罪と真で信

小西真由

小説

34,409文字

SF風純文学のつもりで書きました。
よろしければ、感想ください。

琵琶湖は巨大な不確定物体に水を吸われた。

穏やかな波と近隣住民のざわめきがぶつかって曇天をより暗くさせている。

いつものように生水特有の臭いしか漂ってこず、環境被害が直接出るような物じゃなくて少し安心した。ただ、何でできた塊なのか見当もつかないからと誰もが遠巻きに眺めている状況であり、近寄った感想はもちろん誰もわからないのだった。肝心の警察も、調べているというよりかはひそひそと適当に相談し合っているように見え、時間だけが過ぎていく。

日課の早朝ジョギングをしていた老人が砂浜に打ち上げられた人間十人分はあろうかという不確定物体を発見し、通報して今に至る。盗み聞きした噂話を繋ぎ合わせただけなので真偽はわからず仕舞いではあるが。

見た目からわかることはほとんどないのに、人間は無限に増えて群がる。

エナメル素材ばりに黒光りし、完成した一枚の絵に黒の絵具を上から水も混ぜずに塗り重ねたように周りの風景から浮いている。

凹凸どころか、物には大抵ある切れ目や動植物にあるような節が抜け落ちており、地球に存在を許されていないもののようにも見えてしまう。

僕はその物体がドラマの小道具なのではないかと疑っていた。どこだカメラは。周囲を見回してもどこにもそんな物はない。

職場で大きな話題の種になっていたのにこんなもんかと拍子抜けした。観察しがいがない。野次馬の一部が騒ぎ始めたので、その場から離れた。

 琵琶湖は綺麗な水域と汚い水域にはっきりと分かれている。僕のいる地域は綺麗なほうで、不確定物体はおろか、魚の死骸も浮いてこないような場所だ。人々があんなにこぞって見たがるのも無理はない。

これだけ大事になれば、仕事に影響が出るのは確実だ。

 僕の働いている市役所は他の市役所よりもこぢんまりとしていて、市民の意見をよく取り入れようという動きが強いため、老人が何気ないことでも相談してくることが多い。謎の物体ともなれば、不安がる声がどっと押し寄せることは安易に想像がつく。

それだけでなく、マスコミや他府県から訪れた人々の対応にも追われることも考えられる。これは厄介なことになる。仕事に睡眠時間を削られる生活が目に見えた。

体は家に向かっていても気持ちは離れたがっていた。職場では気を張っていて、家と職場の中間にある琵琶湖だけが息のできる場所だったのに掻っ攫われた。

琵琶湖なんかじゃなく、きちんと相談する場所や趣味を作った方がいいと考えてはいるものの、何となく避けてしまっているのが現状だった。

「ただいま、おかえり」

玄関を開けるとまず異臭が鼻を突く。迎えてくれるのは決まって母の汚物だ。

母は部屋の隅に頭を入れるようにして横になっている。

初めは地獄絵図だと思ったこの光景も今では日常の一部だ。

人間の営みさえ満足にできない母のことを動物以下だと一時期から思うようにしている。動物以下の生き物を育てているという暗示をかけると現実が心にすとんと収まるような気がするのだ。

はいはいはいはいと小さく独り言を呟きながら淡々と片づけていく。元気だった頃の母の癖を真似しながら母の世話をしている自分に気づきたくなかった。

 母の口元にサンドイッチの鋭角を刺す。コンビニで買ってきた廃棄寸前の物を食べさせるのが癖になっている。レタスは変色し、パンは干からびているが、チーズだけはぴかぴかと照り輝いている。母は紫色の唇を固く閉じている。意地でも食べようとしない。僕の思惑に勘づいているとかではなく、食べる行為そのものが嫌いなのである。小さくちぎってやってもその手を叩いてくる。几帳面な形をしていたサンドイッチが徐々に塵となっていく。捨てられるはずだった物が母の手でごみらしくなっていくのはなぜだか納得がいかない。お前に食べ物を捨てる資格はないんだよとついには床に散りぢりになったパン屑を母の唇に貼りつける。紫に白がよく映えること。舌で舐めとってくれるのを期待したが、唾をこちらに飛ばしてパン屑を床に落とした。数滴、僕の鼻の頭に母の唾が飛んできた。呼気と同じ匂いをしたそれは空気に触れるともっと臭くなっていく。拭おうとすると母は僕の手を掴んで阻止してくる。話を聞いてほしそうに口を縦に開いた隙にサンドイッチだった物を押し込んだ。喉につっかえるまで指で押した。むせてサンドイッチが飛び出してくるかと思ったが、母は奥歯をゆっくりと合わせようとした。差し込んだ僕の指まで噛もうとしてきたのでひゅっと引っこ抜くと、サンドイッチのかすと母の唾液が粘っこくまとわりついていた。汚物の臭いにそっくりだった。人間の口と口は繋がっているのだと思った。

 透明だった空気が暗い色をつけて僕の上にのしかかる。もしかしたら、母の上にはもっと重いものがずっと前からのっていたのかもしれない。そして、それらはまだ膨らみ続けている。早く取ってあげたい。自分なりに調べて色々と試してみたが、効果はなかった。だからと言って、医者はあてにならない。取ってつけたように入院や施設に入るのを勧めてくるだけ。金があればもちろん最初からそうしていた。それに、冷たい場所に閉じ込めるよりかは慣れないながらも、息子の僕が看た方がずっといいという思いも捨てきれない。

進行するばかりではないのだ。何も刺激を与えなければこのままひっそりと暮らしていけるのだ。

母だけの問題に僕が潜り込んでいるような気にもなったが、なんだかんだ母は僕がいなけりゃ生きることももう、ままならないのだ。

 仕事と母を天秤にかけるなら、迷わず母を取る。しかし、今度は生活面で苦しくなる。僕がこの家で唯一の働き手であり、母の世話係なのだ。その両立は無謀だ。母の世話でやむなく仕事を休むことも少なくない。日に日に肩身が狭くなって、いつか立場ごとなくなるんじゃないかとびくびくしている。

 職場の上司に時間的な融通のために母のことを軽く伝えているつもりでも、向こうは変な風に踏み込んでくるばかりで全く聞く耳を持たない。

「長いこと家で見てるんでしょ、お母さん。いい施設か病院に入れば、いくらかマシになるんだろうけどねぇ。最近じゃ空きもないし高いし、しんどいだろねぇ」

間延びした口調が余計いらつかせる。土足で上がり込んでくるどころか泥を塗りたくってくる神経の持ち主である。

「慣れましたよ。残業はなるべくないと嬉しいですが」

「誰だってそうだよ」

お互い薄く笑った。

「あのさ、入院費用の半分で面倒見てもらえるって最近噂になってるとこ知ってる?」

もったいぶっているところを見ると、よっぽどいい話なのだろうが、あまり乗りたくない気持ちの方が大きい。

「木士島ってとこ知ってるかな」

「まぁ、はい」

淡水に囲まれた島の一つである木士島。観光船が近くを通るだけの島で、滋賀県民でも存在を忘れる程度のごく小さな島。

僕の住んでいる所からでは島影すら見えないので、琵琶湖の上にある島というのは幻のようになってしまっている。

上司はいやらしさを足した声を出す。

「そこってさ、知る人ぞ知る療養所らしいんだよね。人の手が絶対いる人とか、かなり悪化した人じゃないと受け入れないみたいな噂もあるらしくってさ」

そんな噂聞いたこともない。それに、ほとんど無人島だという話を遠い昔にされた気もするし、どうにも信じがたい。

「迷信ですよ」

「とか言ってるでしょ。こんなの入ったんだよ」

上司が手に持つ薄い紙に目を落とした。施設選びに困っている要介護、要介助の人に木士島を勧めてほしいとの旨が書かれている。要請を出しているのは滋賀県である。

「これを貼るついでに口でも説明できるようにしとけだと。上は仕事増やすしかしないんだよなぁ、まったく」

そう言いながら頭をぽりぽりと掻く。

保健所ではなく、市役所に紙を入れるあたり、本気で広めてほしいというのが伝わってくる。

費用も掛からず、重病者や重い障害を持つ人間ばかり受け入れているのであれば、うちの母もそこで余生を過ごせるかもしれない。僕がこれだけ尽くしても悪化する一方だということは他人に預けろということなのかもしれない。あとは母がどういった反応を示すか次第ではあるが、話すだけでもしてみたい。

上司から同じ紙を一枚もらって家に持ち帰った。

早く島のことを話したいと思いながら汚物の痕を拭いている。こんなことでは母はあの黒い不確定物体と変わらない。存在自体は間違いなく有害だけれども、事情があって無下にはできないところがそっくりだ。

母は隅に頭を入れるだけでは足らず、頭を守るように手で抱えている。耳をふさいでいるようにも見える。時折、なんでという呟きも聞こえる。

母の声はいつだって苦しそうだ。そんなに苦しまなくてもいいんだよと背中をさすってやりたいが、気分が落ちこんでいる時は触らないほうがいいというのを以前学んだのでそっとしておく。

世話をしたくなるのは完全な自己満足だと知っているので、せめて表にはでないように蓋をそっと閉める。

僕だって苦しいよ。母さんと別のところで幸せになりたいんだよ。心臓の底が軋んだ。

早くにこの家から離脱した父を羨ましく思う。僕も一緒に離脱したかった。母が壊れる前にもっと早く。

母は唸って僕の背中をぼこぼこと叩く。主張するなら口で、というのももう通じない相手と僕はどちらかが死ぬまで繋がれている。

そろそろ手離したって罰は当たらないだろう。すっかり細くなっていつ切れてもおかしくない頼みの綱をつい握りしめた。

ぐしゃりと気持ちのいい音。いとも簡単に屑になってしまう。大切にしていた物が一瞬で。

表現できない感情はどこかにぶつけようもなく僕の胃の上に居座り続ける。表に出せたらきっとこんなことになっていない。片手に収まった紙を投げることもできない自分が情けなくてしょうがない。

弱々しい日差しが僕の手首に当たったが、すぐに陰に戻った。

自分をなだめるように紙を伸ばし、木士島の電話番号を押す。間違ってないよな。何度も確認しているという時点で自分の緊張具合をはたと自覚する。

「もしもし、」

「はい。こちら木士島でございます」

「あの、津田という者なんですけど、島の見学というか、できれば母をそちらに預けたいんですけども」

「お母様のご病状は」

「重度の認知症です。六歳ぐらいの精神年齢です」

向こうの息遣いどころか、気配すらなくなった。

「……では、三日後の午後三時に長浜港まで船を回しますのでそちらまでいらしてください」

ぷつりと電話が切れた。受話器を思わず見てしまう。

これは母を預けてもいいということだろうか。

丁寧なのか不愛想なのかよくわからなかった。

電話の相手のような人間ばかりだったら母を預けるのは少し不安だ。見学した時点で母が馴染めなさそうに感じたらすぐにでも連れて帰ってこよう。

そうは思いつつも、楽しそうに問題なく島で暮らす母の姿を脳内が自動再生している。これは僕の願いだ。

僕はここに残って僕の人生を全うしなければならない。生まれた意味を味わわせてほしい。母のせいで崩れた本来の人生を。

母さんはこれから島で暮らすかもしれない。僕とは違うところで暮らすんだよ。母の背中に向かって、なるべく落ち着いて話す。唸り声が収まる。何となく伝わったらしい。

「ごめん」小さくそう言うと、母はまた唸り始めた。

母の移住の準備をするため、掌でばしりと太腿を叩いた。

 琵琶湖に浮かぶ二つの観光船とは別の船に二人で乗り込んだ。

小さい船だ。木士島行きの船は木士島の人間が呼ばないと港まで来ないというのを船の操縦士に聞いた。つまりは招かれる形でしか、木士島に行くことができないのである。

木士島まで三十分ほど。その間、母とのささやかな旅行気分でいることにした。

母は久々に口元を緩ませて目尻を下げている。これは笑顔だ。

不確定物体が見つかった時と同じような空模様だ。不安を煽る色。僕ら親子みたいに受け身だ。幸せや不幸せがどんなものなのかもわからない。自分で自分の気持ちを回収できない。他人に委ね切ったらこうなってしまった。

泡ができたりぶつかったりくっついたり消えたりを繰り返して船は進む。後退はしない。

断崖に貼りつけられたような真っ赤な鳥居が小さく見えだした。

母さん、鳥居だよ。綺麗だね。くぐもった笑い声を返してくれた。

船には僕たち以外に客は誰もいない。

ざわついた心が琵琶湖から得体のしれないものを受信する。得体のしれないものは不確定物体とはまた違った感情で僕を揺さぶってくる。

逃げるのではない。向き合った結果がこれなのだ。琵琶湖に言い訳を流してく。強い外来魚もみんな死んでしまうような強烈な汚さだった。

 船が桟橋に着くと、突如として息子の顔と他人に見せる顔のどちらをすべきかわからなくなった。

巫女装束の女性がぽつんと立っているのが見えたので、母を急かした。

「お待ちしておりました。ようこそ、木士島へ」

「あの、神社の方ですか」

「いえ、島の者です」

しばし沈黙が流れた。

面と向かった巫女は逆三角の白い無地の紙で右目を隠している。空いた片目で僕らを見据えた。

「わざわざすみません。こちら母です」

何とか空白を埋めようと絞り出た言葉がそれだった。

母は巫女ではなく、乗ってきた船をじっと見つめている。

「上機嫌そうでなによりです。息子さんはどうなさいます?」

「え」

巫女は僕の下げたボストンバッグに目をやる。

「お母さまのお荷物ですよね、それ。見学されるというお話でしたけれども、身の回りの物をすでにご用意されておられるようでしたら、ここまででよろしいのでは」

母を預けに来たのではないというのを気取られたか。

「一応拝見させていただきたいです。大事な母のことですから」

我ながら嘘くさい。つい口元がゆるゆると動いた。

一呼吸置いてから、行きましょうかと巫女は歩き出した。それに続く。

先導する巫女の歩調は母に合わせてゆっくりだ。

白い紙で束ねられた黒髪は艶やかで瑞々しい。琵琶湖からの風で数本なびいた。途端に不確定物体の不自然な黒がちらついた。頭を振って追い出す。

開いた場所を通りかかると、十歳にも満たないほどの子供数人がわあわあと騒いで走り回っている。

「子供もいるんですか、ここ」

「そりゃあ、暮らしてますから」

笑いを含んだ物言いだ。何かおかしなことでもありましたかとでも言いたげだ。

「だってここ、療養所じゃ……」

「生きてたら、産まれもします」

こちらに振り返り、にべもなく言い放つ。巫女の顔に陣取る紙はぴくりともしない。

「童は我らの宝とこの島ではよく言います。ご理解くださいませ」

子供の声自体が障る人も当然いるはずだ。療養所としての役目を果たす場ならそこら辺まで気を配ってほしいところである。

歩きながら子供を眺めていると、その中の一人と目が合ってしまった。

「あっ。外の人だ」

短い指の的になる。

ほんとほんとと他の子供も注目しだす。あっという間に囲まれた。

「本当に外から来たの?」「何を持ってるの?」「ずっといるの?」「船で来たの?」「船ってどんな感じ?」それぞれがそれぞれに質問を投げてくる。

「この方はまだ外の方ですから、口が利けません。下がりなさい」

「はぁい」

嫌に聞き分けの良い子らである。

子供を押しのけて奥へと進む。

口が利けないという言葉の意味がわからず、頭の中をぐるぐると回っている。

「三つの建物には上から順に天ノ社、藤ノ社、那須ノ社という名がついております。津田さんが入っていただくのはすぐそこの那須ノ社です。基本的には認知症の方や身体的障害の方、難病患者の方などがいらっしゃる建物になります」

「違う病状の人が同じ建物にいるんですか? 大丈夫なんですか」

「はい。特に問題はありません。みなさん仲良くしていらっしゃいますよ」

巫女の片目の奥はとても暗く、冷たい。

陶器のような白い肌と三角の紙の境目の線がぼやけていくのと同時に島に対する信用も薄くなっていくのを感じた。

「えっと、母の世話をしてくださるのはそういう専門の方なんですよね」

そうでなければ困る。言わずもがな資格を持った人間が一番いい。最低でも、経験を積んだ者でないと安心できない。

「専門とはどこまでのことを指すのかわかりかねますが、みなさん快適に過ごされてます」

巫女はいらついているのか、語気が少し荒くなった。

叩けば埃が出てきそうな態度だ。

「受け入れるのは、あくまでこちらですので」

突き放される形で話は途切れた。

島は喪に服している真っ最中のような空気が充満している。息を細くしなければ叱られそうだ。

子供の声が遠くで大きくなった。その無邪気さを大切にしてほしいと語りかけたけれど、返事は当然のごとく返ってこない。寂しい。僕がではなく、この島が。

淡々と歩を進めるごとにどこかに忘れ物をした気にさせられる。

次第に建物が見えてきた。どうやらぐるりと島を回り込んできたらしい。

朱の映えた普通の神社にあるような建物が確かに三つある。どれも大きく、微妙にデザインが違う。縦に長い島を三つに分け、山を切って平坦にし、その上にそれぞれ建物が乗っている形だ。建物同士の行き来は見る限り石段だけ。上から二つ目の建物には立派な舞台が細い通路で繋がっている。

「あの舞台で何か催し物でもするんですか」

それに答えようとする素振りもない。

渋々口をつぐんだ。

母は口に指を入れて唾をかき混ぜ始めた。一筋伸びて島の土に母の唾液が落ちた。これからここに落とし続けるのだから拭わなくていいと思うだけで指先の感覚が戻ってくる。母の物ではない久しぶりの僕だけの手。

息子としての寂しさをにじませるほど出来た人間ではないけれど、それでもやっぱり昔を懐かしまずにはいられない。

母と過ごした日々は何の関係もないこの島でお綺麗に綴じられていく。

僕ら親子の間に感情が生まれることはもうないだろう。

ぬめった唾液の溜まりが地面に根を下ろした。

 一番下の建物の前まで来た。近くまで来ると、圧を感じるまでに大きい。古めかしい扉が母を待ち構えている。

呆気に取られていると、母の服などが入った鞄を巫女に掠め取られた。巫女は扉の奥に押し込むようにして入れた。暗くてよくわからなかったが、敷居をまたいだ先に人がいるのだろうということは巫女の目配せのような動作でやっとわかった。

「こちらへ」

巫女は母の手を取り、うまく誘導する。

ぐずると思っていたが、案外するすると建物の中に吸い込まれていった。瞬きを二回したら跡形もなく消えていた。影も残されていない。

他人が苦手だったはずの母が巫女には一切警戒せず、しかも見知らぬ建物に自分から入っていくなど、これまでではあり得なかったことだ。

建物の前にしかれた砂利を足でかき分けた。心地よい分かりきった音で一杯になる。どこもかしこも皮膚が切れそうなほど清い。

僕も母もふらっと神社にお参りに来た気でいたのかもしれない。母に変な信仰心はないけれど、神様をなんとなく信じているようなところがあった。もし神社の境内と勘違いしているなら、これからも勘違いしたままでいてくれたらいいのにと思った。

手ぶらになって軽くなったと思いきや、僕の肩にまだ何か掛かっている。一生払い落せない僕の分身が重い。

「あなたはこちらです」

「へ、」

役目を終えてさっさと帰る気でいたので、素っ頓狂な声が出た。

「お呼びがかかっております」

巫女の声の温度が聞くたびに低くなっていく。

どうせ費用の話でもされるのだろう。面と向かってお金の話をするのはどうも苦手だ。きっとどもってしまう。

母の入った建物の横をかすめた石段を上る。古いけれど、作りはちゃんとしている。急で一段一段が高いので、息が上がるのも時間の問題だろう。僕がへばっても巫女は構わず上り続けそうな調子である。

本土にいる頃は窮屈に感じていたが、ここも大概窮屈そうだ。どこも変わらない。生きづらさというのは自分を変えなきゃ意味がない。

外的要因に好きで縛られてるわけではないのに離れられない。

変わろう変わろうと唱えても薄く塗り広げられて味がしない。

ずっと僕以外の何かのせいにして生きていく。

強くなれない僕の唯一の武装に僕自身が傷つけられてるって気づいた時にはもう遅い。この石段のように後戻りできない。僕が僕に許してもらえない。

生きるのが下手なのは母親譲りなのをたった今思い出した。

太腿が上がらず、段の縁を足の裏が擦るようになってきてようやく巫女が立ち止まった。

「落ち着きましたら中へ入って行きます」

巫女の指し示したのは島の頂きに構えられた建物であった。身体をひねって石段の下を覗いた。周囲を見ないうちに真ん中の建物を通り過ぎていた。

厚着をしてきたせいか、背中がねっとりとしている。

身体を元に戻すと、先程まで何ともなかった建物が朱の口を大きく開き、僕を招いているように見えた。

巫女が口内に溶けた。倣うのにしばし躊躇したが、重い右足をなんとか出した。

「ここに壁など在りませんよ」

巫女のその一言には苦笑がやっとだった。

一段上がった先は薄ぼんやりとしていて、外よりも陰気さが増した。

軋む細長い廊下を進む。背中の汗が冷えて肌が泡立つ。巫女装束の白が闇に浮かぶ。そのおかげで先を見失わないで済んでいる状況だ。

辛い水を上から浴びている気になってくる。人工的に痛めつけることが第一優先の稀有な人だなと自分でも思う。

体感としては五分ほど歩いたのちに、両側の壁が障子へと変わった。障子から透けた光がじんわりと漏れ出している。

廊下は等間隔に照らされていて異様な雰囲気である。

光が瞳孔の開いた目に沁みる。琵琶湖の青とも緑ともつかぬ色がなぜか思い出された。小さくなった黒い塊が目の端にちらつくのをさっと振り払う。

障子が延々と続いているので、通ったはずのところに戻って来ていても気づかないほど景色が変わらない。障子があるということはその分だけ部屋があるということだ。

障子をただ単に開けるのではなく、人差し指でそっと紙をくり抜いて中を覗いてみたい。それをしている自分を想像したら少しだけおかしかった。

軋みが一定の間隔になっていく。

耳の奥に心臓が焼き付く。

巫女の肩の先から急に赤が現れた。巫女の袴よりも重く見える赤。黒と白に埋もれた赤。無意識にせき止めていた息が一気に漏れた。赤の正体は大きな観音開きの扉だった。既に通ってきた扉とは比べ物にならないほどの様々な装飾が施されており、文化財と言われても納得してしまいそうである。

巫女はひたと立ち止まり、扉のわきに控えた障子に紛れた。

「私はここまでしか許されておりませんので」

この先は僕一人で、ということらしい。

後ろを振り返る。闇が押し寄せてくる。障子は締め切られたまま。建物全体から圧迫されている様。逃げ場はとうに失ったも同然。扉に向かって一歩踏み込んだ。その一枚板が他の板よりも少しばかり大きく軋んだ。扉が重々しく開かれた。

開け放たれた先に恐る恐る爪先をちょんと乗せただけで自分の中で肩に力が入るのがわかった。

暗い廊下とは打って変わって白と金を基調とした絢爛な空間が広がっている。

入ってきた扉の両隣には廊下で別れた巫女と同じ装束を着て、それぞれ片目を逆三角の白い紙で隠した女性が二人鎮座している。

畳は光輝いており、博物館でしか見ないような調度品が各々の務めを果たしている。どこに身を置いていいのか迷ってうろついてしまう。

「そんなに珍しいかえ?」

しわがれつつも凛とした声に話しかけられた。

左右ばかりに気を取られてしまっていて気づかなかったが、入った真正面の奥に御簾が畳まで下がっている。どうやらその中に声の主がいるらしかった。

「お疲れでっしゃろから、遠慮せず腰を下ろしてください」

方言なのか、古い言い回しなのかよくわからない。自分が方言を使う割にはそれに疎いので、そこから話を広げられそうもない。

僕は御簾の前に正座した。

「船に揺られんのはさぞ気持ちいいんやろなァ。私は長いこと乗っとりませんからちっとも思い出せへんねんけども気持ちいいことだけはわかります」

急にそんな話を振られて、はぁとしか言えなかった。市役所の受付で培われた話術がここでは一つも通用しないかもしれない。

「あの、ここに呼ばれたのって……」

「そう急かさんとって。外の人と話すのは久しぶりやさかい、ゆっくり話したいんよ」

ふふふと上品な笑いがこだまし、御簾の影がそっと揺れた。

「どうです、この島は。気に入らはった?」

僕はこの島が好きになれない。母は気に入っていたのかわからない。でも不審なほどに心は開いていた。

質問には無難にはいと返した。

「お父さんはいはらへんの」

「僕が小さい頃に離婚しまして。それ以来会ってませんね」

母とは会っていたのかもしれないが、僕は本当に会っていない。どこで何をしているのか全くわからない。知りたくもない。

「お母さんの世話は難儀やろうなぁ。お一人でしてはったっちゅうことでっしゃろ」

「はい。他には誰もいなかったので」

誰にも触らせたくなかったの間違いじゃないのか。小さい僕が嘲った。

「まぁまぁ、お疲れ様です。あんさんはようやらはりました」

「結局はここに預けることになってしまったわけですが……」

「ここは楽園です。最期を迎えるにはもってこいのとこや。お母様もだいたいのことはわかってはると思いますけど」

その言葉に少し救われた気がした。きっと他人からそう言われるのを無意識に望んでいたのだろう。

「あんさんはいつまで島にいてはるんです?」

「すぐにでも帰ろうかなと。仕事もありますし」

そうですかと、御簾の中の声は残念そうにも納得したようにも聞こえた。

「足を崩してくれはってええんですよ」

遠慮なく足を前に持ってきて組んだ。足首から先は早くも痺れてしまっている。

頭上を何かが覆いかぶさった。誰かが背後に立ったのだと分かった瞬間、頭に衝撃が走った。驚いて振り返ると、見知らぬ男が数人立っていた。咄嗟に頭を押さえた。血は出ていないものの、後頭部の大部分が腫れてきていた。足が痺れて動けないうちに腹を蹴られた。えずいた。これで仕舞かと思うと、顔を殴られて息ができなくなった。いぐさと鉄の匂いが競って鼻に抜ける。それ以上の暴力を避けるためにあえて動けない振りをした。目を閉じたように見せかけた。それをいいことにずるずると身体を引きずられた。皮膚と服の間で摩擦が起こった。その格好のまま、廊下に出た。流石に階段を上る時には二人掛かりで担がれたが、踊り場でやはり降ろされた。運ばれた部屋は元いた部屋よりも質素だった。

橙色の灯で壁や床がぼんやりと照らされている。

男たちは僕が動かないのを確認してから部屋を出ていった。

畳が敷かれていない床に傷を当てると、熱を吸ってくれて気持ち良かった。

「お疲れ様です。あなたの役目はこれからですから、しっかりしてください」

自分一人だと思っていたので、思わずその声で起き上がると、腹の傷を中心に痛んだ。

部屋の前まで案内してくれた巫女が影に潜むように座っている。

「もうすぐ祭りが始まりますよ」

「祭り……?」

「おばば様が必ず見るようにと」

巫女が顎で指し示した先は障子であり、顔一つ分ほど開いている。そこから一直線に舞台が見える。

「おばば様って」

「先程話されていた方です」

そのおばば様と呼ばれる人と話している最中に男たちに襲われた。痛みがあろうと、何が起こったのかはっきりとはわからないものである。落ち着いてきたというものの、この状況が完全に呑み込めたとは言い難い。

「いや、なんで、いッ」

暴力を振るわれたこと自体に対する怒りと暴力を振るわれた理由を知りたい気持ち両方が痛みによってあっさりと上書きされた。

「祭りをより一層楽しくするためだとおばば様はおっしゃっていました」

「おっしゃっていましたってことはあなたも知らないってことですか」

目をそっと伏せた。はいという意味なのだろう。

巫女に勧められて、大人しく顔を障子から出した。

来た頃にはぎりぎり太陽があった場所に今では月が掲げられている。

明るいうちは沈んでいたのが、湖中から這い出してきたかのようにまるで別天地である。島の人間たちは提灯を手に練り歩き、島全体がすっかり華やかさや煌びやかさを纏って賑わっている。地味だった舞台も飾り付けられて雅楽の楽器で聞いたこともない音楽を奏でている。

部屋の中に一枚の花びらが舞い込んだ。大きな花は瑞々しく僕の掌で踊り、また風に運ばれて誰かの元へと降り注ぐ。

自分の身体を支えるのもやっとなので、障子の外の欄干に寄り掛かった。ぎぃとだけ言って僕の体重に耐えてくれる。

舞台上での、どんという男の力強い足踏みが琵琶湖に反響した。その合図で一斉に島中の視線が舞台へと集中した。

「これより、儀式を執り行う」

壱と書かれた白い紙で顔の上半分を覆っている男は声高に宣言した。

白い着物姿の男たちがぞろぞろと出てきた。揃いも揃って白い紙で顔が半分ほど見えないようになっている。白く四角い紙は口の上まであり、前からそれぞれ一文字ずつ弐、参、肆と書かれている。数字は肆で途切れた。漢字の書かれていない男たちは両目を隠す程度の大きさの紙を着けている。

 提灯の光がまばらになると、手や足がなかったり変形していたり、顔にある種の特徴を持つ人間がなぜか浮いて見えた。この島ではきっと珍しくはないはずなので、健常者目線はここでは通用しないのだとしみじみ感じた。

男たちが道を細く作ると、奥からまた二人出てきた。一人がもう一人の腰を支えて前に促している。

観客は固唾を呑んで見守るのみ。

舞台上の人間も見ている人間も全員どこか恭しくてどこかおかしい。

舞台の柱の影から二人の顔が見えた。一人は先に出てきた男たちと同じような白い紙をつけており、連れてこられたもう一人は紛うことなき母だった。

母は白い着物に着替えさせられ、無表情でじっとしている。出歩くのも難しかった母を舞台に上げるなど骨が折れることだったに違いない。

母が儀式の中で何の役割を担うのか気になった。それは観客の目であり、息子としての自分はほとんどいなくなったのだと実感した。

母の腰を支えていた男が道に交じってどこにいるのかわからなくなった。二本の線を形作っていた男たちが何の合図もなしに一斉に向き合った。その真ん中には母がぽつんと立たされている。手を合掌の形にしている。列から別の男が一人進み出て、母の真横に立った。連れてきたときのように腰を支え、二人は互いを正面にして座る。ぴんと糸が張ったような中、母は自分からゆっくりと仰向けで寝そべった。湖畔に放置された外来魚の死骸に虫がたかっている様と重なった。男は母の足を掴み、易々と開く。骨に皮が張り付いただけのはりぼての足が白い着物から顔を出す。板の上に放り出された足の間で男も着物の裾をたくし上げた。そして男は母の股間に自身を擦り合わせ始めた。母は微動だにしない。十往復はしたかと思うと、男は両脇の男たちに目配せをし、何か容器のような物を受け取った。容器の中身をどろりと指先に出し、母の股間に塗りこんだ。男の表情は紙であまり見えないが、恐らくは無表情なのだろう。焦った様子もなくもう一度自身を母の身体にあてがうと、みるみるうちに男の動きが変わった。自身を母の棒のような足の間に何度も打ち付ける。肌と肌のぶつかる音が反響する。抵抗どころかお得意の唸りもせずに母は大人しく男を受け入れている。列を成す男たちは静かに行為を傍観している。男はまた母の足を掴み、手前に引き寄せた。その弾みで母の顔だけが観客の方へごろんと寝返った。その顔は空洞で、人形よりも人形らしかった。口から涎を垂れ流し、がくがくと身を震わせている。男と母の身体が連動するたびに着物が脱げていく。次第に胸元がはだけ、肋骨の浮いた貧相な上半身までもが露となった。男が大きく動いた拍子に乳房が舞台にひたとくっついた。皮膚の伸びきった乳房が舞台の上で遊ぶ。脂肪の塊が皮だけになってしまった代物は男を惹きつける道具とはほど遠い。乳房は母の胸にぶら下がるだけで働こうともしない。男は集中力を高め、獣のように動く速度を上げていく。母の背中が床から離れ、一瞬で落とされる。それの繰り返し。舞台と母の頭が交互に当たり、大きな音を鳴らす。リズムはめちゃくちゃでお粗末な演奏を聴いているようである。男の興奮は最高潮に達したのか息遣いがここまで届くほどにまでになってきた。すると突然、男の動きは止まり、母の中からずるりと自身を引き抜いたかと思うと、母の身体の方向を変えて観客に精液の溢れ出る膣を披露した。観客の見惚れたとでも言うかのような息遣いが聞こえると、自分だけそそくさと着物を整え始めた。列の男がまた一人進み出て母の乱れた着物を元に戻し、何食わぬ顔で母と並んで舞台袖に引っ込んだ。それに続いて残った男たちも脱線することなく綺麗に舞台上からいなくなった。

 誰からともなく拍手が巻き起こった。感嘆の声が混じり、子供が嫌にはしゃいでいる。

考えがまとまらず、ぼうっとしていると、巫女が口を開いた。

「美しい儀式でしたね」

その言葉で忘れていた怒りがどっと湧いた。

「僕はともかくとしても、母を何て目に合わせてるんだ」

「お母様もきっと喜んでおられます」

「ふざけんな」

巫女の胸倉に手を伸ばしたが、足がもつれて巫女に軽々とかわされてしまった。

「あの神聖な儀式は島のしきたりなのです。『外』の常識を持ち出されても困ります」

『外』という言い方に棘を感じた。きっとこの巫女は彼女の言う『外』がさぞかし嫌いなのだろう。

「子供にわいせつ行為を平気で見せるのが神聖なことって本気で思ってるなら反吐が出るな」

「汚い外の空気に触れていた者を清めることは何らおかしくはありません」

これ以上巫女と話しても埒が明かない。

「母を連れ帰らせてもらう」

「今晩あなたはここから出られないことになっております」

巫女は機械仕掛けのように言い放った。

「あんた、何が目的だよ!僕だけでも返してくれたっていいだろ?!」

「私の意志ではありません。全てはおばば様のご指示です。あなたは必要な材料なのだとおっしゃっておりました」

蝋燭の炎に照らされた扉に飛びついて押したり引いたりを繰り返したが、外から閂が差してあるようで少しも開きそうにない。

巫女は座ったままその様子を静観している。

「これは冗談ではございません。朝までこのままです」

一気に抵抗する気が失せた。床にへたりこむと、巫女は目玉さえも動かさずに僕を捉えている。

巫女の唇は皮が数枚めくれ上がり、見ているだけで剥きたくなる。他人のかさついた唇を見てもそんなこと思ったこともなかったというのに、母と見知らぬ男の行為を見せられて僕はおかしくなってしまったのだろうか。破壊衝動がめきめきとできあがって飛び出す寸前まで来ている。人間の一人や二人にぶつけても治まりそうにない。

床を目掛けて踵を振り下ろしても、爪の甘皮を勢いよく引きちぎっても、口内を歯で傷つけても、頭を掻きむしっても、額を壁がめり込むほど押し付けても、無駄だった。単に傷が痛むだけで、却って火に油を注ぐことになってしまった。

巫女を視界に入れてしまうと、すぐにでも八つ当たりしてしまいそうで、壁を向いて胡坐をかいた。

「子供のようでお可愛らしかったのに勿体ない」

わかっていて煽ってくる巫女に負けそうになったが、手首の太い血管の上に爪を立てて何とか堪えた。

仕事と家以外に世界が欲しかったのは事実だが、こんな強引なやり方はないんじゃないだろうか。ここは神に近い場所なのに、ひどい仕打ちだ。むしろ神に近い場所だからこそとも言える。

僕は母にとことん尽くしてきたというのに。自分のことなど二の次にしてきたのに。姥捨て山にほっぽり出すどころか、人間らしい営みを元気な時と変わらずさせてやったのに。僕の何が悪い。僕が何をした。僕は悪くない。僕は被害者だ。この社会の被害者だ。

 風が木立を揺らし始めた。冷たい風が部屋に流れ込んでくる。思わず身震いする。頼りなかった火が一斉に消えてしまい、目を閉じてるのか開けてるのかよくわからなくなった。

「火をつけましょうか」

「こんな暗くても見えるのか」

「片目を常に閉じた状態にしていると、見えるんですよ。人間って不思議ですよね。つけましょうか、火」

「いや、これぐらいが落ち着く」

布の擦れる音がした。それと自分の中のざわめきの音を辛うじて区別できた。

「我々がどうして片目を隠しているのか教えて差し上げましょうか」

僕の返事も待たずに一人でに語りだした。

「この島には御神体が祀られています。御神体をお守りし、お世話をすることが我々聖職者の本来の役割なのです。御神体の好物は人間の目玉。お世話をする際に魂ごと目玉を食べられてしまうことがあると、この島では未だ信じられているのです」

紙のかさついた音がした。頬骨にあたるか手で触りでもしたのだろう。

笑みを噛み殺しながら信仰の塊のような言い方をされるとどうにも気持ちが悪い。この巫女は信仰と侮蔑の間で酔い痴れている。

「カルト集団そのものだね。あんたも早くこんなところから抜け出した方がいい」

一瞬で笑いは去り、憮然とした態度で

「抜け出すことは許されていません」

と言った。

頭に上った血もいつの間にやら元に戻り、肩が夜風によって冷えた。

すると、自然と脳みその具も働きだす。

僕のような『外の人間』と一緒に閉じ込められて、巫女は嫌ではないのだろうか。例え質問したとて、おばば様の命ですのでなどと答えるのは目に見えている。だが、それがほとんど僕の傍を離れない理由にはならない。島特有の考え方が絡んでいる可能性だってある。そうであれば、尚更気をつけねばならない。自分の身をこれ以上他人に好きにさせてたまるものか。警戒心を緩ませないために自分の舌先をきつく噛んだ。

 この状況で眠りにつくか迷った。明日に備えて体力を少しでも温存しておきたかったのだ。しかし、巫女からの視線は途切れそうにない。巫女に背を向けているとしても眠れるはずがなかった。

せめて横になろうとして床に手をついたが、眠っている間に何かされるのではないかと不安になって腰から上を倒すことができない。ここは安全でも何でもない。熱くもないのに汗で掌が湿った。

開けっぱなしの障子が見えるように座り直した。これで死角には壁しかないことになる。暗さに目が慣れたのか、巫女がどこに座っているかぐらいは見えるようになった。

雲の切れ間から大きな月が現れ、島全体を掬い上げた。床に幾筋か光が差す。

障子に寄れば、月光で潤んだ水面を眺めることもできるのだろうが、無防備な格好になるのでやめた。

 月を見ていると、いつか母とカルデラを見に行ったことを思い出した。その時、母はまだはつらつとしていた。僕の手を引いて、神秘的ねと言った。覗き込むとそこには水が溜まっていて、空模様をそのまま映し出していた。綺麗とは思えなかった。雨雲が頭上に迫っていたし、水は少し濁っていた。けれども、母はいつまでもその琵琶湖なんかよりはずっと小さい水溜まりを見つめていた。虚ろな目、下がり切った頬をよく覚えている。鏡のような水溜まりで自分を映せるかどうか試したかったのかもしれない。綺麗な景色だと自分に刷り込んでいたのかもしれない。カルデラに何かを置いて行こうとしたのかもしれない。母に聞きようのないことを考えてもしょうがないのだが、大人になった今なら、当時の母と同じことを思うに違いない。この島を出たら、カルデラに行く準備をしよう。カルデラに僕の独り言を全て吸ってもらいたくなったのである。母の手の感触を思い出しながらつぶやくのはつらいだろうなとは思った。

 空が白んだ。巫女を見ると、笑みを湛えて扉を指差している。

どうしてそんなことをするのかよくわからず扉に近づいた。扉を手前に軽く引いただけでいとも容易く開いた。

一歩踏み出すと、廊下は部屋以上に冷えていて、軋みが昨日よりも大きく聞こえた。構わず速足で出口を探す。眠らされている間に自分がどこへ運ばれたのかわからず苦戦した。上ってもない階段を下りたりするのは変な感じだった。

 建物の外はしんとしていた。朝の匂いを肺に貯め、踵を二、三度踏み鳴らす。母を取り戻す方法などないに等しいが、取り敢えず会って忠告だけでもしたかった。

石段を確かに下っていく。慎重に。だけど早く。島の人間に見つかる前に何とか。

 無事に一番下の建物に着いた。来た時には厳かに見えていた建物がここまで卑しい建物に様変わりするとは思ってもみなかった。

細心の注意を払って扉を押し開く。それでも多少物音を立ててしまう。縮こまる思いである。

息が浅くなる。心臓が跳ねる。歩いている感覚さえ薄くなっていく。

困らない程度に明かりがあり、両側の土壁に圧迫される。

母は自分でわからずともこれからも不当な扱いを受けることだろう。息子としても人としてもそれは見過ごせない。綺麗事かもしれないが、結果的に僕が満足すればいいだけの話なのである。

障子と土壁の切り返しの所まで来た。構造は頂上の建物と同じらしい。問題は母の居場所を見つけ出すことだ。部屋数は少なくないが、探せばいずれは見つかるだろう。ならばと一番近くにあった障子を勢いよく開けた。

中には溢れるほどの人間がいたが、こちらを見ているのは数人だった。

移動式ベッドに乗った女があうあうと補聴器を着けた女に何かを伝え、女は慣れた手つきで手に持ったタオルで口元を拭ってやる。一見、健常者に見える若い男が呆けた老人に食べ物を噛み砕いて、口移しする。中年男が空中に向かって怒鳴る。口も手も足もひん曲がった女がこちらに攻撃的な視線を向けている。

使い古された空気がどこかからか身体に侵入してくる。

足の踏み場もないほど詰め込まれた障害者と老人をかき分けて母を探した。

時折、靴下をしつこく手に握らせようとしてくる老人をうまく避けねばならず、早い段階で根を上げそうになった。

ここは異常だ。障害者が障害者と老人の面倒を見ている。健常者がいてはいけない世界なのだ。

奇声を耳に入れ、強烈な臭いで喉と鼻を潰し、目の前を狂気で埋め、皴ついた手で腕を摩られる。

同じ人間ではないのに、僕の一部と同化していく感覚に陥ってきて混乱してきた。自分が何をしに来たのかも忘れたくなるほど、居心地が悪いのにここには他人がいないような錯覚まで起こしそうになる。

母さんと叫んでみたが返事はない。あるはずがなかった。母の中にはすでに息子という概念がなくなっているのだ。

いっそこの中に紛れ込んでみようかと思った。監視の目はないし、ここは楽園だとあの老婆も言っていた。

母と同じところにいることはもしかしたら僕にとっていいことなのかもしれない。しきりに僕を手招きする人間たちの輪の中へ入ろうとした時、後ろから手を引かれた。その手はとても乱暴だった。なぜだかその手に従ってみたくなった。部屋を出るまでその姿はあまり見えなかった。

蝋燭の火が浮かび上がらせたのは思ったよりも小さな背中だった。骨ばった肩や手足。猫っ毛。無地のシャツ。

板から砂利、砂利から土に足下が勝手に変わるのが面白かった。他人の力で歩くのが楽なことなのだと初めて知った。

 祠の前まで来ると僕らは歩く速度を緩めた。

「君、何やってんの」

僕の手首を掴んだまま少年は言った。

「おかしいよ。健常者でしょ、あんなとこにいたら呑まれるよ」

少年の目は澄んでいた。心の底から心配をしてくれているのだろう。

「でも母を連れ帰りたくて」

「無理だよ。儀式を受けた人間は出られない」

「巫女も同じようなことを言ってた。出られないって何で」

少年は首を横に振った。

「わからない。正式に島を出るにはおばば様の許可が必要だけど、滅多に下りない。でももし許可なしで出るなら絶対に一人の方がいい。危険だし、審議にかけられでもしたらただじゃ済まない」

「審議って」

何、と言葉を続けようとすると、少年は人差し指で制した。

「君は知らない方がいい。この島に深入りしてはいけない」

悲しそうに微笑んだ。きっとこの少年も島の中でいろいろと経験したのだろう。

少年の言う通り、島のことについて質問するのは止め、代わりに少年自身のことを聞いた。

「この島はおかしいように見えるけど、君は普通そうだね」

「うん、だって僕はこっちだから」

少年は形のいい唇を大きく開き、舌の裏を見せてきた。舌を繋ぐ糸の間で銀色の小さなロザリオがてらてらと輝いている。

何をしても絵になるとはまさにこのことだ。

「神道じゃなくてキリスト教なんだけど、ばれたらどんな目に合わされるかわかんないからずっとこうやって隠してるんだ」

慣れたようにロザリオを忍ばせる仕草は艶っぽかった。

「話しづらかったり食べにくかったりしない?」

「全然。小さい時からこうやってるから、ない方が気持ち悪いくらい」

少年はさも普通だと言わんばかりなのが少し猜疑心をそそった。

親がさせていたのだろうかと考えたが、それこそ踏み込むべきではない領域だと思い、程ほどにしておく。

「それよりさ、僕と手を組まない?」

少年は祠に寄り掛かった。他宗教だとしても、罰当たりな行動なのには変わりない。

「何をするんだ」

「決まってるだろ。殺人だよ」

にやりとした。赤い舌が薄い唇を舐める。

猜疑心が警告音に変わる。

「冗談だろ」

「何が冗談なの? この島では当たり前のことだよ。昨日の儀式と同じことさ」

まつ毛が長く、頬に影が落ちている。

「犯罪だってことは知ってるよね」

「ここの法律はおばば様だよ。『外』の目でこの島を見るのは即刻止めることをお勧めするよ」

僕の目を覚まさせてくれた少年とは思えないほど偏った価値観だ。やはり目の前の少年も島の人間なのだと痛感する。

「殺してどうするんだよ」

「僕は力を示したいんだ。優秀な遺伝子を持っているって。この島で登りつめる方法はそれしかない」

少年の中に男が見えた。

力を示したってこんな小さい島で精々、偉そうなことを説いて終わるだけだろう。異教徒相手に何をどうする気だとは流石に言えないが、大きく後ずさることはできた。

「どうしたの。僕に協力してくれれば君の身の安全は保障されるんだよ。こんないい話はないじゃないか。殺人はメリットでしかないんだよ。わかるだろう」

「誰を殺すんだよ」

目をぱちくりさせたかと思うと、少年は急に喉を鳴らした。

「僕の母親だよ。美しい死に様をプレゼントするんだ。醜いまま死んでいくのは僕も見たくないからね」

息子としての矜持を見せつけられた気がした。それが正しいかは置いておいて、少しだけ羨ましくなった。

「僕らは神には成り得ないが、神に近づくことはできる。禁忌だとしても僕はやる。君ができないと言うのなら、見届けてほしい。僕が神の膝元で手を振るのを」

そこまで話を聞いて、咄嗟に走り出した。畏怖の念を抱くあまり我慢できなくなったのだ。なるべく少年から距離を取るため、森に入る。

追って来れないように人の手で作られた道をわざと外れた。運動不足に加えて傷の痛みがひどくなってきたので、まだ正規の道がぎりぎり見える程度の所で立ち止まった。葉の落とした影を踏む。蝿の羽音にいらつく。盛り上がった根に足を取られそうになる。人間と会わない方がこの身を守れるかもしれない。しかし、それでは水さえ手に入れることができない。死にたいけれど、死にたくはない。若者じみたことを言ってみる。手近にあった根に腰を下ろした。中が腐っていたようで、尻の形に少しへこんだ。久々にちゃんと休んだ気がした。この島に来て散々な目に遭った。暴力を振るわれ、母が強姦されるのを見せられ、頭のおかしくなった人間たちに触られ、あまつさえ殺人まで持ち掛けられようとは。うまい話には裏があると言っても過言ではない状況だ。まんまと乗っかってしまった自分を恨む。巫女に案内されている時点でおかしいと感じていたじゃないか。母を引き渡したことが何よりも悔やまれる。結局は欲に負けたのである。不意にそこで疑問がもくもくと湧き上がった。なぜ朝になると扉が開いていたのか。さらに言えば、なぜ巫女は僕に扉が開いていることを教えたのか。意図が掴めない。霧が出てきて益々白っぽくなってきた。枝が折れる音がした。足元を見ても枝はない。ぐるりと見渡した。木の影が不自然に揺れたのが目に留まった。

「誰」

小さい生き物が木の後ろから姿を現した。つやつやとした黒い毛並みの見たこともない生き物がこちらを不思議そうに見つめる。瞳は深緑色で、顔は猫なのに耳は兎のように長く、尾は鍋敷きのように平べったく、そこだけ黒い皮膚がむき出しになっている。つぎはぎ方を失敗したぬいぐるみのようである。奇妙な生き物だが、どこか可哀そうに見える。か細くピーと鳴き、その場に倒れてしまった。慌てて近づいたが、呼吸がすでに浅く、助けられそうにない。傍に寄り添うように座って見守った。地面に伸びる影が薄くなっていく。すると、朗らかな表情になり、最期の力を振り絞って口を開いた。どろりと黒い塊を吐き出して死んだ。琵琶湖に流れ着いたあの黒い塊を小さくちぎったようであった。

 そこから何があったのかは大して覚えていない。

感覚がなくなり、自分の精神が完全に崩壊しかかっていたように思う。

意識がはっきりしてくると、巫女に膝枕をしてもらっていることに気づき、すぐさま飛び退いた。

「保護させていただきました」

巫女は平然としている。有難さ半分、気色悪さ半分だった。

見渡せばそこは森ではなく、僕が巫女と共に閉じ込められていた部屋だった。障子も扉も全開である。

巫女曰く、僕は森の外で倒れていたらしい。食事も睡眠もろくに摂っていないのだから、当然と言えば当然だ。

傷の痛みが生きていることをわからせてくれる。痛みが幸せに結びつこうなど誰が思おうか。

 近くから人間の叫び声がいくつもしたので、欄干から身を乗り出した。

玄関の前に人だかりができている。

「殺人が起きました。見に行きましょうか」

肩に手を置かれた。逃げられない。

巫女に付き添われながら人のいる方へと下りていく。

鼓膜が破れそうなまでに人々の喚く声が甲高く、つい指の腹を耳の穴に押し当てた。

島も『外』も野次馬根性は変わらないのかと感心したが、それは野次馬と言うには大分様子がおかしかった。人々は揃いも揃って立膝をつき、拝み倒している。その中心は遠く、ちょっとやそっとじゃ見えない。「ああ、ありがたや。ありがたや」「これからも安泰だ」「万歳!」「生きる活力が湧きまする」「死なんて怖くない!」何て文句もあり、非常に馬鹿らしくなった。巫女の言葉から中心にある物は大体予想がついていた。殺人を通常と捉えているばかりか、現実に殺人に信仰心を抱くということが理解できない。人間が人間を殺すことは悪だ。法律があろうとなかろうと悪だ。少年はもう真っ当に人間を名乗れないだろう。彼はそれを神に近い存在だと言っていた。馬鹿馬鹿しい。所詮は彼も精神を病んだ人間だっただけのこと。僕とは違う。彼を人間として、息子として敬うことなんてしてはいけないのである。

老人の肘が腹部の痣を抉った。強烈な痛みで立てなくなった。横から手が伸びてきて、すがる思いで掴んだ。その手の主は他でもない少年だった。少年はにたり顔で僕を見つめた。清潔そうだったシャツを赤く染め、口に隠していたロザリオを首に下げている。

「たった今、組み立て終わったんだ。さぁ、見てくれ。僕の作品を」

鉄臭い彼に肩を組まれてまた死にたくなった。

死のいいとこ取りに違いなかったが、逃げられないのならば死んだほうがましだと考えたのだ。

「いやぁ、困ったよ。ここに来たら血の臭いを嗅ぎつけたジジババに囲まれちゃうんだもん。君から僕に会いに来てくれるなんて思わなかった」

そう言いながら顔の歪んだ老人を蹴り上げた。老人はけたけたと笑い、笑いが伝染していく。

少年がしっしっと手でやると、老人の壁が剥がれていき、少年の言う作品が目に飛び込んできた。老人が幾重にも重なって見えていなかったのである。

切り揃えられた手足の先が上を向き、朗らかな表情の生首が中央に置かれている。口から出た舌には飾りとでも言うかのように少年と同じロザリオが乗っている。シンメトリーに配置されたそれらは死体とは思えないほどに麗しく、おぞましい。赤いカーペットを敷いたように血の海が広がる。内臓はくっきりと形を保ってはいるが、腸が肉と肉の間から零れ落ちそうになっている。

老人たちがまた死体にくっつこうとしたところを少年は阻止した。

「お触り厳禁だよ」

そう言われて老人たちは恍惚とした表情でまた少年に向かって拝みだした。

「あなたは触れてもいいんじゃないですか。これはあなたに捧げられた物でしょう?」

「そうだよ。君は特別だ。君のために殺人を早めてあげたんだから。触るだけじゃ足りないな。舐めてよ」

巫女と少年にそれぞれ両手を死体の方へと持っていかれる。

嫌だ。こんなのってない。拷問だ。気持ち悪い。許してくれ。自由をください。

そっと指先が触れた。それは下半身だった。断面はぬめっていてまだ温かい。

「ママ、僕以外の男だよ。気持ちいいでしょ。久しぶりだもんね」

爪で引っ掻くと、小さな傷ができた。もうこの傷は塞がらないのだ。僕の傷とは違う。覆われることのない孤独な傷。

「しっとりとしていますね。細胞が悦んでいる」

巫女は僕の指をうまく使って死体を弄る。瞳がらんらんと輝いている。

「肉の中に指を入れてごらんよ。あったかいよ」

白い骨の横の隙間に第二関節までずっぽりと指が嵌った。生理的に受け付けない温かみ。上から力を掛けられて死体から抜け出せない。肉が指にぴったりと纏わりつく。死体に吸収される。死体の一部になったらどうしよう。現実的ではないけれど、現実はとっくに奪われているので僕はこれからこの死体の上半身を担当するのだ。

「もっと脂肪の多いところの方が面白いよ」

指を引き抜くと、その指に白い粒がくっついていた。

「もう蛆虫湧いてきちゃった。早いね。流石、夏」

少年はそう言って、爪で白い粒を弾いた。爪と指の間に血がこびりついていた。

「腐る前に堪能した方がお得だよ」

サービスするように僕の手で死体を捏ね繰り回す。

少年が乳房を手持ちのナイフでこじ開けると、生成り色の液体の中で泳ぐ蛆虫が出てきた。母の膣から吐き出された精液と似た質感だけれども、こちらの方が悪質だ。

「僕に同じことをしろって言ってるのか」

「それは全くの被害妄想だよ。人間は美しいって言ってるんだ」

詐欺師の目をした少年は自分の母を尚も嬲る。

背けたいのにそれは許されない。

キリスト教を盾にした少年と神道に見せかけた島が依存し合っているのは甚だ醜い。

「蛆虫が母を喰ってしまうよ。君も負けじと喰いなよ」

後ろから頭を押さえつけられ、真一文字に切り開かれた乳房に口を寄せられた。息を止めたが、間に合わない。頭が内から外から圧を掛けられる。それでも僕の内臓は正常に動いている。どこまでもまとも。

口を開けてしまわないように唇を引き結んで身をよじった。

「おかしいな。僕らは同胞だろう。喰えよ」

「えらいお好きにしてらっしゃいますなァ」

上から声が降ってきた。聞き覚えがあった。その場にいる全員が動くのを止め、声のする方を仰ぎ見た。

「これはこれは、おばば様。あなたも僕の作品を鑑賞しにこられたのですか」

「いいえ。これから葬式が始まるのをお伝えしに来ただけです」

「おばば様直々とは。恐悦至極に存じます」

「いい葬式になります」

そう言い残して老婆は引っ込んだ。

逆光のせいもあるにはあったが、老婆は真っ黒いシルエットにしか見えず、不確定物体が人型になったらあんな感じかと思った。

 それから葬式の雰囲気になるのは早かった。葬式で定番の白と黒の縦縞の幕が三つの玄関に張られた。

重たい空気になるかと思いきや、そうでもなかった。

三つの建物から人々が芋ずる式に出てきた。男は大きな籠をすっぽりと被り、女子供は白い布を頭に被っている。数十人が塊となって、その中の一人が頭を垂れた笹を持っている。そのまま静かに死体の半径一メートル程で円を作って一周すると、ずんずんと石段を下りて行った。まるで蟻の行列のように少しも途切れることなく続いている。

僕はそれに混ざらず、ただ遠くで眺めるだけだった。正直ほっとしていた。

「島を一周したら終わりです。入りたかったら籠の予備はあるのでいつでもおっしゃってください」

「いらない。こんな変な葬式は見たことない」

「『外』に伝統はないでしょうからね」

そう鼻で笑うと顔面の紙が少しだけ浮いた。それでも片目は見えない。

紙は御神体から身を守るためだと言っていた。言い伝えのようなものであろうが、きちんと理由があった。この葬式にも何か起源があるのかもしれない。知りたくもないが。

 子供同士が白いほっかむりの下で小突き合っている。子供はどこにいても無邪気で羨ましい。老人も数人、笑い声を上げたり、急に行列から外れてふらふらとどこかへ行ってしまったりする。

 人間、最初と最後はとても自由な生き物なのかもしれない。僕のような中間の年代だったりすると、縛る物が多くて困る。それこそ、年端のいかない人間と後は死ぬだけの人間の尻ぬぐいを僕らは強いられる。問題は同じ年代内で納めてくれと皆が思っていても、そうはいかなくなってくる。子供が子供の面倒を見るのは滑稽だし、老人が老人の面倒を見るのは悲惨だ。

那須ノ社で障害者が障害者と老人の世話をしているのを見て、理想的だと思ったのも嘘ではないが、やはりそれは若い健常者からすれば胸糞悪い。

どうか『外』ではやってくれるなよと強く思った。

「どうして死体を喰おうとしなかったのですか」

問い詰めるような口調ではなかった。感情は伝わってこなかった。

「喰えるわけないだろ。人間だぞ」

「人間も動物ですが」

「話にならない」

暗闇で瞳孔が開いたわけでもないのに黒い斑点が視界の端で跳ねた。

黒い塊が母の汚物と死体の臭いを取り込んで僕を喰いに来た。

精神の歪みが肉体に影響を及ぼし始めた。しかし内臓はぎゅるぎゅると回っている。

傷が風に撫でられて痛む。一時は忘れていた痛みだ。

本当に精神と肉体は繋がっている。これが切れてしまえば、島の人間の思う壺なのではないだろうか。

 行列の最後尾が見えると、中に入るように言われた。これから食事なのだと言う。

「葬式の後は食事という決まりです」

「それは『外』と同じだ」

巫女はふ、と一息吐いた。

 通された部屋は縦にだだっ広かった。御簾の下がった部屋とも閉じ込められた部屋ともまた趣が違っていた。

上座に全身黒ずくめの老婆が座っている。顔の全面を黒い紙で隠し、左手だけを引っ込ませている。

白い紙で顔を隠した男女が部屋の両端に向かい合う形で座っていた。その中に巫女も加わった。すると、一目では巫女がどこにいるのかわからなくなった。

「これらはこの島の幹部です。よろしゅう」

その言葉だけで男女は揃った会釈を見せた。

儀式の時と言い、軍隊でも編成してるのか、ここは。

神職者の格好で島の幹部を名乗っているのは些か不自然であった。

儀式に参加していた男たちも確か顔を隠していたので、この中にいることになる。それだけで食欲が失せた。

多くの人間の視線が刺さるのでもぞもぞしていると、善が運ばれてきた。スーパーでは並んでいないであろう魚の尾が善からはみ出ている。

「ビワマスです。本日獲れたもんです」

老婆が箸をつけると、男女も箸を持った。

「もしかして固有種ですか」

「ビワってついてはりますから」

「罪悪感がありますね」

「美味しいかったら何でもええんとちゃいますか」

その普通が理解できずにいるのだが。しかし反対に島の人間には『外』が全くわからないということになる。島を出られないという言葉にはそういう理解できないからという意味もあるのかもしれない。

「どうして幹部だけが顔、特に目を隠すんですか」

列の中で一人、箸を持つ手をぴたりと止めた。そこにいたのかと横目で確認しつつ、老婆の返答を待った。

「昔から顔に障害のある者がこの島に多くいたからです」

巫女の話とは違った答えに驚きはしなかった。どちらも本当で、どちらも嘘のような気がした。

「お母様は元気にしてはります」

元気という言葉に含みを感じた。それは人間としてだろうか。それとも女としてだろうか。

老婆の態度が母はもういないと言っているようで苦しくなった。良心はまだ残っているのだ。

白米が蛆虫にしか見えなかった。茶碗一杯の蛆虫がうごめいている。穴という穴から体の中へ入り込もうとしてくる。誰からも見える位置にいるということを忘れて、こっそりと白米を善の下に入れた。

魚の身をつついた。美味しそうな匂いで胃が少し立ち直った。鮭のような色をした身はとても美味しかった。美味しくなかったらいいのにと思うほどに美味しかった。骨を見つけると丁寧に取るようにしているが、それでも小骨を食べてしまう。手でそれとなく口元を覆い、舌でかき分けた骨を吐き出した。

「この島は如何です」

「気持ち悪いです。早く出たい」

「素直なのはええことです。あなたならすぐにでも馴染むことでしょう。『外』を捨てるんです。そうすれば楽になれます」

楽という言葉がこじ開けて無理矢理入ってくる。母すら捨てきれない僕が『外』を捨てられるはずがない。想像もできない。

「僕はここを人間が住んでいる場所だとも思えないし、『外』の人間は『外』で生きるべきだと思っています」

甘言とまではいかないが、ここにいれば、十分に効きそうなそれを跳ねっ返した。

男女は動じず一定のペースで食べ進める。

老婆の黒い紙の中を透かすほど見つめる。

この島の人間、特に幹部たちから生気が感じられない。冷たい。どこかから伸びた頭と手足に糸が見えても驚かない自信がある。

視線を落とすと、ビワマスと目が合う。焼いて白目だけになった目。白とは一番濁った色だと聞いたことがある。白目を見れば濁っていると思うのに、装束を見ても濁っているとは思わない。純潔の象徴のような白を着た穢れた人間たち。

白に敏感になってしまいそうだった。『外』では琵琶湖の青に安らぎ求めていた。母の汚物を見る度に青を頭に浮かべた。しかし、この島では琵琶湖がすぐ近くにあるというのに目を傷めるような色ばかり見せられている。人工の色はいらないのに、この島では自然の色などなくなったかのようである。灰色と青のコントラストが遠い。琵琶湖を『外』から眺めたい。

「全て丸く収まればあなたの望む通りになります」

紙の下で何かが渦巻いた。

嫌な予感はずっとしている。けれども、ここを離れることができない。

島に呑み込まれてはいけない。これから『外』の人間らしく過ごすことはもっと難しくなっていくだろう。僕は『外』の人間で決して琵琶湖には浮かんではいけないのだと心に誓った。

 巫女を探すという名目のもと、並ぶ男女を遠慮なく見る。白い紙を凝視していると、また自分の中に白が雪崩れ込んできた。後頭部がずきりと痛んだ。

頭の軸が左に少し倒れて、また黒い斑点が目の端にちらついた。今度は払っても払ってもどこかへ飛んでいかない。

しょうがないので、ビワマスの目玉に箸を揃えて突き立てた。

 ミズゼメと聞くと、僕は戦国時代の戦法である「水攻め」を思い浮かべるが、この島では「水責め」と当たり前のように書くのだという。

男二人が各々、磔にされ、数人がかりで琵琶湖の水を続け様に掛けられる。水と言えども、それなりの勢いをつければ、かなり痛い。その上、気温が高いと言っても、冷たい水を浴びせ続けられるというのはどういった苦しみなのか、その光景を前にしても想像しづらいものである。

「魔女狩りです。審議の一つです」

「時代錯誤もいいところだ」

「島の伝統ですから仕方ありません」

一人は項垂れているが、もう一人は水が途切れた隙に叫んだ。

「俺が何した!!」

「男と交わった罪だ」

水を男に叩きつけた。それでも男は黙りそうにない。屈強だが、片腕だけの男が二発、頬に入れても、反骨心の灯った瞳に変わりはなかった。

「なんで同性愛が魔女狩りの対象になるんだよ」

水責めの音に負けないように声を張った。

「同性を愛してしまっては子供は産まれない。子供を産まないという選択はこの島では大罪なのです」

言わなくてもわかるでしょうというのが言外に含まれている。

「男のくせに男を誘惑して恥ずかしくないのか」

水責めが再開される。

湖上に風が吹くが、水面は荒れない。

魔女狩りをして何になろうか。見せしめても、子供がぽんぽん産まれるものでもあるまい。それとも、子供あるいは、子供を産むという行為そのものにこの人間たちは執着しているのであろうか。

非国民だ、汚らしいだのとの声が耳に届くたびにその言葉をそのまま返したくなってしまうが、ここでも僕は自衛に入る。最低なのは僕の方だと思った。

「見ていて苦しいですか。楽しいですか」

「楽しいと言わなければ魔女狩りするのか」

「よくお分かりで。しかし、あなた様が何をしようと、おばば様はあなた様を殺しはしないようです」

「どうして」

「あなたはこの島に必要なのです」

こんな悪趣味な人間たちに軟禁する理由などないものだと思っていたが、この島も何やら抱えているものがあるのだろうか。

 魔女狩りを見守る人間の中に昨日の少年がいないことが少し変に思った。このようなやり方をあの少年は好みそうなものなのに。母を殺した虚無感が遅れて押し寄せているのかもしれない。でも、少年が人間らしい顔をするのも見たくはない気がした。

 水責めは激しさを増し、魔女にされた男たちは憔悴していく。

その様を島の人間たちは指さし、あげつらう。その度に琵琶湖がひゅわひゅわ鳴いた。琵琶湖は島の味方をするのかと思った。

「あなたが来てからというもの、儀式が多い。御神体に好かれているのかも」

「迷惑だ」

「ご対面したこともないのによく言い切れましたね」

巫女と話すのでさえ、体力を奪われる。

唇の皮をしゃぶった。

水責めが続く中、松明を持った巫女装束姿の女と桶を持った同じく巫女装束姿の女が二人下りてきて、魔女狩りに合流した。まさかとは思ったが、変な考えはすぐに追い出した。

「目隠ししますか」

「どうして」

「これまでの儀式の中で最もえげつないからです」

笑みを堪えるような口からえげつないという言葉が出るのは違和感しかなかった。

「いらない。触られるぐらいなら死んだほうがましだ」

そう言った瞬間に僕は死からそう遠くないところにいるということを思い出した。

この島では殺人は合法で、僕は軟禁されていて、母は事実上、人質に取られている。こんなにも悪条件が揃っているにも拘わらず、僕は死を軽んじてしまった。無性に腹立たしくなった。

「やはりあなたは可愛い」

巫女の方を向いたが、当の本人は無表情で魔女狩りを見つめていた。

松明と桶を持った女二人が地面に突き立てられた磔に近づいていく。魔女にされた男たちは喚く力も残っていない。一人の女は中身を無気力な男たちにばしゃばしゃとかける。一人の女は濡れて皮膚に張り付いた薄い着物に松明をかざした。すると、瞬く間に全身に燃え広がった。そこへ琵琶湖の風が加わって火が一回り、また一回りと大きくなっていく。男たちは本能的に呻く。人々はただ突っ立っている。火をじっくりと味わっている。皮膚が焼けて黒くなっていく。ばちばちと火の粉が上がる。ごうごうと燃え盛る。風によって煙が琵琶湖へ流れていく。肉の焼けた臭い。磔が木だったのもあってか、一緒に燃えて根元から折れた。黒い死体が二体、地面に転がった。

人間の灰は一人分だけでもとても多かった。

人々はそぞろに建物へと帰っていった。死体は回収されぬまま風化を待っているようである。人間も所詮は自然の一部でしかないのだ。

「迫力があったでしょう」

「殺して何がしたいんだ」

「全ては進化のために」

「退化の間違いだろ」

琵琶湖に歩み寄る。すっかり凪いでいる。

進化を拒むこの島を琵琶湖はこれからも見守るというのか。

胃がもたつき出した。母の膣から溢れた精液と肉塊と山盛りの蛆虫が過る。視界がぐらついたのでしゃがんだ。

「体調が優れませんか」

「お願いだから、どっか行ってくれ」

口を開いただけで胃ごと出てきそうだった。

食道が生温かい。唾を飲んで押し戻そうとしたが、結局吐いてしまった。吐いた先は琵琶湖。青緑色の美しい琵琶湖。黄色い液体がまあるく浮かんでいる。ビワマスが琵琶湖に返った。これではあの黒い塊と変わらない。しょうがないにしても、自分が汚してどうする。同等は嫌だ。黒い塊よりもこの島よりも僕は琵琶湖と結びついて暮らしていくのだ。自分の口と琵琶湖を繋ぐ糸を泣く泣く切る。ばしゃばしゃと水をかき混ぜると、吐いた物は溶けて消えた。だけれども、酸味と魚の臭いと後悔がしぶとく残っている。

背中を摩られ、巫女の手だと思って睨みがちに振り返ると、見たこともない白髪のおばさんが至近距離にいた。

「大丈夫かい」

その優しさに嘘はないと判断したので、少しの間されるがままにしていた。

「顔色が戻って来たね」

おばさんの顔は小さい物なら挟めてしまいそうなほど深い皴が刻まれている。

目が合うだけでも安心感が違った。

「変な味がするだろう。おいで」

僕の体重の三分の一ほどをおばさんが持ってくれる。

自分の足で立てるようにはなっていたが、何となくおばさんに甘えたくなった。

おばさんの身長はかなり低く、中腰の体勢で歩くのは大変だった。

おばさんは小石が転がっているだけでも声を掛けてくれた。僕が白々しく休憩したいと言っても、もうちょっとだからと返してくれる。

おばさんのもうちょっとは遠かった。森の深いところまで来たかと思うと、洞窟の小さな入り口が見えてきた。

天井の高さはおばさんの身長でも頭すれすれだった。洞窟内は湿っていて、寒いくらいだった。

地面は不思議なほど平坦だったので、人の手によって造られた洞窟なのだろう。

何回目かのもうちょっとを聞いたすぐ後に頭に迫る天井がなくなった。天井がかなり高くなったのである。

「電気つけるから待ってね」

僕からおばさんが何の未練もなく離れたのが寂しかった。

数秒のラグがあったが、歯切れよく電気が点いた。昔懐かしの裸電球がぶら下がっている。

その丁度真下には立派な仏像が置かれている。ほこりを被って毛が生えたようになってしまってはいるが、大きな傷は特にない。僕を迎えるかのように微笑んでいる。

「もう、それには拝んでないんだよ」

おばさんはお茶の用意をしている。こんなところに電球やお茶があるのが驚きだった。

「一応、この島に電気は通ってる。ただ、みんなが生活できるほどはなくってね。ここは必要だから通してある」

「お茶は?」

「これは私の。息が詰まった時にここで一人、お茶を飲む用さ」

そう言いながらお茶を差し出してくれた。おばさんが地べたに座ったので、僕も座る。

一口飲むと、嘔吐物の臭いが再び胃の中へ流れていった。

「緑茶だから消毒されるよ」

「ありがとうございます」

おばさんが毛の生えた仏像の方を見出したので、僕も同じようにした。

「おばさんはどうして僕を介抱してくれたんですか」

その問いに対しておばさんは少し考えてからこう言った。

「息子と同じぐらいの年かなと思ったから」

「おいくつなんですか」

「私が数えてる限りだと今年で二十三」

「一緒に住んでないんですか」

その言葉の無神経さに言ってから気づいた。

僕の失言には気にも留めず、おばさんは続ける。

「島に取り上げられたんだよ」

「取り上げられた?」

「そう。至って健康優良児だったからこの島から追い出されてしまってね。それも赤ん坊の時に」

鼻から息を吸い込む。仏像のほこりでくしゃみが出そうになったが堪えた。

「この島で健常者が暮らすことは許されていない。親は子供と引き離されても何も言うことができない」

「そんなのおかしいですよ。子供は宝って言ってたのに……」

「健常者は別。何の利益にもならないんだよ」

悲しそうに湯飲みのふちを右手の人差し指で拭った。他の指は変な形に縮こまって開きそうにない。僕と同じ形をしている左手を見て、さっきはそっちの手で摩ってくれたのかと思った。

「会いたくならないんですか」

「……思わないはずがない。でもね、会ったら迷惑なんじゃないかとかいろいろ考えちゃうんだよ。だから、普段は思い出さないように、ね」

お互いがお互いを見ていない。おばさんは息子さんを、僕は母を感じている。

 母は僕に対してこのおばさんと同じように考えてくれたことがあったのだろうか。

認知症になる前にだって、母らしいことをしてもらったことがあまりない気がする。

僕が息子らしくすれば母として接してくれただろうか。

寂しさとかではない。ただ、自分の精神的な欠陥の原因は母にあると言ってもいい。

具体的に何かあったとかではないが、母はいつだって一人の女だった。

脳味噌が縮むと、女ではなく、動物というカテゴリーの中の人間になった。

人間は僕の時間を食い潰し始めた。

この島に来たのだって、当初は母を捨てる予定だったのだ。

母は僕にとっていらない存在なのに、僕はまだこんなところで粘って一緒に帰れるんじゃないかと思っている。

無駄な悪あがき。いっそのこと、あの少年のように母を殺してしまおうか。殺人という形で最上の親孝行が成立するのではないか。

「ごめんね。こんな話聞きに来たわけじゃないのにね」

「そんなことないです、」

それ以上続けられなかった。無理に引き上げた口元が痛々しかったからだ。

「そう言えば、この島は神道でしたよね。何で仏像があるんですか」

「これは仏像じゃなくて、シンゾウ。神の像と書いて神像」

神像。神道だから神像なのか。何もおかしなことはなかった。

「どうして拝まれなくなったんですか」

「……」

おばさんは湯飲みを地面に置き、自分の右手を撫で始めた。

「おばさん?」

「御神体が御生まれになってからさ」

「御神体……」

呟いた瞬間にこれはまずいと思った。島の言葉を口に出してしまったと思った。

ビワマスを食べるよりも、お茶を飲むより、何よりも島を享受することになるのではないか。

「とりあえず、あんたは早く帰るべきだよ。無理をしてでもね。私ができることなら何でもするしさ」

「船の手配もできるんですか」

「それは、申し訳ないけど……」

そうやって俯かれてしまうと、何も言うことができない。

自力でどうにかするしかないのである。

おばさんに礼を言って、来た道を一人で戻った。一本道だったので何の心配もない。

途中で左側から風が吹きつけている場所を通りかかった。手で壁を伝うと、そこだけ壁がなかった。分岐していたのだ。

単なる好奇心でそっちの道に入る。

天井がすぐに高くなって、普通に立てるようになった。数歩進むと、電気のスイッチが顔に当たったので点ける。

錆びた鉄柵がある。ゆっくりと横歩きしてその正面に立った。

虚ろな目をした年若い男女。一糸まとわず、首を出鱈目に動かす。肘と膝の少し上で切断されており、切断面には生成り色の包帯が巻かれている。古びた牢屋に芋虫人間が詰め込まれている。獣臭がこもっている。肩や太腿には数えきれないほどの小さい穴と青痣がある。

「こっちに来てしまったんだね」

おばさんが顔から現れたので声が出そうになった。

「これはなんですか」

指を牢屋に向かって差すと、人間がその指、目掛けて歯をむき出しに噛み合わせた。がちっといい音がした。人間の胸元できらりと何かが光った。よく見ると、それはロザリオだった。

「薬漬けにされた廃人だよ」

「人体実験って犯罪ですよね」

「『外』ではね」

『外』の言い方でおばさんに初めて嫌悪感が芽生えた。

「この島は人体実験で成り立ってるのさ」

ありえない。人間を使い捨てのように扱うなど、とっくの昔になくなったと思っていた。人間は人間を脅かしてはいけないと僕たちは学んだ。この島は例外だとでも言うのか。日本いや、世界が許すはずがない。

 手を伸ばそうにもその先がない人間が口を開いた。舌がなかった。

「この際だから全部を見ておいた方がいい。こっち」

おばさんの手招きする方へ行く。

出口が遠のいていく。

奥にもう一つ牢屋があった。中で小さい物がいくつも這いつくばっている。肌色の皮膚に覆われてはいるが、塊という範囲を出ない奇妙なモノ。ぼこぼこ隆起と伸縮を繰り返す。しかし、耳も目も口も鼻も生えて来やしない。生きているだけで目障りになりかねないモノ。

「これは……」

「人間の成りそこないさ」

「死なないんですか」

「再利用するために生かされるんだよ」

森で死んだ名のつけれない生き物もそんな風に生かされたのだろう。その末に黒い塊を吐き出して死んだ。訴えかけるために死んだようだった。

死ぬのも生きるのも他人の自由。自分ではどうしようもない。その恐怖が迫ってくる。僕を下そうとしてくる。

母はどうなるんだ。実験材料にされて死ぬのか。僕ではなく、白い紙の男たちに。

 ねずみを掴むとじんわりと温かかったのを思い出した。授業で解剖ができるというだけで何故か教室中がハイになっていた。手の中で筋肉が動く感触がこそばゆかった。短い毛がちくちくと当たる。指で押さえつけて切り開いていく。この世を掌握したように錯覚した。命で知識を得てもいいのだと知った。

それがなぜ人間に切り替わった時点で犯罪となってしまうのか理解できない自分がいた。しかし、そのようなことを考えている自分も恥ずかしいと思っていた。

 この島の人間と通じ合うような一面をずっと昔に発見していた。

きっと息子になりきれない僕も同じところにいる。

発がん物質を自力で体外に出そうとしているみたいに歯がゆい。

利用されるためだけに生かされている芋虫人間とできるならば入れ替わりたい。痛みがないならすぐにでもやりたい。

犯罪者予備軍は『外』には出せないが、島の人間になるのはまっぴら。生き死によりも苦しい矛盾がやってきた。

鉄柵に鼻が引っ付きそうなほど近づき、出来損ないに呼気を浴びせる。まだビワマスが管にへばりついている。感知できるはずもないのに、身がちぎれそうなほどのたうち回った。

「ここにあんたがいたらやっぱ駄目だね。はよ出んな」

おばさんには僕の中の中まで見透かされている気がした。

服の袖をつままれ、そのまま出口まで引っ張って行かれた。

「ちゃんとあんたは『外』に帰るんだよ」

「はい。母さん」

自然と息子らしい笑顔ができた。

 一度戻って、島を出る作戦を練らなければならない。巫女は何が何でも手伝わせる。

島を出てしまえば、島で見たことは清算できるはずだ。

 琵琶湖に夕日が反射している。低い波が引き立てられてきらめく。船の一隻が横切っていく。調和しつつも反発するグラデーション。この中で外来魚は悠々と泳ぐ。ごみが一緒に漂う。金槌の僕も底に沈殿すれば仲間に入れるだろうか。

目の前の琵琶湖は琵琶湖であって琵琶湖ではない。琵琶湖はもっと人間に使い古された水だ。でも、この島で見る琵琶湖はいつだって綺麗だ。決して利用されたりしない。だから琵琶湖はいい顔をするのだ。

 障子がわずかながらに開いていた。監禁部屋に行く途中に気づいた。

それまで一度もそんなことはなかった。開いているのは一枚だけ。それ以外はびっちりと閉じられている。

「……ください……で」

老婆の声だった。

誰かと話している風だった。

これまでの老婆の態度などを考えるに、相手が島の人間だとは思えなかった。では、誰と話しているのか。

障子に身体を寄せ、片目で隙間から中を覗いた。

老婆がまず先に見えた。

その斜め向かいにスーツ姿の男が見えた。

「木士島のお陰でこの国はやっていけているもんですよ。ないないずくしの日本を底上げしていると言っても、過言じゃない」

酒をかなり煽っているのか言葉が宙を舞っている。

「で、あれはどうならはったんです」

「……あれとは?」

「誤魔化さんとってください。検体を百体下さるというお話は進んではるんですか」

老婆はしらふと見える。

赤ら顔を少し引き上げて男は座り直した。

「はい。着々と。少々欠陥があろうとも、健常者ならいいんですよね」

「欠陥の具合によります」

「受刑者とか」

男がぐいっと残りを飲み干す。

「神聖な御神体のお食い初めに受刑者ですか」

「では、どうしろと」

「それはあんさんらが考えることです」

蛾が火の中に飛び込んでじわっと焼ける。羽が半分になっても、蛾は飛ぶ。

老婆の黒が深くなっていく。

「私らはあんさんらに言われたことをちゃんとこなしてます。それはあんさんらがよくお分かりでっしゃろう」

「それはもう! あの薬は素晴らしかったです。近々、民間で実際に使用されるようです。あの薬はいかように出来たんですかね」

「無差別に打ったら効果が出たんだそうです」

袖を口元に寄せて高笑いをする。

赤ら顔の男は笑い声を合わせ、足を放り出す。

鼻をひゅっと鳴らしてしまったが、どちらも気づいていない。

「こちらがすべきことをしているのですから、あんさんももうちょっと要望を汲んでください」

「私の力をしてでも難しいんですよ」

「この国の大臣ともあろうお方が何をおっしゃいますやら」

頭の回転が止まり、身体が動かなくなってしまった。脊椎も反応しない。

障子に体重を掛けそうになって、体勢を持ち直す。

四つん這いになって障子の前を離れた。

大臣というのは総理大臣とかそういう人のことだろうか。そもそもこの国というのは日本ということなのだろうか。

政治家と老婆は繋がっている。それはつまり、この島のやっていることを日本は容認しているということになる。

僕は空回りしていたのだ。無駄だったのだ。常識など鼻からなかったのだ。

みっともない格好で逃げていてとてつもなく惨めだ。

額の痛みと後頭部の痣の痛みで脳味噌に圧をかけられて砕け散りそうだった。

 監禁部屋に入ると、巫女が中央に座っていた。

「この島の人間になりませんか」

「ならない」

扉は閉めないでおく。

巫女と距離をとって座る。

「体調治りましたか」

「お前には関係ない。それより、明日には島を出たい。協力してくれ」

「この島の秘密を全て知ってしまわれたのですよね?」

巫女を一瞥するだけに留める。

巫女が詰め寄ってくる。

目の中に月光が入った。これまでで一番女らしいと思った。

「では、私と子を残してください」

「……」

母と僕、死体と少年、そしておばさんと息子さんどれも深い繋がりを持っている。親はいつ何時も子供を愛しているものだ。それなのに、巫女は僕と自分の間に子が欲しいと言うのだ。狂っている。

「私は御神体を琵琶湖に流して立場が危ういのです。子を残すしか方法がないのです」

「御神体?」

目を喰うだの言っていた御神体を琵琶湖に流した。老婆は男にお食い初め用の検体を用意しろと命令していた。ちぐはぐで一本にはならないが、現実的でないことだけはわかる。

「あなた様との子は新しい御神体になれるのだそうです。この島でまともな遺伝子を持っているのはあなた様ただ一人」

すがりつこうとしてきたので、思わず足で蹴る動作をした。

それでも巫女はひよらずに足首を掴んで爪先から登ってきた。

うつぶせになって腕の力で逃げようにも逃げられない。巫女の身体に触れたら全て吸収されてしまいそうだ。

強張って力が上手く入らない。

「セックスは神聖な物です。みんな子を残そうと必死です。木士島はセックスで出来上がりました。異常な遺伝子同士を掛け合わせるとどうなるのかを人体で試したのです。もちろん、実験は成功しました」

扉はすぐそこにあるのに辿り着けない。

身体をひっくりかえされてまさぐられる。

吐瀉物がまた口に広がった。粒はない。

「数十年前、御神体が人間のセックスによって誕生しました。人間の形は取らない人間はたちまち崇め奉られました。五感すら感じることのできない怪物が人間の頂点に立ったのです」

僕には赤い袴を脱いで跨る巫女の方が怪物に見える。

目が座り、僕は見えていない。

「御神体は食事は出来ますが、排泄は出来ません。毒素を自分で出せない。そんなものが島の中枢だったのです」

性器と性器が合わさると、巫女は興奮し、まくしたてた。

「私たち巫女は御神体の世話をしていました。ただ同じ空間にいることがほとんどでした。黒い塊は性器はありましたが、セックスできなかったのです。私たちはセックスをすることが存在意義だというのに。だから流していっそこの島を終わりにしてしまいたかったんです。結局、思い通りにはなりませんでしたが」

黒い塊という表現に覚えがあった。

砂浜に打ち上げられた黒い巨大な不確定物体。黒光りし、節のない、ただの塊。

それこそがこの島の御神体だったというのか。

人間の女の腹で作られた人間。僕と同じ人間。

芋虫人間たちと同じく無理矢理生かされた人間。

可哀そうな人間。

「私たちで新しい人間の御神体を作りましょう! そうしたら、権力だって握れてしまう!」

巫女は人間の沼に自ら飛び込んだ。

ぞっとした。人間の務めなど果たせなくていい。

子供などいらない。この世に子供だとかいらない。人間の進化も望まない。母のお腹の中で胎動する日々をもう一度。

巫女の首を絞めた。巫女も僕の首を絞めた。

上下が分からなくなった。

どちらも果てた。

僕の一部は島に留まることを決めたようだった。

2019年10月11日公開

© 2019 小西真由

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


4.0 (1件の評価)

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

SF 実験的 散文 純文学

"罪と真で信"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る