オトノフォビア

短編集【キミノフォビア】(第4話)

倉椅

小説

8,047文字

アクロフォビア=高い所怖い。ネクロフォビア=死んだ人怖い。そして「音のフォビア」。
雑音や音楽に嫌悪を催すようになり、やがて壊れてしまう男の話。

例えば音楽を愛せない者が一生かけたって、この世に散らばった音符を億分の一も消せやしない。高所恐怖症アクロフォビアの為に地球を平面にしてくれる人はいないし、死穢恐怖症ネクロフォビアの為に生命が永久機関になったりもしない。崖は今日も崖のままだし、赤子の数だけ死者が転がっている。退行を望む部外者にかまってやれるほど世界は慈しみ深く設計されていない。待つことも引き返すこともない。つまり音符をぷちぷち潰して歩くくらいなら耳を捨てた方が早い。

 もっと簡単に言うならば?

「いつもイヤホンつけてるね。何聞いてるの?」

 バイトの休憩中、同僚の女の子が僕に尋ねた。客ひとり来ない暇な昼下がりの事だった。

 僕はイヤホンを外し、会話を受ける姿勢を作った。

「えーと。ただの音楽」

 笑顔で返した、この回答は嘘だった。僕は作り笑いを消し、またイヤホンをつける。会話終了の合図だ。でもこの日の彼女はひどく図々しかった。近頃シフトの関係で二人きりになる事が多かったので懐いたのかもしれない。

「へー、どんなの聞くの? 貸して!」

 彼女の手が僕の耳元に伸びた。二ヶ月も金を貯めて買った最新鋭のノイズキャンセリング機能付きイヤホン〝音楽には静寂がいる〟が僕の耳から外れた。制止する声も届かぬうちに、彼女は無邪気に笑いながら僕のイヤホンを自分の耳につけた。そして笑顔が消えた。

 ざーーー。イヤホンから大音量で溢れるのはホワイトノイズ。ブラウン管テレビの時代に砂嵐と呼ばれ、赤子に聞かせると良く眠ると噂になった雑音。

 僕はいつもホワイトノイズを聞いていた。ネットで見つけた再生時間十時間の音源をひたすらループ再生していた。道を歩く時、食事をとる時、トイレにいる時。一人の時間、僕は聴覚をホワイトノイズで満たした。苦しんで取捨選択した末の結論だ。

「ひっ……」と小さな声を上げて、女の子はイヤホンをテーブルの上に投げ捨てた。それから怯えたような目で僕を見た。僕は困って俯き、何故だか女の子に「ごめん」と言った。

 その同僚の女の子は僕を気味悪がって、もう二度と話しかけてくれなかった。

 無理もない。僕も変だと思っている。でも変われない。明日も明後日もこのままだ。何故なら世界は音で出来てる。

 オトノフォビア、オトノフォビア。僕は音なんて大嫌いだ。

 いつもと同じ朝が来た。色の無いシングルベッドの枕元、耳に着けたまま眠ったイヤホンが転がっている。カーテンの隙間から見えるのは隣の雑居ビルの壁、雨どいのパイプ。全ての窓辺が建造物で塞がれた、息苦しい僕のアパート。太陽光はざらついた年代物のコンクリートに挟まれながら僅かに真上から降ってきて、都市の煤煙に色づきながら部屋に漏れ入る。この閉塞感は深海と変わるまい。

 意識が睡眠から浮上して間もなく、音がやってきた。

 ガラスを容易く通り抜け、近くの交差点から喧騒が届く。膨大な人々の息遣いと足音が轟音と化し空気を震わせている。

 歩行者信号が青になった時の妙な電子音は「ぱ行」。

 ぱっぽー、ぱっぽー。ぴえー、ぴえー。

 けだものが襲いかかるみたいな車の加速音は「ガ行」。

 グオン。ガオー。

 薄っぺらい壁を越え、隣の居室から物音が聞こえる。ごつ、ごつ、ごつ。壁に何かが当たる音、掃除機でもかけてるのかな。模様替えだったら嫌だな。

 寝起きの意識を満たす雑音たち。気分が重くなる。心に濡れた布を掛けられたみたいだ。音が吐き気を連れて来る前に、僕は眠たい目をこすってイヤホンを拾った。耳につける。流しっぱなしのホワイトノイズが僕の世界を満たす。

 少し気持ちが楽になった。

 今日は休日だ。甘ったるい物を飲みたくなったので近所の喫茶店に向かった。なるべく端っこで窓から遠い、静かな席を選んで座る。カフェモカを頼んだ。

 店内には少し前に流行ったポップスが流れている。ハスキーだけど柔らかい男の声が恋愛について歌っている。二年くらい前に流行った曲だ。脳に侵入した歌詞と旋律がその時期の記憶を呼び起こす。良い記憶も悪い記憶もごちゃ混ぜだ。音楽に染み付いた過去の残像が濁流のように意識を埋めて、あっという間に僕は「今」を見失う。

 逃亡の駆け足みたいにスマートフォンのボリュームスイッチを連打する。大慌てで上昇したホワイトノイズの障壁がBGMをかき消した。

 顔を手で覆ってため息をつく。どうして僕はこうなのだろう。耳に病気でもあるんじゃ無かろうか。発作が治まった所で、席にカフェモカが届いた。充分甘く作ってあるのは知っていたけど、さらにスティックの砂糖を二本も追加した。うるさい環境にいると味がしなくなるからだ。湯気まで菓子臭いカフェモカを少しずつ飲みながら、ネットで耳の事を調べ始めた。誰もがどこかで見た事のある人間の耳の構造解説図。真っ直ぐ伸びた耳孔の奥、甲殻を持つ軟体動物めいたグロテスクな器官が詰め込まれている。おぞましい。死刑囚か何かを解剖して、最初にこれを見た人はさぞ寒気がしただろう。僕らはこんなものを搭載してまで〝聞きたい〟のだ。大抵の場合、幸せより痛みを含んだ音と声とを。

 大音量のホワイトノイズを押し越えて、椅子を乱暴に引く音が鼓膜を揺らした。音が来た方に視線を流す。すぐ隣の席に背広姿の中年男が座っていた。

 ……いるんだよな、こうゆう奴。一体どうゆうつもりだ? 席は他にいくらでもあるだろうに、何でわざわざ隣に座るんだ? 満員電車に乗りすぎて、そばに人間がいないと落ち着かないのか?

 男は絶叫じみて大きな咳払いをした。調子の悪いエンジンを必死に空吹かしするみたいに。かと思うと携帯電話を取りだした。……勘弁してくれ。まさか電話するつもりか? 鼻をすするな、お冷のグラスを乱暴に置くな、カバンを開くジッパーの音を聞かせるな、頼む、タバコを吸うのは勝手だが無意味に大きな音を立ててオイルライターを開閉するな。

 うるさい、うるさい、うるさい!

「あ、もしもし! すみません、話せる場所に移動しましたので」

 男が誰かと通話を始めた。僕はホワイトノイズの音量を上げたが、やがて上限に達してしまった。

 ダメだ、出よう。

 カップに飲み物を半分も残して店から出た。

 

2020年5月18日公開

作品集『短編集【キミノフォビア】』第4話 (全12話)

© 2020 倉椅

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