オフィーリアの死(最終話)

オフィーリアの死(第5話)

浅野文月

小説

3,092文字

ボレロを踊りきった水沢令とオーケストラの指揮をした清水孝弘。あの美術館の横に現れたオーケストラと彼女の一世一代の踊りは一体何であったのか?
夢と挫折。生と死。そして物語は一気に現実へと戻される。
岩手日報社『北の文学』第79号一次選考通過作品

***

 

「清水孝弘さんですね」

濡れた背広を着た二人のうち、一人の男がそう言った。

――背広か。刑事だな。

「そうです」

「警察への通報ありがとうございました。お話を少々伺いたいのですが、この雨なので車の中で話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「もちろん構わないです」

僕は玄関の鍵をかけ、前後を刑事挟まれた格好で歩く。雨は小降りになってきており、赤色灯を焚いた車がまだ数台駐まっている。

「こちらへどうぞ」

僕は赤色灯が回っているシルバーのマークXの後部ドアに促された。ふと現場の方を見たら、まだ救急車が駐まっており、後部ハッチが開いていた。

――まだ受け入れてくれる病院が決まらないのか?

その時、現場マンションのエントランスからスウェットを着た初老の男が慌てふためいて救急車に向かい、何かを叫びながら乗り込んだ。その叫びは「レイ!」と聞こえたような気がした。

マークXの後部座席の右側には違う刑事が座っていた。僕は刑事に挟まれた格好で座らされている。その右側の男は、僕がどのようにして自殺体を見て、警察に連絡をし、救急が来るまで何をしていたかを聞かれた。僕はあったことをありのままに話した。

「そこで、救急隊員がご遺体の蘇生処置を始めたのですね?」

「はい……ご遺体ということは、やはり亡くなったんですか?」

「まだ病院に運ばれておりませんが、お亡くなりになっていると考えて間違えないです。ところで清水さんは車でお帰りになりましたか?」

「はい」

「その車はどこに駐められていますか?」

「自宅から三百メートルほど離れたコインパーキングに駐めました」

「その車は白のADバン?」

「はい」

「実はですね。お亡くなりになった女性のマンションですが、防犯カメラが何ヶ所か付いていて、白色っぽいステーションワゴンがバックで駐車場に入り、人と接触した映像が映っていました。雨が激しく、またモノクロなので細かくはわからないのですが、清水さんはその件に関し、心当たりはありませんか?」

マークXの中はいささか冷房が効きすぎていた。左の刑事は濡れているせいか若干震えている気がする。その冷房のように右の刑事の声には冷たい丁寧さがあった。

「ええ、水沢令さんを車でぶつけてしまったのは私です。自宅の前にあるコインパーキングに駐めようと思ったのですが、あいにく満車でして、それであのマンションまでバックでもどり、切り返して違うコインパーキングに行こうとしました。その時、雨で後ろが見えなくて……」

「ほう。その時に当ててしまったと。清水さんは名前を知っているようですから言いますが、水沢さんは一人でエレベータに乗り最上階の廊下から飛び降りているのは確認が取れています。しかし、清水さんが水沢さんを車で当て、水沢さんが飛び降りるまで二時間ほど時間がある。その間に何があったのかお聞きしたいのですが、ここでは何なので警察署でお話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「これはいわゆる任意聴取ですか?」

「そうなりますね。お知り合いの弁護士がいたら呼ばれても結構ですよ」

「妻に電話を一本入れてもいいですか?」

「どうぞ」

僕はスマホを取り出し裕子さんに電話をした。警察署に行って詳しい話をしないといけないらしいから、先に寝ていて欲しいとだけ伝えた。今、それ以上のことは言うことがなかった。

――ダメな亭主でゴメン。裕子さん……

 

コインパーキングに駐めてある社用車のバンパーにわずかだが凹んだ跡と水沢令の太ももの痣が一致し、また、僕が自供をしたため、過失運転致傷罪で深夜に逮捕された。どうやら数名の警察官と宿直の裁判官に迷惑をかけたようだ。

取調室で冷たい声をした刑事が斬りこんで来たのは二時間の間に僕と水沢令との間に何があったのかだった。僕は事実をありのままに話すしかなかった。

「清水さん。あなたが警察に協力的な人物であることはわかりました。しかし、その話はまるでおとぎ話じゃないですか。それに水沢さんのご両親に確認したところ、水沢さんはバレエを一度も習っていないと。そして精神的な疾患を長年患っていた。さあ、どこでなにをしてたんですか?」

――一度もバレエを習っていない? ああ、そうか。僕も音楽は好きだけれど、一度もオーケストラを指揮したことがない。けれどもフルオーケストラを指揮できた。

 

「刑事さん。彼女はバレエを習ってなかったかも知れません。けれどもバレエを良く知っていました。そして芸術と美を熟知していました。彼女の美への情熱が僕に伝わり、忙しさで忘れかけていた芸術と美を僕は思い出すことができた。僕だって昔はピアノの少しくらいは弾けたんです。でもオーケストラのスコアなんか読める能力はなかった。彼女のバレリーナに憧れたが、チャンスさえなかった絶望的な思いがエネルギーとなり、あの芝生にミュージシャンやオーディエンスの霊を呼び出し、僕にオーケストラを指揮できる力を与え、彼女は思い描いていた素晴らしいボレロを踊った。

しかし、刑事さん。彼女の芸術の最高傑作はボレロではなかったんです。いや、あのボレロはオリジナリティ溢れる絶品でしたが、さらなる美は、雨が降りしきる中、仰向けで絶命している彼女そのものだったんです。今思うと、僕は無意識に気づいていました。救急車が着く直前に、まだ硬直していなかった足をまっすぐに戻し、両手を胸の上に重ねました。まるで、ああ、思い出せない。あの絵ですよ! そう、ハムレットを題材にした『オフィーリア』だ。彼女は川底に沈みつつあるオフィーリアであり、心臓を患っているジゼルであり、悔いを残したシテを能楽の幽玄さと荒事のような激しさを表すことができる芸術家だったんですよ。そうだ、ロミオとジュリエットの振り付けも考えたと彼女は言っていた。刑事さんはジュリエットの最後を憶えていますか? えっ、知らない。なんてこった。てんで話にならない! ジュリエットはロミオがいない世界なんて絶望としか思えなかった。だからジュリエットは生き返る予定だった仮死状態のロミオの傍らでロミオを死んでいると勘違いをし、剣を自らの身体に差して絶命した。そして水沢令も自分の境遇に絶望をしていた。さっき、刑事さんは彼女がバレエを習っていないと言いましたよね。しかし彼女は心の世界の中でバレエをしっかりと踊っていたんです。本心からやりたいものがあり、できないとしたらそれは絶望だ! 彼女の芸術は死を導くしかなかったのです。

ああ、僕は彼女に感謝をしたい。あのように美しいものを魅せてくれたことを。それに、僕は忘れていたが、オーケストラの指揮者になることが子供のころの夢だった。それを彼女は叶えてくれました。あと、神様にも感謝をしなくてはならない。最後の最後にミレーが描いた『オフィーリア』のような、この世のものとは思えない極上の美つくしさを魅せてくれたことを……」

 

(マジックミラーの裏側)

「自殺幇助に持っていけますかね?」

「あいつ狂ってやがる!」

「じゃあ、三十九条をひっぱってきますか?」

「バカかお前は。そんなのはマルヒの弁護士と検察の仕事だ」

「先輩。人間って何が正気で、何が狂っているか正直わからなくなってきました」

「そんなのはな。自分で考えろ!」

〈了〉

 

この作品はフィクションであり、実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

ただし、僕が助けることのできなかった実存した一人の女性にこの作品を捧げる……

 

BOLERO, Composed by MAURICE RAVEL, DURAND & Cie, 1929

2020年3月3日公開

作品集『オフィーリアの死』最終話 (全5話)

© 2020 浅野文月

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