28分のリバイバル

応募作品

Fujiki

小説

4,000文字

破滅派合評会2020年3月(テーマ「フランス映画」)応募作。
参照:『ラ・ジュテ』(クリス・マルケル監督、1962年)――「これは幼年期のイメージにとりつかれた男の物語である」

クリス・マルケルの特集上映に来てみたら映画館は閑散としていた。普段から貸し切り同然の日が多いから、新型コロナウイルスの影響かどうかはわからない。演劇やコンサートが軒並み中止になっても映画館が平然と営業を続けていられる理由は永遠の謎だ。

『ラ・ジュテ』はマルケルの代表作である。ほぼ全編静止画で構成されたモノクロの世界、第三次世界大戦後の近未来で繰り広げられる時間旅行の物語、ヒッチコック『めまい』へのオマージュ――何度も観てきたからこの映画については知り尽くしている。28分の短編映画なので、今回の特集では『サン・ソレイユ』と併映される。

金城かねしろは一人きりでホールの前に並んで開場を待った。この時期、他に客がいないと本当に安心できる。テレワークで一週間家にこもっていた彼にとっては、感染リスクを意識した決死の外出だった。

前の回の上映が終わると、ドアが開いてしばらくしてから観客が一人出てきた。背中を丸め、つやのない白髪交じりの髪をぼさぼさに伸ばした初老の男だ。薄汚れたしわくちゃのベージュのコートを着込み、顔はマスクとサングラスで防護していてほとんど見えない。年齢に見合わぬ薄いオレンジ色のサングラスは、目の横から鼻の上まで完全に包み込む変わったデザインのものだった。

金城に目を留めると、男はふっと笑いを漏らした。実際にはマスクが少し動いただけだから、本当に笑ったかどうかはわからない。

「いやあ、マルケルなんて久しぶりですよ。ゴダールにアラン・レネにロブ=グリエ、懐かしい映画を観ると昔がよみがえります」

俺に話してるのか、このオッサン? 金城がそう思う間もなく、男はポンポンと親しげに肩を叩いて歩き去った。すれ違いざまに酒と体臭の混じり合ったきついニオイがした。

何だよこいつ、あとで上着にアルコール噴きかけとかないと。シネフィル同士の仲間意識を示すちょっとした仕草もパンデミックの時代には脅威でしかない。金城は男の背中をにらみつけると、足早にホールに入った。

いつものように最前列の席に座り、淀んだ空気の中で目を閉じて暗闇を待つ。足音一つ聞こえない。電気が消えてスクリーンの光が降り注いでくる。銀色の光の中で目を開けた金城は、自分の横に二つほど席を空けて若いカップルが座っているのに気がついた。

「一番前なんて首が痛くならない?」と女のほうがそっとささやいた。

「ここの劇場はそんなにスクリーンが大きくないから大丈夫。それに前に人がいると頭で字幕が読めなくなるんだ」と若い男は答えた。

他に客がいないのに何言ってるんだ。どこにだって座れるだろう? そう思って振り返ると客席はそこそこ埋まっている。だが、金城には意外な客入りよりもはるかに気になることがあった。

女は久美子だった。

間違いない。大学一年から三年まで付き合っていた久美子だ。会話にももちろん憶えがあった。破れかぶれの告白で交際が始まったあと、金城は初めてのデートで久美子とリバイバル上映の『ラ・ジュテ』を観に行った。映画の趣味の良さを誇示しようと、あえて今までに観た中でも特に実験的なフランス映画をチョイスしたのだ。ただそのときは映画の内容は何一つ頭に入らなかった。女を知らなかった十二年前の彼は、どう久美子をホテルに誘えばいいかわからなかったのだ。コンドームは薬局で買ってリュックに忍ばせてあるし、誘い文句のシミュレーションもさんざんやった。でも、初デートの最後にいきなりホテルってのはやっぱり強引すぎるんじゃないか? 今まさに久美子の座席の背もたれに腕を載せ、自然に肩に手を回す機会をモジモジとうかがっている若い男は十八歳の金城自身に他ならなかった。そんなバカな。

わたしは、時はいつでも時であり、場所はいつでも

場所であり、ただそれだけだと知っているから

気がつくとT・S・エリオットの詩の一節が大きくスクリーンに表示されていた。『サン・ソレイユ』の冒頭にある引用句だ。『ラ・ジュテ』はいつの間にか終わっていた。横に座っていたはずの久美子と自分の姿も、もうない。立ち上がってホール内を見回すと、客は再び金城ただ一人だった。

今のは夢のはずがない。幻でも見ていたのか? 居ても立ってもいられなくなってホールの外に飛び出したが、相変わらず客の姿はなかった。先ほどの浮浪者じみた男が売店でビールを買っているだけだ。男が黒ずんだコンビニ袋からジャラジャラと十円玉を出してカウンターの上に並べるのを女性従業員が顔を引きつらせながら見ている。

「どうでした? 昔に戻れたでしょう」

金城に気づくと、男は従業員からビールを二杯受け取った。金城に紙コップの片方を渡し、「思い出に」というやけにキザな乾杯の文句とともにマスクを外して勝手に飲みだす。口の端からこぼれた液体が灰色の無精ひげの茂みに沁み込んでいった。

「……それで、何か知ってるんですか?」と、金城は訊いた。

「知ってるも何も、すべては意識の問題ですよ。思い出の映画を観て、昔それを観たときのことを思い出す。意識はたちまちその当時に運ばれる。シンプルな話だ」

「だけど俺はさっき実際あの時代にいたんだ。文字どおり、物理的に」

「そう、映画が続いているあいだだけ。映画が終われば、体は引き離される。映写機が消えて不意に映像が途切れるみたいに」

「じゃあ、映画の上映時間だけ過去に行って帰ってこられる。そういうことだな?」

「帰ってこられるかどうかも意識しだいですな。帰りたいと思わなきゃそもそも帰りようがない。物理的に帰りそこねた人間ならもう何人も見てきましたよ。帰り道を見失ったら、空ろな人間になって時間の砂漠をさまようしかない」

「時間の砂漠?」

「過去でも、現在でも、未来でもない、死んだ時間が行き着く場所のことです。あそこに行かずに済むなら、行かないに越したことはない」

金城は口をつけなかったビールを男に返し、窓口で次の回の『ラ・ジュテ』の入場券を買った。金城にはどうしても戻りたい過去があった。大学一年のデートからさらに十年前、父親に連れられて最初に『ラ・ジュテ』を観た日だ。あのときは封切りされたばかりの『12モンキーズ』との併映だった。金城にとっては母親の姿を見た最後の日でもある。

金城の父親は、妻が犯した不貞行為を許さなかった。慰謝料も要らないし、妻の側が不利になるだけの調停もなしでいい。ただ目の前から消えて家族の前に二度と姿を現さないでほしい。彼は要求を簡潔に妻に伝えると、小学校から帰ってきた八歳の一人息子を連れて映画館に行った。あの日、両親の喧嘩を見た記憶は金城にはない。生まれて初めて映画館に連れて行ってもらえたのがうれしくて、映画の内容が理解できなくても全然気にならなかった。でもそれが外出しているあいだに荷物をまとめて出ていけという父親の妻に対する暗黙の命令だったことが今の彼にはわかる。妻――金城の母親――はその命令に従って家を出ていき、二度と姿を現さなかった。

連絡先だけでも聞いておきたい。それが無理ならせめて別れのあいさつだけでも――劇場を暗闇が包み、再び銀幕に光が灯る。最前列の席に父子の人影が見えた。金城はそれを確認するとすぐに立ち上がってホールの外に出た。物音に気づいた子どもが振り返って彼の後ろ姿を見た。不思議なもので、こういう何でもない記憶のほうが大人になっても残っていたりするものだ。

映画館の外に出た金城はタクシーを拾って当時一家で住んでいたマンションに急行した。28分しかない。現在とはだいぶ違う22年前の街並みを楽しむ余裕もなく、赤信号のたびに心が急かされる。

「もっとスピード出せませんか?」と、金城は運転手をせっついた。

タクシーが到着したとき、ちょうど一人の女性がスーツケースを押してマンションの外に出てくるところだった。所帯ずれしていない、美しい人だ。ウェーブのかかった髪を肩まで伸ばした姿は昔の記憶そのままである。

母さん! 金城は金を払ってタクシーを降りようとした。ところが――

「お客さん、待ってください」

そう言って彼を制したのは運転手だった。

「何だよ?」

「こんなんで人をからかっちゃ困りますよ。誰ですかこの地味臭い顔の女は?」

運転手が突き返した五千円札の表には樋口一葉の肖像が描かれていた。

「これならいいだろ!」

金城は福澤諭吉の描かれた一万円札を出した。

「これもダメです。こんなピカピカしたのがついてるし、端のところがピンクっぽい。作り物だってバレバレですよ。偽札やるならもうちょい精巧なやつにしないと。料金が払えないなら警察行きますか?」

「待ってくれ。金ならあとで何とかする。今、大事な瞬間なんだ!」

「こっちだって生活のかかった大事な商売なんですがね。自分のことだけ大事、大事って言う人、よくいるんですよ」

母親はマンションの前に待たせていた別のタクシーに乗り込む。彼女のスーツケースを後部のトランクに積んだ運転手も車内に入り、車が発進する。金城が運転手と押し問答をしているあいだに母親を乗せたタクシーはみるみる小さくなっていった。

最初の頃にはこういうしょうもないミスもありましたね。でも、何度も行ったり来たりするうちにコツがつかめてきました。慣れた頃には自分がどこから来たのか忘れちまったんですがね。そう言って長髪の男は紙コップのビールを飲み干し、コートのポケットに押し込んだ小銭入りのビニール袋をポンポンと叩いた。まあいいです。過去にどっぷり浸っていると、未来なんて大したもんじゃないってわかってくるから。ほら今どきの新作映画だって、ろくなもんがないでしょう。やっぱりゴダールにマルケル、アラン・レネにロブ=グリエにマルグリット・デュラス……。ほう、あんたのぶんもくれるって? いいアルコール消毒だ、ありがたく飲ませてもらいますよ。もうすぐ上映が始まるでしょう。楽しんできてください――

2020年3月14日公開

© 2020 Fujiki

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"28分のリバイバル"へのコメント 9

  • 投稿者 | 2020-03-14 19:26

    P.S. 『ラ・ジュテ』については以前、違うテイストの掌編を書いたことがある。破滅派のページだと途中で文章が消えるので、PDFにしてリンクを貼っておく。読めば、作者の趣味の固定化と技術の停滞を笑うことができるはずだ。もちろん読まなくてもいい。
    https://hametuha.com/wp-content/uploads/2020/03/La-jetee.pdf

    著者
  • 投稿者 | 2020-03-27 22:54

    過去を旅することに夢中になっていることから、母とはきちんと別れのあいさつができたのだろうなあと思いました。過去に戻るときは、子供の姿で戻れるのだろうか。そうであればいいけれど、現在の姿のまま戻るのなら、母は大人になった息子のことが分かるだろうか、時間旅行していることを伝えねばならず、いろいろ苦労しそうだなあと思いました。

  • 投稿者 | 2020-03-27 23:48

    素晴らしい掌編小説だと思いました。
    過去の自分とは知らずに会うという設定はありがちなのですが、この作品からはありがちを通り越した感情が伝わってきます。
    ただし、タクシー運転手とのやりとり。これはひょっとしたら予め考えていたシーンかも知れませんが、このシーンをもう少し上手くまとめられたら、もっと素晴らしい作品になったかと思います。

  • 投稿者 | 2020-03-28 23:37

    面白く読みました。
    ショート・ショートとして綺麗にまとまっていて、職人的4000字ピッタリも遂行を続けていますね。
    幼い頃に分かれた母への思いは痛切で、だからこそタクシーの支払いを巡って会えずじまいになるくだりはより滑稽で、SF的設定だけど現実ってこんなものよね、と思わせるところは上手いです。でも小説としては母と会い話をしてほしかった。
    コロナウィルスのくだりは必要だったかなあと思いました。時事を小説に取り込むのが上手い藤城さんのことで、無人の映画館に説得力が増すのですけれど。

  • 投稿者 | 2020-03-29 10:30

    参照映画が『ラ・ジュテ』であることが先に明示されていたので、おそらくタイムスリップ(あるいはリープ)の物語だろうと思って読み始めたのですが、そう思いながら読んでいてもなお最後の結末まで含めて大変面白く読みました。この映画を扱うならばきっともっと挿入したい場面(たとえば飛びたつ鳩のイメージ等)があるはずなのに、それらを極限まで削り4000字におさめることで、短編としての美しさが際立った作品になっていると感じました。自分はついついそういう余計なものを入れてごちゃつかせてしまうので、とても勉強になりました。

  • 投稿者 | 2020-03-29 14:20

    自分は映画未見なのですが、ハインラインの「輪廻の蛇」を映画化した『プリデスティネーション』を思い出しました。最初から最後まで綺麗にまとまっていて、世界に入り込みやすく面白く読みました。4000字掌編職人芸の極みを感じます。

  • 投稿者 | 2020-03-29 14:25

    自分に不足しているであろう構成力。
    Fujiki様はこの作品を通して、それを私に殴り付ける様に教えてくださいました――いいえ、もしかするとアルコール消毒によってかも知れません。

    コメントを残さなかった後悔を抱きながら迎えた3月31日。
    『ラ・ジュテ』を観ながら、ここにコメントを綴らせていただいております。

  • 編集者 | 2020-03-29 20:14

    いつも通り四千字丁度の職人技、素晴らしい。最近、ほぼ無人の映画館に何度も行ったので雰囲気が身に迫る物があった。記憶と映像、ついでにすれ違いの因果的な繋がりが凄い構成の妙となっている。俺がこの映画館に行ったら時間の砂漠に取り残される気がする……。

  • 投稿者 | 2020-03-29 22:02

    構成の巧みさと流れるような展開の妙味が印象に残ります。もしかしたら、人生は28分ほどの悔悟の繰り返しでできているのではないか。そんな感想を持ちました。

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