オフィーリアの死(一)

オフィーリアの死(第1話)

浅野文月

小説

3,182文字

台風のさなか、僕は自宅に帰る途中にマンションから飛び降りた女性死体と出くわしてしまった。しかしその女性とは数時間前に違う形で出逢い、不思議な出来事を共有している……
夢と挫折。生と死。そして物語は幻想へと進んでいく。

岩手日報社『北の文学』第79号一次選考通過作品

いったん日本海に抜けた台風二十一号は、進路を東寄りに変えて東北地方に再上陸する可能性が高まった。このままでは平成三年のように、東北の名産であるリンゴに大きな被害が出るのではないかと、帰路の車中。ラジオ局のアナウンサーの声が雨音とブレンドして聞こえる。

会社からは定時に直帰命令の電話が掛かってきていた。台風のため社員を全員帰宅させるらしい。それに、一時間の残業代より一昼夜のコインパーキング代の方が数倍安くつくからだ。

自宅から歩いて三百メートルほどのコインパーキングに社用車を駐め、後部座席の足元に転がっている傘を手に取り、外に出た頃には雨風は再度強くなっていた。

――あれはいったいなんだったのだろう。

そう思いながら妻が待っているメゾネットのアパートに向かい、傘を風に逆らい歩く。あたりは僕以外、人っ子一人歩いていない。代わりに見え聞こえるのは、風に舞う雨と遠くから聞こえるサイレンの音くらいだ。四月に東京本社から岩手支社に転勤を命じられ、この街で味わう初めての台風だった。

あんなことがあったために遅くなってしまった。妻には先に夕飯を済ますようにとLINEをしたが、戻るまで待っていると返信が来ていた。

 

「誰か、誰でもいいから助けてください!」

自宅の数軒手前の分譲マンションの前で、傘も差さずに中年の女性がずぶ濡れになり、手足を震えながら助けを求めている。何かあったのだろうか? 駆けつけてみると。その女性は黙ってそのマンションの駐車場を指差した。雨が降りしきる中、若い女性が仰向けになって倒れている。僕は倒れている女性をじっと見つめ、そして近づいた。カっと見開いた瞼が大粒の雨を受け止め、口はポカンと空いている。ああ、彼女はとうとう自ら実行したのだなと、悲しみとは何かが違う複雑な思いを僕は心に抱いた。白いスリップドレスを身に纏い、下着を付けずに雨の中に倒れているため、薄く陰毛が透け、突起している彼女の乳首が薄衣一枚着ているとは思えないほど自然に見えた。幸いにこの大雨だ。出血や脳漿などは流れてしまっている。しかし骨折をしているのか、左足がおかしな方向に曲がっていた。

 

――美しい……

 

僕は不謹慎ながらもそう思い、後ろで震えている女性に聞いた。

「救急車は呼んでいるんですよね。警察は?」

警察にはまだ連絡していないと言うので、僕はスマホで110番に掛けた。

「事故ですか、事件ですか?」お決まりの文句だ。どちらかわからないが、おそらく飛び降り自殺であろうと、現状を端的に説明した。スマホの向こう側から、警官を急がせますと言われ電話を終えた。

「あの、救急車が来るまで心臓マッサージとかできないですか?」

サイレンの音からすると、到着まで少なくともあと三分いや、五分は掛かるかも知れない。女性にとっては、この不自然な光景は永遠とも思えるおぞましい時間に感じられたであろう。それを一人で耐えていたのだ。そこに僕という仲間ができた。

僕は倒れている彼女に近づき、左手首を取った。硬直はまだ始まっていないが、その手はあまりにも冷たかった。見開いた目は瞬きをせず、瞳孔はすっかりと開いている。僕はせめてもの、曲がっている左足を伸ばして両手を胸の上に重ね置いてあげた。

「すみません。もうこうしてあげることしかできないです。もしかしたらという気持ちはわかりますが……今に救急車と警察が来ますので」

やがて、救急車と消防車が到着した。隊員は数名がかりでブルーシートを使って彼女を覆い、その中で蘇生処置をし始めた。僕はシートで覆われる前に、彼女が最後に表現したものをしっかりとこの目に焼き付けた。そして、無言で自宅に帰った。

 

 

***

 

「ただいま。悪いんだけど、バスタオル持ってきてくれないか」

僕は家のドアを開けた早々、妻である裕子さんにそう言った。

「どうしたの」

「いや、ちょっとハプニングに見舞われちゃってさ」

妻はびしょびしょのスーツ姿で立っている僕を見て驚いていた。

「どうしたの、傘飛んじゃったの?」

玄関の土間でジャケットとパンツを脱ぎ、渡されたバスタオルで頭と顔を拭いた。

「風邪ひいちゃうからとりあえずシャワーを浴びて」

妻に促され、バスルームで熱いシャワーを浴びる。体が生き返る気がした。僕はいままでは寒ささえも忘れる一種の興奮状態に陥っていた。

バスルームを出て、身体を拭いて用意してくれたパーカーに着替えた。

「コインパーキングに会社の車を駐めて歩いていたら、手前の分譲マンションで、たぶん飛び降りだと思うんだけど、若い女性が駐車場に倒れていてさ、それで救急車が来るまで心臓マッサージをしてたんだ」

僕はなぜか咄嗟に嘘を付いた。

「えっ、本当! さっきのサイレンの音、それだったんだ……ねえ、飛び降りでしょ。頭とかグシャグシャじゃなかったの? 人命救助なんて偉いよ。孝弘君」

二つ年上の妻はとりあえず鶏肉でダシを取った暖かいスープをダイニングテーブルに置きながらそう言った。そうだろう。驚くべき非日常的な出来事だ。

「いや、それが身体はいたって普通だったんだよ。この雨だろ。血とかは流れちゃっていたんだと思う」

「よくさわれたね。私ならすくんじゃうと思う」

「僕もこんなのは初めてだよ。でも、なにかしなくちゃいけないと思ったんだ」

「ああ、なんかわかる。その気持ち」

スープをすすっていると、妻はご飯とおかずを出してくれた。

僕が盛岡へ転勤の辞令を受け取ったと言ったとき、妻は東京から引っ越すのを若干戸惑っていたが、妻の仕事である店舗型保険販売員は移動もしやすく、いつか東京に帰ってこられるならば岩手に数年住んでみるのもいいかもねと言ってくれた。理解があり、僕には出来過ぎの妻だ。

「ねえ、その女の人、本当に飛び降りたの? 孝弘君、そういえば、私が帰ってきた時にそのマンションの前に怪しい車が駐まっているの見たわよ。自殺ではなくて事故か事件なんじゃない?」

「いやー、飛び降り自殺だと思うよ」

「でもおかしいと思わない? 身体は普通だと言ったわよね」

「そう、身体は普通だった。仰向けで倒れていて、目をカッと見開いて、口がポカンと空いていた」

「なんか怖いわね。夢に出てきそう」

「あっ、そうだ。白いサンダルが二足とも駐車場に落ちていた」

「やっぱり自殺ではないんじゃないの? だって、普通自殺する人は靴を脱ぐでしょ。ねえねえ、飛び降り自殺って、うつ伏せで倒れているのが多いみたい」

裕子さんはiPhoneでいろいろと検索をしている。よくそういうのを調べることができるなと思う。僕は血を見るのも苦手な人間なのに。

「やっぱり飛び降り自殺ではなくて事故よ。例えばその駐車場の中で車に轢かれたとか」

僕は想像力豊かな妻を持ってしまったようだ。そしてその想像はあながち間違っていない。

その時インターホンが鳴った。裕子さんがリビングの壁についてある受話器を取る。

「はい。主人から話を聞いています。少々お待ちください、代わりますので」

「警察」妻は受話器を僕に促した。

「通報したのは僕だったからね。形通りの事情聴取だろう」

僕は妻から受話器を受け取った。

「はい、代わりました。清水です」

「ご通報頂いた件でお話を伺いたく、これから少々よろしいでしょうか?」

「わかりました。いま行きますので」

僕は受話器を戻した。

「これじゃなんだから、暖かい服に着替えてちょっと行ってくるよ」

「うん。家内が怪しい車を見たと絶対に伝えてね」

「わかったわかった……」

僕は着替え、傘を持ち玄関を開けた。そこには制服ではなく濡れたスーツを着た男が二人立っていた。僕は申し訳なさといささかの寂しさを感じながら、心の中で裕子さんにこう伝えた。

 

――ごめん。これで僕たちはもう終わりになると思う。

〈続く〉

 

2020年2月17日公開

作品集『オフィーリアの死』第1話 (全5話)

© 2020 浅野文月

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