それはまるで毛布のなかの両手みたいで

中田満帆

小説

35,798文字

かつて書いたふたつの短篇にあたらしい短篇を挟んで、あたらしい作品をでっちあげました。どうぞ。

 

暗い路次をずっと歩いてた。ふたりともずっと酒浸りだったし、なにがまちがってるとか、正しいかとか、そんなことはどうだってよく、裸のまんまで死んでいく、夏の花びらみたいな気分で、おそらくもっともおろかしい姿をしてた。ぼくとかの女は駅まえの酒場通りをぜんぶ歩き切ってから、その店に入った。カウンター席に座って、横の止まり木を見る。小さな紙切れが名札のように貼ってあった。たしか、こんなふうなことが書かれてあったとおもう。――ふたりの少年がやってきて、おれのことで妹をつかまえていった。でていく。すぐにもどる。酒は置いておいといてくれ――おそらくもどってはこないだろうし、連れ戻すこともあるまい。かれがどういう気持ちか、わかりたくないまま考えてから、はじめの1杯を撰ぶ。まわりを見渡してみた。かれを待ってそうな人間がひとりもない。立ち去っていったんだ。酒だってもうない。ひとたび哀れにおもい、かれを偲ぶためにも酒が必要だった。ついてきた女の肩を肩でこづく。察しがいいらしく、顔をあげて応えてくれた。
なにが呑みたいの?
少し考えて、あまりきざなまねはよすことにした。芋焼酎だ、湯割りの。かの女は年寄りくさいとつぶやき、そっぽをむいてしまった。しかたない、金はかの女が払うのだから、すきにいわせておけばいい。
ボックスに座った老婦人がしゃべくるのをやってえらく高い声で耳に来てた。――待ってるのよ、あたしは。かれの来るのを。でもきょうだって来なかったわ!──なんていうひとなの? 近所の子供を使いにしたりして!──待ちながらいっぽんの木にされたわ。だからっていくとこもないのよ、あそこじゃあ。――しかも金持ちの男が来てね、あそこで話しかけんのよ。おれの眼鏡はどこ、だって。たがいにいくところがないのよ。みょうちきりんな召使いまで連れて、どこへいくのってのかしらねえ。しかもめくら。
見たところ、かの女の相手はそれ自身のようだった。
なに見てるの?
あの婦人、ひとりで話してる。
めずらしくないよ。
よく見たの?
あの街じゃあ、よく。
まあ、おもしろいこっちゃないね。
おれだって変なのにからまれたし。
へんなのはそっちじゃあ?
ある本でみたことがある。**町ってとこでは60年代、首に札をぶらさげた老人どもがけっこうなかずでいたらしい。そこには「わたしに話しかけてください」とあった。ゆくところを逸してるのはあぶれものだけではないということだ。
きみはこれからどうするの?
どうにも。
楽器なんて拾ってくればいいんだ、音色なんてあとからついてくるよ。
あんたには音楽ってわからないでしょ。
それだけ。
ああそうさ。作曲法も和音進行でけつまづいておわり。
単音ばっかでしかできないんだ?
安いもんのソフトでいくつか書きあげただけさ。
そういってお情けもらいたいんだね。
ぼくは笑った。でなければやっていけない。かの女は笑わない。酒場でふたりともが坐りながら立ちつくしてる。旅なんざ、ろくでもなかった。長距離バスの夜更けはたちがわるい。室内灯が消えるころを過ぎても、いっこうに眠れなかった。小壜を呑み、脚を展ばそうとする。できない。あたまをうつむけるか、うえにするかでしつこく験す。都市での失態が夢のようにあらわれる。そんなときはいつも主観ではなく、どこかべつの方向から撮影された映像にかわる。じぶんが場面の1部分にすぎず、だれかがつくった、どへたな画面におもえてくる。ウィスキーの壜を握ってたら、隣の娘が肩を叩いた。窓からふりむいて、その顔をみる。化粧臭く、香水臭い。眼のまわりを隈取のような、墨絵のような、ほどこしが濃かった。舞台からそのまんま降りてきたような生身の女。かの女は壜を指した。
呑みますか?
黙ったまんまうなづく。唖しなのかも知れない。ふたたび窓にもどって、壜が帰ってくるのを待った。
もっと持ってないの?
しばらくたってから声があった。壜はからっぽだ。
なんだってそんなものを?
さいあくだから。
さいやく、なにが?──いいから、はやくだして。
ちいさく幼い声にしたがっておしまいのいっぽんをやった。いやいやなのを見せつけてながら、かの女の手に落とした。
ありがとう。
それはどうも。──この地点でまだ、ひとつめの休息所からでてしばらくいったところで、午前6時まで5時間はある。酒の臭いがそろそろ車内に充ちはじめてた。
ずいぶん呑むんだね。
なにもいわないでかの女は呑みつづけ、おれのぶんを失くそうとしてた。
もういいだろう、おれのがない。
黙ってて。
勝手にしやがれ。
してあげる。だから黙って。
箍がはずれたようだ。かの女は笑いだした。おれは壜をひったくり、その半分残ったのを干した。
のんだくれ!
笑いながらいわれた。塗りたくったマスカラのせいで、そのつらはあちらがわの笑みに見えた。地獄とか墓穴とか屠場とか夜の長距離バスみたいな笑みだ。
知ってるよ、
それぐらいのは。
呑んで喪ってきたばかりだから?
喪うのはわたしのほうがうわて。
それからすぐに膝を寄せあい、告白しあった。ばかもの同士でだ。
酔ってないでよく聞いててね?
どちらも脱出にとちって帰るところだった。ろくでもないことだ。ぼくは飯場にいた。おなじ年の、とても気さくなやつに逢った。かれは組長にいわれて流れてきたらしい。やくざものだ。ふたりしてビールを呑み、現場へいった。印刷会社のビルヂングにはまだ壁もない。臭いはじめた夏が虻そのものだった。
ある夜、いい仕事があるとかれがいう。フロント企業のひとつで20万はかたい。まったくのぺてんで、あわや、けつを奪われそうになった。ぼくは文なしだから、母にねだって運賃をださせた。かの女といえば音楽やりたさにでていくも知りあった、とてもやさしいやろうにまきあげられ、やられてしまってた。――どんなつらをしてこんな話しが聴ける?──どうだっていい。そうだ、どうだってかまわない。
それにしても眠れないね。
駅に着いたとき、足もけつも、うごかせなかった。窓枠に手をかませ、右足にちからを入れる。重心はそこだ。もちあげるようなかたちでまごついていたら、かの女が手を貸してくれた。
すまんな。
お礼にいっぽん奢ってよ。
女の子に奢るなんてとってもきざだ。少なくとも21にもなる童貞のおれには。裸足で歩く男がコンビニエンス・ストアのまえで立ちどまる。森番にみせたそいつをよけ、ふたりは酒を撰んだ。樵は、ではらってていなかった。女装のさなかかだろうか?
高架下のルンペンたちにまじって、ポケット壜をまわし呑む。みんな敷物を片づけ始めてた。それでも、まだ寝てるのもいる。いっぽんやって、それでまたいっぽん。帰りの電車賃がなくなった。あとはほうぼうでレコードや本を眺めた。たがいの好みをただいいあって過ごした。それがいいとかわるいとかはなしに、静かに。そのあいま、側溝を走るものをみた。どぶねずみだ。おたがい、はじめてだった。走る姿だけはうつくしい。なにもいわなかった。うんざりして、もうなにもいうまいだ。酒場の場面にそろそろもどろうか。
カウンターにケンタッキー・ウィスキーがきた。楽しい会話をねってみて、なにも浮かばないことに気づく。おれってやつはまったく、話すことに不向きだとおもった。ことばを憶えたって話せなかったころの空きを埋められはしない。こういったとき、教室をおもいだす。どこだっていい。ただ教室であればおなじだ。さむざむしい。むなしい建築、内装の賜もの。そこへいくといつもぞっとしたものだ。全身のどこを問わないで狙われてるとおもえてくる。グラスをひと息にやる。そのとき老人が入ってきた。まっすぐに紙切れのうえに坐る。ほかに空いてるのはいくらもあったのにだ。すでに酒がはいってる。
なあ、にいちゃん。
このまえ、**で火事があったろ?
おれのどやのすぐとなりだった。
買いものから帰ってくると、
廊下や階段を犬どもや猫どもが走ってるんだよ。
だれかが隠れて飼っていたんだな。
ものすごい勢いで出口にむかっていった。
どこもかしこも煙しかなくて、そのなかを室にむかったんだ。
おれのものが無事か、あせったね。
おれの室には白黒のまんまのテレビがある。
莨の脂ですさまじいけどな。
おれはスイッチをつけて窓をあけた。そのむこうに
でっかい、おまんこみたいな炎がうずまいてたっけ。
かれの眼にある、黒い染みみたいなものにぼくは応える。
それはきれいでしょうね。
無視して老人は指をつきだすと、ここでクイズがあるといった。
さて、おれがなにをテレビで観てるとおもう?
皇室特集?
正解だ、おもしろいだろ?
なにがです?
白黒テレビをいまだに持ってるってところがだ!
かれはいかにおもしろいかを早口でまくし立て始めた。それからあたらしい売春宿、昔しからある売春宿、ひとの多すぎる老人憩いの家などについて語った。しまいにはぼくのことを警官かとうたぐる。かれが沈黙をやぶりつづけることだけに感謝し、次の1杯をおもう。老人は顔を手で覆った。
おれはおもしろいのにだれもわかってくれないんだ。
忘れていただけですよ。
いいや、ほんとうはおもしろくないんだ。それにだれも話かけて来ない。
きっといそがしいだけですよ。
ふざけるんじゃない!
立ち上がってかれは、──おれのまわりで職に就いてるやつなんかいないよ!──あたり憚らぬ声でいった。店員には透明人間らしい。そのまま、からっぽのテーブル席へ移動するのにだれも呼びとめもしない。おれだって働いてなんかいない。ぼくは連れあいにいった、
たしかにあのひと、つまらないね。
かの女はいつのまにか注文したか、ビールを流し込み、
もうでる、わたし、がまんできない。

呑み屋通りを抜けて大きな本屋のまえへでた。ひと待ち顔の群れむれがやかましい。円柱のでっかい広告。派手なべべを着た女に表情なしでプロバイダを奨められた。その胸に手を当ててみたい。いつか、あれのねたに使おう。またふたりしてポケット壜をまわした。700円以上もした。黒いやつ。ぼくはときおり、かの女の顔を盗み見ては、化粧を落とせといいたくなった。でもいまはこいつの金で呑んでいるんだ。下手なことはいえない。女はみんな意地がわるくて、悪意にはそこというものがないんだ。それを発揮されれば手に負えない。黙って離れるだけだ。つき合ったことはない。だがほかの場面でよくおもい知らされてるつもりだ。ぼくはチェイサーにビールを嘗めながら、そういう場面をおもいだそうとしてた。
ああいう店にはよくいく?
まえはいったよ。
あんなところのどこが楽しくて?
べつに楽しくなんかないな。
酒は高くて量は少ない、
店主は無愛想だし。
知ってるひとが、
なんとかいうやつの朗読をやってて、
酒を奢ってくれてたから。
そのなんとかいうやつをそっちは読まなかったの?
たまには読んだ、うけ狙いで。
でも、おれは舌がよくまわらないから、
いろんなところでつっかえて、みんなに笑われて、
そいつが酒になった。
ズブロッカってやつが好きだったな。
透明で、壜に草の茎が漬かってる。ぽーらんどの原産らしい。
ぽーとあいらんどってあの港の?
いいや、ソ連の近くにある国らしいけど。
ばかみたい。
ばかそのものさ。
ぼさっと突っ立ったまま呑みつづけ、そのまま21時を過ぎた。いろんな目玉がふたりをつけまわした。かの女をからかうものもいた。なにもできないことにただあきれてた、みずからへ。
うせやがれ!
このくそちんこ!
いいかげんにしないとその口をひん曲げてやる!
活躍したのはかの女のほうだ。しばらくして数駅先の暗い町で降りた。そこはかの女の地元であり、こちらがけつわって逃げた就職の、研修者寮のあることころだった。そこで2週間いた。せまい室は相室。背の高い、丸眼鏡の男が一緒だった。
その日の技能講習が終われば、そこらへんを遅くまで呑み歩いた。ただ金だけが減っていき、気がつくというぐあいでバスに乗っていた。ほんのひと月まえのことだ。もしかしたらまだ棄てていった荷が残っているかも知れない。ふたりは歩きながら入れそうな店を物色した。そこらにはコンビニエンス・ストアも、酒の自動販売機もなかった。暗い栗褐色の通りをゆっくりと歩き、なるべくなかの薄暗い、ふたりのひどく酔ったさまや、かの女の幼さの通らないところを探す。
どの店にもそれぞれ見覚えがあった。つまんないところもあったけど、親切でいいひとたちにもであった。あるところでは就職祝いに奢ってくれ、つぎの日にまた会いたいといってくれた会社員のおっさんもいた。生憎その夜には旅路に就いていたが。明るい店主の夫婦、それにかれらのだした焼きそば。
行きのがら空きの車輌でおもったのは、あたらしい空想のものがたりだった。おんぼろでも寛げるアパートメントと、なにかわからないが、なにかを産みだすおれ。生まれてこのかた、あたまのなかの、もうひとつの世界にぼくはおぼれて来た。その穴ぼこのなかで傷みを忘れ、充ち足りてきたから、もの憶えのわるさも、からだの弱さも、みてくれのまずさも、つながりのなさも、咽もとを過ぎるのがあまりにも早すぎた。そうとも、おれはもっと苦しむべきだった。
女がうえを指差してる。
あれにしよう!
あそこがいい!
ちょっと!
どこ見てるの!
白にちがいはないけれど、かなり汚れたビルヂングの上階に看板が掛かっていた。カラオケ居酒屋。まちがいない。いったことのあるところだった。その名もごくつぶし。ひまつぶしだった気もする。おれは断ろうとおもったが、かの女のはじめて見る、明るい顔のせいで、したがうままにしていた。4階まで螺旋階段をのぼる。扉をあける。赤黒い照明だか、内装のなかに半円状のカウンタ―と、ソファ席、カラオケ用のひくい壇がぼんやり浮かんだ。まえに来たときとおんなじで客はおらず、中年過ぎの太った女主人が止まり木、若いバーテンダー姿の女が酒のまえに立っていた。ちがっていたのは若い女で、前回にいた、髪のみじかい、おれ好みの美人ではなく、目鼻立ちのはっきりしない青白いのがいただけだ。残念なのか、ありがたいのか。
女主人はひくいしゃがれ声で挨拶をし、ふたりをカウンターに手招きした。どちらともウィスキーの炭酸水割り。もうあまり呑めそうになかった。そいつを2度おかわりしてから、かの女は歌いだすといった。1曲が100円だ。おれはとめなかった。かの女の歌ったのが、なんという曲なのかわからない。けれどどこか、カントリー調だった気がする。歌はうまかった。ただ酔ってるせいか、舌足らずに響いた。ぼくはといえば、ひとまえで歌ったことなどなかった。
以前きたとき、古いジャズ歌謡ではじめて唄った。「女を忘れろ」というものだった。曲間のドラム・ソロが気に入っていた。女主人はそいつを聴いて音痴だけどうまいといった。この夜、どうやらぼくのことを憶えてないらしかった。わが恋人もどきはさらにもうひとつやって終わった。みんなで拍手を送ってやり、ぼくは口笛だって鳴らしてみせた。上機嫌でもどったかの女に、こちらがまだ口をつけていない酒を丁重にゆずる。そいつはいっきに呑み干された。
そっちも歌ってよ。
こんなひくくて鼻にかかる妙な声で?
いいとおもうからやってよ。
じゃあ、やるってやるよ。
ぼくはあまり考えもせずに席を空けた。酔っぱらっていて、もうなにもかもが温かかった。それだからおなじ歌を、まえとおなじように撰んでいた。これでこちらのことがおもいださされるだろう。ダイス、転がせ。ドラムを叩け、就職と自立について語った口ぶりがいかにまがいものだったか、はっきりするだろう。やけにしんみりする夜だ。間奏のドラム・ソロにのって、からだをゆすり、いかにも悲劇的なつらをしながら歌っていた。忘れろ、忘れろ、あの娘なんかはよ。――みんな表情がなかった。おれは締めのソロが終わるまえに席にかけ、からっぽの容器をつまみあげた。できるだけ粋に見えるように。もう1杯だけ。女主人がこちらを見据えた。
音痴だけどうまいわね。
それはどうも。
あんな古い曲、どこで知ったの?
映画ですよ。
そんな映画、いま観られる?
衛星でやってます。
でまかせを答えてばれるのを待った。あちらさんはそれ以上訊かず、ちがうところに水をむけはじめた。――ところでおふたりさんはいくつなの? おれはどうってこともなかったが、かの女はちがった。大きいその眼をびくつかせてしまった。まったく、なにをいまさらおびえてる?
でも、女主人だって悪党じゃなかった。曰く、
安心して、
黙っててあげる。
なにもうらなんてないの。
あたしの友達がやってるホテルがあるのよ。
安くてきれいなのに近頃、
客足がにぶいのよ。
今夜だけでも泊まってやって!
ねえ!

安宿の主人も太った女だった。もしかしたら遠い親類かなにかかも知れない。これで3人めが、エクレアといっしょに現れないことをわずかながら祈る。ほんの連想にすぎないのに、縁の薄い文庫本があたまのなかにあった。たしかイギリスの短篇だ。おれの恋人がどやよりも安い、ただ同然の小銭を払う。そしておれとおなじようにおれたちを車で送ってくれた女主人にふしぎそうなまなざしをむけていた。
どこかになにかが隠れていたっていい、そんなところだった。もとは近代的だっただろう、内装もひびと汚れと埃とかびで、そこらじゅうがやられていた。壁は黄色く、床には緑の敷物。まあ、小さくて目立たないところにある、この4階建ての昭和モダンはなかなか興をそそった。おれはそういうところが好きだった。どうせならジャケットと、中折帽子をかむって来ればよかった。そんなもの、持ってない。
提供されたのは、4階の小さな1室だった。かわいげのある狭さだ。ベッドカバーは深紅。色っぽいかもしれないが、いつ洗ったものなのか見当もつかない。寝台のわきに小さな鏡台と照明があった。テレビジョン、テーブルはなし。シャワーと便所のみ。かの女はまっさきにからだを洗いにいく。どういうわけか、この階だけ窓硝子がない。かわりに緑やら赤の文字が入った合板が貼られていた。いや、打ち付けられていたんだ。おれは文字を見た。製造元のなまえだろう。かすれていて、どう読んでいいものかはわからなかった。でも、これとおなじものを実家で見ていたっけ。ねじの入れ方が執拗だ。
父は日曜大工に執り憑かれていた。もともと平屋で買った中古のわが家だったが、かれはそいつを20年以上、改築に費やしていて、おそらくそれに終わりはないだろう。いつもどこかをつくり、どこかつくったところを毀していた。通りがかったひとびとがおかしな眼で眺めた。少なくとも幼いころはかれについて。なんでもできる、すごい父だとおもっていたし、敬ってもいた。
しかし、そうしたことにつき合わされつづけるにしたがって、けっきょくは狂気を学ぶために準備された、はじめての教材であると覚った。家すなわち、それは父だった。そして家にある以上、そこにあるものはかれの所有物だった。かれは毎日、ひとり息子に手伝わせているのはほんの少しの、どうでもいい箇所に過ぎないと声を荒らげた。日曜日の朝からひねもす、罵り声と金鎚の柄を味わい、御奉仕させられながら、しかしかれの息子はおもったものだ。マスはひとりでかくものだと。
かの女はもう寝台になだれていた。スカートがもう少しでめくりあがる。酔いの醒めはじめたあたまで、そのさまをぼくは描いた。早いところ、そうなってしまえよ、な。なにかはじまる予感こそしたが、なにをしたものだろうか、まごついてもいた。なるたけ音を発てないよう、気配りながら歩み寄り、まだ17の女の子の横に坐った。化粧は落とされていて、はじめてみる素顔は素朴すぎたが、それがよかった。きれいで、お高くとまった感じがない。薄目をあけながら荒い息をしている。
水をちょうだい、
炭酸水か、天然水で。
かの女の声がした。その通りだ。ぼくも欲しかった。さっそく階下へ急ぎ、フロントに声をかけた。まぼろしの3人めはいなかった。どうやらまだらしい。安心した。エクレアを突っ込まれるのはぼくかも知れなかったけど。――ぼくはかの女の財布から金を払い、ふたつのペットボトル、炭酸と天然、自分用にジンの青い小壜を受け取った。急に怖くなったのだ、なにかが。もどってきたら音楽が聞こえて来た。携帯ラジオをかけていた。半透明の赤い色。ストラップの紐があって、首から掛けられるようになってる。そんなもの、はじめてみた。
かつて好きだった3人組のバンドが、いまは4人になって、そのときにぼくには好きになれそうにない曲をやっていた。どうでもいいことだ。勝手に期待してうらぎられた気分になるのはまちがいだ。かの女はその曲が好きそうだった。鼻歌。おれはいつかは好きになれるかも知れない。ぼんやり受け止めながらボトルを2本、眼のまえにかざした。どっちがいい?──炭酸がいい。蓋をあけてから手渡すと、ありがとうと小声でいってから、ほとんどいっきに呑みだした。小さなボトルはからになった。かの女はもういっぽん、天然水も口につけた。こっちは少しづつだ。ぼくはべつの曲がかかるのを待ちながらジンをあけた。──なによ、それ?
もらったのさ。
うそつき、勝手に買ったくせに。いつまで呑むの?
だいじょうぶ、これで終わるよ。
いつまでもそっちの面倒見切れないから。
ぼくたちは黙ってラジオを聴いた。しばらくしてかの女がこっちをみた。
少しだけ呑ませて。
ぼくは直に呑んだやつをそのまま渡した。いぢわるのつもりだったが、むこうにはどうでもいいことだった。肩透かしを喰らってるはたで、青い壜を電燈にかざし、その輝きを眺め回していた。おれは訊いた。
きれいな壜だろ?
うん、ほんとに。
それ呑むと、青い小便がでるんだぜ。
きたない!

ほんとうの故郷はここじゃない。かの女はラジオに合わせてつぶやく。それがかの女の歌声だ。こちらはなんにも返さず、残り酒をちびりちびりだ。もうなにもわからない。酔っていない。でも酔ってた。あたまが冷静さを装ってる。いちばんたちがわるい。気持ちがいいのか、わるいのかの決まりもつかなかった。シャワー室から盥を持ってきて寝台の脇におく。手ぬぐいを枕のうえにかけておいた。
どうしたの?
げろするかも知れないだろ。
やめてよね!
被害に遭うのはこっちなんだから!
そっちだってそうとう呑んでるよ。
あぶねえのはおたがいさまだろ?
あんたほど呑んでないって!──ばかじゃないの!──脳みそが融けてるんだって!
うるせえな、くそったれ!──くそがきは黙りやがれ。顎をひんまげてやろうか?
けんかもできなきゃ、働けないやつがなにいってもおんなじ!
いいから黙ってろよ。
せっかくかわいい顔してんだ、もったいないじゃないか。
おれと愛し合おうぜ。
やりにやる、やってやってやりまくる!
おれはめんくいなんだよ、いつもいい女に惚れてきて、いつもきらわれてきた。
でなけりゃ、知られることもねえとくる。あんたとなら何回だって、――長々とせりふをいった。しょっちゅうつっかえて、なにをいってるのかもわからないとこが多かった。恥ずかしいくらいに訛ってた。大きらいな近畿訛りだ。かの女はしばらく表情もなしにおれを見あげてた。こっちがいい終わるのを待って仕返しにでる。そいつはこんなかんじだったとおもう。
ふざけんなよ、醜男。
あんたは甘ったれてるだけ!
じぶんを掴まえてくれるのを、
バスみたいにずっと待って、来ないまんま死ねばいい。
あんたって死体が歩いてるみたい。
わたしとちがって夢も目標もないし、だれかに出会おうって気力もない。
わたしは失敗はしたけど、学ぶことはできる。あんたとちがって!
くだらないものが脚のあいだにくっついてるからって偉そうに。
男はどうしてそうなの?
じぶんだけは賢いなんて、じぶんだけはばかだなんて、
どうしてたやすくおもう!
ラジオが飛ぶ。こちらに飛んでくる。あたらなかった。あたったのは合板で、外装を少しちらして床に転げた。ノイズもまた音楽のひとつだ。それを聞きながら寝台に坐る。床で寝ろとはいわれなかった。しかしそのおもざしは反対だ。
きみのいうとおりだ。ぜんぶ。
おれはじぶんがいちばん賢くてばかな死体だとおもってるよ。
展望もなんもない。
ただただ好きなものがあっただけだ。
それをまねしてばかげたことをやっただけ。
笑えない。
わたしは、とかの女はいいかけた。いいかけてやめる。わたしは、――ほんとうにすきだったか、わかんない。
音楽のこと?
でも、あなたはそれが好きなんでしょ、ほんとに。
しがみついてるだけかもな。
お幸せ。
それはどうも。
その、なんとかっていうの、楽しかったの?
いや、ただひとに遭いたかった、誉められたかった、話したかった。
でも話すことなんかなにもなかった。
ぜんぜん見つかんない。
言葉を憶えるのが遅すぎてしまった。
喋る自信ない?
どもりがある。
ぜんぜんないって。酔ってるからでしょ。
いまでもつっかえるんだよ。あっ、とか、えっ、とか。
そうしてからじゃないと反応できないよ。
そういえばそうだね。でもひとまえじゃ、なにか読んだんでしょ?
あっ、いろいろとね。
そのころから呑んだくれ?
幼いころからだよ。母方のじいさんがよくビールの泡を呑ませてくれて、
酒はいつもあこがれだった。
しょうのないこと。
わかってる。けどわかってない。
なにそれ?
格言。おれの。
ちっともおしろくない。そんなんでいったい、なにが書けんの?
もうなにも書かない。
じゃあ、どーすんの?
倉庫作業かな。
その身体で?
ちからいるでしょ?
出庫係でもしようかな、品物のかるいところでね。──鼻で笑うというのをおやじのほかにもみた。くだらない自己暴露をやりたくていつもおれはうずうずしてる。いま酔ってからよけいにそれはでてきた。「わたしは死ぬか、隠れて暮らしたい。でもそのまえに」――不運な女はきらいだ。うつくしくない。耐え忍ぶ女もきらいだ。うつくしくない。でもやり返そうとする女はよかった。これで運さえ、ついてくれば文句はない。でもそれはどこにある?
そういえば、だれかがいってたよ。
「秋風や人さし指はだれの墓」って。
「おれはどういうことだかわからなかったけど、それってすんごくさみしいことだよな」──だれもが手に墓つけながら歩いたり、笑ったり、もの喰ったり、くそしたり、2段階右折したり、列にならばされたり、鉄条綱のむこうにいたり、病院に入ったり、ベストセラーの本を読んだり、面接官に呼ばれたり、検察官を接待したり、呼びだし喰らったり、出荷伝票とにらめっこしたり、しょんべんしたり、帰るところがあれば帰って、なけりゃ陸をひき、好きなやつにきらわれ、好きでもないやつと笑いあい、歌を唄ったり、働いたりするんだからな。
それでも、いきつくところがいっつもそこにあって、
秋のかぜが吹いてるなんてきれい。
すんごくきれいにおもう。
きれいなのはきみのほうだよ、なんだってあんな化粧してたんだ?
すべてが怖かったから。
だれにも近づいてほしくなかったの。
ナンパとかされるんだろう。
あなたはできないでしょう。
じゃあ、おれに話しかけてきたのは?
いったらわるいけど、そっちがあまりにもぶさいくで、
暗くて冷たい顔してるから急にからかってみたかっただけ。
それで?
それでって?
うまくいったの?

午前3時をまわっても、ふたりは起きていた。横たわっているだけで、ラジオに耳を傾けたり、とぎれとぎれな会話をしてなにもせずにいた。どっちかで手を握るか、頬を撫でてみるか、何通りもの、着想があったが、どれもやれなかった。やっぱりおれは童貞だった。天井の灯りを消して、スタンドに切り替える。靴下だけを脱いで床に抛る。かの女はじっと眼をあけて、ラジオのほうを見ていた。ひとりでやるようにシャツとズボンを脱ぎ捨てる力がだせなかった。そとの路地から自動車の音が聞えて来る。やがてそれは真下で停まった。
「ところで、女の子とつきあったことあんの?」──あるわけないだろが。──好きになったときって、モテないのはどうしてんの?──想像力のないやつだな。──わるかったね。で、どうすんの?──好きなのがばれてきらわれるのを待つだけさ。──どんなふうにきらわれんの?──黴菌扱いされたり、ものを盗られたりだよ。小学生のころだった。──仕返ししないの?──そんなこと、どうやってできるんだよ、相手は女、わるいのはぜったいに男さ。
みじめだね。
きみはどうなんだ? だました男に復讐しないのかよ?──いつか、ぜったいにしてやるわ。あんたとちがって叩き潰してやる。──つよい女だな。ますますそそってくる。
気持ちわるい。
死ねばいいのに。
ああ、殺してくれよな。
いや!──じぶんでやって!
かの女が眠りに就いてから、その顔をコンパクト・カメラに収めた。それからぼくも眠った。酒はかえって眠れなくさせた。やがてかの女の吐く声が聞え、合板のすきまから入る光りが眼をあけさせた。まだ6時だ。かぜが路地裏から吹きあがって塵をいっしょに室に入れてる。だいぶ酔ってから、盥をあらかじめ、そばにしてて助かった。3度吐き、指を汚す。まだ残ってる炭酸水でしたたかにうがいをし、もういちど眠った。3時間経ってた。
また酔いが残ってた。ふたたび水を呷り、どうにかしようとする。どうにもならない。かの女はいなくなってた。窓辺の床にラジオが転がってる。スピーカーの桟みたいなところが何本か折れ、散らばってた。横っつらにも罅がみられる。ひろいあげ、とりあえず鞄に入れる。カメラが失せてた。紙片がいちまい、寝台のうえにみえる。――はじめにきた駅で待ってて。
ふたたびこみあげてきて洗面台に走る。盥はいっぱいだった。くるしさはいつだって新鮮だ。おなじ階をまわってもかの女はなかった。階をあがってみせる。室の戸のひとつひとつを検分にみせてふれる。そのなかにひとつだけ、半開きのを見つけた。断りを入れ、そのうちかわをうかがう。まず砂っぽい、よごれた足もとが覘いた。そこには入って左の壁に背をあずけた女の子が立って、こちらを見あげてた。寒色の、柄のあるワンピースを着て、かすかに笑む。その衣もどこかしらうすい汚れがあった。髪がおれの好みにみじかく、黒い。歩きまわって確かめる。どこにもいない。
なあ、――ワンピースのがいった。ここからでえへんの?
連れを探してる。
見なかった?
かの女はかすかに顎をふった。
車でたとこやし。
なにもいわずにしばしを過ごす。訊きたいことはあった。ばからしくおもえた。しかしこれが現実でなくてなんだろう。
なあ、裏口の場所教えたげる。
あんたのこと、ママがよんでるから早くしたほうがええで。
待ってるから。
黙したまんま降りていったら、さっそくでぶに腕を掴まれた。敷物のうえから犬が吠え声の支度をしてる。
あんたの女、どういうつもり!
見てみてよ!
あいたまんまの金庫がある。ダイアルがふたつと、錠のひとつの銀の箱で、あけられたまんまのむこうがわにお情けのような札がのこされてる。赤いカーテンが室の温度をぐっとおしあげ、ぼくは床を見、敷物の柄を憶えようと努める。おそらくは5分あまり、そのままうごかずにいた。
どうしてもらおうかな、わたしのお金ちゃん。
なにも持っていないんです、すみません。
そんならどうやってかたをつけんのよ?
働いて持ってきますよ。
あんた、住所あるの? 働いてるの?
なにもありません。
いまからかたをつけてもらうわ。
そうとうにまいってたから胃腸液と迎い酒を頼んだ。赤い眼を干してから、ぐっと脂肪に近づく。これは芝居だから大事には至らない。これでも演技者なのだから。寝台にたがをからませ、おかみのちからをぼくに充たす。寝台は少し湿ってる。ながれかかるとき、たっぷり憎んでやるつもりで乳房に両の手をむけた。でぶの片脚がぼくを蹴りあげる。そして蹴る、さらに蹴る。おおきな笑いが熾った。火事の匂いがしてきたから、ぼくはいっきにでぶの腹におもてをうずめ、その肉に祷る。さっさと終わりやがれって。
おかあさんといって!――唾液が降りかかる。もう驚くこともなかった。蒸留酒とパプリカの臭いがおもざしを漏らして、あたらしくもないだろう、絵画技法になってた。青年にのしかかる水牛の時間。
とてものろくさい時間がたくしあげられる襞のあるスカート、緑のパンティを脱がせ、あたらしい酒を空けさせた。指示通りにそいつを口移しにする。スコッチの錘がふたりを線画にする。平手打ちがあざやかに決まった。ぼくの頬に温く。ふいに勃ってきた。もういちど口うつしにしてから、おれはでぶの横腹と左肩とのど仏を見舞った。けれど酔っていて痛みどころではない。カーテンのすきまから洩れだした朝日が美しい。その美のうちで杯はまわりだし、やがてでぶは、ぼくの櫂にくちづけをしてきた。だからだ、一撃を喰わせてしまった。
立ち上がってまたぐらをなおす。傷はない。痛みはある。かぞえもせずに金庫のをねじいれたら、壜をふたつばかし盗ってホールへでる。もういちど階をあがり、くだんの室にむかった。女の子はまだそこにいた。ぼくはじかに壜にくちつけた。かっこいいつもりで。
殺してくれたんでしょ?
ああ、ばっちり。
案内してくれ。
かの女のみてくれを消えた少女と較べながら降り、裏口をでる。荒れた庭にいっぽんの柳が植わってた。これからどこへいくん?――とりあえず、あの駅だ。
表へでて、通りを進むまえにいま1度、宿を見る。日ざかった宿のうえ、4つめの窓に立ってるのがいた。広い一対の窓の、左右に若い男と女が見おろし、こちらをとらえてる。なんにも入ってない両の眼。それはこちらを見る。のっぺらぼうみたいだ。表情なく、恋人同士にもおもえない。そこをはなれ、列車に乗り込んだ。中心街がみえるとほっとして、少女をみた。ホームにおりて通勤客のあいまを歩いてるとかの女がいう。
ありがとうやけどな、
酒呑むひと、きらいやねん。
そのうちひどい眼に遭うから。
どっちも。
それきりいなくなってぼくはもといたところにもどってきた。駅で待つといっても広すぎてどこにいていいのかわからない。とにかく歩きまわってると、構内の本屋のまえ、老婆が箱のうえに坐ってた。和服に正座を決めこみ、背筋をのばしきり、まえを見てる。おそらくは往来だろう。そのまなこがこちらをむいた。まっすぐに射るものをこちらからも、まっすぐに据える。もしこれで耐え切れなければ、かの女は来ないかも知れない。うしろからだれかが見えてる。1分が経ち、勝ちにおもえた。2分経ち、負けにおもえた。3分、4分が経ってまた勝ちにおもえた。さらに5分経って負けにおもえた。そうして15分はしてやっとむきを変えた。こっちのほうがだ。

カウンター席に坐って、となりの止まり木を見た。そこにはこんな紙片があったのを憶えてる。――あれは妹なんかじゃない。だれも気づかない。なんであいつがなにもかも知ってる?──そのとき皺でできあがった男が入った。となりの紙切れのうえに坐る。こちらにむかって話し始めてた。それを聴きながらひとつの詩ができあがっていった。なんの苦しみもないかわりに、それはしらじらしいじぶんの、へたくそな写し書きのようだった。いまいちど再現してみよう。

解きほどかれた夜のほどろに立っている男たち
かれらに勝ち目はない
おおきな鳥と
小さな鳥がきて
かれらやぼくを食い尽くすから

それははじめ
輝かしいようにおもえた
雨に融けだした聖母像のように
広告塔の少女のようにみせて
羽が朝を切る
よくよく見てみればなにもかもが衰えているし
まったくのかざりごとでしかないのだけれども
まったく愛しくおもえたものだった
安ホテルの汚れたベッドのうえ
ラジオが毀されるみたいに
かの女が喪われたから

もはや美はうごけないものたちの砦だ
すべてのあこがれと
すべての窓枠が燃えつきたのち
すべてのさまよいがはじまるだろう

けがれきったものでさえ
光りを持ってると感じるのはもっともさみしいとき
ぼくはあなたといたかったのだ
けれど大急ぎで
とまったまんまの劇が
ある朝終わって
ひきつぶされてゆくはいっぴきの黒い犬
そのかたわれがいまのぼくだ

書き終えてポケットにしまうと、まだ皺でできた男が話しつづけてた。
おれはおもしろいのに、
だれもわらってくれないんだ。
だれも話しかけてこない。
話しかけてこない、
話をさせてくれない、
話せない。
話すことがない、
話させてくれない。
きのうもおとついも、
会社にいたときにだってだ。
友達なんか、くそ。
きっといそがしいだけですよ、だれも。
だれも?──だれもだって?
だれもだれもだれも、
わしのまわりで働いてるやつなんかいねえよ!
くそったれ!
熱くなるのも醒めるのもはやい。かれは席をかわった。だれも話しかけるものはいない。おれだってそうさ。テレビ画面の宇宙遊泳を観てた。音を消されてる。宇宙船内をマラソンしてるひとりの男が、おなじ環のうちで走ってる。かれはいったい、どこへむかってるのか、顔また顔の通過、鳩尾と背中の痛みがやってくる。それでもとまらなかった。給仕が猫のようにおれをおもてにほうりこんだ。そうだ、そのとき、あの詩を側溝に流したんだ。――いま午前5時、見憶えのあるような太陽がのぞきはじめたところ。

Sun’s Up!

みじかい階段をあがって入出庫のホームを歩き、その半ばにあるエレヴェータにみんなと乗った。ぼく、フロア主任、香水の臭う長身の男、年増女、そしてかの女と。2階での持ち場に就いて、まずは棚づけを始める。室いっぱいに棚が並び、そこには照明器具の部品がある。どの商品を、どこに置けばいいのかがわからない。棚番はめちゃくちゃだ。もちろん先出し、後出しもある。棚に入らないものは床に置くしかない。主任は急かす。早くしろ、早くしろ、早くしろ。午后ちかくになって今度は伝票が来るのを待った。出庫作業だ。ぼくはパレットを降ろし、ハンドリフトに通した。やがて主任が伝票を持ってきて、机にひろげる。そして割り振りをした。主任のぶん、壮年のぶん、ぼくのぶん、かの女のぶんだ。それぞれリフトを引きながら、ピッキングをはじめた。もうここへ来てひと月半にもなるのに、商品の場所はまったくのでたらめで、伝票の棚番通りにはまったくいきはしない。困ったときは年増女に訊く。それでもないときがある。いつも商品が完全に揃うまでに定時を過ぎ、残業がはじまる。ぼくは昼餉に大盛りのスパゲッティを平らげ、ビールを呑んで職場にもどった。そして休憩室で本をひらき、かの女の声を聞く。聞き耳を立てるのだ。
高校卒業してキャディーの仕事をはじめたんです。
それでこっちに来て。
ほんとは専門学校にいきたかったけど、
お父さんに「あほか!」っていわれて。
キャディの寮はわたしとおなじ九州の子がおおくて。
かの女は、ほかのフロアの40男と愉しそうに話をしてる。かの女の身の上ばなしだ。ぼくだってかの女と、ああいう話をしてみたい。そうおもいながらずっと聞いてた。
高校時代はバンドやってて、
わたしベースもギターも弾くんですよ。
いまも楽器は持ってるんですけど、
いまはゲームばっかりしてて。
ぼくもギターをやってる、そういいたかった。それでもかの女はぼくが立ち入れないような聖域みたいな気がする。やがてかの女は女子用の休憩室に入り、40男は去って、ぼくはひとりになった。「裏切りの国」というイギリスの冒険小説を読みながら、時間が経つのを、そしてまたかの女と仕事することをおもった。時間になり、倉庫にもどって、残りの伝票を見た。きょうも残業だ。半分も終わっちゃいない。やがてみんながもどって仕事がはじまった。主任が笑みを浮かべていう、
なに喰った?
スパゲッティです。
おまえ、よう喰うなぁ。
たしかにそうだった。ぼくはすっかりデブだった。23歳になるまでのこの1年、太りすぎてしまった。主任はぼくの腹を叩き、やがて気味のわるい笑みを、冷たい、無表情に変えて持ち場にもどった。気分がわるい。むかむかしてた。気づくと、品番のちがう商品をパレットに積みあげてしまってた。けっきょく仕事は7時までつづき、ぼくはせっせとトラック別にわけたパレットを階下のホームへ持ってった。運転手たちにパレットを渡し、また2階へあがる。ふとかの女を見た。つらそうなふたつの眼がみじかい髪のなかで一瞬光る。ようやく仕事が終われば、ぼくはかの女に挨拶をするために駐輪場で待った。そして叶えてから、酒を買いにいった。バーボンをいっぽん。ひとくち味見してると、男が寄ってきた。若い男だ。ぼくとそうかわらない。背広を着てる。その口元はだらしなくひくつき、なにかを求めてる。でもなにかを得るにはまずは冷や水に頭から突っ込んで、自己認識ってやつを重層化する必要があるみたいにおもわれた。あるいは脳味噌にシラタキをぶち込む必要があった。
つまるところ、やつはまともじゃなかった。わるい色が一色、その心を占領しちまってるにちがいなかったんだ。やつはぼくのそばまで来て、もぞもぞしたうごきを何度か繰り返した。ぼくにつよい蔑みをむける。そしていった。
呑ませて欲しいんや。
ふざけるな。
おまえ、おれのこと知っとうやろ?
いいや、おまえなんか知らない。
小学校でも、中学でも一緒やったろ?──おまえ、太ったな。
いいや、おまえなんか知らない。
おまえはいつも絵を描いてた、絵ぇ巧かったなぁ。
いいや、おまえなんか知らない。
おいっ、ちょっとでもええから呑ませてくれや!
おまえはだれだ?
友だちや。
タイムカプセルはどうした?
タイムカプセル?
おまえ、呼ばれんかったか?
おれは黙ってやつに壜を差しだした。ふたくちほど呑まれて壜はもどってきた。どうだっていい。
これで気が済んだか?
まあな。──おれんちに来いや。
いいや、おまえなんか知らない。
おれは知ってるんやで、おまえのことなんか。
じゃあ、いってみろ。
おまえは勉強できへんから、みんなにばかにされてた、
おまえは**のことが好きやったけど、**にはきらわれとった。
**のこと、修学旅行で追い回し、カメラで撮ろうとしてた、
おまえは**からもらった自己紹介のカードにふざけたことを書いて先生に取りあげられてた、
おまえは議論の授業でいつもとんちんかんで場違いな発言をしてまわりをしらけさせてた、
おまえは中学1年、おなじクラスのやつをナイフで刺した、そいつは孤児で転校してもた、
おまえはだんだん学校に来なくなって、3年は1回しかいってなかった、
おまえは***の定時制にいって、おれたちとはそれっきりや。
おまえは、──とやつはまたいいかけて、ぼくが遮った。聴くに堪えなかった。ぼくは折れた。それでやつの家にいくことになった。ニケツして丘をあがり、小学校のある区域へとのぼった。やつの家は**公園のてまえだった。森のむこうから高速道路の灯りがちらちらしてる。ハイソを気どったらしい白い家にやつが誘った。
なにがあるんだ、家には?
ビールならあるで。
ほかには?
なぃで。
内装は白で統一されてる。薄汚れた白だ。壁紙の隅に黒黴が生えてる。なにか腐ったみたいな臭いがしてた。やつと台所へいった。そして木目のテーブルにかけてビールを待つ。やつが国産を4本持って来る。ぼくはそいつをチェイサーに、安いバーボンを呑みはじめた。
残念ながら、──とぼくはいった。
おまえのことはおもいだせないんだ。たぶん、おもいだしたとたん、ぶん殴ってるだろうけどな。
できるわけないやんけ、おまえにひとは殴れへん。
おれは1年まえ、親父を殴った、他人だっておなじことだ。
家族との仲もわるいんやな。
家族との仲が、だ。
そやけどおまえ、おれたちのだれともつきあいはあらへんやんか?
それが友だちにいう科白なのか?
友だちねえ、あれは巻き餌みたいなもんや。
おまえに友だちはおらへんて。
ぼくは黙り込んだ。いったい、なにが愉しくて友だちでもないやつを家に誘う? ビールをだす? やつから眼をそらし、室のなかを観察した。汚れた扇風機、かつてはハイ・センスだったはずのガス・コンロ、ひどい花の絵が描かれたポット、冷蔵庫に貼られたメモ、そこに書かれた文字、「牛乳がない」、「調味料が切れてる」、「あけたら閉める!」。ひらかれたガラス戸のむこうにある居間。板床に散らばった婦人雑誌、テレビ、ゲーム機、経済新聞、洋服ダンス、小さな染みみたいに見えるなにか、テーブルと、そのうえの請求書たち、コーヒーの臭い、莨の臭い、老人の臭い。なにもかもがいけ好かないし、なにもかもが剥きだしのなにかに見える。それにしてもかれの両親はどこにいるのか。もう7時も過ぎているのに、だれもいない。なにか、正体のわからない空気が漂ってる。
おまえの家族はどこだ?
でかけてる。
どこに?
夜勤だ。
やつはにやりと笑い、一瞬腰を浮かすと、うしろむきのまんまおなじところへ坐った。ぼくはかれの後頭部にむかって話をするはめになってしまった。いったい、どういうつもりだ。
なるほど。──それでつまみはないのか?
冷蔵庫にシメサバがあるわ。
とっととだしな。
おれに命令すんなや!
それでもやつはシメサバのパックをだしてきて、皿に盛った。おれは指で切り身を摘まんで喰いながら酒を呑んだ。いまのところはハーフ・ロックにしといた。これからなにが始まるのかがわからないからだ。こいつの腹づもりがどんなものか、様子を確かめたかった。──なにか話をしろよ。
話?──そうやな。──おまえ、童貞やろ?
だったら?
女、欲しくないんか?
欲しいよ、そりゃ。
でも、なにもしてないんやろ?──おれはちゃんとやることやったで、大学の新歓で手に入れたで。
でも、おまえはなにもできへんのやろぉ?
生憎、万策尽き果ててね。
うそ吐くな、努力しなかったんやろ?
ハンデが大きすぎるんだ、生まれた星が好くないのかもな。
ごまかすなや。
なにも。
おれはずっと手のうちをあかしてる、ごまかしてるのはおまえのほうだ。
おまえの目的はなんだ?
いまなにをしてる?
それを訊いてどうする?
それを話さないでどうすんねん?
倉庫作業員、照明器具のな。
おれは営業や。
くそみたいな仕事や、──でも、おまえは楽やな、人間じゃなくて品物相手の仕事なんやから。
女がいるんだろ、文句はいえないよ。
女なんてトラブルの一種やで。
あーだ、こーだ、うるさいわりにろくなことにならへんし。
あんなもん、おまえにやるわ。
じゃあ、なんで童貞だなんて持ちだすんだ?
新歓なんてほざくんだ?
おれはわざわざこんなところまで来て、どうして知らないやつの愚痴を聞くんだ?
おまえはおれを知っとう!
「いいや、おまえなんか知らない」──そのとき、やつはこっちをむいた、上半身をひねり、それから下半身も向きを変えた。焦ったおもづらでぼくを見つめ、すがりつくようにこっちに乗りだした。
ちょっと待ってくれや、
少しでいいから懐いだしてくれへんか。
無理だよ。
お互い遠い過去なんだ。
憶えてていいことじゃない。
むかし、おれたちのあいだでなにかがあったのかも知れない。
でもそれは終わったことだ、つまりはジョン・ウェインが勝ったってことなんだよ。
おまえはきっとかつて憐れなこのおれが、いまも憐れに酒を呑んでるからって声をかけたんだろ?
からかってやろうって腹づもりなのはとっくにわかってるんだ、でもそんなことに意味なんかない。
やつはしばらく黙ってビールを啜ってた。ぼくはバーボンの、〆の1杯を呑むところだった。こんなところには長居は無用だ。早く、早く離れなくちゃならない。あしたも仕事。主任の青白く、冷たい顔が浮かぶ。眼鏡のなかの、決して笑わない眼が浮かぶ。それからかの女のうつくしい顔が浮かぶ。おれはいかなくてはらない。
おまえの書いてる詩、ネットでぜんぶ読んだんや。
それで興味が湧いてな、
おまえがどんな暮らししてるか、それでなんとなくわかった。──おまえには夢がある。
なるほどな、──でも話すことなんかないだろ?
いや、おまえに会いたがってる女がおんねん、おまえとおなじクラスやった子が!
きょうは疲れてるんだ、それにこんな太った姿は女に見られたくない。
いまから呼んでくる、待ってろよぉ!
やつは勝手に飛びだしていった。ガレージから自転車をだす音がする。沈黙。ぼくは待った。ビールはまだ2本ある。バーボンを鞄にしまって、それをちびりと始めた。もう夜の8時だ。木枯らしが鳴る。箒にすがりつくようなかぜの声がする。1本めをやって30分、2本めをやって20分、もういちどバーボンをだして啜った。もしかしたらまたぞろ、くだらないのがやって来ておれを嘲りに来るのかも知れない。そんな羞恥に耐えられるかどうか。けれど、どっかで期待してしまうところもある。女の子がおれを待ってるのかも知れない。そう考えると、なんだかわるい気もしないではない。その場の勢いとやらで1発できてしまうかも知れない。どうせ、かの女とは発展なんかないし、このままじゃ童貞で人生が終わってしまうじゃないか。そんなことを考えて1時間半。
ぼくは家をでた。そしてジョルノに跨がり、発進する。やがて公園脇の林道にひとの姿があった。倒れた男の姿が。やつだ。ぼくは降りて確かめる。首に打撲痕がある。倒れた拍子に傷つけたのか、左頬に血が滲んでる。死んでるわけじゃない。冷たい夜だ。ふたたびジョルノに跨がって発進した。夜の森が黒々とあたりを被い、暴力の気配を滲ませてる。田舎町は退屈と狂気にまみれてる。それを救ってやれるのはぼくだけだ。けれど、それはぼくの錯覚だ。どこを走っても、このあたりに公衆電話はない。そして携帯電話をぼくはいまだに持ってない。だれかに報せたほうがいいのはわかる。でも、けっきょく帰ることにした。面倒はごめんだ。もしかしたらとは、おもう、やつとほんとうに友だちになれたかも知れないと。つぎの瞬間ぼくはそのおもいを嘔き棄てた。ひどい味がしたからだ。あんなやろうは好きなだけ凍えてればいい。

欠勤した。午の2時まで眠って、それから酒を買いにいった。ほとんどの金が酒で喪われていく。ぼくは週ふつか欠勤する。あの子もだ。室に帰って音楽をかけ、両切りに火をつける。完璧だった。きょうはスコッチを仕入れた。シングル・モルトの。4千円もした。ネットを見る。相も変わらず、ぼくの作品に反応はない。書くことの意味を見失いそうになる。詩誌のほうでも掲載の連絡なしと来た。日常の、ありふれた奇跡、そんなものすらここにはない。3年まえのことをおもいだす。ホテルで見失ったかの女がどうしてるのかをおもうとき、いやな汗を掻いてしまう。それでも酔いがまわり、そんなことは忘れる。妹たちの声が階段や廊下に響く。かの女たちは自由だ。ぼくはといえば父の使用人みたいなものだ。
ふかく酔わないうちに手淫を済ませた。ぼくはどうやってでも、早く世にでなければならなかった。だって仕事のうだつはあがらないし、またじぶんから辞めてしまうだろう。いまのところはかの女の存在がつっかえ棒になってるけど、かの女がいなくなればもうあそこで働いていられないだろう。このまま歳をとりたくはない。いますぐにでもデビューして、かつてぼくを蔑んだやつら、からかったやつらを見返したかった。さもなくば死ぬしかない。25歳まで、あと2年しかない。ぼくは早熟というものにいちばんのあこがれがあった。でも、けっきょくいつものように酔いどれて眠り、次の朝に容赦なくぶち呑めされるんだ。いつもの棚づけが待ってる。入庫数がいかれてる。
早く、
早くして、
早くやって!
フロア主任がぼくはきらいだ。ねちねちとひとの陰口を叩き、つまらないギャグをやって笑いをせがむ。ぼくはつくり笑いで凌ぐ。やつは早く、早くと仕事を急かす。仕事は終わらない。個数が揃ってなかったり、品番がまちがってたり、いつもなにかがあった。家で呑む量は増えてった。ロッカーにも酒を置き、休憩時間の気つけ薬にした。年があけて1月、いつものように量販店で酒を見てた。当然。おれはなにをやっているのかとおもった。もうずっとなにも書いてはない。詩も小説も絵もなにもかもが遠くにやられ、いまでは展ばすはずの手を酒瓶にやってる。もう書けないのかとおもう。だいたい、ぼくに情熱も真剣さもないんだ。ぼくよりも若いやつらが次々とデビューを果たし、いつまでもぼくは遅れてる。2年まえ、作家の弟子になったというのになにも進展がない。かれはぼくを褒めてはくれる。ただし、それまでだ。
冷たい家で、あたらしい酒を連れて室へいく。カーテンもない窓のむこうで父がまた作業してる。つよい灯りを焚いてだ。めざわりでしかない。PCの画面越しに世界を眺め、じぶんとはなんの繋がりもない話題に笑ったり、怒ったりしながら夜が更ける。水割りはハーフロックになり、それはやがてロックになって、やがてストレートに変わった。乾いた咽に即席ラーメンをぶち込むと、あとは昏倒して、気がつけば朝だ。壜に残った酒をあけ、ジョルノに乗る。倉庫街のかぜは痛いほど、鋭かった。ぼくはいつになれば身を立てられるのか。いつまでもなんの成長にもならない単純な仕事に身を窶すのか。あまりにも不安な朝だ。いつもみたいに2階へいき、仕事を始める。かの女は休み。そんなときだった。
あの子、辞めるみたいやね?
年増女が口を切り、30男の主任が答える。
残業についていけへんのやろ。
そのときになってようやくぼくはかの女に惚れてるってことがわかった。かの女のみじかい髪、白い肌、愁いを含んだまなざし──もちろん、こんな表現は陳腐だし、仮に読者がいたら眼を背けてしまうだろう。でも、たえられずにぼくは倉庫の奥でしばらくのあいだ、かの女へのおもいをぶちまけてた。だれもいないところで。かの女はあした来るのか、来ないのか。そうもおもった。それはまるで毛布のなかの両手みたいで、覆い隠されたおもいだ。
けっきょく、かの女は来た。雑談をした。かの女はぼくとおなじ歳で、おなじ町に棲んでるのがわかった。そしてどういうわけか、かの女とぼくは腕相撲をした。主任にやらされてだ。かの女が手袋を脱ごうとする。ぼくはそれをとめる。かの女の、裸の手、それをぼくが汚すわけにはいかなかった。ぼくはかの女に勝ちを譲って、仕事にもどった。どうやら、月の終わりに辞めてしまうらしかった。でも、ぼくはなにもいえなかった。こんな醜いでぶやろうが、かの女に近づいたってろくでもない。夜、かの女をおもって1篇の詩を書いた。そいつに「太った聖者」となまえをつけた。深夜まで父が作業をしてる。眠れやしない。こっちも音楽をかけ、酒を呷った。
うるさい!
その変な音楽消せ!
知るか、くそったれ!
父が室に入ってきた。ぼくは父に殴りかかった。拳がテンプルに決まった。父はフックを用意してる。でも、母が2階から降りてきて、わって入った。そして、あしたカーテンを買うからといって泣いた。泣きながら2階へあがってった。父は作業場の灯りを消し、ぼくは眠ることにした。かの女はあした来るだろうかとおもいながら。
かの女は来なかった。ぼくは宿酔いでどうしようもなかった。入庫品を隠れて毀しまくった。踏んづけて、蹴飛ばした。かの女がやめるまであと1日しかない。この3ヶ月、なにもできなかった。その日、早退した。当然、主任は怒った。でも、それ以外にどうしようもなかった。かの女にできることはないだろうか、ぼくはそう考えつづけた。長い坂道を上りながら、どうやっておもいを伝えられるだろうかと考える。けっきょく、それまでの作品をまとめることにした。水彩画と写真、そして詩歌。なるべく量を抑えて、クリップで留める。そのページの最後に「好きでした」と書いた。これを渡そう。
朝、エレヴェータにかの女がいた。どうしようもなくうれしかったが、あしたでかの女とはお別れだ。できるだだけ話そう、話しかけようと考えた。かの女と眼があった。──おはよう。──かの女が応える。──おはよう。
きのう、ぜんぜん寝てなくてね。
わたしも、ずっとゲームしてた。
おれはギター弾いてた。
かの女は悦んだ。じぶんもまえにバンドをやってたといい、いまもギターとベースが室にあるといった。いまはゲームでぜんぜん触ってないことも。──それはみんないままで立ち聞きしてたことだった。
ドアーズってバンドの曲をやってた。
洋楽?
うん。
むつかしそう。
その日はずっとかの女の仕事を楽にできないかと立ち回った。でも、大したことにはならなかった。なんどか話かけただけだ。残業を終えて、服を着替えた。みんながかの女に話しかけてるあいだに駐輪場へ降り、かの女を待った。長いこと待った。よほど帰ろうかとおもったとき、かの女が降りてきた。フェイク・ファーのついた紫色のダウンと、カーキ色のズボンを穿いてる。かの女の笑顔がたまらなかった。
きょうで終わりだって?
うん、そう。
お疲れさまだったね。
ほんと、しんどかった。
ところで──といってぼくは鞄から作品をとりだした。──こんど、本を出すんだけど、よかったら読んでよ。
えー、凄いね。
咽がからからで声がでずらい。もっとなにかいいたいことがあるはずなのにいえなかった。かの女はぼくに手をふって、
じゃあ、またね。
たしかにそういった。そんなこと、あるはずもないのに。ぼくはかの女が林道を下って消えてゆくのを確かめ、ジョルノのエンジンをかけた。もう2月だ。また単調で、退屈な仕事が待ってる。ぼくから人間らしさを奪う仕事が待ってるんだ。ぼくはまた酒を買いに走った。きょうはとびきりの酒にしようと。やがて酒を手に入れ、バス停のまえで停まった。精神病院へとつづく暗い坂が植木のなかで延びている。無人のバス亭でなぜ呑んだ。どうしてかはわからない。泥酔の果て、だれかがやって来た。そしてなにごとかを呶鳴りながら、ぼくの上着を剥いだ。ぼくはそれをどうすることもできない。なにも聞こえない。なにもわからない。気がつくと、シャツ1枚で隧道を歩いてた。引き返してみる。ジョルノだけは無事だった。ぼくはそいつに跨がり、上着が落ちてないか探った。河床に引っ掛かってた。
かの女が辞めた翌日、おれは休み、クビになった。もうどうだっていい。それから飯場に潜り込み、あるいはスーパーの屑入れに潜り込み、あるいは医薬品の倉庫や、冷蔵倉庫にもいったりした。家にはいられなかった。父との折り合いはどうやってもつかないからだ。日銭稼ぎの、当てのない日がつづくなか、なにかが蝕まれていった。夜は公園で眠り、午は働く。あるいはその反対だってある。薄汚れたわが身を繕う、そんなゆとりもない。週に何度かはネット屋のシャワーを使ったりもしたけど、それも回数が減ってった。仕事がなくなってきたからだ。とにかくどうしようもない。仕事はなくとも酒はやめられなかった。いつもの店で、酒を買い、公園で呑んでた。暗がりのなかのベンチに坐り、昔から抱いてる多くの空想とともにして呑む。気づいたときにはだれかの室にいた。ぼくは起きあがってあたりを見る。
やっと、気ぃついたか?
ずいぶんまえに見たことのある顔だった。できれば見たくない顔だった。おそろしく退屈で、冗漫で、怠惰で、笑えもしないし、泣けもしない、もはや怒りの湧いて来ない顔だ。感情らしいものを見いだすのも億劫になる顔。そして鼻。
おれのこと、懐いだしたか?
ぼくはいった。
いいや、おまえなんか知らない。
ビールがまだあるでえ。
いいや、こんなところにはいたくないよ。
まあ、そういうなや、ほら、まえにいった子ぉ、連れてくるから。
わかったよ、さっさと連れて来いよ。
ああ、いま電話したるわ。
やつは臀のポケットから電話をだしてすぐにかけた。幽かに女の声がしてる。ぼくはしばらく我慢することにして、酒壜をとった。何度か、それを呷って、深い呼吸を繰り返す。もう泥酔もいいところにちがいない。やがて電話は終わって、やつが怪しい笑みを浮かべてぼくを見た。
すぐ来るそうやで。
そうか。
それで、そいつは美人か?
ああ、きれいやで。
やがて階段を昇る音がした。不定形の女が室に侵入して来る。定型に収めるにはどうしたらいいのか?──ぼくは慌てて酒壜を、そいつの顔にたたき込む。悲鳴がする。そのまんま立ちあがって、廊下まででると、階段を駈け降りた。やつが追って来る。なんだってこんなところにいるんだ!──まるでパラノイアみたいにぼくを追いかけるかげ。玄関にたどり着き、扉をあける。やつがぼくの肩に手をかける。一瞬ふり返る。でも、その顔は見えない。やがて照明倉庫の出庫口まで来る。エレヴェータに乗って、2階へあがった。急ぐ。もういなくなったかの女に与える辞を探しながら。もうじき去ってしまうかの女に伝える辞を探しながら焦る。倉庫は照明器具を扱ってる、かの女はそこでぼくと働いてたんだ。フロア・リーダーがぼくを怒鳴る。そして追いかける。ぼくは走る。やがて暗がりのなかでピッキングのリストがちばらり、鬱病の男がぼくを掴まえていう、きみはぼくの息子にそっくりだっていう。突き放してフロアの奥へ走る、主任は気味のわるい、口のわるい、品のない男で、あんなやつになんか負けたくない。でもおとついぼくはかの女にわかれをいって、そして翌る日、ふけたんだ。それでクビにされた。でも、いまはかの女は映画のなか、もっと若いころのかの女が映画にでてる、スクリーンの裏手まで、ぼくはいった。5階の男がさえぎる、**さんがなにかいってる、ケイシンや、もりか運輸、信州名鉄AとBやなんかのトラックがいっぱいで、なにも見えなくなる、それでもぼくはかの女のなまえを呼ぶ。
***さん!
おなじ町に棲んでたあの子、おなじ歳だったかの女、バンドをやってたあの女、みじかい髪が愛おしくなるようなあの子、ミヤザキからきたかの女、かの女が笑みを浮かべて立ってる。倉庫の制服を着てる。けれども、そこで眼が醒めた。ベンチは暗いまんまだ。けっきょく次の朝が来るまで呑むことにした。朝になって口入れ屋に電話する。あしたの仕事がないかを聞く。けっきょく、そんなものはない。パンを喰いながら、時間を潰す。おなじ状態がずっとつづくみたいな感覚だ。やがて日が暮れて、夜になって、ぼくはジョルノに跨がる。わずかガソリンを気にかけながら。──いったい、おれはなにをやってるんだろう。仕事もできず、家にもいられず、孤立してて、それが恢復する気配もない。金はあと、3千円ばかりしかない。望みがない。望みがなくて、なにかを始めようって気分にもなれない。問題があまりにも山積みで、どっかで手をだせばいいのかが、まるでわからないと来る。アルコール、アルコール、アルコール、──ただそれだけをおれのなづきが呼びつづけてる。タイヤ専門店の裏に段ボール置き場を見つけた。そこでぼくは身体を丸め、浅い眠りを眠った。翌日、ようやく仕事が入った。それも10日契約。**台の医薬品倉庫で仕分け作業。おもわず、小躍りしちまいそうになった。
ぼくはふとかの女が棲んでいるだろう場所を探して走った。もちろん、見つかりはしない。けっきょく丘のうえにあるスーパーで酒を仕込むことにした。残り少ない金でだ。洋酒は大して置いてない。ズブロッカの壜をみつけてレジにいく。そのとき、紫色のダウンが見えた。まちがいない。会計を済ませ、そのあとを追った。どうか、かの女が気づいてくれますようにと願いながら、近づく。ぼくはかの女の声を待っていたんだ。かの女が通りを渡り、公園に入る。そのままぼくも着いていく。かの女はふりむかない。ふりむいたところで、かの女はどうおもうだろうか。いままでにぼくをふった女たちをおもい浮かべた。くだらないことだ。かの女はふりむかない。ぼくはベンチに坐って酒をあけた。かの女はふりむかない。やがてそのうしろ姿も見えなくなって、気づくとじぶんでも知らないうちに泣いてた。
そのあと、ぼくは丘をくだって灯りの乏しい田舎道を歩いた。中古車ディーラーが点々としてる。あとはスタンドぐらい。車がぼくを、ぼくの人生を、そしてぼくの死をも追い越していく。まるで馬みたいに。雲がかぜに流され、それまで見えなかった月が姿を現した。まさしく、グレープフルーツ・ムーンだ。その光りのなかに一瞬立ち止まり、交差点を進む。ひとかげが浮かぶ。なにかがぶつかる音がしてる。中学生らしい少年たちが車道にむかってオレンジを投げつづけているのを見つけた。オレンジは道で弾け、あるいは轢かれて弾けて爆発し、果肉と汁を撒き散らした。
なにやってるの?
これ、黴が生えちゃったんだよ。
ダウン・パーカーを来た少年がいじわるそうな笑みを浮かべていった。いい眼をしてる。
で、投げてるのか。
そうだよ。
愉しい?
愉しいよ。
なるほどな。
おれも仲に入れてくれ。
ぼくはかれらにそういった。かれらは笑った。そしてオレンジをしっかと掴んで、車道を走る車にむかってみんなで投げつけた。それは貨物トラックのフロントグラスに当たり、運転手はハンドルを誤った。こっちへむかってくる。そしていま、少年たちが逃げ惑うなかで、ぼくは「広告募集」の看板のしたで、ただ立ってるだけだ。かの女がふりむかなかったみたいに、この世界がぼくにふりむかないのなら、──どうにでもなっちまえ。

あれから、3年が経った。どっか中部の町にいた。8月のこと。ちいさな建屋の、自動車修理解体工場のまえ、うづたかくされたもののあいまをぬうようにしてぼくは冷やされた緑の、その露をなめてる。とにかく舌が乾いた。うしろになにかが立ってる。ふるい冷蔵庫で、あけはなたれたとびらをむこうにふるい、ダイヤル回転式の黒いやつ。受話器を手にとってぼくは話しをしてみる。
やあ、おれだよ。
うん、そうだよ。
ああ、そうさ、でかいやまをあてたんだ。
いまに好きなことができるぜ。
えっ?
サツだって?
それはないね、おれのことはだれも知らない。
ああ、それは聞いてる。
でももんだいはない。わかってる。
お願いだ、きょうは1日じゅう、赤いのを着ててくれ。
じゃあ、頼むよ。──また遭おうぜ。
しばらく潜んなきゃ。
じゃあ。
そのまま切って倉庫へ引き返した。れもんの若木が子供をもぎとられた女になってる。集まってくる男たちはみな、ぼくに冷たかった。
逃げたんじゃねえかとおもったね。
祷ってたんですよ。
神を信じてんのか?
いえなにも。
じゃあ、なにに祷る?
この朝に。
ふざけるなよ。
おまえのせいで豚にされるのはいやだからな。
支度を終えて4人は車へ乗りこんだ。商品広告を載せたラッピングの白いバン、みな黙り、せかせかしたようすで莨を取りだす。いっせいに吸いだした。車庫の脇に植わった木が風で泣き、飼われてる犬が眼を醒ましはじめた。臆病な空気がそのへんに立ち込め、あるものは鼻を覆った。
おい、大丈夫だろうな?
助手席に坐った老人がぼくへいった。ぼくはビーディーを吸い、うつろなまなざしを朝日にむけていた。唇が分厚い。いちばん年少の27だ。──もちろん、だいじょうぶです。──その声は昏く、にぶいひびきがある。老人はなにかものを呑みこんだつらで、それを聞き、出発の合図をした。──どうなってもみんな一緒だ。
信じなかった。いつもみんな先にどこかへいってしまう。5月の終わり、じぶんのもとに届いた郵便をおもう。なかに詩の雑誌と入選を知らせる紙片が封入されていた。それを救貧院の事務室で受け取って、その場であけた。選評にはこう書かれてあった。

《カポーティの短篇小説を読んだことがありますか? その一節を描いたような魅力的な作品。特に第2連め。「汚れ」も、ある特定の精神に触れ言葉になれば、美しさに変わる、そんなことを思わずにはいられなかった》。

カポーティを読んだことがない。その来歴と写真を見たに過ぎない。作家はぼくの生まれた年に死んでいた。かれと同じくアルコールを呑みすぎていた。ぼくの知能指数は百にも満たなかったが、作家のそれは250あった。いくつかの作品についてあらすじを調べた。じぶんの棲むところとの遠い距離を感じ、当惑を憶えた。楽しめそうには思えない。ぼくは1年も職に就いておらず、ほとんどのものから孤立してた。
発進する車、そのゆさぶりを慈しみながら、おれはこんなものごともやがて美しさに変えてしまうのだろうかとおもった。なにも書かずにすむのなら、それがいちばんの救いのはずだ。書いてしまうことで本来、きれいだったものを醜く、穢れきったものを美しくかざりたててもしまうのだ。
モグラびとたちはいごろ、どうしてるだろうか。またあの臭気のなかで眠りをむさぼってるだろう。こうなってしまえば、おれだってそうしたい。きっかけは町にいるときだった。声をかけてきたのは老人のほうで、かれはやせぎずで、乱れきった髪をハンチングで隠しきれないまでに隠そうとしてた。しろいもみあげがいたいたしくみえる。
ここらに棲んでるのか?
はい、あそこの施設にです。
いい仕事があるんだが来ないか?
無理ですよ、門限があるますから。
何時までに?
8時までにです。朝は6時半から。
そっか。でも考えてくれよな。実入りはとにかくいいし、若いのがいるんだ。
ぼくのなまえや実家について訊きだすと、老人はスーパーを越えてどや街のほうへ入っていった。歩道の柵に洗濯物がかかってるところをぼくはみる。しばらく日に焼かれながら。それが去年の秋口だった。春になってぼくはアパートメントの1室を与えられた。居宅生活訓練といい、生活保護に値するかをみるのものだった。室はふるい色町のなかにあった。戸口をひらけた屋が何軒もならび、坐った女のひとの隣りで、年寄りのが客引きをしていた。──おにいさん! いかが! 日に渡される千円ではそんなところにはいけない。なにかわるいことをしたようにいつも声を通りすぎてた。
ぼくがそこを追い放たれたのはとある電話のせいだった。その日は朝から呑んでて吐きちらかすてまえにきていた。ゆうぐれどき、ほんのおもいつきでダイアルに手をかける。師事している老作家にだ。その声は冷め切ってた。
で、──なに?
作品、送ったのですが。
ああ、届いてるよ
どうでしたか?
少しあいだがあった。それから堰を切る、そのものだった。
どうでしたかじゃないよ。
あんたはおれに破門してくれって書いてきたんだぜ?
そんなやつがどうでしたか、なんてよくいえるな!
あんなきたならしい詩なんか送ってきやがって!
あんたはどうしてそう品がないんだ?
詩なんか猫かぶりでいいんだ!
あんたは酒に溺れてどんどん品がなくなってる。
あんたそれが自分でもわかってるだろ?
それをなんだ、三流雑誌に載って、
へんな女からわけのわかんない評がついたくらいで調子に乗るなよ!
あんたはみんなに迷惑かけてるんだ、
おやじさんにもおふくろさんにも姉さんにも妹たちにも施設のひとにも!
あんたは本当に家へ詫び状送ったのか?
あんたうそつきだからな、あんたの書いたことなんてひとつも信じられない!
あんたは姉や妹たちが嫁げなくなるようなものを書いて平気なのかよ、
だったらいますぐに死んじまえよ!
おれは品のないろくでなしでうそつきだとおもった。はじめからからねじくれてる。かつておれに品があったとはおもえない。ただ化けのかわがはがれてきたのだ。飯場を転々としたり、空き家の車庫で寝たり、公園で暮らすようなことがなければ、もう少し品があるように装いつづけることができたかも知れない。でも遅かった。だから黙って聞く。
あんたをおれを老いぼれって書いたけどな。
酒なんか呑んでるあんたよりも、
おれのほうがよっぽど脳は若いんだからな!
おれはいま中国の詩人の研究をしてるんだよ。
あいつらはな、ちょっとでもまずいこと書いたら殺されちまうんだぜ!
あんたなんかな、本当ならもうおしまいなんだよ。
あんた、なんであんなことを書いたんだ?
あんたはおれに褒めてもらいたくて詩を書いて送ってきたのか?
ええ、そうです。
甘えていました。
そうだろう。甘ったれてただろう。
あんたがおれについてとやかくいうのは許すよ。
それは許しますよ。
だけどな、あんたが先生についてくだらないこと書いてみろよ、
おれはあんたのことを探しだして殺しにいくからな!
作家とはじめてあったときのことを思いだしてた。老作家はいった。詩人は品のいいやくざだと。ぼくには義理も人情もない。じぶんを突き放す度胸もなかった。詩人はしゃべりまくり、とんでもない勢いで言の葉を放った。おれにはとてもそんなことはできない。おれが憶えたのはけっきょく言葉の模造品だ。本と映画と音楽によって育まれたつくりものに過ぎない。ひととの交わりのなかで培い、養ってきた人間に敵うはずはない。ただ聞いてるしかなかった。
おれはあんたをいったん破門するよ。
あんたがもしも先生について、
あなたにしか書けないようなやつを本1冊分書いたら許すよ。
できなかったらそのままお互いに忘れましょう。
電話を切ってからチューハイを干した。できることはなにもない。そのままぼくは救貧院にいったらしい。よく憶えていない。夕食の予約を入れてたから、それを断るわけにはいかないし、あまり酔ってもいないとおもってたらしい。
あっというまにあらわになって、ぼくはその夕べのライスカレーも、千円の支給もとめられ、すぐに実家へと送還された。
それは山のてっぺんにあった。高原と呼ばれ、まわりにはなにもない。バスも列車も、商店も、自動販売機も、浮浪者も、娼婦も狂人もなかった。日課といえば寝てるところを父にけられることだけだ。そしてたまに金を手に入れては酒を麓の町まで買いにでかけることだった。
ある夜、とんでもなく酔ってた。ぼくは母に怨みごとをぶっつけ、いちばんしたの妹を撲りつけ、木椅子で祖母の仏壇をはでに鳴らした。それから電気で死のうとおもいたって、どうやるかを考えてるうちに眠ってしまった。嘔きだしたもののうちでだ。つぎの朝、夜勤から帰ってきた父にこっぴどくやられた。荷物をすべて燃やされ、ぼくが密造してた口噛酒が室のそこらじゅうにばらまかれた。それはぼく自身にも注がれた。
その夜電話があった。老人からだ。
生きてるか?
死んでるほうがましでしょうね。
金儲けはすぐそこにある。ついてこいよ。
のったよ、じいさん。
その調子だ、兄ちゃん。
つぎの朝にはもう町へでてた。父の金をくすねて追い放たれたところへ。ぼくはまず、もぐらびとたちの巣へ招かれた。戦前からある地下道で、もとは水が流れていたらしいところだった。かれらはそこで暮らしてた。小舟のようなねぐらをならべ、ときおり流れてくる、不法投棄に備えてる。浅い汚濁のながれと豚のようなねずみが、あたりを飾ってて、ぼくは鼻を覆って耳をすます。老人が声をかけずとも、7人の男たちは舟を降りてきた。みないちように表情がない。くらい両の眼がぼくを見てた。──こいつだよ、**に棲んでたっていうのは。
若いくせに保護かよ。とんだくそやろうだな。
聞いたことあるぜ、いまじゃあ、将来性のあるやつを受けるって。
でも若いからってさきがあるとはかぎらねえ。
男なんてせいぜい10代のうちに底が見えてら。
少なくともこいつには、ないだろうな。
そう突っつくなよ。せっかくのやつなんだからな。
せっかくやつがこわされねえようにしねえとな。
わらいのないわらいを聞いた。ややあって老人は全員のなまえのみを明らかにした。しかしぼくは自身の来歴について証言しなければならなかった。産まれの土地から、学校や集まりへの遠ざかり、倉庫や飯場での流れようなんかをだ。
どもりがあるな。すこしだが。
ええ、そうなんです。
そうなんです、だとよ。
まあ、よしとしよう。
そうだ、よしだ。おれと似てるらしい。
よかったな、きみ。
老人の手が背中にかかる。その日は老人の知り合いの家へ泊まった。自動車修理解体場で、中心街からはずいぶんと遠い。列車に揺られながら、おもてをみる。灯しはすでにまばらになってた。挨拶も控えめにかれらへあたまをさげた。30代の夫妻だ。夫は肥えすぎで、妻のほうはといえばやせすぎだ。ほとんど肉を感じさせない。眼が鋭い。でも美しさと品はあった。
食卓におかれた作業手袋を棚へはらってから、妻は料理をならべだした。かの女は午、修理を請け負い、夜には女房にもどった。看板はない、広告もださない解体と修理、ここには車体のほかにもきずを持ったひとたちがくるらしいと察することができた。具の乏しい汁ものを妻は好み、夫は肉と脂を噛み砕いてる。そうしながらぼくの来歴を聞く。老人がそれを飾って、ことさら信用のある人物にみせかける。
あんたは広告貼りの格好してそこらをぶらついてくれたらいい。
わしはビラ配りのふりをしてたっているから。
車が着たらまずは警備員をよく見ろ。
やつらが金の入った鞄をだしたら、
おまえは糊のデッキブラシをそのつらにぶちこめ、
おれは鞄を奪う、
それで一緒に車に乗るんだ。
どっかで聞いた場面だなと思った。おもいだしてみるとそれは映画だった。不良少年とフランソワ・オランのはったヤマ。映画はいまいちだったが、ジョゼの原作はよかった。吹きだしそうになりながら喰ってた。あまりにばかばかしかった。でも、それがいいのかも知れない。
7人でやるには多すぎるとおもいますが。
これから削ってくんだよ。
あの全員が使えるとおもうか?
それでいつやるんです?
再来週の金曜日、その午后だ。
ふたりして倉庫の屋根裏に寝ころがった。23時、夜が長いとおもえば、もう酒のないことにふるえるような温さがみえた。それでももうじき、火曜日になる。 翌日からずっと工場の片づけをやらされた。草刈からはじめて機械の配置換えや、車体の移動にあくせくする。肩がわれるようになってるのを主人はなにもみえないようにふるまい、溶接機やら薬液の罐やらを転がすように運んでった。仕事が終わって湯を浴みてると、夫人が来て扉越しに声をかけてきた。
たいへんでしたでしょう?
ええ、こたえますね。
主人にはああすることしかできないのよ。
そうなんですか。
「ええ、わたし脱出したい。どこでもいいから」──してしまえばどうです?──無理なことよ。──それきり声はなく、ぼくはシャワーをかけつづけた。すると工場から声がした。それは犬の叫びに近い声だ。──おい、いいかげんに湯をとめろ! むだづかいするな!──食卓にいった。きのうとおなじものがそっくりでてきた。
どうしたの?──そんな顔して。
こいつには根性ってものがないんだ。だから少し動いただけで青ざめる。
主人は肉をとって頬張った。ぼくには与えてはくれない。
どうした? 文句でもあるのか?
いいえ、なにも。
気に入らないつらだ。
あいつはなんでおまえのようなやつを釣ったんだか。
わかりません。
いいか、わかりたいのはおれなんだ。
おまえじゃない。
おれの考えに入るな。
すみません。
たやすくあやまりやがって。
さっさと喰って失せろ。
衣服に染みこんだ、草や油の匂いをそのままにして寝床へ坐った。灯りの絞ったランプに本をひらき、てきとうにめくる。──おれに言わせりゃ、おまえはしゃれた女たらしってとこだ、とレネハンが言った。
このやまがもしもうまくいったらまずは女を買いにでかけよう。あの色町にいって垢を落としてやるんだ。童貞という垢をだ。電気式の後光によって照らされる女たち、客引きの老婦人ども、遊び人のくだらない連中を思いながら、からだがすぐに眠りを欲した。
夜が明けて老人が顔をだしてきた。車の手配が完了したという。裏庭にワゴンが運び込まれた。楡の木のもとをとうに廃車になったのが停まる。──こいつを直して塗装してくれ。真っ白にな。頼むよ。──主人は黙ってうなずき、車体を片手で撫ぜる。そうやって車の心音を確かめるかのようだ。──修理代と黙秘は前払いだ。
計画はどうなってるんです?
何人かを実際の広告や配布で働かせる、それで実行班の参考にするんだ。
ぼくはそれまでここに?
いいや、ちょいとやってもらいたいことがあるんだ。
まだいえないが。
それきりだ。老人は去り、またも重労働に狩りだされた。ワゴンを工場に運び入れ、まずは清掃だ。そのさきは主人の指導で道具や部品を手渡していった。はたからみていて男はあまり乗り気でないようだった。そしてまたおなじ夕餉。ぼくは酒が呑みたかった。
ちょっと買いものへいきたいのですが。
なぜだ?
呑みものを少し。
それくらいここにもある。
いえ、酒を。
酒だって?
ふざけるな!
ばかたれが!
おれが呑まないんだからおまえも呑むな!
じゃあ、ジンジャーエールとパンだけでも。
金を寄こせ、妻が買いにいく。
ぼくは逃げませんよ。
どうだろうな。
くそに毛の生えた臆病ものにしか見えないがな。
そのあとは黙りこくって汁を啜り、サラダを喰った。きざまれたアンチョビだけが唯一の肉だ。夫人はじぶんのぶんを済ませてから買いものへでかけてった。眠りに就くまえにそれらを口にしながら、いったいじぶんがどこにいるのかを考えつづけた。しかしこの土地のなまえすらわからず、いったいじぶんがどの役をやってるのかさえ不明だった。翌日、3人のもぐらどもそれぞれ面接にでかけたらしい。つらのましなのが撰ばれて襟を正した。しかし当たりはでなかった。つらはましでも歳を喰ってて、職歴もあいまいだったからだ。
つぎにふたりの男が面接を受けた。若づくりを施し、職歴を磨きあげていった。ひとりが採用されたものの、初日になってうそが暴かれ、戒告を受けた。そいつは腐ってやめちまった。そうやって、もぐらたちはすがたを消しつづけ、ふたりだけが残った。かれらは変装と身なりをととのえ、どやで待機に入った。
そしてぼくは作業員として暮らしつづけていた。夕餉のとき、主人がいう。
おまえ、うちで棲みこみにならないか?
え?
あんなじいさんのいってるおたわごとなんぞで人生をむだにすることはないぞ。
あんなの、昔しから最低の客だ、おやじの代からのな。
でもいまさら断れませんよ。金ももらっていますし。
それぐらい働いて返せるだろうが。
おれはあんなやろうのために捕まるのはごめんだね。
おまえはちからがないがまぢめにやってる。
どうだ?
考えさせてください。
まあ、いい。
どうせ帰ってくるさ。
喰いおえると皿を洗い、寝床へあがった。冷たい蒲団のうえで胡坐をかき、本をひらく。しかしもはやなにもあたまへ入って来なかった。捕まってしまえば執行猶予はないだろう。重犯罪者として顔が国じゅうにまわされる。おぼろげだった不安が難い現実へとすりかわっていくのをじっと見つめた。──それからまた走り出せば、ほどなくベガスだ。──だれかが戸を叩いた。
「電話よ、じいさんから」──子機を差しだす夫人の手が廊下の燈しで光ってた。しばらくみていたかったが、あきらめて耳をあてる。──おまえさんにも仕事をやらせる。──なんですか?──あの奥さんとの仲をとりもってほしい。
え?
どうやって?
にぶいやつだな。ふたりきりにしてほしいんだよ。
わかりましたよ。
なんとかやってみます。
終わった通話を反芻しながら、ぼくは夫人の顔をみた。どうしたらいいのかが、まるでわからない。やせぎすだが美しい女、ぼくはそう名づけてからおもいなおして削除した。ばからしいものだ。なんだってこんなことをしなければならないのか。木曜の午、主人はでかけてった。ぼくは電話で老人を呼びだし、夫人を居間に呼んだ。あとは知らん顔を決め、廊下に立つ。やがてふたりが話しはじめた。それをぢっして聞く。それくらいしかできなかった。
「なあ、奥さん。あなたはダイエットのし過ぎだよ」──ええ、わかってます。でももう粗食になれてしまって。いまさら返られないのよ。──まえにいってたよな、こっからでたいって。──その望み叶えてやれるよ、もうじき。明日だ。──期待できません。──そんなこたぁない!──あとにはえんえんと老人の講釈がつづく。ぼくは壁越しに聞きながら、手錠の重さについてめぐらしてた。

金曜の明け方だった。うづたかくされた車体のあいまを縫うようにしてぼくは冷やされた緑の、その露をなめてた。とにかく舌が乾く。うしろになにかが立ってる。ふるい冷蔵庫で、あけはなたれたとびらには、ふるい、ダイヤル回転式の黒いやつ。受話器を手にとって話しをしてみる。
どなた?
やあ、おれだよ。
おれさんね? 元気にしてるの?
うん、そうだよ。
いまどこに棲んでるの? お金は持ってるの? それとも盗みでもやってる?
ああ、そうさ、でかいやまをあてたんだ。
いまに好きなことができるぜ。
無駄なあらがいよ、すぐに捕まるって。
えっ?
警察だって。
サツだって?
決まってるじゃない。
それはないね、おれのことはだれも知らない。
裏切りものだってでてくる。
ああ、それは聞いてる。
じゃあ、さっさと逃げて。
でももんだいはない。ぜんぶわかってる。
なにがぜんぶよ。わかってない。
お願いだ、きょうは1日じゅう、赤いのを着ててくれ。
──わかった。
じゃあ、頼むよ。──また遭おうぜ。
しばらく潜んなきゃ。
じゃあ。
ぜったいに捕まるって。
切って倉庫へ引き返した。れもんの若木が子供をもぎとられた女になってる。集まってくる男たちはみな、ぼくに冷たかった。
逃げたんじゃねえかとおもったね。
祷ってたんですよ。
神を信じてんのか?
いえなにも。
じゃあ、なにに祷る?
この朝に。
ふざけるなよ。
おまえのせいで豚にされるのはいやだからな。
車が走り出して30分が過ぎた。まず右後輪のタイヤがおかしくなりだした。煙がでたなとおもううち、車内へ強烈な臭いが発ちこめ、みなが顔を覆う。ぼくが片手で窓をあけてるま、車首はぶるぶるふるえだし、何台もの対向車から警笛を喰らった挙句、路肩にぶつかった。あとは静かなものだった。みな車を囲んで、無言のまま見つめていた。老人だけは怒り狂って手がつけられないありさまだった。安物の背広をしわだらけにしながら車体に蹴りを入れていた。やがてそれもおとなしくなった。息を切らし、空を見た。ぼくは莨を吸いたいのを堪え、じっと手を組んだ。朝の忙しい往来のなかに何人か、好みの女を見つけ、あたまのうちに留める。じぶんが真剣にものごとをうけとめられないことを笑いそうになった。あわてて打ち消し、状況に眼をやる。時間はあまりなかった。
ここらで車を奪おう
老人がいった。男たちは静かにうなづいて歩道を歩き出した。その先にコンビニエンス・ストアがある。それがはっきり見える。陽を浴みて白い。
だめだ、もう。
男のひとりが頭をふった。つよくふったから、そのままあたまがはずれてしまいそうにみえた。ひとりひとりがばらばらになって失せ、ぼくは老人とバスに乗って工場へともどった。主人はいない。どうやらしばらく潜るつもりらしい。妻は車庫で車を磨いてた。57年式のサラトガ。黒い車体をよりいっそう黒くしながら、かの女の腿が昏らがりのうちでひらめく。布切れには血みたいのがついていた。血のような血だった。
だめでしたよ、まったくだめでした。
そうでしょうね。
わかってたわ。──主人はいま、いないのよ。
しかしぼくは仕事にとりかかってた。鉄くず運びにただただ汗を流す。午が来て、それもやがてかなただ。夕餉を済ませてからふたりで寝室にいったとき、ぼくはじぶんの靴をかの女の寝台のしたへおいた。夜は傷みだした、鱈の臭いがする。とてもかんたんに篩いにかけられてたのだ。なにに?
どうせなら、着飾ってくださいよ、きれいに。
めんどうだわ。
でもそのほうが楽しめそうだ。
女には肉らしいのがなかったから注文した。すこしでもいいから他人のからだを感じたい。ぼくには裸なんてなにもおもしろくもなかった。めんどうにおもいながらもかの女は盛装してくれた。夏物のドレスにみじかい手袋をつけて、ストッキングとハイヒール。薄化粧に装身具、そして帽子。ぼくはかの女をうえにしてしっかりとかまえた。たがいの微笑みが工場からのグラインダーの音にぶつかる。老人がなにかやってるらしい。やがてそれも失せ、足音が廊下を伝わった。
そこまでだ。
そうやつがいう。
いますぐにここをあけろ!
あけるんだ!
戸口のむこうからいつまでも声がしてる。いつまでもぼくは笑ってた。笑いながら腰をふりふりして、かの女を愛していた。いままでに恋したすべての女たちのことをおもいながら。老人の叫びもやまない。やつの手にはつくったばかりの兇器が握られているのだ。おそらくは。
おれの役割なんだぞ!
そいつは!

2019年11月29日公開

© 2019 中田満帆

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