四発

応募作品

牧野楠葉

小説

3,652文字

「銃」合評会2019年11月応募作品。フランシス・ベーコン《STUDY OF A DOG》1954、油彩、カンヴァス、152.5 x 118cm、テート・ギャラリー蔵。

タータらー、ではない。たッアラー、であるのに私の指はピアノの上でタータらーと間延びしている。右に座った母の腕が激しく私の手の甲を打つ。母は細身の赤いワンピースを着ている。母は私のピアノの先生を盲信している。
「また来週も、『タータらー』で、怒られるの? 何度、同じ間違いをするの? また、恥をかかせるの?」

私の手の甲はもう少しで母のワンピースの色と同じになる、おそらく二時間後には。ひとつ言いたいのは、私は『タータらー』、とやりたいわけではないということだ。できれば『たッアラー』、と、私と同い年で県のピアノコンクールで金賞を取った時沢くんのようにやりたい。ピアノのレッスンから帰ってきてから始まる、母とのピアノレッスン。この炙られるような時間は、『たッアラー』とできさえすれば、短くなると私は信じていた。でも何度やっても『タータらー』、になってしまいそれはなぜかわからなかった。先生のお手本を何度も見て、一度は『たッアラー』に近い何かになったはずなのに。目の前の譜面を見て私は指を動かしてみるがそれはまた『タータらー』に戻っていた。母が叫んだ。酷い金切り声だった。私は心の中で笑うしかなかった。これは今日も朝まで続くだろう。腕が打たれた。二時間もかからなかった。私はついに真っ赤になった手の甲を見て声を出して笑った。
「ママが時沢くんを産んでたら楽だったのになあ」私は幼いながらも時沢くんの母になれなかった母を心から憐んでいた。
「何言ってんの? うまくなりたくないの? ねえ、うまくなりたくないの? やる気がないの?」声のボルテージがあがってきて、あ、と思った時にはもう遅かった。今度は手の甲じゃなくて、肩に拳だった。

今日ピアノのレッスンのすれ違いの際、有名なピアノ科がある中学から推薦がきた時沢くんに、「おめでとう」と言ったら、「僕は宇宙の研究をしたいのでピアノ科は断ろうと思ってる」と返され、レッスンに一緒についてきた母は数秒固まり、そんで「あれだけ弾けたらもうピアノはいいわよね、時沢くんはインテリになるのよね」と惚けた目で時沢くんを見た。

結局母は私にピアノなのか宇宙の研究なのか何をして欲しいんだろうか?

 

 

大きな控え室の部屋で皆がお母さんにメイクをしてもらっている。今日はクリスマスに毎年開かれるバレエ教室の舞台だ。『超一流の人しか上がれない舞台』を教室の皆でお金を出して貸し切るのだそうだ。母は私のバレエの先生を盲信している。

中学にあがり、ようやく母は私にピアノの才能はない、とわかってくれたと思ったら、その情熱は幼稚園から通わされているバレエに向いた。同じ中学校のクラスメイトでもあるさやかちゃんは白いチュチュを着ており私たちのプログラムの主役だった。さやかちゃんはお母さんにピンクのアイシャドウを塗ってもらいながら私に手を振った。
「赤いマスカラがあるの」

さやかちゃんのぴらぴらとしたチュチュを見ながら母は言った。
「せっかくの舞台、人一倍目立たたなきゃだめでしょう。お父さんも流石にこの舞台代と衣装代聞いて卒倒するレベルなんだから。黒いマスカラなんか塗っても普通でしょ。だからディオールの赤いマスカラを塗りなさい」そう言って母は細い指で化粧ポーチから赤い棒を取り出し、ほとんど首絞めに近い状態で、無理矢理に睫毛にマスカラを塗ろうとしてきたので私は暴れ、それを奪い取り放り投げたら、ガラスにパキーンと当たったようで、ごたついた控え室が、シーンとなった。
「何してんの! 何でいっつも言うこと聞かないの!」
「……できれば、できれば、怒らないで聞いてほしいんだけど。まあ無理だよね、あの、主役の白鳥だったら、目立ってもいいと思う。目立つべきだと思う。でも、私は、シーンの切り替えで、大きな月が出てきて、ああ確かにこれは綺麗だねと、ポンポコポンと言って、ほんのちょっと踊るだけの狸の役ってこと、わかってるよね? 知ってるでしょ? この着ぐるみ、夜な夜な縫って作ったのママだよね。私は自分でやるからいいって言ったのに作りたがったのはママだからよくわかってるよね。で、肝心の話だけど、『白鳥と湖』には狸なんか出てこないよね。でもヘタクソな子も全員で舞台に立ちましょう、お金は一律で貰うんだし。ってことで急遽生み出されたのが狸という役だよね。そんな狸がディ」
「勝手にしなさい!」母はあろうことかその場で涙した。「せっかく先生が役をくれたのに……」

長い髪とミンクの毛皮が小刻みに揺れ始め、そしてそれはだんだんと大きくなり、同級生のお母さんが駆け寄ってきて、希子ちゃんママしっかり、しっかりしてとなって、誰かお父さんを呼んできてと騒ぎになり、私は同級生のママたちから冷たい目で睨まれ、最近殴られた後に出るようになった過呼吸の予感を感じて控え室隣のトイレへ走った。私はなぜ母が泣くのか一切わからなかった。

口をおさえ、鼻で大きく息をしながら、呼吸を整える。今日舞台を観に来る祖父と祖母と従兄弟のお母さんとお父さんとパパとホテルで夕食を食べて家に帰ったら、また後ろから、横から、腕が飛んできて、母の声のボルテージが上がって……。私は鏡の中の自分を見て笑った。茶色の大きな狸の着ぐるみを着た白塗りの女が、ギラギラとしたピンクの口紅をつけていて、普通に気持ち悪かった。

 

 

高校生になると私は毎日、母の作った弁当をトイレに流した。すぐ、骨と皮になった。やがて不眠症状が始まり、私はベッドから石のように動けなくなる日と、別人のように体が軽やかになって何時間でも勉強できる日が続き、私には晴れて病名がついた。母の弟も精神疾患で、そのことを母は自分の人生の一番の汚点だと思っていた。子どものとき、もし、と母は一枚の写真を見せながらよく言った。この人が希子ちゃんに話しかけてきたら走って逃げなさい。頭がおかしいの。いきなり寝込んだり、いきなり喋り出したりして、気持ち悪いのよ。今私はベッドで彼と同じ『石』の期間を過ごしている。頭に靄がかかっている。
「何笑ってるの、何で私の娘がこうなるのよ!」天井のランプがぐらんぐらんと揺れた。
「やめろ、きちがい、きちがい!」父は止めてくれたけど、何もかも、遅かった。父は、ピアノの時も、バレエの時も、常に私が受けていた虐待を、その痣で知っていたはずだ。私が必死に絆創膏で隠そうとしていた肩のそれへ父は何度も視線をやったのに、今母が自分の隣でこうなるまで見て見ぬふりをしていたのだから、もう何もかも、遅すぎた。

 

 

母の中で『気持ち悪い子』『関わりたくない子』となった私の代わりに標的となったのは八つ年の離れた弟だった。私は母のボルテージが上がるその瞬間を知っている。そうなったらもう止まらないことも。だから可哀想に医学部という枷を背負わされた弟が塾のテストの結果を母に見せる寸前にはどんなに体調が悪かろうが良かろうが自分の部屋の前に立って、息を潜めて、母の声色の微妙な変化を察知して、代わりになった。だからこそ弟がリビングの椅子で殴られることは一度もなかった。私はそれを今でも、人生で成し得ることができた唯一の素晴らしかった点だと思っている。母は弟の代わりに椅子の下敷きになった私を見て、いつも言った。
「それで偉いとでも思ってる?」
「思ってない」
「庇って、ヒーロー気取り?」
「違う」

そして、それから八年間が過ぎた。大学卒業後さっさと東京に逃げてきて、社会人になり、私は婚約することになった。実家に弟を残してきたことがずっと私を苦しめていた。一応軽めに両親に伝えた。すると母からメールが一通来た。

また煙草始めたんだって? NHKのニュースで煙草は有毒ガスを吸い込んでるのと同じってやっていました。せっかく優しい彼氏が出来たことだし、私もパパも老い先短いから、私たちのためになるべく辞めるようにしてね。私は希子ちゃんが幸せになることしか願っていません。でも結婚となると、子どもの頃の楽しくてハッピーな思い出が懐かしいですね。希子ちゃんはピアノもバレエも上手で自慢の娘でした。病気だけ相手の人にバレないようにね。バレて捨てられたら私たちも死にきれません。小さい頃のやんちゃで可愛かった希子ちゃんの話、今度彼氏に会ったときにたくさん話したいと思います。ではまた次の連休に。……

私は会社の帰り道、それを読みながら歩いていた。「全部なかったことになってるなあ、」私は笑った。見事なまでに母の中からそれは削り取られているようだった。

私はふと立ち止まり、携帯を道路に落とし、それから踏んで踏んで踏んで、跡形もなくなるまで、画面がバキバキになるまで、思い切りヒールで踏みつけて、そしたらぶワりと昔の暗い記憶にずるずると襲われて、今度は電柱に思いっきり頭を打ちつけた。スマホの画面みたいに粉々になるようにと願って、何度も何度も何度も。何度も何度も。何度も。

 

2019年10月13日公開

© 2019 牧野楠葉

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私小説 純文学

"四発"へのコメント 16

  • 投稿者 | 2019-11-05 00:39

    拝読いたしました!
    四発って何だろう、どういう風に銃というモチーフを物語に埋め込んだんだろう、ということはわからなかったのですが、とにかく響きました。
    所謂行き過ぎて虐待になる教育ママってたまに書かれているのを見かけますが、この作品には手触りがあるなと思いました。換言すれば実感がこもってる。
    細部を対比の関係におくことでシーンを印象的に見せるとかそういう仕掛けもうまく効いていて、完成度がとても高くて、もうなんというかすごく心に残りました。

    • 投稿者 | 2019-11-05 00:40

      フランシスベーコンいいですよね。

  • 投稿者 | 2019-11-10 18:09

    教育ママのいやらしさが出て心地よい不快感に包まれました。

    本文中の「・」はそこで発砲されてるってことかな?と解釈しました。場面切り替わるタイミングでバーン、と。(母親を撃ち殺したくなった四つのエピソードという意味?)。なんにせよ、面白かったです。

  • 投稿者 | 2019-11-14 20:01

    選び抜かれた「四発」で構成された隙のない掌編。ただ、見事。

  • 投稿者 | 2019-11-16 13:27

    母の娘に対する歪んだ愛、あるいは無自覚な暴力を、娘の視点から描かれていますが、この娘が自分の子を産み育てる時、かつての母の振る舞いがどう映るのだろうかと思いました。憎悪が深まるばかりかもしれないし、自分が母になったことで気づかなかった何かに気づくのかもしれません。

  • 投稿者 | 2019-11-17 19:48

    四発、心を打ち抜いた銃弾と言えば恋愛が連想されがちですが、ここにあるそれは人生で自分の心に消えることのない傷を負わせ、四回に渡って殺された心の叫びが記されていると読みました。少しお題からは離れているかなと感じましたが、銃社会ではない日本の社会で生きる我々にとって虐待という問題は銃よりも命と尊厳に関わる重要なテーマだと思います。自分にはこういった経験は無いので想像の域を出ませんが、そんな自分でもとても実感的な生々しさが赤色というコントラストとともに感じられる筆圧の高さに毎度ながら感服します。個人的にはこの母親の幼少期の物語を知りたい、と思いました。

    • 投稿者 | 2019-11-17 19:50

      筆圧×→筆致

    • 投稿者 | 2019-11-23 22:28

      以前から作品を拝読していますが、やはり巧い。ディテールに過不足がない。母と子の逃れがたい関係性を上手く描写されていると思います。長編で読みたいと思いました。
      ひとつ言うとすれば、これだけ巧い作者さんなら「ここまで書かなくても伝わるのでは」と思う箇所があったことです。たとえばバレエのシーンの自分の姿を鏡で見るところ、「普通に気持ち悪い~」の部分はなくても少女の胸に去来する感情は充分伝わるし、書かないことで更に奥行きをだせるのかな!と思いました。
      いや、でも巧いです。

  • 編集者 | 2019-11-18 11:17

    剥き出しの銃口があらゆる方向に向けられている家庭。子どもの逃げ場の無さを思うと、作品で余すところなく表現されてるが、辛いものがある。そしてそれが解決などしないということも。・が銃声なら、最後の一発は自分で自分に向けたものだろうか。凄まじい作品だった。

  • 投稿者 | 2019-11-18 20:31

    そうか、「・」は銃弾を表していたんですね。装填された四つの物語の精神的衝撃を銃弾になぞらえ、繋げ方も見事でした。牧野さんの描く内面描写は鬼気迫るものがありますね。

  • 投稿者 | 2019-11-20 23:41

    出だしが凄く良いです。太宰治の「斜陽」以来の最高の出だしかも。これだけで星五つ付けたい。その上、最後も良い。
    もうすこしだけ表現の熱を抑え、さりげなく描写した方が、家族こそが一番初めの狂気であり凶器であることの恐ろしさおぞましさが生きてくると思いました。
    お題の銃を前面に出す工夫があればなおいいかな。
    良い作品です。

  • 投稿者 | 2019-11-22 06:36

    合評会向けかどうかはさておき、小説単体としてよく書けている。私は毒親ぶりよりも、主人公の自己評価の不当な低さが気になった。嫌々ながらでも続けていれば少しは上達するのだから、さすがにタヌキ役は大げさすぎる。鏡に映った自分自身を見る描写の醜さもかなり強烈だ。親が子どもにかけてきた期待が内面化されているように見える。私は彼女を全力で肯定してあげたい。

  • 投稿者 | 2019-11-22 13:01

    少し、自分の両親と被る部分があって、読み進める度に辛かった。しかし、そう思わせることが出来る筆致や内面描写の説得力が、この作品の持つ確かな魅力なのだと思います。とても好きです。

  • 投稿者 | 2019-11-22 14:23

    銃というテーマでなければ書けない小説か、と言われるとそうではないかもしれません。書きたいテーマを書き、最後にお題の要素をふりかけたような印象は拭えませんでした。とはいえ、そんな合評会的な話はどうでもよく、ひとつの文章としてとても良かったです。主人公の感情の破裂は銃的な一方で、親の暴力はまた別の質を感じました。

  • 投稿者 | 2019-11-22 23:58

    【・】は装弾、つまりリロードしているのでしょうか。
    一つ一つ弾丸を込め、プチッと切れたとき、その弾丸が飛んでいく。
    人が切れる過程を拝見しました。

  • 投稿者 | 2019-11-24 17:48

    徹底した放任主義で育ったので、実際のところはわからいないのだけど、親が子離れできないのはキツい。

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