息をするのが面倒になってきた。だから高い所から飛んでみる事に決めた。
死にたいとか、いや死ぬ気になれば云々とか、そうゆう難しい話は分からない。
行動するのに理由がいるのか? バイトの面接みたいに本当の動機を隠しながら臨むのか。
だから息をするのも面倒になる。僕はただ高い所から飛んでみたくなったのだ。
六月にしては天気の良い昼下がりだった。暑くて脱いだ背広を小脇に抱え、見飽きた街を歩く。忌々しいネクタイを緩め、視線をすこし上に向ける。空を突っつくみたいに伸びるビルの群れ。陽射しを浴びてむさ苦しい銀色のガラス窓を目でなぞりながら、どこから飛んでみようかと思案を巡らす。
高けりゃ高い方が良い。常磐線を少しなぞればスカイツリーがあるけど、そうゆうのは嫌だった。あんなのは子供が公園の砂場に突き立てた棒切れと変わらない。倒れないようバランスを取るためだけに計算されたシルエット、あざとくて虫酸が走る。夜になって光線銃みたいに光ってる姿なんざほとんど大人のオモチャだ。圧し折りたくなる。
やっぱりビルが良い。効率よく空間を占領できるよう象られた醜い形。より多くの欲望を積み込んで空に伸びてく脂ぎった姿。最高だ。ああでなければ人間の巣とは言えない。僕は人間だ。
視界に入る内から手頃な高さのビルを選んでその中に入った。中途半端な季節柄うっすら利いてる冷房が、べとついた空気を寧ろ強調している。エレベーターに乗って最上階を目指した。ひと気の少ない廊下をうろついて屋上に出る経路を探す。廊下の奥、用務員しか立ち寄らなそうな薄暗い非常階段の上に「立入禁止」と書かれた扉を見つけた。
立入禁止。大好きな言葉だ。人通りの途切れを見計らい階段を昇った。
屋上へ続く重たい鉄の扉を開けると、音を立てて生温い風が吹き込んだ。前髪がなびくほど強い風は都市の体温でまみれている。肌に触れただけでこの空気が数え切れない換気扇や人間の臓腑を通って来たものだと分かった。
「くせぇ……抜かり無くこんな場所までしっかりくせえ」
僕は顔をしかめつつ屋上に踏み出した。古びたタイル張りの屋上。待ち人を探るように周囲を見回した。探しているのは「空」だった。空が見たい。飛ぶ前に綺麗な空が見たい。視界が人工物で埋め尽くされて、この息苦しい街じゃいつだって欠品中の広い空。あの空の色で視界を埋めたい。子供の頃から大好きなんだ。
しばらく辺りに視線を配った後、僕はがっかりして息をついた。こんな高い所までやってきたのに、空なんて見えやしない。見渡す限り腐ったビルの群れ。吸い殻で埋まった灰皿の中に立っているような気分だった。とぼとぼ歩みを進め、僕は屋上を囲う鉄柵にもたれ掛かった。煤煙と他人の呼吸で黒ずんだ空気の中、これから自分が飛び降りる地面を見下ろした。
その時、後ろからわざとらしい咳払いが聞こえた。
「ん、ん、ん……あー、ちょっとキミ」
若い男の声が屋上の片隅から聞こえた。声の来た方に視線を送る。冗談みたいな燕尾服に冗談みたいなシルクハットという、絵本の中でしか見た事のない礼服の紳士が立っていた。ものすごい恰好だ。胸元から垂れている金の鎖は懐中時計か? 高そうな馬頭のステッキまで持っている。しかし彼の白髪と見紛うほど淡い亜麻色の髪と、やや現実離れしているほどの美貌は、その異様な姿に恐ろしいほど良く馴染んでいた。僕は少し目を疑って、視力の悪いものが遠い文字を読むように瞳を細めてみせた。
「……すごいカッコだなぁ。なんです、あんた?」
勝手に忍び込んでいる分際だが、ざっくり質問を投げた。
その若い男はシルクハットのつばをちょっとつまんで微笑んだ。
「やあ、失礼。見たところキミは、そのー……こう行こうとしてるようだが」
〝こう行こうと〟と言いながら男は指先で放物線を描いてみせた。僕は少し噛み砕いた後、そのジェスチャーが意味するところを汲み取って「ああ」と頷いた。
「そうだよ。ちょっと高いところから飛んでみたくなってさ」
僕は男から視線を外し、また鉄柵にもたれ掛かって下を眺め始めた。
「ふむ」
男は白い手袋をはめた手で顎を押さえ、今どき乗馬クラブでも見かけないフォーマルな革ブーツを鳴らしながら僕の方へ歩み寄って来た。胸元に飾られていたポケットチーフを引っ張り出し、まるで汚物を見る時のようにそれで口元をふさいで、僕の隣から下を見下ろした。眼下百メートル下に見える地面をしばらく検分した後、男はこう言った。
「しかしね、キミ。こりゃ死ぬよ。ずいぶん高いようだ」
「んー、そうなあ。でも死ぬとかどうとか、あまり難しい事は考えてないんだ。俺はただ高いところから飛びたいんだ」
「ははあ。欲求不満ってヤツだね。君たちは何が楽しいのか、のべつまくなし地べたばっかり歩いてるからね。時には高いところから飛びたくもなるだろう。確か君たちだったよな、足をヒモで括って崖から飛び降りる生き物は。いや、あれはサルだったかな?」
「いいや、俺たち人間で合ってるよ。バンジージャンプってのさ」
「そう、それだ。聞いてみたかったんだ。一体どうしてあんなことするのかね? やっぱり欲求不満かね」
「どうかな。オレはやったことないし」
僕は鉄柵に背をあずけ、そのまま屋上のタイルに座り込んだ。小脇に抱えていた背広のポケットを漁る。そこから煙草の箱とライターを引っ張り出すと、交尾し終えた売女を蹴り出すみたいに背広を捨てた。もう着る事は無いからだ。
「あれ、結構かかるんだぜ。お金」
煙草をくわえつつ、僕は言った。オイルライターの蓋を指で弾き、二三度空ぶってから火を起こす。煙草の先に火を移したら、もうこの後使うアテの無いライターも煙草の箱も、床に放り捨てる。ついでにポケットの財布も放り捨てる。誰かの夕食代にでもなれば良い。
「それじゃ、ますます不思議だ。お金と言ったら君たちの大切な……確かこんな……」
シルクハットの男は思い出せない言葉を探すように目を閉じた。そしてシルクハットを外し、鳩でも呼び出すみたいにステッキで何度かノックした。するとシルクハットの中から、カバンをひっくり返したような勢いでどさどさと大量の札束が落ちてきた。秒の間に山と詰み上がった札束。男はその一束を拾い上げ「そうそう、こんなだったかな?」と言いつつ僕に渡してきた。僕は煙草の煙に目を細めつつ、その札束を見る。
ジョージ・ワシントンが印刷された帯付き新札のグリーンバックス。
「……んー、ドル札だなこりゃ。しかも肖像が違うよ。ジョージ・ワシントンは1ドル札だ。100ドルはベンジャミン・フランクリン」
僕は男に札束を返しつつ、ポケットからスマホを取り出した。ネットを開き、百ドル紙幣の画像を探す。
「ベンジャミン・フランクリン、と……ほら、こいつがベニーだよ」
僕はスマホをシルクハットの男に突き出す。男は画面を覗き込み「ふむ」と言った。
「すこし不細工な男だな。目が窪んでるがヘロイン中毒かね? 君たちはアヘンが好きだから」
「雨の日に凧揚げして雷が電気って証明した人だよ。大好きな名言が二つある。ひとつ、成すべきを成さんと決断せよ。ふたつ、セックスは繁殖と〝健康〟のためにやれ」
言いながら僕は男に見せていたスマホを引っ込め、それもまた屋上の一隅に向けて投げ捨てた。ディスプレイの砕ける渇いた音を立て、スマホは屋上の向こうへ滑っていった。
煙草――嗜癖。財布――生命。スマホ――社会性。僕の部品はこれで全部だ。捨ててみりゃ軽いもんさ。
「さ、おしゃべりはおしまいだ。日が傾いちまう……」
僕は立ち上がりつつ、煙草を地面に吐き捨てた。靴底でなじり消すと、黒い燃えかすは細い不完全燃焼の煙を立てながらタイルの目地に擦り込まれた。
僕は目を閉じ、大きく息を吸った。
「ああ……きったない空気だけど、煙草吸った後はうまいねえ。じゃ、あばよ兄さん」
僕は男に向けてひらりと手を振って、それから屋上の鉄柵を掴んだ。
「もう行くのかい? ちょっと待ちたまえよキミ。せっかく久しぶりに会えたんだ、もう少し話そうじゃないか。どうだね、飛び降りるのは今度にしてはどうかな?」
今まさに鉄柵を乗り越えようとした僕を、その男は肩を捕まえて抑えた。僕は少し苛立って男を睨む。
「久しぶりに? 俺、あんたなんか知らないよ。手をどけないと先に落とすぞ」
「まあそう突っかかるな……全く君たち人間ときたら。最初に確認したはずだぞ? 君たちは餌がいる、糞をする、可愛がられるのは小さいうちだけ。そしてすぐ死ぬ。それでも良いから試したい、泣いたり笑ったりしたい、絶対最後まで頑張るから……そう言ったのは自分じゃないか?」
男は呆れたようにため息をつきながら言った。僕は「はあ?」と攻撃性の疑問符を返す。
「何の話だ? 最初っていつだよ」
「ほら、これだ。だいたい私を見たまえ。なんとも思わないのか? お金出したんだぞ帽子から。君たちの大好きな物理学で考えてみろ、これが帽子に収まる量か? 考え直せ。君は今じゃないんだ。まだまだ続きがあるんだぞ?」
「顔違うじゃん、その札束。あんたが何を出そうが、あんたが何者だろうが、悪いけど心底どうでもいいよ。これからも〝人間〟と話す機会があるなら、よーく覚えておきなよ。地べたばっかり歩いてる俺達には、時々あるんだ。なーんにも面白くない時がさ」
イラついた言葉を一頻り投げる。男はちょっと困ったように眉をひそめた。その顔が妙に無害で、僕の苛立ちがふと冷める。僕は男から視線を外し、深呼吸をする。
「さ、手を離しなよ。何様か知らないが、他を当たりな」
出来うる限りの優しい声で僕が言う。やがて男は諦めたように手を離した。そしてこう言った。
「……いや、残念だが。それならやっぱり私の用件はキミにある」
男の言葉を聞き流し、僕は改めて屋上の鉄柵を乗り越えた。障害物に足を引っかけて飛び越える感触、少年の頃以来で少し胸がときめいた。鉄柵の向こう、ビルのへりに降り立つ。後ろ手に鉄柵を掴み、ニーケーの彫像みたいに体を空中に傾ける。あと必要なのは指の力を抜くほんの少しの油断だけ。それで何もかもおしまいになる。
ああ、幸せだ。もう良いんだ。もう誰かを好きにならなくていい。もう誰かを嫌わなくていい。
もう嫉妬したり、媚びたり、孤独になったりしないんだ。
「ああ、キミ。差し出がましいようだが体勢を変えた方が良い。こっちを向いて、背中から落っこちなさい」
「ん……なんで?」
「空が見たいんだろ」
「……」
男にその話をしただろうか。――いや、していない。
僕は男の言葉に従い、屋上の縁で向こうで身を翻した。ライブを観覧するかぶりつきの客みたいに鉄柵と正面で向き合い、地面がある方向を背にする。
「こうかい?」
「ああ、そうだ。じゃ、キルぞ」
男は素っ気なく言った。キル? キルとは何の事だ? 僕の心に浮かんだ疑問は一秒後に消えた。男が冗談みたいな馬頭のステッキを指揮棒のように掲げた時、その先端にはっきりと禍々しい刃が見えたからだ。ああ、斬ると言ったのか。
男が手にしているのは大鎌だった。収穫……黒くひずんだ刃を持つその大鎌を、男は慣れた手つきで振りかぶった。
それからぽつりとこう言った。ほんの少しだけ寂しそうに。
「なあ〝少年〟。本当に私を覚えていないのか? 君がまだ子供の頃、ほら、こんなふうに湿気た熱線の降る六月……」
「……?」
「おっとすまない。どうでも良かったんだな。では、御機嫌よう」
シルクハットのつばを摘んでちょっと会釈した直後、男は一気に大鎌を振った。狐が叫ぶような音を立てて刃が空を切り、その黒い残影が半円を描いた。確かに僕の首根を捉えた刃の軌跡。だが僕に痛みは無く、どうやら首と体も離れていない。ただ刃が首筋を過ったその一瞬、ちょっと背筋が寒くなり――僕の手は鉄柵から呆気なく離れた。葉の先から朝露が滴るようにビルから投げ出された時、こう気付いた。今の刃は僕の糸を切った。今の刃は、僕を「クビ」にした。虚空を舞った体。全身を覆う大気が一瞬で方角を変え、強烈な風切り音が落下と加速を伝える。
その時、男が「体勢を変えろ」と言った意味が分かった。
――空だ。上を向いた僕の瞳いっぱい、この世の原始まで遠く晴れ渡った空が……。
なんて綺麗なんだろう。そう言えば昔、こんな空を見た。何度もページを遡った遠い六月、まだ子供だった頃。近所の貯水池にサメが住んでるってアホみたいな噂を信じ、学校帰りに友達と探検に行った。僕が恐る恐る貯水池の暗い水を覗いていたら、急にランドセルを押されたんだ。池に落ちる途中、僕の背を押した友達の顔が見えた。ふざけてやったのだろうけど、瞬く間に溺れる僕の姿を見て、そいつは怖くなって凍りついた。そこにいる誰一人、僕を追って飛び込む勇気も友情も無かった。
ランドセルの浮力が悪い方に働いて背中から脱げた。そのまま僕は暗い水の底に落ちて行った。
その時、誰かが僕に手を差し伸べた。真っ白の手袋をはめた大人の手だった。僕は夢中でその手を掴んだ。
生きたい、と水の中で叫んだ。それに答えるみたいにこんな声が聞こえたのだ。
「大丈夫、きみは今じゃない」
生命の方向へ浮上する僕の目の前を、そう今と同じ、ちょうどこんな透明でどこまでも遥かな青空が――
人が行き交う雑踏。骨が砕ける嫌な音が全身を埋めた。
幕を下ろすように閉じた僕の視界の隅、燕尾服の若い男が残念そうな顔をして立っていた。
【十三番目の神様:おしまい】
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