オフィーリアの死(四)

オフィーリアの死(第4話)

浅野文月

小説

4,650文字

ジゼルを踊り失敗してしまった水沢令は、清水孝弘に最後の願いを申し出る。それは一世一代としてボレロを踊ること。
夢と挫折。生と死。そして物語は幻想へと進んでいく。
岩手日報社『北の文学』第79号一次選考通過作品

***

 

途中で終わってしまったジゼルはホルンを除いた管楽器は二人ずつ。二管編成と呼ばれるオーケストラ編成であった。十九世紀中頃の編成としてはいたって普通だ。さてボレロであるが、ジゼルより九十年ほど後に作曲された曲。オーケストレーションは時代と共に巨大になる。

どことなく現れたステージマネージャー二人がチェレスタ(鍵盤で弾く鉄琴)を運んできた。いったん戻って二つだったティンパニに一回り大きなものを足して三台となった。バスドラムも用意され、極めつけには大きな銅鑼が運ばれてきた。各管楽器も椅子が一つずつ足され三管編成となる。二人のサックス奏者はクラリネット群の横に座り、リードの調整をしている。指揮台を要とした扇はさらに大きくなり、音出しをし始めた。その多彩な音は、まるで万華鏡のように耳を傾ける角度でキラキラと音が変わり、奏者は自由に練習をしているのに、まるで夜空の星々の輝きの如く不思議と調和されていた。

そんな八十人を超えたオーケストラの中に一人、目を瞑り、精神を集中させている男が一人いる。彼が演奏する楽器はスネアドラム一台のみ。隣にはもう一人スネア奏者がいるが、そちらは近くのシンバル奏者と談笑をしている。

曲はpp(ピアニシモ)で始まり、最後はff(フォルテシモ)でフィナーレを迎える。第二スネア奏者は曲の四分の三くらい経ってからスティックを握り、第一スネア奏者と同じフレーズをユニゾンで叩く。それまでは一人の奏者が、スネアに張ってある皮の端の方をなるべく小さく叩き、だんだんと真中に移っていく。ドラムは小さな音ほど奏でるのが難しい。

「あの人、孤独そうね。そうだよね、あのリズムを集中して叩かないといけないのだから」

「でも令さんと同じように、彼も今はやり切ることだけを考えているんじゃないかな? ねえ、知ってる? あの有名なリズム、最初から最後まで何回繰り返すのかを。せーの!」

「(二人揃って)百六十九回!」

「なんだ、知っているんだ」

「そのくらい知っているわよ。振り付け何年もかかって考えたんだから。でも、ある意味、ボレロにおけるスネア奏者って本当に孤独。バレリーナよりも孤独だと思うの。あのリズムがあってこそ、ボレロだから。バレリーナはソロならば多少アドリブが利くけれど、奏者はスコアに書いてある以外のことは基本的にしてはいけない」

僕はスコアの初めの方の数ページをめくってみた。

「確かに孤独かもしれない。けれど、彼のまわりには八十人の仲間がいるし、それとここに名指揮者がいるから大丈夫!」

「名指揮者? さっき初めてタクトを握ったくせに」

彼女は若干あきれた顔をし、笑いながら僕にそう答えた。

――この笑顔。ずっとずっと見せてくれないのかい? それともこれを最後と決心したからこそできる笑顔なのかい?

 

奏者たちの練習が終わり、一瞬の静けさが訪れる。チェレスタ奏者がAの鍵盤を弾き、その音に合わせてオーボエ奏者が同じくAの音を吹く。他の管楽器奏者が次々とオーボエの音を基準として、各自チューニングをし始める。そしてまた静寂が訪れた。間を少し空けて再びオーボエ奏者がAを吹き出す。今度は弦楽がチューニングをし、ほどなく管楽器群も合わせ、中には自身のソローパートをなぞる者もいる。ティンパニ奏者は皮に耳を近づけて控えめにチューニングをしている。

台風の目が終わったのか、辺りは暗くなった。いよいよ彼女の最後の舞台が始まる。

 

オーケストラと美術館の間にほんのりと能舞台が浮かんできた。そして組まれた鉄かごの上で燃えている薪の明かりは鏡板に描かれている老松まで届いている。

――さあ、水沢令。君の意図したボレロを始めよう。貴女が最後に踊るバレエを!

後ろを振り返ってみると、ジゼルの時にはなかった客席が設置されており、オーディエンスが座っていた。皆、現代の顔立ち、服装ではない。ああ、そうか。美術館に陳列されている作品の作者や先人記念館で顕彰されている人たちだ。中には元総理大臣二人がいたり、お札の顔になった人がいる。また日本で一番有名と言ってもいい童話作家や歌人の姿も見える。一番後ろの席に座っている西洋人は誰であろう? ああ、あの特徴的な顎は作曲者のモーリス・ラヴェルとこの曲を初演した女傑イダ・ルビンシュタインだ。しかしなぜだろう。このような有名人が集まっているのに緊張感が全くない。むしろ暖かく見守られているような気がする。さあ、始めて見るか。

僕はスコアの表紙をめくる。そして集中していたスネア奏者と三拍子のリズムを刻むビオラとチェロに目を合わし、小さくアインザッツを入れた。

――(風の音に消されそうなほど小さな音で)♪タン・タカタタン・タカタ・タン・タン、タン・タカタタン・タカタ・タカタ・タカタ

聞こえるか聞こえないかくらいの絶妙なスネアだ。ここから十五分にわたり少しずつ曲の最後までクレッシェンドしていく。まだ姿勢を保ったままの彼女はどこで踊り始めるのか? フルートのソロは五小節目から始まる。僕はざわざわと気になってきた。

第一フルートが主旋律をソロで奏で始める。しかし彼女は揚幕からは出てこない。練習番号一番で第二フルートがスネアと同じリズムをスタッカートで奏でる。僕は抑揚を付けた三つ振りをしながら、例のスネア奏者の顔を見た。ここから楽器は目まぐるしく変わるが、誰かしら彼と同じリズムをなぞる。仲間ができたことで、彼の表情は幾分かほっとした感じになっていた。

フルートのソロが終わると次はクラリネットがソロを引き継ぐ。二度メロディーを繰り返したところで、不思議と空が明るくなり始めた。雲の間から月が照ってきたのだ。自然の照明と同時に能舞台の下手にある揚幕はゆっくりと上がり、衣装は替わっていないのだが、まるで白拍子の用に見える彼女が橋掛りをゆっくりと摺り足で後座まで歩いてきた。

ファゴットのソロと共に彼女の両腕はゆっくりと上に伸び、まるで屋根の上に輝いている月から何かを受け取っているように見える。

ハープが二度の三和音という印象的な和声を奏で、リズムにアクセントを入れる。彼女は右手を左胸にゆっくりと当てて、何かを取り出すようなしぐさ。そうだ、目には見えないけれど、あれは扇だ。ペティット・クラリネットのソロに合わせて静かに彼女は閉じた扇を右手に持ち、舞う。

バロック音楽以外では使われるのが珍しいオーボエ・ダモーレにソロが引き継がれると、多少身振りは大きくなったが、まだ控えめだ。

練習番号五番ではフルートとミュート付きのトランペットとのデュエットになる。フルートはpp(ピアニシモ)でトランペットはmp(メゾピアノ)だからトランペットの音量が勝るのだが、ここはトランペットに左手で音量を下げるよう指示を出した。トランペットはCの音。フルートはHの音だから不協になるが、こうすることによりオルガンのような音色になる。水沢令もそれに反応し、目には見えない扇を両手で開き、さっきより大きく舞い始める。ソロはテナー・サックスに変わるが、彼女の舞はまだ大きく変わらない。しかし、後座から本舞台の方まで移動をしてきた。節目を待っているのだろうか? ヴァイオリンがピチカートで入り、リズムは堅固になった。ソロがソプラノ・サックスになった時、彼女は扇を上に挙げ、何かがひらひらと舞い落ちる表現をする。季節は秋だが、まるで雪か桜の花びらのようにひらひらと…… 練習番号八番からはピッコロとホルン、チェレスタで魅惑的な響きをラヴェルは作り出している。彼女の舞はそれに応えるように身振りを大きく取り、次第に幻想的になってくる。今度はまるで蝶が舞っているようだ。僕はオーケストラをコントロールしながら、彼女の舞を目に焼き付ける。

練習番号九番からは木管楽器のユニゾンとなる。彼女は扇を仕舞い、だんだんと横の舞から縦の舞へ変わっていった。しかし足はそろりそろりと動かす。まだ地団駄を踏み音は出さない。彼女が表現するのは、何かを無くしたような絶望。その絶望とボレロのリズムが一聴一見激しいギャップを生むが、なぜだろう。これで良いのだと思わせる何かが辺りを支配する。

さあ、トロンボーンのソロがやってくる。おそらくこの曲で一番難しいのがトロンボーンだろう。しかもグリッサンドがソロの中に二回ある。彼女の能のような舞にグリッサンドは合うだろうか? 僕は彼女の眼を見た。彼女は僕に思いっきりやってと目で言ってきた。二度目のグリッサンドが来る。僕はそこで両腕を思いっきりフワッと投げるようにトロンボーン奏者に伝えた。大げさなグリッサンドに合わせて彼女も手をフワッと大きく遊ぶように投げた。これをきっかけに彼女の舞がだんだんと大きくなり始める。次は木管楽器が全て登場する。ここで彼女は三拍目にドンっと地団駄を踏むような動作をした。本舞台の下に設置されている壺が大きな音響を生む。

さらにオルガン的になってきたラヴェルのオーケストレーションに彼女の縦の舞が続いていく。ヴァイオリンもピチカートからアルコに変え、ティンパニも一拍三拍にリズムを入れ、ボレロのクライマックスを迎えようとしている。

彼女は音楽に導かれて舞い、摩訶不思議な和洋折衷な幻想空間を繰り広げる。能舞台の上でフランス人が書いたスペイン調の曲に乗り、白い蝶が飛び、白い花びら、白い雪が舞い落ち、それが風に乗って横に流れる。

練習番号十四番では今までの繰り返しパターンが変わってハ長調からホ長調へと転調する。彼女はその音楽の変わり目に合わせ地面に跪き、左手を伸ばして天に何かを請うような動作を取った。スネア奏者はもうスネアドラムのど真ん中を大きく叩いている。弦楽器すべてがアルコとなり、彼女は左腕だけではなく両腕を空高く挙げる。二人目のスネア奏者も加わり、ほぼ全ての楽器が鳴り出すと、彼女は立ち上がり、再び見えない扇を取り出して、今まで封印していたジャンプを取り入れた。再びホ長調に転調すると、手と顔を下にぶらりと下げ、リズムに乗って手を揺らし、まるで指揮者である僕を指揮するような仕草。僕はわざと曲をテンポを揺らしアゴーギグさせてみる。彼女は見事にそれに合わせてきた。

曲はだんだんとフィナーレに入っていく。ここで彼女は顔を上げ、目を見開き、一心不乱、自由奔放に飛び、跳ね、舞う! 一拍ずつ大太鼓、シンバル、銅鑼が叩かれて曲は大円団へと向かう。さあ、水沢令は曲の最後にどんな書き込みをしたのだろうか?

なんと、これじゃ歌舞伎の見栄じゃないか! ラヴェル先生よ、怒こらないでくれよ。さあ水沢令! やってみよう。行くぞ!

――♪ダラタダーーン・ダダダ・ダダダ・(ウン)ジャン!

水沢令は手と足を大きく広げた後、二度回転をし、精いっぱいの高さでジャンプをして、最後のアクセントが付いているfff(フォルテシシモ)で地面に倒れ込んだ。

「ブラヴァ―!」客席で一人が叫んだ。それにつられて他の観客も皆、「ブラヴァ―! ブラヴァ―!」と叫び、次第に全員がスタンディングオベーションで彼女の一世一代のバレエを称えた。オーケストラも弦楽器奏者は弓で譜面台を叩き、管打楽器奏者は足で地面を踏み続けた。後席ではラヴェルとルビンシュタインが軽く握手をしている。

そして僕はオーケストラの間をかき分けるように走り、倒れている水沢令の元へ行き、力強く思いっきり抱きしめる。

彼女の眼からは大粒の涙が溢れて出ていた。

〈続く〉

2020年3月1日公開

作品集『オフィーリアの死』第4話 (全5話)

© 2020 浅野文月

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

ファンタジー 純文学

"オフィーリアの死(四)"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る