(無題 #1)

応募作品

Fujiki

小説

4,000文字

破滅派合評会2020年5月(テーマ「不要不急」)応募作。

夜勤からの帰り、寝る前の一服をしようと屋上に上がると別の男がいた。フェンスを乗り越えて屋上のへりに腰を下ろし、薄紅に染まりはじめた東の空をまっすぐ眺めている。男の近くに転がっているトリスの空き瓶と、宙にぶらりと投げ出された長い両脚がしゅんを不穏な気持ちにさせた。

「……てか、久遠くおんじゃない?」

男の横顔に見覚えがあった。昔は黒かった髪を安っぽく脱色して無精ひげを生やしていても、整った鼻梁と滑らかなあごの稜線は一目でわかる。十二年前、久遠はプロの俳優になるためにその美しい顔を持って東京に行ったのだ。

「おっ、しゅーん!」

久遠は振り返ると、コンクリートの角をつかんでいた片手を無造作に上げてみせた。

「このとおり、落ちぶれて底辺団地に舞い戻ってきました!」と久遠は言い、唾を吐いた。白い唾液は五階下のアスファルトに向かって落ちていった。

「こっちはその底辺団地に子どもンときからずっと住んでんだけど? しかも、ぜんそく持ちのおふくろと二人で」

「俺もまた両親と同居だ。三十にして無職の子ども部屋暮らし」

「実家に帰ってきてウイルスまき散らす生物バイオテロってやつ?」

「仕方ねーだろ。もうあっちで家賃払えねーんだし」

「そういや、結婚しなかったっけ?」少し間を置いて瞬は訊ねた。

「別れた。半年前」

「そう……」

「瞬は?」

「は?」

「いるのか、その……オトコとか」

「いるわけない。こんな地方に出会いなんてないから」と瞬は鼻で笑って答えた。

久遠は胸ポケットからタバコを出し、ジッポーライターで火をつけた。朝焼けに紫煙の影が昇ると彼はジッポーを勢いよく放り投げた。真鍮の塊はきれいな放物線を描いて駐車場の先に落ちていった。瞬は思い出して自分のタバコに火をつけ、久遠の背後のフェンスに両ひじを載せて煙を吐いた。

 

最後に一緒にタバコを吸ったのは中三の夏だった。久遠の部屋の小さな扇風機が首を振りながら二人の煙を巻き込んでいく。MDプレイヤーにはシガー・ロスの無題のアルバムがかかっていた。瞬がオーパのタワレコで買ったCDを久遠が借りてダビングした物だ。

夏服の上着を脱いで久遠のベッドに座っていた瞬は焦っていた。後から後から涙が出てきてどうすることもできない。瞬はそれを慣れないタバコや感傷的な音楽のせい、あるいは久遠が背中に塗ってくれているヨードチンキのせいにしてごまかしたかった。でも本当は毎日クラスメイトに殴られてばかりの自分がみじめだったせいだ。さいわいベッドの端に腰かけている久遠には背を向けていたが、泣き出したのはすぐにわかったはずだ。

両親が共働きの久遠の部屋は傷の応急処置にうってつけの場所だった。絆創膏を貼って帰っても久遠と遊んでいてケガをしたと言えばいい。プライバシーのない自分の部屋だと、いつか母親が不審に思って学校に問い合わせることになる。瞬はクラスで毎日殴られる理由や投げつけられる言葉の数々を決して母親に知られたくなかった。一人で中学生の息子を育てるのはただでさえ大変なのに、その息子がゲイとあっては余計な気苦労が増えるだけだ。

「できた!」

久遠は燃えさしのタバコをくわえたままそう言い、瞬の両肩をつかんで揺すった。

「ごめん、ありがと」

部屋の隅にある姿見に映った背中は絆創膏やガーゼが不器用に貼られてパッチワークになっている。イスの脚を押し付けられてできた傷が四か所、転んだときの打ち身と擦り傷が五、六か所。今日は特にひどかった。夏風邪をひいたふりをして厚着をしないといけない。タバコが指の間でとっくにただの長い灰になっているのにも構わず、瞬はベッドに座ったまま全身を震わせて嗚咽した。

不意に、体がふわりと浮かんで、バランスを崩して背中のほうへ倒れた。人肌の体温の心地よさが瞬を包んだ。がっちりした体が背中を受け止め、太い腕が瞬のきゃしゃな胴体を赤ん坊のように抱きかかえていた。昔から知っている、森の土のような久遠の体臭が瞬に安心感を与えた。

久遠に抱きしめられるのは初めてだった。それがどういう意味を持つ抱擁なのかは瞬にはわからなかった。久遠がゲイじゃないことは以前から知っていたし、その点に疑いはない。でも友情のハグで片づけるにはあまりにも親密で、呼吸を忘れるほどだった。小動物のように激しく鼓動する久遠の心臓を肌で感じながら、瞬は目を閉じて名状しがたい時間の流れにただ身を委ねた。

再び瞼を開くと、瞬は久遠の太ももを枕にしていて、目の前に美しい顔が上下逆さに浮かんでいた。

「貸しひとつな」と久遠は言って口もとに笑みを浮かべた。

「かし?」

「恋人同士や家族の間に貸し借りはないだろ? いくらでも無償タダで相手に優しくできる。俺とお前はそういう関係じゃねーから、貸しだ。いつになってもいい。忘れたっていい。いつか思い出して俺に借りを返してくれ。いいな?」

照れ隠しのように早口で念を押す久遠の顔から瞬は目が離せなかった。ニキビひとつない、きめの細かい彼の頬に触れたい欲求にかられた。桜色の唇に貪りついて彼の吐息を吸い尽くしたかった。瞬が求めたら、久遠はたぶんそれを許しただろう。おそらく、その先の一線を越えることさえも。久遠の言うとおり、これは恋愛ではなく貸し借りなのだ。自分が今最も必要とするものを必要なぶんだけ久遠から借りて、いつかそれを彼に返す。貸借表の帳尻を揃えるみたいに、あくまでビジネスライクに。それがいつになるかも、どんな形で返せるのかもわからないが。

結局、瞬と久遠がお互いの部屋で二人きりになることは二度となかった。何もなかったとはいえ、あの日の抱擁がどこか気恥ずかしさを残したことは確かだった。わだかまりと言うほどではないけれど、それは澱のようにいつまでも溜まって二人の関係をほんの少し濁らせた。いつしか、本当にあのとき何もなかったのかさえ瞬には曖昧になっていた。何度も反芻を繰り返すうちに、親密な瞬間の記憶はダビングにダビングを重ねた古い音源のようにおぼろげで、不確かな幻想に変わっていった。

久遠とは幼稚園から高校まで一緒だったが、瞬が地元の私立大学の社会学部に入った一方で、久遠は進学せずに上京を選んだ。それ以降の久遠の消息を瞬は主にフェイスブックを通して知ることになる。久遠は小さな芸能事務所に籍を置き、引っ越し屋や飲食店のアルバイトをしながら映画やテレビドラマのエキストラの仕事を何年か続けた。小劇場の舞台には中心人物の役で何度か立ち、自主映画では主役も演じたようだ。でも、そのうち出演作に関する投稿は減り、代わりに撮影現場で知り合った女性との交際をうかがわせる写真の投稿が増えていった。最初こそ瞬は律儀に「いいね」を押していたが、しだいに年に一回誕生日のときだけ「おめでとう」とコメントを送るだけの仲になり、久遠の婚約報告の投稿を最後にフォローもやめてしまった。久遠のことを思い出す機会も減っていった。

大学卒業後、瞬は県内の小売会社に就職した。地元では有数の優良企業である。しかし営業部に配属された彼は四年目に心の病気を発症して退社した。今は同じ会社の系列のショッピングモールやスーパーで販売される惣菜を作る工場で嘱託社員として夜九時から午前五時まで働いている。入院した一時期を除いては母親と住む団地を離れたことがない。同性愛者向けのマッチングアプリで一夜限りの関係を試したこともあるが、恋愛に発展するような相手は一度も見つけられなかった。

 

久遠は吸い終わったタバコを指先で弾いて捨てた。フィルターだけになった吸い殻はくるくると回転しながら風にもまれて落ちていった。

「また会えてよかったよ。ホントよかった」

東の空に顔を向けたまま、久遠は独り言のようにつぶやいた。既に朝日が顔を出していて、彼は目を細めて眩しさに耐えていた。赤ら顔には深いしわが何本も刻まれ、昔よりずっと疲弊して見える。肌もかつての自然な光沢を失っているようだった。それでも瞬にとっては世界で一番美しい顔に変わりなかった。

いつになってもいい。忘れたっていい。いつか思い出して俺に借りを返してくれ――昔の久遠の言葉がふと瞬の頭をよぎった。今、この瞬間を逃せば、久遠に借りを返す機会を永久に失ってしまうかもしれない。そんな不安が急に彼の心を焼いた。

「久遠、もう酒も切れたことだし、一緒に朝メシにしよっか?」

瞬はフェンスの反対側の久遠のほうへゆっくり腕を伸ばしながらそう言った。

「せっかく会えたんだから、もっと話をしよう。これっきりなんて嫌だよ。ほら、手つかんで。ゆっくり立ち上がって」

久遠は催眠術にかかった子どもみたいに従順に瞬の手を握り、錆びたフェンスの格子に反対側の手の指を絡めて腰を上げた。フェンスの先には建物のコンクリートが五〇センチほど突き出ている。大人の男がフェンスをまたいでこちら側に戻ってくるには十分なゆとりである。だが、見るからに泥酔している久遠は足もとがふらついていた。外側に振り出した右足からスニーカーが脱げて落ちていった。

「大丈夫。下なんか見なくていい。僕だけを見て」

瞬は久遠と目線を合わせるために顔を上げ、無理やり笑みを作った。酒で濁った久遠の瞳はどろりと泳ぐばかり。長身はいっそう大きくよろめいた。

突然、朝日の鋭い閃光が瞬の両目を貫いた。久遠の金髪が燃え上がり、逆光になった体がバランスを崩してコンクリートの外側にゆっくり傾いていった。瞬はフェンスをつかんでいた手を反射的に久遠のほうへ伸ばし、両腕で彼の体を抱き寄せた。身を乗り出しすぎた瞬の全身は浮かび上がり、シーソーの板のように前のめりになった。久遠の肩越しに遠く広がるアスファルトの黒い海が眩んだ目に飛び込んできた。

きつく抱きしめた久遠からは懐かしい匂いがした。森の土の匂い。何も変わっていない。

瞬は目を閉じ、親密な時間の流れに耳をすませた。

2020年5月9日公開

© 2020 Fujiki

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"(無題 #1)"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2020-05-22 19:39

    相変わらずさすがの筆力ですね。
    久遠の言った「貸し」は決してビジネスライクな感じではなかったんだと信じたくなるような、そんな読後感です。
    「不要不急」という言葉を一切使わず物語全体でテーマを醸し出していて、奥行きのある作品だと感じました。

  • 投稿者 | 2020-05-22 22:18

    描写がとても豊かで作品に色を感じることが出来ました。恋愛や友情という言葉では表せない感情という物を感じました。

  • 投稿者 | 2020-05-23 01:29

    わたしにはこういった恋愛を表現できる言葉を持ち合わせていないので、素直に感心しました。藤城さんはどんな作品でも、それがまるで当事者なのではないかと錯覚するほどリアリティで物語を紡ぐことができる才能をお持ちですよね。あくまで個人的に感じたことですが「森の土の匂い」は男性的で、私が女性に対して感じる「干し草の匂い」と対比して妙に納得しました。

  • 投稿者 | 2020-05-23 14:26

    「瞬」と「久遠」という主人公たちの名前。そんな名を与える勇気は私にはありません。一発で印象が刻み込まれますね。
    「不要不急」の借りを返す瞬間、落ちたのか落ちていないのか、微妙なところで止めるのが憎いです。
    瞬が中学校時代にひどいいじめを受けた原因は「ゲイ」だったからなんですかね?
    そのあたりも含めて、主人公たちの辿ってきた人生の甘さ酸っぱさを書き切るには10枚では短すぎるかなという気もしました。

  • 投稿者 | 2020-05-23 22:14

    今回もまた密度の高い文章で、書いているうちに「団地」がかぶったこの作品が出てきて、その完成度の高さに一度は自分は出すのをパスしようかと思ったほどでした。
    主人公の背景のバリエーションが本当に多彩で、またカメレオン作家ぶりを見せつけられました。久遠の方が生き方は刹那的だけれども、瞬の方が長く未練をくすぶらせていたのだけれども、その「一瞬」を求めているのは……。テーマはテーマでしかなく、作品の中で仄めかせる程度に、そんな姿勢に粋を感じます。

  • 投稿者 | 2020-05-23 23:32

    フェイスブックのやりとりの内容変化から徐々に友人と疎遠になっていった表現が好きです。あえてラストシーンはどうなったのか想像の余地を残していることから、最後の一文に奥行きを感じられました。

  • 投稿者 | 2020-05-24 00:02

    エモい

  • 投稿者 | 2020-05-24 00:55

    久遠が屋上に来るまでの背景に現下の社会状況が映されている気がしました。瞬にとって不要不急ではなかったはずの借りが、屋上のへりに腰かける久遠の姿を見て、「不確かな幻想」から何か別のものへと変容する。というような感じを抱きました。
    二人の再開は偶然のものなのか気になります。

  • 投稿者 | 2020-05-24 03:25

    森の土の匂いからは野暮ったさとともに神秘的な趣きを受けました。終盤の、泥酔して意識がもうろうとしている久遠を抱き寄せて親密な時間の流れを感じているところでは、瞬の独善的な感じを多少受けながらも、この先どうなっていくかは分かりませんが、日が昇るように新たな何かが始まりそうだなあと思いました。

  • 編集者 | 2020-05-24 17:52

    他の方がもうコメントしてるが、名前、現場、背景全てが確かにエモい。時の流れには不要不急も有用火急もないのだろう。最後どうなったか…二人が幸せなら、それはそれで良いと感じた。

  • 投稿者 | 2020-05-25 19:16

    ラストの美しいシーンを描くために4000字の言葉が費やされ、つくられたような物語だと思いました。瞬間的なエモい感じと、永続的なチルい感じが合わさったような感覚でした。

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