Rouge

応募作品

浅野文月

小説

2,643文字

トリコロール・赤の愛 クシシュトフ・キェシロフスキ監督 1994年 フランス・ポーランド・スイス合作
〈あらまし〉
ヴァランティーヌは学業の傍らモデルをしていた。ヴァランティーヌは車で犬を轢いてケガをさせてしまう。犬の飼い主を訪ねるが、飼い主は隣人の電話の盗聴を趣味とする元判事だった。判事は自分が人間不信の虜になった若き日のトラウマを告白する。次第に判事とヴァランティーヌは心を通わせていく。

家の近くにある池から西の山を見ると、頂上に赤い夕日が降りていく。春分の日と秋分の日にしか見られない光景。山の頂上に沈む夕日は光線のように輝き美しかったが、どこか悲しげな気持ちにさせられた。陽がすっかりと陰ると突然携帯電話が鳴り、母より親父の死を告げられた。肝硬変の合併症である食道静脈瘤破裂による失血性ショック死だった。

親父が残した財産の一つにガンメタリックのフィアット・ティーポというハッチバックがあった。親父はティーポの前には濃紺のプジョーの605という大型セダンに乗っていたが、病気が進むにつれて大きな車を運転するのがしんどくなり、小さな車に乗り換えた。VWのゴルフとかではなく、わざわざフィアットに……。

学生の身で自分の車が買えなかった僕は、その車を譲り受けて足代わりに使った。今思い出すと、デジタルメータが斬新であったが、ギアがMTなのとエアコンがマニュアルだったのがちぐはぐな感じがした。そして、少しとろくて乗り心地も決して良いとは言えない車だった。その前のプジョーはギアはATで装備もプジョーのフラッグシップカーなりであり、車体は少々大きかったが、やたら乗り心地が良く、アクセルを踏み込めばシートに背中が埋まるくらいの加速力を持っていた。しかしメルセデスやBMWと比べると、どこかチープな感じがし、またクラクションがウインカーレバーの先端に付いていたのが使いづらい。親父はそういう完璧でない車が好きだったのかも知れない。病気になっても気を張っていた親父のことだから、車が自分よりも完璧だと、なんか運転していても操られているような感じを嫌ったと今では思っている。その証拠として、今まで一度たりともドイツ車を買ったことはなかった。

 

彼女との出会いは渋谷のタワーレコードだった。エスカレータを何度も乗り継いでたどり着く八階にあるクラシック音楽フロア。エスカレータを上がっていく毎に段々と客が少なくなる。今でもあるのであろうか? 視聴用のカールコードのSONYのヘッドフォンは。最近はすっかりCDを買わなくなり、タワーレコードに足が遠のいたので分からない。

ブーデンマイヤー作曲のCDを視聴しようとヘッドフォンを頭に掛けて、彼独特のバロック調の新譜を聴いているときに、内巻のボブカットで小柄な女性がブーデンマイヤーのCDを取り、レジに向かっていった。とても現代音楽を聴くような女性とは感じなかった。僕は急いで同じCDを取り、レジで彼女の後ろに並んだ。そして勇気を出して声を掛けた。最初は思った通り無視をされたが、タワーレコードを出て神宮通りに赤いジープ・ラングラーがハザードランプを付けて路肩に駐まっていた。エンジンが着いていなかったせいか、そのハザードの明るさは心許なく、ほどなくして消えてしまった。

「哀れな人ね」

彼女はそう言った。

「ジープの運転手ですか?」

僕は彼女に聞いた。

「ううん。あの車が」

「車が?」

「平和が欲しいの……」

 

彼女は僕の何を気に入ったのか、それからたまに逢うようになっていった。いつもはカフェで彼女が看護師の勉強をしている片隅で、僕は彼女が教科書に書いてあるだろう重要な箇所をノートにウォータマンの万年筆で書いて行くのを楽しんだ。インクはいつもブルーブラックだった。僕はあえて彼女に声を掛けずにマールボロから紫煙を出しながら彼女の顔とノートを眺めつつ、時たまインクが付いてしまった小指をかわいいと思った。

次第に彼女とは身体を合わせる仲へとなっていき、毎週水曜日と金曜日に大学から帰ったあとに親父から借りたプジョーで大学病院附属看護学校に彼女を迎えに行くのが習慣となった。

彼女はプジョーの助手席に乗るのが好きだった。彼女を迎えに行き、東名川崎から高速道路に乗り、首都高に入る。湾岸線の直進はまるで地面に吸い付くように走るプジョーだった。

鶴見つばさ橋、横浜ベイブリッジを抜けて、小田急線沿いに彼女が一人暮らししている1DKのマンションに行くのが常だった。遠回りだが、彼女と一緒に車の中にいるのはなぜか嬉しかった。

「昨日、夢を見たの」

彼女は三軒茶屋で渋滞に引っかかっている時に唐突に話し始めた。

「真っ暗な街の中で私がシルバーでもなくブラックでもないハッチバックを運転していたら犬を轢いてしまったの。最初は人でないかと驚いたわ。けれど雑種の犬だった。動物病院に行ったら、幸いに足の捻挫だけで助かったの。そしてその犬は妊娠をしているから安静にして欲しいと医者から言われた。首輪には『リタ』と書いてあったけれど、住所は書いてなかった。仕方ないから家に持ち帰ろうとしたら家の鍵穴にガムが詰まっていて鍵が入らなくて……。よくここまで憶えていたと思わない?」

 

僕は家に帰り、プジョーを駐車場に駐めて、雨が降る中、大学で勉強をしている本とノートを脇に携えて玄関に急いだ。その時、脇からアダム・スミスの『富国論』を落としてしまった。開いて落ちたページが濡れてしまい、僕は玄関先の照明でそのページをなぜか眺めてしまった。家に入り、寂しくなり僕は彼女に電話をした。

「なにをしてた?」

「あなたが置いていった上着を着て眠っていたわ」

僕は雨中に本を落としたことを彼女に話した。

「人って、自分が正しいと思うものなのね。人間はもっと寛大なものよ。ときには無力だけど……」

僕には彼女が何を言っているのか理解できなかった。

「昨日ね、友人と近くのバーに行って、片隅に置いてあるスロットマシンを回したの。777だったわ。きっと悪い前兆」

 

彼女はプジョーの乗り心地の良さを愛していた。たぶん僕よりも。そしてプジョーからフィアットに車が変わった後のデートの際に、例の地面に落とした『富国論』の濡れたページの中から試験問題が出て、なんとかテストに合格したと伝えた。しかし、彼女はフェードアウトするように僕のもとから消えて行った。後日、僕は女々しく大学病院の駐車場の出口近くにフィアットを路駐して彼女が出てくるのを待っていた。ブーデンマイヤーのバロック調のアリアを聞きながら。

しばらくしたら空冷から水冷エンジンに変わった新車らしき白いポルシェ・カレラが駐車場から出てきて、助手席に彼女が座っているのを見た。運転席には三十代後半と思わしき男が運転をしていた。

アリアから賛歌へと曲が変わり、ふと右のダッシュボード上の物置きを見ると終わりかけのルージュがひとつ置いてあった。

〈了〉

2020年3月13日公開

© 2020 浅野文月

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"Rouge"へのコメント 8

  • 投稿者 | 2020-03-27 22:47

    冒頭の夕日の描写はなめらかだなあと思いました。ところどころに映画のシーンやセリフが取り入れられており、映画の手引き小説のような印象を受けました。

    • 投稿者 | 2020-03-28 01:07

      コメント大変にありがとうございました。

      著者
  • 投稿者 | 2020-03-28 22:52

     フィアットはもともと彼女が運転していた車ではないかと訝りました。車の詳細な説明と彼女の平和への言及に何か寓意が込められているのかと感じました。
     語り手の親父の人生が気になります。

  • 投稿者 | 2020-03-28 23:15

    車には疎い私でも外国車の流麗な名前には心惹かれます。彼女との出会い、謎めいたセリフ、不安定な関係、舞台は日本だけど本当にフランス映画のようでした。犬を轢いた夢も印象的です。鍵穴がガムで塞がっていたのは彼女の不安や苛立ちの象徴でしょうか。
    冒頭の父親の死、プジョーとフィアットの時系列がちょっとしっくりきませんでした。彼女と出会ったのは父が急死してフィアットを受け継いでからかと思って読んでいたら、プジョーの頃からのお付き合いだったのですね。

  • 投稿者 | 2020-03-29 10:47

    CD店での試聴シーンやブーデンマイヤーにニヤニヤ。観ている人にだけ通じる符牒としてオマージュがちりばめられている。一方、三部作を観ていない読み手にとって、本作が小説単体としての強度を保てるかどうかは疑問に思う。というのも、主人公と同じく、私は女のセリフも行動も何一つ理解できなかったからだ。精神的にヤバそうなキャラクターだから、主人公が彼女のどういうところに惹かれるのかイマイチ共感しにくい。最後のルージュが唐突なので、前半のほうで唇に絡めて彼女の魅力を示す描写があるといいかも。

  • 投稿者 | 2020-03-29 11:10

    『トリコロール/赤の愛』の中ではオーギュストの乗る赤いジープが「rouge(赤)」を表す象徴のひとつとして描かれていましたが、この作品ではそれ以上にプジョーとフィアットへの言及にかなりの文字数が割かれているのが印象的でした。作品の細部から全体までレトロな雰囲気が漂っている作品だと思いました。『トリコロール』シリーズはどれも女優陣の魅力が印象的だったので、この作品も字数に制限さえなければもっと彼女の魅力が引き出せたのかなと感じました。

  • 投稿者 | 2020-03-29 13:48

    ポール・オースターの『偶然の音楽 』を思い出しました。あの小説では父親の遺産を継いだ男が赤いサーブに乗って旅するものでしたが、自分は車に疎いので今作の冒頭でつまづいてしまいました。映画も未見なので女の浮世離れした感じにも戸惑いましたが、コメントを見ていると映画のシーンや台詞が引用されているということで合点がいきました。コメントにもありますが、地理描写は現実的なので、もう少し女性の心情が描かれれば彼女がこの小説世界で生きる存在になった気がします。

  • 編集者 | 2020-03-29 20:08

    車にも音楽にも疎いせいで少し戸惑った部分が有るのと、女性がどうしてこのような言動をするのか心情を上手く探れなかったが、セピア色の情景が浮かぶ作品だった。他人に夢の話をするというのは少し作為性…嘘が混ざる行為もある気がするが、彼女は本当のことを言ってたのだろうか。

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