メタモルフォーシス

浅野文月

小説

2,469文字

別れた女のことを想像し、毎日自慰行為に耽る男の行き末とは……
友人の体験談とフランツ・カフカのオマージュとして。

ある朝、高田紀之がなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の猿になっているのを発見した。体はゴワゴワとした体毛に包まれて、ノミかシラミの類いがいるのか身体中が痒い。布団を剥ぎ、首を背中に回してみるとケツの部分には毛が生えておらず、赤い皮膚がそのままむき出しになっている。

「これはいったいどうしたことか」と彼は思った。夢ではなさそうだ。とりあえず寝床から這い出して立ってみたが、うまく二本足では立てない。どうしても両手、いや前足が地面を捕まえてしまう。

彼は自分の姿を冷静に分析してみると、どうやらニホンザルになっているようだ。高田は建設会社の営業をしていた。見積もり提出や工期が近づいても、いたって焦らずに仕事を淡々とこなす人間だった。そのために上司から少しは焦って仕事をしろと注意を受けることもあるが、特段と焦らなくてもミスさえしなければ良いと彼は思っており、取引先に迷惑を掛けたことは一度たりとなかった。それなのに、昨夜まで営業マンだった高田は今やニホンザルとなっている。

高田はやはり自分がニホンザルになったのはやはり夢ではないかと思い、このまま寝床に戻り再び寝てしまおうかと思ったが、今日は休日ではない。かといってこの姿にワイシャツを着てネクタイを締めジャケットを羽織り出社するわけにはいかないだろう。と考えた高田は会社から支給されている携帯電話をテーブルの上から取り、直属の上司に体調が悪いため休む旨を連絡しようとした。しかし猿となった彼の前足の指ではうまくボタンが押せない。ようやく上司の連絡先にたどり着き、通話ボタンを押してみた。

「おう、高田か。どうした?」

「キーッ、キーッ」

彼は人間の言葉が発音できなくなっていた。

「どうした高田? 風邪でもこじらせたか?」

「キーッ、キーッ」

「全くしょうがないな、喉を相当やられたか。とりあえず今日は病院行っとけ。急ぎの仕事はないよな?」

「キーッ、キーッ」

「よし、病院行ったらどんな感じかまた連絡してくれ、とりあえず今日は有給扱いにしておくから」

物わかりの良い上司で本当に良かったと彼は思った。かといってスウェットに着替えて病院に行くこともできない。そんなことをしたら近くの住民に通報され、テレビ局が来て猿の大捕物として夕方のニュースで放送されるのがオチだろう。

「さて、どうするか……と考えてもしょうがない。やはりもう一度寝るか。起きたら昨日までの俺に戻っているかも知れない」

彼はそう思い長い前足を使い掛け布団を剥いで寝床に戻る。そして右の前足でペニスを触ってみる。

「あれ、なんで僕はチンコを触っているのだろう?」

彼のペニスは営業マンだった時に比べると細くなっており、例えるならばドラムのスティックのような形に変わっていた。冷静な彼はニホンザルのペニスはこういう形なんだと改めて認識をし、試しにしごいてみた。彼が営業マンだった頃と同じく体の内面からモゾモゾとくる、これでしか味わえない性的な快楽が感じられた。そしてしごきは止まらなくなっていた。

「だめだ、出る。出る!」

彼は布団の上に射精をした。営業マンの時代の精液とは違い、白い塊のような固めのゲル状のものがペニスの先から出て、敷き布団を汚してしまった。彼は困ったなと思ったが、それはすぐに杞憂に終わった。そのゲル状のものはあっという間に硬化をしたのだ。彼は面白くなり何度も何度もオナニーをしてみた。窓の外から西日が差す時間になったときには敷き布団の上に二十五個の白い塊が貯まっていた。

彼はこのまま営業マンとして過ごすよりもニホンザルとして過ごした方が良いのではないかと思い始めてきた。二十六回目のオナニーを始めようとしたとき、あることを思い出した。彼が営業マンだった時(といっても昨日までがだ)一年前まで付き合っていた女。その女とは三年ちょっと付き合っていたのだが、風の便りで結婚をすると聞いたのだ。九十年代のトレンディドラマのサブキャラクターの様に「おめでとう。俺と違い、いい男と出逢えたな」と太刀振るえない彼は、その捌け口を妄想にチェンジして耐えた。別れた女と顔も知らない結婚相手がセックスをしている姿を連想しながら、それをオカズにして毎晩毎晩とオナニーを繰り返していたのだ。場合によっては日に二度も三度も。普段は頑張って二度目を出したら量が減る精液だったが、その妄想の時にはなぜか白い濃いものと透明の液体が混じって幾何学的なコントラストを描く液体がドクドクと出るのだ。そんな自慰行為を会社から帰ってきて一週間ほど毎晩していた。四日目からはドクドク出る精液を空になったうがい薬のプラスチックでできている容器に貯め始めた。彼はその容器が満タンとなったら別れた女の新居を突き止めて送ってやろうかと思った。もしあの女がまだ高田に未練があるのなら、あの女はひょっとしてそのプラスチック容器を自らのヴァギナに刺して注入するかも知れないと考えていた。そんなことを考えていたら、いつの間にかニホンザルになっていたのだ。

彼は営業マンの時のように冷静沈着な頭脳で考えて見た。昨日まで貯めた液体としての精液と、いまこの寝床の上にある二十五個の精液の塊を彼女の元に届けてあげようと。彼は会社から支給されている携帯電話で(相変わらず扱いづらかったが)、別れた女の友達に別の女友達を装って住所を教えて欲しいとショートメールを打った。考えていたよりもすんなりと新居の住所が送られてきた。しかもニホンザルとなった高田の家から十キロほどしか離れていない。

さあ、夜になったら元カノの新居へ闇に紛れ込んで行ってみよう。うまくいけば再び彼女と直に交尾ができるかも知れない。その時はこのドラムスティックのようなペニスをぶち込む前に、うがい薬の中身を全部注ぎ込んでからにしよう。もしそれで子供が産まれたら結婚した旦那との子供として育てて貰おう。

ニホンザルとなった彼に希望と将来が生まれた瞬間であった。

〈了〉

 

引用:フランツ・カフカ『変身』 高橋義孝訳 新潮文庫

2020年2月20日公開

© 2020 浅野文月

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