一昨日の晩、ツアーガイドと酒を飲んでいる写真を送りつけてきた恋人が時差ポケットに落ちたらしい。
寝ぼけていたせいもあって僕は、パスポートをなくして出国できない連絡だと勘違いした。ばかだなぁ、また飲み過ぎたんでしょ。いくらツアーだからってはしゃぎすぎなんだよ。朝早くに起こされた腹いせに僕はそんなふうに言って、怪訝そうな「もしもし?」の声に我に返った。
電話の主は恋人の妹のくるみさんであった。至急外務省に来てほしいという。姉のことなのでまさきさんがいたほうがいいです。それに私もなにがなんだかわからなくて。
わからないとはどういうことか? なにか事件に巻き込まれたのか? 彼女が向かった先は幸せの国ブータン王国であり、ツアーガイドなしには入国できないはずだ。ビザはガイド会社経由で取っているのでオーバーステイの線はないだろう。治安はかなりいいと聞いたが、ガイド会社が最後の最後で豹変したのだろうか? それとも事故か――
最悪の状況を想像するうちに、すっかり目が冴えている。僕はさとみの身分証明書と印鑑と、なぜか銀行の通帳をもって霞が関へ急いだ。到着してから通帳はいらなかったのではと思ったが、とにかく動転していたのだ。
さとみからブータン旅行の計画を聞いたのは二ヶ月前であった。現地のツアー会社に連絡をとって個人ツアーをたのめばいいだけなので、思ったよりも簡単に行けるらしい。僕は驚いたが、いってらっしゃい、楽しいといいね、お土産は別にいいけど到着と帰着の連絡はいれてね、といって送り出した。彼女がそんなふうにふらりと旅に出るのは珍しくなく、海外は一、二年に一度、国内ならしょっちゅうだ。彼女を止められるわけはないし、止める理由もないので、僕は家で彼女の帰りを待つ。
一人旅至上主義の彼女にとって少々変則的な旅行だったので心配したが、SNSを見る限りではずいぶん楽しんでいた様子だった。一昨日の晩もげらげらと笑っている写真を僕に送りつけてきたし、「あした帰りたくない」とSNSに書き残していた。共有しているカレンダーによれば出発は現地時間で昨日の午前十時、スワンナプーム国際空港でトランジットして今日午前六時に羽田到着の予定とある。
そんな彼女がまだ日本に戻っていないらしい。
灰色のカーペットが敷き詰められた無機質な会議室で、僕とくるみさんは説明を受けた。メガネをかけた、僕たちと歳のかわらないくらいの男性が担当しているらしかった。彼もまだ寝起きなのか、頭に寝癖がついて、しきりにメガネをおしあげている。舌だけはなめらかに動いて状況を説明しているが、僕はぼんやりとして彼の姿を見ていた。彼の背後にきれいに積み上げられた空の椅子が、突然崩れるような気がして不安でたまらなかった。
さとみが時差ポケットに落ちた、と彼は言う。
彼女の乗った飛行機はパロ空港を定刻通りに出発し、コルタカ空港で一旦着陸、荷物の入れ替えを行いスワンナプーム国際空港へ向かうはずだったが、コルタカ空港で乗客トラブルが発生して一時間半ほど出発が遅れたそうだ。しかし当該飛行機はスワンナプーム国際空港に当初の予定通り到着した。
「スワンナプーム国際空港到着後、飛行機の中にいるはずの乗員乗客がすべて不可視状態にあることが判明しました。国際線ではごくまれに発生する事象で、我々はこの現象を”Time Turbulence”、日本語では『時差ポケット現象』と呼んでいます。日本人でこの現象に遭遇された方は竹内さんがはじめてですが、他国と連携して情報を収集して――」
男性は妙に汗をかいている。視線は落ち着きなく手元の紙と僕とくるみさんの間を行き来しており、息継ぎを忘れているのではないかと思うほど早口だ。僕は正直ぽかんとして、彼の眉毛を眺めていた。話が理解できない――こともあるが理解しようという気力が沸き起こらなかった。
「つまりさとみちゃんは消えたってことですか?」
「いえ」
くるみさんの横槍に、ぴんと背筋を伸ばして男性は明敏に反応した。
「消えたわけではありません。不可視状態です。あちら側にいらっしゃることはすでに確認がとれていて、日本に帰国できるようこちらで準備をしています。今はバンコク市内のホテルに滞在してまして――」
あの、と僕はけんめいに息をすって割り込んだ。
「彼女、様子は……」
「なにごともなく過ごされているようです」
ピシャリと叩きつけるように男性は断言した。ふつうならカチンとくるほど強めの語気だったが、なぜか僕は納得した。たしかにさとみなら平然と過ごしているだろう。それどころか状況を楽しんでいるかもしれない。
「で、時差ポケットってなんですか?」
またもやくるみさんが右手を少し上げて話を遮った。
さとみもそうだが、どうも彼女たち一家は人の話をまぜっかえす癖があり、それをまったく悪いことだと思っていない。僕がとがめるとさとみはいつも、あとで基本的なことを聞き直すよりその場で聞いたほうがマシでしょ、とふくれっ面でいう。まさきってそういうところあるよね。形式にとらわれて本質をおろそかにするっていうか。
隣にいるのがさとみだったら僕はたぶん彼女を制していただろう。さっき説明してくれたでしょ。とにかく最後まで聞こうよ。
けれども相手はくるみさんだ。以前に一度しか会ったことのない相手には遠慮が先に立った。男性は少し目を大きくしてくるみさんをみやり、それから素早く僕にも視線を分け与えた。
「先ほど説明差し上げたとおり――」
「じゃなくて、どういう現象というか、なんでそういうことが起こるのかっていうかぁ……とにかくなんなんですか? もうちょっと詳しく説明してください」
職員は顔をこわばらせて、視線を僕とくるみ山の間で泳がせている。口元にはうっすらと笑みがうかんでいるが、それは状況を楽しんでいるというよりは困惑をごまかすための笑みだろう。
「あー……」職員はメガネを人差し指の付け根で押し上げて、短く息を吸った。「時空ポケットというのはなんといいますか……まだはっきりしたことはわかっていなくて……」
絵にかいたようなしどろもどろである。手元の紙を意味もなくぱたぱたとさせて、男はごくりとつばをのんだ。それから急に顔をしゃっきりさせ、背筋をまた伸ばした。
「いまのところは日付変更線をまたがない西側から東側への高速移動時に起こる、ということだけわかっています。時空ポケットに落ちるとこちら側の世界からは不可視状態になりますが、あちら側――便宜的にあちら側とよんでいる場所ではこちら側と同じような世界がありまして、同じように暮らすことができるそうです。時差ポケット事案は今のところ世界で三十件ほど発生していて、スワンナプーム国際空港発着便に限っていえば今回をふくめて八件ですね」
「西側から東側に移動するときだけなんですか?」
「今のところはその条件でのみ発生しています。日本人が巻き込まれたのは今回がはじめてなので、こちらにもまだ情報が不足していて、はっきりしたことは申し上げられませんが。今回の当該飛行機でも乗客の日本人は竹内さんだけ――」
「西から東っていうと時間的には東のほうが先だからぁ、あ! あれか。到着したら損した気分になるあれ……」
「くるみさん、詳しいことはあとにしましょう。これからやらなきゃいけないことがあるかもしれないし」
のんきに指を動かしてなにかを考えているくるみさんに僕はつい苛立って声をかけた。職員はコピー用紙の上で人差し指を浮かせ、まだ視線をさまよわせている。廊下をばたばたと人が歩く音がする。とにかく情報を収集してください、このあと記者会見がありますからそれまでに――そこで人の声は聞こえなくなる。ずん、と腹のあたりが重くなった錯覚をして僕は慎重に息を吐いた。
「時空ポケットに落ちたらどうなるんですか? 連絡はできるんですよね」
けろりとした顔でくるみさんはさらに質問を重ねた。よほどつついてやろうかと思ったが、男性が流れるように話を始めたので機を失ってしまった。
「先程申し上げたとおり、あちら側の世界はこちら側と酷似していて、物体の共有ができることがわかっています。つまり、いまおすまいの場所で今までと同じように暮らせますし、物体を共有できるので例えば書き置きの手紙、ってわかりますか? メモを机の上に残しておけば意思疎通は可能だそうです。ただしあちら側とこちら側の時間は共有ではなく――」
「平行世界ってことですか?」
「いえ、平行しているわけでもないようで、時差は一定ではありません。竹内さんはインドのコルタカとタイのスワンナプームの間で事故に遭われたので、日本時間とは最大三時間半の差があると思われますが、こちらの時間と前後することもあるとあちら側からは説明を受けています。とにかくまだ実態がつかめていなくて――」
「メールはできます? 電話とかSNSができると楽なんですけど」
「メールについてはうまくいった例があるそうなのでいま対応を依頼しております。電話はつながらないそうです。SNSはまだ把握していませんが、確認してもらいますね」
さらさらと紙にメモをとり、彼は唇をなめた。
なにかおかしいじゃないか。僕は少し憤慨していたが、自分がなにに憤慨しているのかよくわからなくなっていた。聞きたいことは僕にもある。さとみはどんな様子なのか、いつこちら側に戻ってこれるのか、とか時差ポケットについて詳しく知ったり連絡を取る方法を模索したりするより先に聞くべきではないのか?
「さとみちゃん、SNS中毒だからなぁ……大丈夫かなあ。まぁ大丈夫か、あの人」
「食料はあるんですか? なにか危険があったりとか、彼女、いまどこにいます?」
くるみさんがますますのんきなことをいい始めたので、僕はあわてて口をはさんだ。カツン、とボールペンの尻を机にたたきつけた職員は細かく首を縦に振って、大丈夫です、大丈夫です、と早口に同じフレーズを繰り返した。その声にようやく僕は彼が混乱していることを悟った。
「スワンナプーム空港は対応に慣れていますからご安心ください。情報のアップデートがありましたらすぐにお知らせします。あちら側に落ちた人は多くありませんから、治安的な問題はいまのところ発生していないそうです。いずれにせよ竹内さんは今日の深夜便でスワンナプームを発って、明日の早朝に羽田に到着予定です。ご自宅にお戻りになりたいとのことですが、公共機関が使えるかどうかわかりませんので、ひとまず羽田からご自宅まではこちらで車を手配します」
「僕と一緒に住んでるんですが……」
「建物は動かない物体ですので」極めて事務的に彼は話をすすめた。少しの迷いもない。「前後三時間半以上扉を動かさないよう注意しておけば、竹内さんのお持ちになっている鍵で通常通り出入りが可能です。ただ扉の開け締めのタイミングによっては扉が消失してしまうことがあるとの情報があるので――」
「そんな、前後三時間半も扉ひとつ動かすのも神経質にならなくちゃいけないなんて、生活できないじゃないですか」
僕はつい、声を荒げた。三時間半は短いようで長い。眠っている間なら問題ないかもしれないが、朝の時間帯や帰宅の時間帯を考えると生活するなと言っているようなものだ。彼女だってどうやって生活するのか? 乗り物にのれないなら仕事にも行けないし、買い物や、生活や、ほんの些細なこと一つするにも三時間半待たなければならないのか?
「状況を見つつ、その場に応じて判断していただくというかたちで……」
「こちら側に戻る方法はあるんですか? いつわかるんです?」
唇を噛んで職員は沈黙した。一旦視線を押し下げ、そして僕を見る。
ぴりりと部屋の中が緊張した錯覚をした。しかし彼は臆さなかった。僕を見据え、重そうに口を開いたのだ。
たいへん申し上げにくいのですが、と彼はやや慇懃な調子で言った。
「時空ポケットの向こう側からこちら側に戻る手段は、まだ見つかってないんです」
彼はまた視線を泳がせた。まず僕から視線をはずし、それから念の為というようにくるみさんの方へ視線を送った。そしてなぜか彼は驚いたように眉を持ち上げた。その表情に僕もつい、くるみさんをみやった。
くるみさんは平然としている。そのくせ両目だけはまるで子供に若返ったようにきらきらと輝いていた。
その顔をみて僕はようやく悟った。たぶん、さとみも今頃同じ表情でいるのだろう、と。
国内初の時空ポケット事案ということで、すぐにさとみの家族には取材が押し寄せたようだ。彼らに対応するのはくるみさんの役目らしかった。人前で話すのは才能が必要だ。くるみさんが適任だろう。僕は自宅のソファにすわって、そんな彼女をぼんやりと眺めている。
さとみとの付き合いはもう十年になる。同棲をはじめて五年、二年前に僕が激務で体調を崩して会社をやめざるをえなくなったとき、少しはまじめに将来のことを考えようと僕は伝えた。こういうときに限らずさとみは曖昧な言葉は使わない。あのときだってスマートフォンから顔を上げて単刀直入に「で、どうする? 結婚する?」といった。
本当にそうしたいのならしよう、と落ち着いて僕は答えた。結婚すればいろんな手続きが自動的に集約される。ものぐさな僕としてはそのほうがたすかる。でも僕は体調を崩しているし、今後も万全になるとは限らない。たぶんさとみの重荷になることのほうが多いだろう。ついでにいうと、さとみが素直に結婚したいと思っているとは僕は考えていなかった。彼女は面倒を楽しむタイプだから――
案の定、彼女は結婚しないほうを選んだ。理由は「そのほうがおもしろいから」。僕がほんのちょっぴり傷ついたことを、多分彼女は知らない。
そういうわけで僕は「家族」ではないとされ、ソファの上にねそべって彼女の不幸をしらせるテレビ番組を眺めている。
テレビの中ではくるみさんが妹役をけんめいに演じている。眉間にシワを寄せ、眉尻を下げて悲しそうな表情だ。しかし目だけが不自然に輝いており、僕には彼女が楽しんでいることがわかった。出発の朝、姉からはお土産の塩を買ったと連絡がありました。
たしかにそんなことがSNSに書いてあったな、と僕はスマートフォンを操作しながら思った。ヒマラヤの塩ゲット。なんか中に花がはいってて青とオレンジと赤のがあったから全部買った。これポピーかな?
塩はお土産じゃないんでしょ、と僕は心の中で思った。さとみのことだから全部自分のために買ったはずだ。とにかく彼女は塩を見たら買わずにはおれず、家には十キロを超える世界各地の塩がある。少しタイムラインを遡ると、出国したものの現金が足りなくてセキュリティエリアから出て再入国したとも書いてある。どこかできると書いてあったから、わざとやってみたんじゃないだろうか。
テレビの中ではまだくるみさんが話している。とりあえず体調は問題ないと教えていただきました。これからどうなるのか心配ですが、いろんな方からの助言をいただきつつ、家族で支えていきたいと思います。お騒がせしてすみませんでした。
くるみさんのいう「家族」に僕は入っているんだろうか? さとみが「で、どうする?結婚する?」と言ったとき、深く考えずにうなずいていたら、今頃あそこで喋っているのは僕だっただろう。きっとしどろもどろになっていたに違いない。あんなふうにうまく演じることなんて――
ぼんやりとしているうちにくるみさんの映像は消え、「時差ポケット」についての解説がはじまった。虚実いりまじるネットの情報はすでに検索済みだし、外務省からの説明もうけたが、まだ他に知らないことがあるんじゃないかと僕は耳をすませてしまう。
今回の件はコルタカ空港で乗客トラブルによって離陸が遅れたので、定刻どおり到着するために規定以上の速度で航行したことが原因ではないかと専門家は分析しているらしかった。時差ポケット現象は、今のところなんらかの遅延が発生した場合にのみ起こっているからだ。
プリンタから引っこ抜いてきたコピー紙の束を横目で見て、僕はため息をつく。青白い天井のライトが照らすコピー用紙はよそよそしく、ボールペンのインクを拒絶してしまいそうだ。実際、僕は何度もボールペンを握りしめては、そのたびに挫折した。なにをかけばいいのかわからない。さとみがこの部屋に帰ってくるのは明日の朝七時、つまり三時半までにはなにかを書き留めておかねばならないし、彼女が書けるようにボールペンも机の上に置かなければならないのに。それが僕にできる唯一のことなのに。
さとみちゃんは絶対楽しんでますって、こんなことめったにないんだから、とくるみさんは言った。あのひと、二つ選択肢あったら、おもしろくて人が少なくて危ない方に突っ込んでいく人なんですよ。行動力があって迷惑なタイプのオタクなんですから。
くるみさんの評価は半分正しい。
たしかに彼女はおもしろいものが好きだ。危なかろうがなんだろうが、おもしろいと思ったらすぐ突進する。
けれどもさとみが「おもしろそう」というとき、声にも危険のひびきがひそんでいる。僕はそれを彼女の焦りと呼ぶ。彼女の心をひたひたと侵食する焦りのようななにかが彼女をつついて、彼女を動かしているのだ。だから時々彼女はばたんと音をたてて倒れる。心は健康でも体がついて行かず、動けなくなってしまうのだ。心のほうが先に不健康になる僕とは対照的に、彼女の心は常に健全で、体が存在することをすぐに忘れる。体が倒れると、彼女は動けないと呻いて、本当に動かない。心が緊張や不安をきちんと処理しないから、体だけが消耗する。だからどんなに力を入れても体が動くことを拒否してしまうのだ。
彼女が動けなくなったら僕が世話をして、ベッドに放り込み、食事を運び、水を与え、あたたかくして回復を待つ。彼女が僕のこころに希望を与えるように、僕は彼女に生活を与える。たぶん、それは彼女が僕だけに見せる一面だったはずだ。
いま、あちら側には彼女に生活を与える人間はいない。
ああ、と僕はため息をつく。法的には他人でしかないという事実がいま、背中にめりこんでいる。僕は前かがみになってため息をつく。ふぞろいな爪先を撫でる。
だめだ、と思う。
僕のこころはすぐに立ち止まってしまう。希望を与えてほしい。
額になにかが触れたような気がして目が覚めた。
カーテンの向こうは明るい。薄茶色のカーテンの間から白い光が漏れている。反射的に枕元の携帯電話に手を伸ばし、僕は深く息を吐いた。
九時半。
思ったよりもぐっすり眠ってしまったらしい。昨日が遅かったせいかもしれない。
さとみが戻るのはおそくとも七時ということだったので、十時半までは家から出ない予定で仕事は午前休をとった。もう少し眠りを貪っていても良かったが、やはり平常心というわけにはいられないようだ。
寝室から出て洗面所へ行き、リビングに戻る。壁の時計が音もなく時を刻んでいる。ソファテーブルの上は昨日のままだ。コピー用紙の束の一番上には僕の書いたそっけない文章がある。結局、僕は「おかえり」としか書けなかった。これから彼女にむかって「おかえり」ということもないだろうから、と思うと奇妙に寂しくなった。寂しさはビールでごまかして眠った。
目元を指で拭い、僕はリビングを突っ切ってキッチンへ行った。冷蔵庫を開けるのは憚られたので、床に積んでいる二リットルのペットボトルを取り上げ、電気ポットに注ぎ入れる。
スイッチを入れるとすぐに沸騰の音が始まる。水切りの籠からマグカップを一つ取り、インスタントコーヒーの粉を適当に入れる。ちょうどカツン、と音を立てて湯が沸いたので、やはり適当にお湯をマグカップに注いで僕はまた目元を拭った。
体が重い。
このまま座り込んでしまいたい。だるい。昼までには気力を立て直して平気な顔を装わなければならないが、できる気がしない。
もし家族だったら。
昨日から何度も考えたことだ。もし家族だったら一日くらい休んでも当然だと思われただろう。長く同棲していても、書類上の関係はあくまでも恋人であるという事実がいま、僕のかかとを掴んで地面の中に引きずり込もうとしている。
電気のついていないキッチンにも朝の光は忍び込んでいる。カーテンをあければ、なにも知らなかった数日前の朝と同じ朝が戻ってくる。白いキッチンカウンターの上に、うす青い影がカップに張り付いて丸くなっている。僕はそれを指で撫でる。まるで猫の背中をなでているみたいだ。
同棲を始めた二年前、僕たちは猫を飼おうかと話した。さとみにアレルギーがあって断念したけれども、そうでなかったら今頃足元にじゃれついていたはずだ。猫ならあちら側のさとみがどこにいるか教えてくれたかもしれない。
ますます感傷的な気持ちになってきたので、僕はマグカップを手にリビングに戻った。ソファテーブルの上に一旦マグカップを起き、リビングのカーテンをあける。長旅で疲れたさとみがソファで眠っているかもしれないとオットマンのほうに腰をおろし、僕はコピー用紙の手紙にもうひと言、ふた言付け加えようとボールペンに手を伸ばした。
「……?」
ボールペンがない。
手元を見て、紙束の向こう側をみやり、さらにソファテーブルの下も覗き込む。
ない。
さとみが動かしたのか?
はっとして僕はコピー紙を覗き込んだ。
白い紙へむかって太陽の光が手を伸ばしている。昨晩、僕は悩んで、悩んで、悩み抜いて短い文を書いた。
おかえり。旅行はどうだった? 明日は午前休を取ったので、この下になにか書いてくれれば出かける前に見れると思います。とりあえずゆっくり休んで。
さっき、ここを通り過ぎたとき、僕はその文面を目にした。でもいま、紙は真っ白だった。跡形もなく僕の字だけが消えているのだ。
オットマンに腰をおろして僕は待った。手のひらの中でコーヒーが覚めていくのは、まるで命が消えていくのを見守っているみたいだ。
昨晩書いたはずの文字が消えたのはさとみが紙を動かしたせいだ。彼女が紙を動かしてどれくらいたったかわからない。この家の中にいることだけが確実だ。さとみならたぶん――きっと返事を書くと僕は確信している。文面は短いかもしれない。疲れているから後でもうちょっと書くというかもしれない。あるいはもしかするとだれとも話ができなかった反動で長い文章を書くかもしれない。いまはとにかく待つだけだ。
ベッドのほうからアラームが聞こえる。午後から出勤するならそろそろ身支度をして出かけなければならない。でもまだ紙は白いままだ。せめてひとこと、いや、線一本でもみえないものかと僕は祈った。コミュニケーションできるという確信がほしい。彼女がまだ生きているという実感を得たい。
アラームはとまらない。メロディは五巡目に入り、イライラがつのる。寝室に行ってアラームをとめれば済む話だということはわかっている。でも目を離した隙にまたなにかが起こるかもしれない。メロディは六巡目に入った。イライラする。
午後は休もうと僕は唐突に思った。もう無理だ。休もう。行けるはずがない。考えてみればパートナーの一大事より優先することがどこにあるのか? 午後から働けると思っていた僕がバカだった。
息をすうと、自然と体が動いた。勢いをつけて立ち上がるついでにカップを机の上に置き、僕はベッドサイドへ急いだ。枕元ではぴかぴかと通知のランプが光っている。アラームのメロディは七巡目だ。指で停止の文字を押さえ、USBケーブルを引っこ抜いて僕はすぐに電話をかける。もしもし。開発一部の飯倉ですけど大橋さんを――あ、大橋さんですか。ちょっと家族が急病なので午後も休ませてほしいんです。すみません。明日は大丈夫だとおもいますど、状況がわかったらまた連絡します。すみません、急で。はい。僕は大丈夫です。よろしくおねがいします。
リビングの床を踏んだとき、ぎしりと足元がなったような錯覚をした。そわそわとした気持ちのまま僕はカーテンに飛びつき、勢いよく開けた。昼に近い白い光が窓いっぱいにあふれ、部屋の中が明るくなる。そうか、と僕は思う。さとみはまだカーテンを開けていないんだ、と。カーテンを開ける前に僕のメッセージを見つけて手にとって――それから。それから僕は見る。コピー用紙の上に、僕のものではない手書きの文字があらわれている。
ただいま。
僕は首をかしげ、文字をなぞった。「ま」の文字は滲んでいる。
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