止まってくれないあれやこれや

わに

小説

10,124文字

自動運転になって久しい山手線車両に「駅に着いても停止しない」バグが発生してしばらく経つ。毎年孫の誕生祝いにうちまでやってくる親父は、山手線が止まらないせいでそっちへ行けないから田端の実家まで来いと言う。子どもらと嫁を連れて実家へ帰ると、親父は俺が想像していた以上に老けこんでいた。

 土曜日の日中に通勤快速はない。武蔵浦和から快速で池袋駅に降りると、一週間ぶりに急に思い出したみたいにどっと晴れた空の青がホームの屋根の隙間から溢れ出していて、思わずおおーと声が出た。そんな悠長に空を見上げていられるのも一瞬、俺は鬼ごっこでも始まったかのように俺の手を振り切り突然逆方向へ走り出す莉奈りな侑斗ゆうとを掴み上げ俵みたいに抱えながら、家を出るときからずっと不安げな表情を変えない美喜みきに俺が抱えとくから大丈夫だよと言った。

「乗るときだけちょっと気をつければいいだけだから」

 美喜にとって義父にあたる俺の親父に会うときは、「それなりの」格好をしたほうがいいかなと言っていつも少しだけよそ行きの服装になる彼女だったけれど、今回はそんなことをしている余裕もなかったらしく、白いコンバースの靴紐を玄関できつく縛り直していた。

 侑斗は俺と、莉奈は美喜と手を繋いでエレベーターに乗る。後ろを振り返ると、美喜は眉間にしわを寄せながらこちらを睨みつけた。

直人なおとが毎日乗ってるからって危険がないわけじゃないんだからね」

 俺は返事をせず前に向き直る。

 

 五年ほど前に自動運転に切り替わった山手線の列車に突如、すべての駅のホームで停止せずそのまま走り抜けてしまうという前代未聞のバグが発生したのは、俺がいい加減会社員なんて辞めてブログとアフィリエイトで悠々自適に過ごすのも現実的に「アリ」なんじゃないかと思い始めた、一月下旬のことだった。

 その日俺はいつものように武蔵浦和のホームで通勤快速を待ちながら、脱サラしてブログで収入を得ている「成功者」たちの実録体験談を読んでいた。毎月100件記事を書く根性があれば、半年を過ぎる頃には俺の今の月収と肩を並べられる。今日も仕事を終わらせたら日報とかいう昭和体質満点のクソ面倒くさい書類仕事をこなしながら、頭の中で未来の俺の日々を妄想でもして過ごそう。「当ブログの人気記事はこちら!」と書かれた末尾に到達しSafariを閉じたそのとき、いつもの列車遅延を無感情に詫びてくる車掌の気だるい声が、全く聞いたことのない内容を俺たちにお知らせしてきた。

「現在、山手線はシステム障害により、車両が駅のホームに停車できなくなっております」

 その日一日中twitterのトレンド1位に君臨し続けた「山手線止まらず」。どうやら自動運転のシステム内にある列車の停止位置を検知する箇所がイかれてしまったらしく、ぎりぎり減速はするのだが止まりきれずそのままホームを去って次の駅に走って行ってしまうのだという。JRのIT担当者たちが日夜システム障害の解消に奔走するのも虚しく、この間抜けでいて深刻な問題はもう3ヶ月も解決しないまま、朝も昼も夜も、丑三つ時も、山手線はその円周を律儀にも走り続けていた。こんなことに翻弄されっぱなしのサラリーマンはやっぱりダメだ。電車が止まろうが止まらなかろうが、そんなこと関係なく生きれるブロガーってやっぱ最高だよな。

 

 山手線のホームに着くと、休日の昼間だというのに人はまばらだった。それもそのはず、こんな危険なものにすすんで乗りたがる奇特な日本人はあまりいない。ただ、毎日の通勤でその光景に馴染んでしまった俺のようなサラリーマンや、減速した車両へ飛び乗ることにさして恐怖感を抱かない中高生は当然のようにその「動く歩道」と化した山手線を利用する。実家の最寄駅は田端だし、他にちょうどいい駅もない。だから渋る嫁とはしゃぐ子どもらを無理やり連れて、山手線に「挑戦」することにしたというわけだった。

 東京都の大動脈、緑の山手線はぼんやりしている間にすぐ姿を見せた。新型車両だ。向こうのほうから小さく現れた車両は、徐々にホームへと接近し他の車両と同じようにゆっくりと減速を始める。淡いブレーキ音と共に車内の広告の写真がよく見えるようになってきたなと思ったそのとき、開きっぱなしの扉からぴょん、と高校生の集団が足取り軽く下車していく。片手にタピオカミルクティーを持ち、わいわいと歓談しながら器用にホームへ着地する。足元を確認しているどころかあまり気にも留めていないように見える。

「うわあ」美喜は彼女たちの身のこなしを見ながら唸った。「あたし絶対無理」

「さすがにアレは俺も無理だよ」

 と言っている間に電車はまた加速を始める。ガタンゴトンと音を立てながら車両は次の駅を目指して去っていった。

 莉奈と侑斗はこのゴールのないトラックを延々と走り続けさせられている車両にさして新鮮さを見とめなかったようで、ただ電車がすぐにやってきてはすぐ走り去っていく切れ目のないせわしなさにいくらか興奮していた。俺はもう一度彼らを両脇に抱え込み、減速した電車にのしりと乗車した。

「ほら大丈夫だったじゃん」

「そういうことじゃなくて」

 ひいひい言いながらも俺の後についてすっと乗車してきた美喜に笑いかけてやると、ますます仏頂面になって肩にかかったマザーズバッグを抱きしめた。

 

.

 

いやあごめんな、わざわざ、と玄関で出迎えてくれた親父は俺が想像していたより「おじいちゃん」になっていた。

「うわ、車椅子なんか乗っちゃってマジでじじいじゃん」

 俺の軽口にがははと笑うところは変わっていなかったけれど、その姿を背後で見つめる友里ゆりの目がどうにも気になる。莉奈と侑斗の誕生日プレゼントを親父が段ボール箱から取り出して彼らにやっているのを横目で見ながら、少し離れたところで友里に尋ねた。

「親父そんなに悪いわけ? 車椅子ったって多少は歩けるみたいなこと言ってなかったっけ」

「それはそうなんだけど」

 親父が持病の関係で足腰を弱くし、いよいよ車椅子を借りることになったと聞かされたのは、つい二週間前のことだ。子どもらの誕生日に毎年我が家まで足を運んでくれていた親父が急に「今年はこっちに来てくれないか」と言うもんだから驚いて聞いてみれば、この足では山手線に乗れないという事情のようだった。まあ確かにじいさんばあさんにあの「動く歩道」は危険だ、とあまり深く体調を尋ねないまま来てみたけれど、さっきの友里なんてまるでそろそろ死ぬ奴を哀れんでいるような目をしていた。

 友里は限界まで言葉をためらうように唇をぐにゅ、と内側に丸めてから、目を閉じて言った。

「認知症、入ってきたかもしれなくて」

 俺は、まじか、とだけぽつりとこぼして、包装紙を豪快にびりびりと破る侑斗を見つめている親父の背中をじっと見た。俺らは親父がだいぶ歳をくってから生まれた子どもだった。

 

 出前の寿司と適当に作った味噌汁で囲んだ夕食中、莉奈と侑斗は山手線の駅をひとつひとつ交互に暗唱して親父と友里を驚かせた。必ず池袋から始まって、内回りに進む。池袋から田端へ行くには外回りの方が明らかに早いのだけれど、彼らは必ず内回りで長い旅行を楽しみたがった。今日も山手線をほとんど一周する勢いでぐるりと回ってきたのだ。池袋、目白、高田馬場、新大久保。俺は正面に座って綺麗に持った箸で脂ののったえんがわをぱくりと平らげる親父を見つめる。新宿、代々木、原宿。目も澄んでいて、今日は今のところおかしなところはなかった。渋谷、恵比寿、目黒、五反田。親父が味噌汁を啜ったところで俺も同じように啜った。俺の思考は徐々に親父や友里やこの家から自宅、今の仕事、そして自分の新しいライフスタイルの妄想へと飛躍していく。大崎、品川、高輪ゲートウェイ。お得意様の御用聞きなんて今時誰にでもできる使い古しの仕事で、それこそ今後フリーランスの社会進出やITの高度化がすすんでいけば、その間を取り持ってへこへこしている俺なんかは一切必要なくなって、一発でクビだ。どうせ今の仕事にぶら下がってたってオチは見えてる。田町、浜松町、新橋、有楽町。俺はもっと新しくてクールな仕事がしたい。東京。それに俺は莉奈や侑斗の成長をもっと近くで見ていてやりたい。神田、秋葉原。やっぱ今が決めどきかもしれない。御徒町、上野、鶯谷。子どもらも交互に言い合うことをやめて二人で大合唱していた。日暮里、西日暮里。親父がやおら立ち上がり、ふらふらと廊下へ出ていった。

 田端ーっ!

 大きな声で両手を挙げ、おじいちゃんの家の最寄りで山手線ゲームは終わった。親父の隣にいた友里が腰を上げたけれど、俺が行くよと制して立ち上がった。

 

 親父は廊下の電気もつけずに壁に手を添えながらゆらゆらと暗い廊下を突き進んでいた。親父、と声をかけても返事はなく、肩を叩いてようやく「構わなくていい」と言った。

「どこ行くんだよ」

「分かるだろ、便所だよ」

 ああ。俺はてっきりいきなり親父の認知症的な面を見てしまったかと内心ヒヤヒヤしていたけれど、どうやらそういうことじゃなかったらしい。廊下の電気はつけろよ、とスイッチを入れて居間に戻った。

「おじいちゃんは?」

 莉奈が美喜にたしなめられ、しぶしぶと言った様子で大人しく鉄火巻きをつつきながら尋ねた。俺はトイレだって~、と返事をしつつ席に戻る。親父の汁椀は空っぽで、食欲もあるということも分かった。友里は心配しすぎだ、と自分の中でひっそりと結論づける。それより子どもらの世話だ。さっき元気よく山手線の駅名を大合唱したせいか、侑斗のトレーナーの胸元には米粒と醤油の跡が複数ちらばっていた。あーあーあー、と言いながら彼の欲しがるサーモンを取ってやると、その拍子に俺と侑斗の間にあったガラスのコップが倒れた。

 ガタン、と音がして見れば、緑茶の入ったそれが見るも無残に机の下へ転がり落ち、薄緑の液を広げていた。うわあ!と大げさに驚いて見せた侑斗の椅子を現場から少し離すようにずらしてやり、俺は友里を呼ぶ。

「ごめんティッシュ…」

 言い終わる間も無く机の下から友里の腕が伸びた。水色のバケツの中には厚手の雑巾が数枚入っている。まだあるから使って、と言いながら彼女もバケツから雑巾を取り出して緑茶の水たまりを吸い取りはじめた。独身のくせにやたらと手際がいい。

 美喜が二人をダイニングの方へ避難させ、友里と俺は黙々と緑茶を拭く。

「ねえ」

 床を拭き終わり、最後に椅子や机の脚を拭き始めた友里がこちらを見ずに言う。

「お父さん遅いね」

 そういえばそうだ。もう俺らは十分以上てんやわんやをしているけれど、親父はトイレから帰ってこない。もしかして倒れているのだろうか。わずかに血の気が引く。

「ちょっと行ってくるわ。もうだいたい片付いたでしょ」

 友里は使い終わった雑巾を畳んで脇に避けると、まだ新しい雑巾の入ったバケツを手に立ち上がった。

「え、いや、倒れてるとかかもしんないし、そしたら俺の方が力あるから--」

 俺の言葉を遮るように友里が吐き捨てるように放ったその言葉は、俺の胃の奥のほうをずしん、と殴り、しばらく消えなかった。

 

.

.

.

 

親父は俺の顔を一瞬だけ見て、それからふいと顔を背けた。俺は、まあどんまい、とか、マジで気休めにもならないことを言ってさらに場の温度を下げた。親父の寝間着を一組借りて着替えた俺は、なんか困ったことあったら絶対呼んでよ、と言い残して親父の部屋を出た。

 親父はあのとき、トイレが間に合わず若干ではあるが粗相をしていた。美喜と子どもらを居間に戻してから友里の発言がどうも信じられず廊下に出てみると、突き当たりにあるトイレの扉が開いていて、そこに友里が屈み込むようにしてさっさと床をぬぐっていた。俺の気配に気がついた友里は顔を上げてすこしばつが悪そうな顔をした。友里がやらかしたわけでもないのに。

 トイレの奥にいるのであろう親父に友里はちょっと待っててねと声をかけると、俺の元までやってきて、お父さんの部屋に下着と綿のパンツ、今のやつとおんなじ色のいくつかあるから、それ持ってきて、とだけ言った。俺の中で親父の粗相が確定した瞬間だった。

 いつもは夜中なんだけどね、と、何食わぬ顔で部屋に戻ってきた親父が孫の食事が終わるのをにこにこと見ている景色を苦々しく睨みつけながら友里は言った。夜中に決まってトイレの場所がわかんなくなるの。あっちじゃないこっちじゃないってしてるうちに我慢できなくなっちゃうみたい。何も言わない俺を見上げて、諦めたようにふうーっ、とため息をつく。

「いいよねお兄ちゃんは逃げる先があって。子育て仕事家族その他色々」

「お前だって仕事してんじゃん。ヘルパーとか呼んだら?」

「お父さんはね、知らない人家に上げたくないって」

 ここにきて頑固親父は厄介だ。

「まあ独身だし消去法で私が面倒見るしかないって感じかな」

「いや、まあ、うーん……」

 正直それでいいなら願ったり叶ったりなのは間違いない。誰だって親だからと言って毎日人の尿を拭いて回る仕事なんてしたくはない。友里が自ら引き受けると言ったようなもんだし、親父もいつかヘルパーだか老人ホームだか分からんけれど折れて選択してくれるだろう。お言葉に甘えて……、の「お」が出かかった瞬間、友里の両目から一気に涙が溢れ出した。

「ちっちゃい頃からもうおじいちゃんみたいな人だったからさあ、私だって覚悟はしてたよ。お母さんもずいぶん前に逝っちゃったしね。でもねえ、親が老いていくのをひとりきりで受け止めるのって、ほんと体がはち切れそうな気持ちになるの。静かで広い家で、真っ暗な夜中に、お父さんがずうっとトイレを探してるの。教えてあげても聞かないの。この世の何より怖いよ」

 俺は顔を覆って泣き出す友里の背中をぎこちなくさすった。少なくともその恐ろしさや虚しさを、俺自身も体験しておくべきかもしれない、と思った。

 

 友里は思ったより限界だった。真っ赤に泣きはらした目をした彼女を子どもらは不思議そうに眺めては、どこか痛いの? とか、元気ないね? とか言いながら、一生懸命に気遣った。事の次第を知った美喜はじゃあ友里ちゃんは今晩うちに泊まりにきなと言い、その代わりに俺が親父の面倒を見ることになった。まあ当然の成り行きだ。俺は愛用のiPadをリュックの中に入れてきていたからブログでも書こうと思いながら彼女たちを見送った。

 

 親父は孫が帰ると一転、黙りこくって何も言わなくなった。というより、なんと言って良いのか分からないという様子だった。風呂入らせてもらうよ、と部屋を出ようとしたところで、親父が言った。

「仕事は順調か」

 コテコテのオヤジみたいなこと言うんだな。そう思いながら向き直った。

「順調って言うか、単調? 未来が見えない感じ」

 親父はふむ、といった感じで腕を組んだまま押し黙った。

「時代は個人の能力次第っていうか、うまくやれば自由に生きられるのに黙って現状維持で会社勤めしてていいのかなって。このままじゃ給料もたいして上がんないし残業ばっかで子どもが大きくなるのもちゃんとみてやれないっていうか」

 親父は腕を首のうしろにやって肩をもみほぐすように動かしながら、なんだか知らんがうまい話には乗るなよ、と言った。

 俺は部屋を出てシャワーを浴びた。

 

.

 

ブログは10記事くらい書いてから急に筆が乗るようになってきた。最初はブロガーの構文のようなものを切り貼りするだけでどっと疲れ果て、自分にこんなことができるのか不安で不安で仕方がなかった。でも数をこなしていくうちに俺の脳内にもう一人の俺、というか、ブロガーの俺、みたいな人格が一人できあがって、そいつが勝手に喋り出す。趣味の山登りの話、印刷業界の小ネタ、子育てで気がついたこと、ぜんぶほっとけばだた日記帳に連ねるだけの無味乾燥な話題にしかならなかっただろうけど、今俺はそれを「金」にしているのだという興奮が常に体の中に巻き起こっていた。まあまだアドセンスの審査結果がこないから金にはなってないんだけど、なにか「意味」のあることをモリモリやってんだぜという自負が俺を日々掻き立てていた。

 今日も何かを書こう。毎日継続するのが人気ブロガーになる秘訣だとみんな言っている。記事作成画面を開いてまず頭に浮かんだのは「介護」だった。

 iPadに繋げた薄いキーボードの上をひら、ひら、と指が通り過ぎる。介護……。

 それはブロガーによくあるネタ「子育て」の逆バージョンみたいなもので、日々家族として接する中である種の思い込みみたいなものをひとつひとつ壊していくことの記録と思えばなんてことなさそうだった。でも実際それを眼の前にして初めて気がつく。思い込みの破壊は、子育てにおいては「喜び」になりうるが、介護においては「絶望」にしかなり得ない。たとえば難病の闘病記みたいに、絶望の中のふとした喜びを生々しく書いていくのもありかもしれないけれど、それを親父が許すとは到底思えないし、なによりそんな生々しいことを記述していく文才が俺にはない。

 ダイニングテーブルをよけてつくった隙間に客布団を敷いている。昭和臭が漂うハイソなローテーブルに置いたiPadが発光して俺の顔を白く照らしている。

 これならどうだろう。親父の仕事人としての人生を振り返る記事。今なら時代錯誤間違いなしのそれを、昔ってすごいよねと今とのコントラストを強調しながらおもしろおかしく書くとか。馬鹿にするつもりは到底ないけど、親と子っていう一世代だけでこんなに世界が違うんだっていう書き方をすれば「昔」をあまり知らない若い世代は食いついてくれるかもしれない。とりあえず書いてみようと、俺は一行目を打ち始めた。

 

 ええっと、親父にはまず兄弟がいた。十歳くらい上の姉と、二つ上の兄。親父の家は代々市議会議員をやっていて(親父の母方の祖父は国会議員だったらしい)、兄ちゃんがその流れ通りに議員さんになったらしい。世襲だな。一番古い考え方だよ。

 でも親父は議員なんて器用な仕事に全然憧れてなかった。だから別の仕事を探してた。最初は車掌になりたくて色々勉強とかしたらしいんだけど、残念ながら希望通りにはいかず今のJRの内勤になった。

 正直部署とか実際の仕事内容はよく知らない。聞いてみてもよく分からなかった。企画とか、広報とか、駅の整備関係とか、新幹線つくるとか、そういう面白そうだったりわかりやすい仕事じゃなかったことは確か。本人も「面白い仕事かどうかはなんとも」みたいなことを言っていたのを覚えている。よくつまんねえ仕事が続くよな。俺は社会人生活十年いくかいかないかくらいですでに脱落しかかってるって言うのに。

 ここまで書いて手が止まった。やばい、これつまらなすぎて話になんないかも。

 まあ明日起きてからまた考えるかあ、と伸びをしたところで、二階から物音が聞こえた。親父だ。

 

 急いで階段を上がってみるとちょうど親父が部屋の扉を開けたところだった。俺と目があった親父は何も言わずに扉を後ろ手に閉めた。友里によれば親父はここから永遠にトイレ探しの旅をして、その果てに漏らしてしまう。さっきまでへらへらとブログを書いていたこともあってか老いた親父はひときわみすぼらしく見えた。

「親父」

 努めて明るく声をかける。親父は廊下の暖色の明かりに照らされながらゆらりと動いた。

「トイレ行くんだろ? 階段危ないから手助けさせてくれよ」

 親父は俺を鋭く睨んだあと、くるりと背を向けて二階の廊下の奥へと歩いていく。俺は背後に駆け寄って尋ねる。

「トイレじゃなくて? 何の用で起きたんだよ?」

「るせえ!!!」

 突然の怒声に俺はビビりちらす。親父はその間にもすたすたと廊下の突き当たりにある納戸の前まで歩いていき、その引き戸をそろそろと開けた。まさかとは思うがトイレと間違えてここで下着を下ろさないでほしいと願う。

 数秒納戸の奥を見つめた親父はため息をついて扉を閉じた。こちらに戻ってくると、お前うちを勝手に改造しただろうと言いがかりをつけてきた。黙っていると気が済んだのかさっきとは逆の突き当たりにあるベランダへ出ようとする。これは想像以上にきついぞ、と思いながら俺はそっちはベランダだよと痩せた背中に声をかけた。親父は俺の言葉なんてまるで聞こえていないかのようにスムーズにベランダの鍵を開け、あろうことかその向こう側へ体を乗り出した。

 やばい。俺は親父の背中に駆け寄りその腕を掴んだ。トイレなら一階だからさ。俺と一緒に下りようよ。親父は上半身全体で俺の腕をぶんと振りほどき、俺の方を振り返った。

 俺は腕を振りほどかれた勢いで体勢を崩し、中腰のような変な姿勢のまま親父を見上げる格好になった。

「『時代は個人の能力次第っていうか、うまくやれば自由に生きられるのに黙って現状維持で会社勤めしてていいのかなって。このままじゃ給料もたいして上がんないし残業ばっかで子どもが大きくなるのもちゃんとみてやれないっていうか』」

 俺は口をぽかんと開けたまま、は? とだけ言った。

「お前が言ったんじゃねえか」

 確かに風呂に入る前、そんなことを言ったかもしれない。一言一句、すべて俺の話ぶりを真似て喋るその姿を見ながらこれも認知症の症状なのか? とありえない推測を並べた。

「兄貴にそっくりだよ。あいつはなあ、今までの仕事なんて全部なくなる、今までと同じことしてたんじゃいずれ食えなくなるってずっと言ってたよ」

「……はあ」

 中腰を徐々に落として屈んだ。ほとんど腰が抜けていた。

「それでも父親のメンツを潰さねえようにって無理して議員なんかになってさ。脂が乗ってきたころに昔の仲間から変な儲け話貰ってきちまって。全財産叩いてパァだ」

 親父は思い出話を味わうようにこくこく、と頷きながら続けた。

「信用もなくしてぜーんぶ失って首吊ったんだわ。お前には話してなかったな」

 俺の前をすた、すた、と通り過ぎ、階段の手前まで来て親父は壁にもたれかかった。俺はへたりこんだままやっとの思いで言う。

「だから間違ってるって? 俺のやろうとしてること、『全財産叩いてパァ』だって?」

 違ぇよ、と親父は言う。

「んな単純な話じゃねえよ。親を喜ばすような道行ったって、自分が見つけた道無き道を行ったって、うまくいくとかいかねえとか、決まってるわけじゃねえだろ」

 俺は脳内に用意していた理論武装を両腕に抱えたまま、半分首をひねるようにして頷いた。

「でも挑戦が失敗して死ぬのはお前だけだ。そそのかした奴らの体は綺麗なまんまだ」

 親父が体をくるりとひねり、一人で階段を降りていく。俺ははっとして親父を追いかける。

「お前の野望とかそういうもんには、妙な案内役がいなかったか?」

「親父」

「案内するだけして、ロビーに着いたら知らん顔するようなアテンドじゃねえか?」

「親父、危ないから」

 俺は親父の体をやっとの思いで引き寄せ、踊り場まで介助する。親父は、正気に戻ったように唐突に、ごめんな、ありがとうと言った。

「まあ、やりたきゃやりゃいいさ。でも、死ぬなよ」

 俺は返事をすることができなかった。

 その刹那、親父はふっと俺に預けていた体重を自らに戻し、踊り場から階下へ下り始めた。と、と、と、と、と子気味よくリズムをつけながら、まるで平均台を渡るみたいに。踵から落ちるように体を振動させて下りていくその様子をぼんやりと見つめながら、まるで莉奈と侑斗が初めて階段を降りた時のようだと思った。子どもがその体を操りきれず、落ちていくようにずしずしとすごい勢いで下りていく。そういうときは下りきったあとが危ないから美喜か俺が必ず下で見守っていて…………というところまで頭が回った時にはもう遅かった。親父は勢いをつけてすっ転び、俺は真夜中に救急車を呼んだ。

 

.

.

.

 

親父は結局足首の骨を骨折して、まだしばらく家には帰ってこれない。毎晩のようにトイレを探して徘徊するのは明らかに友里だけの手に負えないことが今回の件ではっきりしたこともあり、ヘルパーやなんやかんやの前にまず医者にかかろうということで、親父の入院先の認知症外来に相談して対応を考えていくことが決まった。俺はあの晩のことを思い出しつつ、ブロガーの記事を開いたり閉じたり開いたり閉じたりしながら今日も止まらない山手線に揺られている。

 推奨もされなければ真正面から否定もされない、といういちばんモヤモヤすることを言われて俺は混乱していた。今の生活も、俺が憧れてる生活も、結局選んだ方が俺の生活になる。そそのかしたやつの体は綺麗なまんまだ。分かっていたけれど、少なくとも俺は今「そそのかされて」いるのだろうなと思いながら山手線の車窓を眺める。池袋、目白、高田馬場、新大久保。新宿、代々木、原宿。渋谷、恵比寿……と窓の向こうに見える案内板を心の中で読み上げて気がつく。やばい乗り過ごした、渋谷で銀座線に乗り換えなくちゃいけない。

 スーツのサラリーマンたちをかき分けて、速度を上げ始めた車両から飛び降りる。慣性に従った俺の体は勢いよく進行方向に傾いた。まだ俺は若い。はず。もつれる脚をどうにか動かしてホームに立つと、たむろしていた高校生たちがこっちを向いてぎゃははと笑いながら俺に緩慢な拍手を送った。

 

 

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2020年4月5日公開 (初出 https://txtlive.net/lr/1586000611719

© 2020 わに

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