかった。

目の前のウエダの陰茎は、まるで蜜の豊富な花のようである。サンジョウは思わず生唾を飲みこむ。
「くわえたいかい?」
「ああ。くわえたいとも。」

てんとう虫の斑点模様は、夏の日射しに照らされ、ぬらぬらと輝いている。その黒い斑点は赤に変わり、しだいに青、黄色に変わり、やがて七色に光り放ちはじめた。ふいにてんとう虫が、司令官のような口調で命令を下した。
「くちづけせよ。」

サンジョウは、己の口をウエダの陰茎に近づけ、てんとう虫ごと、それをくわえた。

住人たちが、一斉に拍手を送った。

2020年7月18日公開

© 2020 松下能太郎

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"酷暑"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2020-07-22 23:26

    ウエダもサンジョウも終始玄関にいるのに、しかも4000字程度という制約もあるのに、ここまでドラマチックになるのはやはり下地に『走れメロス』があったからかもしれませんが、それにしても面白かったです。蒸し暑さとホモソーシャル的友情(?)ってここまで相性いいんですね。

  • 投稿者 | 2020-07-24 17:44

    感情が次第に高まっていく展開や、暑さの表現、記憶の表現が最後の行為に根拠を持たせているように思えました。
    一気に読ませる力強さを感じます。

  • 投稿者 | 2020-07-26 12:48

    暑苦しい。
    こっちまで呼吸困難になりそうです。
    暑さでおかしくなった奴と妹の結婚が耐えられずに配達員やりだす奴とが、友愛と性愛に結ばれるというお話自体、暑さでどこかやられたのではと思わされます。
    それにしてもまたしても「ナツメさん」ですね。永遠のヒロインなのでしょうか。

  • 投稿者 | 2020-07-26 15:26

    熱いを通り越し、熱苦しいですね。
    ギャグとしてよくできてると思います。ただ個人的にはしゃぶり合うのは行き過ぎかな……と思いました。

  • 投稿者 | 2020-07-26 16:44

    暴力的な雰囲気とマジックリアリズムが合わさった、さながら村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を彷彿とさせるこの物語の世界観は好みでしたが、個人的には『走れメロス』を下敷きにする必要はなかったのでは、と思いました(マジックリアリズムが持つ予測不可能性と、何か既存の物語を骨子に据えることで生じてしまう整然性は相性が悪いと感じるため)。

  • 投稿者 | 2020-07-26 18:42

    暑さでどうかしてる感が出ていて実によろしい。「走れメロス」を模した暑苦しい語りの中、擬音語の「ぽかり」が可愛い。「メロス」は長らく読み返していないので、「ぽかり」が元々あった表現かどうかはわからないけど、秀逸だ。このご時世、みんな肉体的な接触に飢えているんだね。「客の怒りの沸点は依然として高いまま」という箇所では、沸点が高いとなかなか沸騰しないので正しくは沸点が低いなのかなと揚げ足を取りたくもなった。彼らは高い場所にいるから、たぶん気圧も低いはず。

  • 投稿者 | 2020-07-26 19:33

    なんなんだこの話は笑 突っ込みどころ満載で、ニヤニヤ笑いながら「おい、どうなってんだよ」と毒づきながらも面白さに引き込まれて最後まで一気に読みました。そして、この読後感はいったい何なんだと自問自答しています。虹色テントウムシは暗喩かしら。

  • 投稿者 | 2020-07-26 22:17

    ぶっちゃけ最高だったが、二度は読みたくない。

  • 投稿者 | 2020-07-27 00:40

    読んでるこっちまで夢なのか現実なのか、読んでいるこちらまで暑さで頭がやられているのかしらと思えるようなくらくらする文章でした。

  • 投稿者 | 2020-07-27 08:21

    ”配達員は時間ギリギリにやってきた。しかしウエダには配達員が時間通りに来たところで、どのみち難癖をつけて怒鳴り散らかそうと決めていたのである。”
    はぁ~い、この一節で、うだる暑さに頭がやられそうな気分です。時節柄、何かと蒸した現実にリンクしていてタイムリーな作品だと思います。

  • 編集者 | 2020-07-27 16:45

    別に次の配達が待ってないなら、そうするのも自由だ。鞄に体液をあまりかけないように。今年の夏は配達はあまりしないようにしたいとと思った。

  • 投稿者 | 2020-07-27 17:47

    ‪2020年7月破滅派合評会当日参加のかわりとして自作解題を書きました。感想を頂きとても励みになります。ありがとうございます。

    以下、自作解題

    今回のお題「はじめてのUber Eats」では配達員に理不尽なクレームをつけるという話を書いた。「暑さにやられておかしくなりハチャメチャな方向に進む」として展開を考えていたが、夢の話のように「なんでも有り」にすると話が何も思いつかなかったので「走れメロス」になぞらえて書くことにした。

    何年か振りに「走れメロス」を読んだ。「初夏、満天の星である」という一文にハッとするような感動を覚え、それを真似て「盛夏、気絶寸前の昼である」と書いたが、到底足元にも及ばないことを痛感した。

    ラストは「てんとう虫のサンバ」の歌詞を用いて終わらせようと決めていた。妹の結婚式とも関連させられるし、男二人の友愛を締め括るにはこれしかないと思ったが、ああするのではない別の手段もあったかもしれない。

    著者
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