今は昔、稲刈の翁といふ者ありけり。この稲刈の翁a.k.a.狸のミヤツ子いう男、体は六尺ばかりの大男、顔はその名の通りの狸面、しかし心は桜色。老いて今なお益荒男なれど、胸の奥にはやはらかな、手弱女なりぬる心を持ちぬ。物心つきしころより花を愛で、鳥を愛し風に歌い、着飾ることが何にも増して好きだった。母の箪笥から衣を出しては身に纏い、野花を搾った汁で頬や唇に紅を差し、くるくる回って楽しんだ。幼少の彼を母は嘆いた。父は激怒した。必ず、立派な一人前の健男児にしてやらねばならぬと決意した。父には乙女心がわからぬ。父は村の猟師であった。父は彼にこう言った。「女の真似事などするでない」母は彼にこう言った。「お前を不幸にしたくはなくて言うのです」けれども彼は嫌だった。野山にまじりて矢を放ち、兎や雉や猪を、その手で殺めてしまうのが、嫌で嫌で仕方がなかった。しかし嫌とは言えなかった。父の言う、母の望む、立派な男であろうと努力した。矢を一本放つたび、空に浮かんだ月を見て、涙がこぼれぬようにした。父母の思いと彼の努力の甲斐あって、やがて彼は父にも勝る剛健な男へと成長した。かに見えた。十五を迎えたその夜に、馬も盗まず障子も破らず、彼はひっそりと自らを、ミヤツ子と名付けて日記をつけ始めたのだった。「男もすなる日記なるものを、ミヤツ子もしてみむとてす。」最初の一文を書き終えた時、ミヤツ子思わずうっとりと、金色銀色桃色吐息。
ミヤツ子は、かつて夫婦の契りを交わしたことが一度あった。見合いした、隣村の娘だった。しかし夫婦となって二年後に、娘は手をつき「どうか別れてください」とミヤツ子に乞うた。ミヤツ子日記にこう記す。「人の日記を読むなんて、最低最悪マジ田。」最後に書いた卍の文字は、滲んで田んぼの田になった。そこから伸びた稲を刈り、よろづのことに使ひけり。年毎収穫量は増え、いつしかミヤツ子猟師を辞めて農家となった。
やがて父母が死に、ミヤツ子は一人きりになった。いかに頑健なミヤツ子なれど、歳を重ねてゆくうちに、肩やら腰やら肛門に、それまでなかった痛みを覚える日が増えた。孤影悄然、稲を刈り、時折月を見上げては、己が虚しさに目をうるませた。ある年いつもの稲刈りで、まぶしく輝く稲穂があった。穂先には、ほとんど瓜のように膨れた実が成って、重たい頭を地面にだらりと垂れていた。光っているのはどうやらその実であったのだ。
ミヤツ子日記にこう記す。 「今にもはち切れそうな籾殻を、そっと剥いてみたところ、三寸ばかりの小さな娘が、籾の中にて我を見る。なんと愛らしいその姿。」
ミヤツ子はその小さな娘を、優しく包み連れ帰り、飯や風呂やの世話をした。飯を頬張り食む姿、風呂できゃきゃんとはしゃぐ顔、どれを取っても愛くるしい。ミヤツ子は、日記に更にこう記す。「この子は天からの授かりもの。ありがたや、ありがたや。このミヤツ子が、必ず幸せにしてあげよう。」
娘は瞬く間に大きくなった。育つほどますます見目の麗しさが際立った。長いまつげ滑らかな肌豊かな黒髪、人形のような美しさを持ちながら、蒸気した頬は熟れた桃のような色を帯び、朗らかな笑い声は清冽な湧水のようだった。そのうえ娘からは、まるで香を焚きしめたかのようないい匂いがいつもした。ミヤツ子は自分の枕と娘の枕を嗅ぎ比べては、その不思議に首をかしげた。白檀とも沈香とも言えぬ、何とも芳しい匂いだった。ミヤツ子はこの匂いを嗅ぐと、持病の肩こり・腰痛・痔の痛みがみるみるうちにおさまって、気持ちがたいそう安らいだ。娘のことをミヤツ子は、ふざけて「香具や」、「嗅ぐや」、と呼んだので、娘はいつしか「かぐや」という名になった。
かぐやが来てから不思議なことに、ミヤツ子が刈り取る稲穂の中に、黄金の入っていることが重なった。ミヤツ子日記にこう記す。 「脱穀すれば黄金が、ざくざくざくっとあふれ出る。いやはや何ともたまげたものよ。」
別の日ミヤツ子こう記す。 「黄金で、かぐやに綺麗な衣や櫛や鏡や紅を買ってやる。まだかぐやには長すぎる衣の丈を取ってはきちんと着せてやる。雉撃ち、稲刈り、今や丈取りのミヤツ子よ。素のままでも十二分に美しいかぐやは、それらで更に美しくなる。それを見ると何とも嬉しい気持ちになる。ととも着てみてとかぐやは言うが、何の何の、ととが着るもんじゃないんだよと道理を説けば、何で何でととが着たかったんではないのとかぐやは言う。ととはいいんだよ、美しいお前を見るだけでいいんだよと言えば、でもかぐやはこんなの着たくはないのと言ってべそをかく。泣くな泣くな、何で涙を流すのか。こんなに色もとりどりの、絢爛な衣に囲まれて、しかもそれに負けずとも劣らぬ美貌を持って、かぐやよ、美しい子よ。お前はまだ小さいから何が幸せかわからないんだ、ととがちゃんと教えてあげるからな。かぐやは相変わらずぐすぐす言っている。涙で濡れた頬さえも、白磁のように麗しい。」
すくすく育てば育つほど、かぐやの美しさは尚増した。ミヤツ子は日々ほれぼれと、その横顔を見ては目を細め、恍惚の息を漏らすのだった。ミヤツ子日記にこう記す。 「かぐやの美しさを前にして、ミヤツ子に一体何の価値がある。とまれかうまれ、とく破りてむ。」
かぐやが月を見上げながら吐いた溜息は、ミヤツ子の耳には届かない。
谷田七重 投稿者 | 2019-09-28 22:02
久しぶりに駿瀬さんの作品を読めて嬉しいです!
たしかな知性に裏打ちされたお茶目なユーモアにウフフと忍び笑いしながらあっという間に読み終えました☺️
また新作を楽しみにしています。推し!
駿瀬天馬 投稿者 | 2019-10-01 17:46
コメントありがとうございます。
落選したものですので掲載を迷ったのですが、谷田さんにうれしい感想をいただけて作品の供養ができたような気がします。
谷田さんの新作も楽しみにしています。
ありがとうございました☺️