ペンギンをめぐる幾重もの夜

谷田七重

小説

9,141文字

「飛ばない鳥」は何でしょうか?ペンギン?はいブッブー

 なだらかな夜の稜線。薄闇に寝入っている香穂の、枕に黒々と解き広げられたゆたかな髪を指先でそっとなぞりながら、悠也も目を瞑ったままうとうとしていた。香穂のすうすうと規則的な寝息に呼吸を合わせているうち、同じ夢が見られるかもな、なんて思ったりした。瞬間、香穂は子猫のイビキみたいに鼻を鳴らしたかと思うと、寝がえりを打ち、悠也に背を向けて、また何ごともなかったみたいに、すうすう。香穂の髪は、悠也の指先からすべり落ちていった。
 ――なんだか髪の流れと一緒に、彼女の心までも流れ落ちてしまうように感じて、悠也は不服だった、かといってぐいと髪を引っぱるわけにもいかない。またてのひらを波うつ髪に沿わせて撫でおろそうとした、でも乳房にかかるくらいの長さで切りそろえられた髪、その先端まで手をすべらせるのは流れる時間の果て、ふたりの関係の果てに目を凝らすことになってしまいそうにも感じて、悠也の腕は宙に迷ったものの、いつの間にか香穂の頭を髪もろともまさぐろうと手を伸ばしかけている自分におどろいて、彼はとっさにひっこめた腕を、横向きに眠っている香穂の身体に回した。後ろから抱きかかえるようにして、あるいは追いすがるようにして眠ってしまおうとした、――けれど寝ようとすればするほど頭が冴えてしまって、いつもそっと息をつめるようにして自分を見上げる香穂の表情ばかりが脳裏にちらついた。茶目っ気でごまかしながら、こちらの瞳の奥の奥を覗き込もうとする、まっすぐな眼差し。
「飛ばない鳥は?」
 はじめて香穂がそんななぞなぞクイズを吹っかけてきた時、悠也はすぐに「ペンギン」と答えた。
 香穂はしてやったりといった表情で「ブッブー」と言い、唇を軽くすぼめたままで首をかしげ、さて何でしょうか、といったちょっぴり生意気な表情で悠也を見上げる。その瞳は薄茶に透き通っていて、にごりもさざ波すらもなく、凪。
 それから何度か問答を繰り返したあとに、香穂は得意げに教えてくれたのだった。
「飛ばない鳥はね、ただのペンペンなの」
「それ香穂が考えたの?」
「そう」
 うーん、と悠也はすこし間を置いてから、「それ『紅の豚』じゃん、てか俺ちゃんとペンギンって言ったじゃん」
 香穂は心外だというふうに唇を尖らせて、「ただのペンペン、てのがミソなの」とかろうじて反論したものの、悠也には何がミソなのかよくわからなかったし、あえて追及もしなかった。
 それから悠也はわりとグッジョブな感じで、ふとした時に香穂が凝りもせず「飛ばない鳥は?」と訊いてくるたびにすぐ「ただのペンペン」と答えて彼女を喜ばせ、いつしかそれは互いの合言葉みたいになって、あとにはもれなく香穂からのためらいがちなハグがついてくるようになった。もしかしたらハグの口実が欲しいだけなのかもしれなかった、でも悠也がそれに応えて香穂の背に腕を回して抱きしめようとすると、彼女はさっと身を引いてくるりと後ろを向き、キッチンへ立って行って布巾を手に取ったはいいもののしまうべき食器が残ってなくて、次はなんとなく冷蔵庫を開いてトマトジュースのペットボトルを取り出し、べつに飲みたくもなさそうなのにコップに注いで、リビングで立ち尽くしている悠也にいきなり「飲む?」と訊いたりした。
 ――でもそうして気まぐれにでもためらいながらでもハグをしてくれるんだからかわいいじゃないか、と悠也は思いながら、隣でいつの間にか仰向けになって眠っている香穂の頭をそっと持ち上げて、その下に腕をすべりこませ、抱き寄せた。目を覚まさないまま、香穂も悠也と向き合うようにやわらかく身体をよじらせ、腕枕に頭をもたせた。そのあたたかく湿った寝息を首すじに感じながら、悠也はたとえ彼女が眠っている時だけだろうと、こうしてその小さな頭の重みを支えられることがうれしかった。うぬぼれでも何でもいい、とにかく今は、今だけは自分が香穂を支えてやらなくちゃいけないんだ、と自分を鼓舞するような、励ますような、そんな気持ちにむしろ安心して、互いの寝息を呼吸するように悠也も眠った。
 
 ふたりが身体を交わすことがなくなって久しかった。香穂はもともと感情をあまり表に出さない性格だったのが、さらに心や気持ちのゆらぎを土壁にのっぺりと塗りこめたようなのっぺらな表情で悠也と話したり、食事したり、ぼけっとタバコを吹かしたりしていた。
 ただ、ペンギンの話をする時だけははしゃいだような瞳で、その生き生きとした輝きが、香穂の表情に照り映えた。その突拍子もない話が何もかもぜんぶ見え透いたばればれの嘘だとわかっていても、そんな彼女の顔を見られるのが悠也はうれしかった。
「小学生の頃に飼ってたペンギンとよく手をつないでお散歩した」、「ペンギンと徒競走して負けて泣いちゃった」、「足のつかない深いプールで溺れそうになったときペンギンが助けてくれた」、云々。
 今年の春、六回目の記念日に悠也はなんとなく「ペンギンがいるバー」とかいう店を予約したのだった。香穂の反応は、まあ「ふうん」という感じだったけれども、当日の夜いざ行ってみると彼女はもうペンギンに釘づけだった。
「あの小さいペンギンずっと哲学してる」
「どれどれ?」
「あれ、ほら、ひとり離れて上向いてぼけっとしてて、エポケってる感じ」
「エポケってる?」
「うん、哲学してる」
 いやちょっと何言ってんのかわかんないっす、と思いながらも相槌を打ちながら悠也は妙に甘ったるいオリジナルカクテルをすすっていた。香穂はいつにないテンションで熱心にペンギンたちを観察しては、独特の表現で彼に実況した。香穂がペンギン熱にうかされるようになったのはその翌日からだった。
 うわごと、たわごと、でたらめ、妄言、……まあとにかく、その話す内容すべてがいかさまなわけだけれども、とくべつ何の害もない少女趣味的なペンギン夢物語なわけで、それまでとは打って変わって香穂は楽しげに喋りまくるし、悠也はべつにそれを無理に咀嚼して喉の奥に呑みこむ必要もなく、ただにこやかに、香穂の軽やかなさえずりとして聞いていればよかった。意味のない、そう何の意味もない、時間と笑顔を交わすだけのつかの間があったっていいじゃないかと、そう思っていた。――ただ、少女めいた身振りと口ぶり、その表情の奥からこちらを見つめる瞳の底の底は、やはりしんと押し黙っているように見えるのだった。はしゃいだように次々と架空のペンギン話をする香穂、その姿は、どんなに言葉を尽くしても何も語らない、というかむしろ何も語り得ない焦燥にもがいているようでもあった。そんなことを思うたびに悠也の胸もなんだかしんとして、そのむなしさを埋めようと大仰に笑ってみたりして、部屋には空虚な余韻ばかりがいつまでも漂っていた。
 
 
 長く険しい夜。すでに寝入っている香穂の、仰向いた顔を間近に眺めながら悠也は目をしばたたいていた。その鼻の突端に自分が立ち尽くしてびゅうびゅうと風に吹かれているような、なんとも心細い気持ちになって、いつもこうして自分だけ眠りに取り残されるのもなんだか寂しくなって、悠也は香穂の睫毛の先にそっと触れてみた。固く閉じた目蓋はぴくりともしない。じれったくなって、肘をベッドに突いてじりじりと顔を上げ、香穂の睫毛をくわえてみた。何も反応がないので、そのまま舌で湿してみると、彼女はゆっくりと音もたてず悠也の唇から顔をそむけて、また何ごともなかったように、すうすう。――自分の舌の痕跡が香穂の目尻からこめかみにてらてらと、ナメクジでも通った跡みたいに鈍い光沢を放っている。その陰鬱なひとすじにやるせなくなって、悠也はなにかのやましさを隠滅するようにてのひらで唾液の跡をそっとぬぐった。香穂は顔だけそむけたまま、微動だにしない。
 ――凪。起きていても眠っていても、いつだって香穂は凪いでいる。
 出会った頃からそうだった。恋人として付き合いだしてからも、いつもラフな服装で、ヒールを履いている姿なんて悠也は一度も見たことがなかった。髪を染めたこともなければピアスも空けたこともないらしく、
「ほら私、清純派だからさ」と言いながらこっちがむせそうなほどタバコをばかすか吸う香穂の指の爪は短く切りそろえられていてもちろんネイルもなし、アクセサリーのたぐいをつけることもなければ、香水だってつけたことすらないのかもしれない。
 男の本能をくすぐる、揺れてさそうもの。香穂がただひとつ持っているのは、束ねた黒髪だった。振り向いたり、首をかしげたり、頷いたり。そんなたびごとに、ポニーテールの髪は彼女の表情に立体感を与えるようだった。立体感を与えるように見えているだけなのかもしれなかった。でも当時の悠也はそんなことを考えることもなく香穂を欲し、ベッドで髪をほどいた時に解き放たれる温気に混じった香気を深々と吸い込み、酔うようなこの蠱惑に香穂自身は無自覚なようなのが腹立たしいのか苛立たしいのかじれったいのか、自分でもわからないまま組み伏せ、ひっくり返し、こねくり、押し広げた。のたうつ香穂の、大きくはないが形のいい乳房はためらうように揺れて、悠也はそれを独占するのが得意でもあった。揺れるもの、ふだんは服の下に隠れている、香穂の揺れるもの。舐めたり、歯を立てたり、吸ったりしたものの、そうだ、と悠也は今になって思う。香穂はいったんベッドにねじ伏せられると、いつもずっと固く目を閉じていた。――無自覚なまま、瞳や心のゆらぎを見せまいとせめてもの抵抗をしていたのかもしれない。
 ――薄闇の中でなぜか不意に悠也は思った、香穂はむかし、性的ないたずら、はずかしめを受けたことはなかったのかと。
 そんなことはこれまでも聞いたことはなかったし、あえて訊くようなことでもないし、頭にもよぎらなかったことなので、悠也はいきなりこんな考えが浮かんだことに自分でもおどろいた。さっき香穂の目尻に光っていた自分の体液をぬぐったてのひらがなんだか汚らしいように感じて、かろうじて寝巻のズボンにこすりつけながら思った。――今になって香穂からそんなことを打ち明けられても、俺はこれまでと変わらず接することができるだろうか? 
 ……いや、そんな傷を今さら晒されるよりも、俺はこのままファンシーでポップな架空のペンギン話に楽しげに聞き入っていたい、相槌を打って、時おり手を打ち声に出して笑ってみたりして――その残響のリフレインがどんなにうつろだろうと――笑顔を交わしていたい、どんなに言葉を尽くしても心を交わすことができないのなら、そうしてせめて、上っ面の笑顔だけでも。……
 違う、違う、違う、ほんとうは俺は、と心根が喉の奥から漏れ出しそうになる。でも、どうしたって、どんなに眼差しや身体を交わそうが、自分たちはほんとうに、ほんとうに惨めなほどひとりぼっちなんだと、思い直す分別も持っている。
 悠也は眠りにくったりとした香穂の片腕をそっと持ち上げた。華奢な手首を指でなぞってみる。かつて何度も両手でつかんだ無抵抗な手首、受け身に徹することに慣れたしなやかな手首には、やはり傷跡の切れ端すら感じられない。悠也は安堵すると同時に、そんなことを確認する自分の浅はかさに心がしぼんだ。――けれど、指先に香穂のこまやかな脈を感じて、はっとした。すすり泣きをさそうような救いさえ感じた。その脈拍のしたたりを舌先ですくいたい、と思ったけれどそれはこらえて、指先をとくとくと静かに打つ小さな生命に鼓動のリズムを同期しようとして、目を瞑った。
 
 
「ペンギンってさ、」と香穂はタバコの煙と一緒にまたよくわからない質問を吹っかけてきた。
「冬眠とかするのかな」
 いやいや自分のキャラ設定を貫けよ、と思いながら悠也は「わかんない、俺はペンギン飼ったことないし。香穂が飼ってたペンギンはどうだったの?」と返してみた。
 しまった、とでも言うみたいに香穂は目を見開いてちょっぴり唇を丸めた。
「なんか電気カーペットの上でごろごろして、あったかい夢とかみてたみたい」
「心は渡り鳥だったのかな」
「うん、そうだったかも」
「飛べないのにね」
「うん……」
 だんだんと返事に自信がなくなっていく香穂をからかうのはやめにして、悠也は寒くなってからの習慣にしている就寝前のココアをふたりぶん淹れるためにキッチンへ立っていった。
 純ココアとスキムミルクをカップに同量入れて、シナモンを一振り。ダマにならないよう丹念に練り混ぜて、沸かしたお湯を少しずつ加え、またかき混ぜる。繰り返し。いい感じになったら、それぞれのカップにハチミツを一匙。――イヤだあ、寝る前にハチミツなんて、太っちゃう。そう言っていた香穂に、ある夜ハチミツなしで飲ませてみたところ、一言も発さずとにかく渋く苦く顔をしかめて見せたので、それからは遠慮なく悠也はハチミツを使った。そして仕上げには、ウイスキーを少々。
 もう陽も短くなった長い夜のおわりに温かいココアをすすると、香穂の瞳にはぽっと灯がともるようだった。夜の池にかがり火が映るみたいだった。きらきらと潤む眼差しで、香穂はまたあることないこと、というかないことやなかったこと、存在しなかったペンギンの話をした。悠也は悠也でリズムよく相づちを打ち、流れるように表情を変え、話を遮らない程度に笑ったりした。――子どもを持たないカップルがペットを飼うのと同じように、ふたりはせっせとフィクションを育てていた。ふたりにしか通じない言語を交わしているようでもあった。変わり映えもなく過ぎて繰り返してすり減っていく毎日を、日々更新されるペンギンのいかさまで補修するみたいに、ほんとうのことなんてお互い何も口にしなかった。
 そう、ほんとうに、ほんとうのことなんて何もなかった。もはやふたりには、ほんとうのことが現実の何に役立つのかすらわからないのかもしれなかった。
 悠也は香穂のむせるような虚妄の花束にくらくらするような頭の片隅で、ペンギンが冬眠しちゃったら困るな、となんとなく思った。飛ばないペンペンがいなくなったら、ハグさえなくなっちゃいそうだもんな。
 ――翌朝はふたりとも仕事が休みだったので、ゆっくり眠った。
 いつのまにか先に起きて朝食も済ませ、ぼけっとコーヒーをすすりながらタバコを吸っている香穂に悠也は「おはよう」と言うとそのままキッチンへ行き、ヤカンを火にかけた。注ぎ口から淡い湯気が洩れだしているのをなんとなく眺めていると、すぐ後ろから「飛ばない鳥は?」と声がした。振り向くと、猫みたいな忍び足で背後にやってきたらしい香穂が、もじもじと後ろ手を組んで爪先で伸び上がりそうに見えた。
「こらこら素足じゃんだめだよ、風邪ひくぞ」と思わず言った悠也に、香穂はまた「飛ばない鳥は?」と言いながら目を上げた。朝の光によりいっそう透けて見えるその眼差しに自分の中の何かが見透かされそうにも感じて、悠也はやはりいつもどおり「ただのペンペン」と応えた。
 それこそ猫が伸び上がるみたいにして、香穂は悠也の首っ玉にしがみついた。よろけそうになりながら、えっなにこれ新しいバージョンじゃんどうしたの、と悠也が言うよりも早く、香穂はぽつりと「ねえ悠也くん、かくれんぼしないでよ」と言った。
「かくれんぼ?」
「うん」
 いやほんと意味わかんないんで、と思いながらも悠也は顔を伏せたままの香穂の頭を撫でた。
「だって夜、たまに目が覚めるとね、寝息の音すら聞こえなくて、びっくりするんだもん」
「え、そうなの?」
「うん。でね、お腹に触ってみるとちゃんと上下しててね、なんかひとりでぬくぬくしてやがってね、むかつくの」
 えっなんかごめん、と言おうとした悠也を遮って、香穂は続けた。
「呼吸も気配もぜんぶ消してさ、夜にかくれちゃうのやめてよ」
 やっと顔を上げた香穂は唇だけ尖らせて、つとめて怒っている風に見せたかったのかもしれないけども、悠也はすかさず唇を重ねようとした、が即座にてのひらでぐいと顎を押しのけられて、うう、とうめき声をあげると香穂は束ねた髪をひるがえし、さっさとリビングへ戻っていった。その後ろ姿を眺める悠也の背後で、いつの間にかヤカンがしゅうしゅうと沸騰していた。
 
 
 十二月生まれの香穂の誕生日に向けて、悠也は真っ先に「またあのペンギンバー行く?」と訊いてみるも香穂の返事は芳しくなく、
「動物園は?」
「…………」
「水族館は?」
「……………………」
 という感じで、今や香穂はもうほんとうのペンギンよりも存在しなかったいかさまペンギンにしか興味がないようだった。
「特別なとことかべつに行かなくていいからさ、ほら、あの駅前の安くておいしい呑み屋さん、久しぶりに行きたいな。その帰りにさ、ケーキ買って! ホールのうんと大きいやつ!」
 相変わらず欲も色気もないけれども、まあそれが香穂なりのおねだりなんだなというのは長い付き合いでわかっているので、悠也はべつに予約とかしなくてもよさそうな呑み屋に一応電話して、カウンターの二席を確保した。
 ――あの朝、香穂に言われたことにおどろきはしたものの、眠りの中にあっては自身をコントロールできるわけでもないし、あれ以来香穂は何を言うでもないし、ただ、悠也は自分のことで香穂が文字通り突っかかってきたのがなんだかうれしくもあり、意外でもあった。いつも先に寝てしまう香穂をさびしい気持ちで眺める俺と、夜中に目を覚まして深い眠りに沈んでいる俺を見てさびしくなってしまうらしい香穂。……
 俺たちふたりをつなぐものがいったい何なのかわからないけれども、それがどんなにか細かろうと、でもたぶん、まだ間に合う。間に合う? 何に? ペンギンの冬眠に? ペンギンが冬眠したらどうなるっていうんだ?……香穂のうねるポニーテールのゆらぎさえ凍ってしまうんだろうか、氷柱みたいに。香穂のしんとした瞳の奥の池も薄氷に覆われてしまうんだろうか、踏み込むのもためらうほどに。――どちらにしてももう取り返しのつかないことになってしまいそうで、悠也は決然と思った、何としてでもペンギンの冬眠を食い止めなければならない、……でも、どうやって?
 誕生日当日、悠也は香穂を乗せて車を走らせていたものの、しまった、と思った。俺、酒呑めないじゃん。タクシーにすべきだった、ちくしょう、そう思う悠也の隣で、香穂は窓の外を眺めながら能天気に何の歌かわからない鼻歌をうたっていた。でもいざ酒場に着くと、香穂はうまそうに酒を呑みタバコを吸い、もりもりつまみも食べて、なんでもかんでも「おいしい」とうれしげにため息を洩らし、その目がとろりとしてくるのがわかった。ソフトドリンクばかり呷って完全シラフの悠也は、そんな香穂の瞳のとろみを盗み見るたびに、昔こうして呑んでいた時に目尻が下がりきってゆるんだ香穂の表情に、これから待ち受けている夜へふたりして飛び込んでいく期待に胸が高まって爆発しそうになったのを思い出したりもした、けれど、と彼は思う、そんな幾重もの夜を越えて、俺たちは、互いの寝顔を見てさびしさにうち沈むようになってしまったんだな。
 ――こんな日に限って自分だけ酔えないのがなんとなくくやしくてさびしくて、香穂の高揚に置いてけぼりをくらったみたいな気持ちでひとり頭の中でやるせないことを考えている自分が悲しかった。それでも隣にいる香穂の、くるくると変わる表情の底からこちらを見据えるしんとした黒い瞳にまっすぐに向き合う勇気もなくて、そんな自分に傷ついたりした。
 だから煙たい酒場から一転、きらきらとしたパティスリーに入ってショーケース越しにホールケーキを選ぶ香穂を横目に砂糖菓子オーナメントのペンギンを見つけて、悠也の胸は弾んだ。これをケーキに乗っけてやったら、香穂はどんなに喜ぶだろう? そんな自分の考えがどれだけ浅はかで野暮なものかをわかっていながら、悠也にはもう他にどうすればいいのかわからなかった。
 
 密で蜜な夜のふところにまどろみながら、悠也はふたり一緒に暮らしはじめた頃のことを思い出し、それからの倦むようなくちゃくちゃと反芻し繰り返すだけの日々を思い、そうして今夜までたどりついた道のりを思った。はっきり言えば、何もなかった。何もなかったかもしれないけども、でもかろうじて何かしらはあった。香穂の何気ないほのめかし、はぐらかし、それらすべてに意味があったなんて思わないけれども、でも何かしらはあったんだな、かろうじて。甘い、あまいその場かぎりでさらさらと溶けていく、ほんのちょっぴりの白砂糖みたいな何か。
 ――今夜、ケーキを買って帰ったはいいものの、香穂はもうお腹いっぱいだったらしく気のなさそうにフォークの先でクリームをすくっては舐めているだけだった。
「このケーキどのくらい持つかなあ」と言いながら切り分けた皿にラップを掛けようとしたので、悠也はかくしておいたペンギンの砂糖菓子を慌てて冷蔵庫から出した。
「ねえ、ほらペンペンいるよ」
 ファンシーでポップ、なおかつスイート&スイートな小さいまがいもののペンギン二羽を見た香穂は一瞬目を輝かせたように見えたものの、「それ、しまっといて」と言ったきりだった。そうしてすぐ、風呂へいってしまった。
 交代するみたいに悠也が風呂へ入り、身体からほかほかと湯気を出しながらリビングへ行くと、香穂はゆったりとタバコを吹かしながら、
「今日は私がココア淹れるね」とめずらしくにっこりと笑顔をたたえて言った。
 香穂の出してきたココアは、おそろしく甘かった。でも悠也はそんなことは口に出さず、うまいなあ、うまいなあと言いながら飲んだ。砂糖菓子を融かすのに苦労したのかもしれない、ちょっぴりぬるかった。香穂も微笑んだまま、べつに何も言わなかった。
 ――そのままふたりしてベッドに寝そべり、また香穂は先にすうすうと眠っている。
 明日から、架空のペンギン話はもう香穂の口から聞けなくなるのかな、と悠也はぼんやり思う。かたちはどうあれ、というか文字どおり姿もかたちもなない、まずそもそも存在しなかったペンギン。存在もしてなかったのに、融けて互いの身体に呑みこまれたペンギン。嘘だろうが虚妄だろうがきっとそう、俺たちのあたたかな身体の中で越冬してくれるはずだ。
 悠也は隣で寝入っている香穂の生身の身体にすり寄った。その髪から頬を指でなぞり、足の先で小さな爪までまさぐってみた。小さな胸のふところに顔をうずめるのはなんだかためらわれて、迷っているうちにいよいよすうっと眠ってしまいそうになって、香穂のこめかみにそっと口づけた。そのまま、甘いまどろみにさらわれるようにして、目を閉じた。

2019年12月4日公開

© 2019 谷田七重

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