トゥー・レイト・トゥー・ダイ・ヤング(第1話)

東山 廿二

小説

13,433文字

「丘(きゅう)と女(なんじ)と皆夢なり。予(われ)女(なんじ)に夢を謂いふも亦夢なり」

孔丘もお前もみな夢を見ているのだ。そして、わしがお前に夢の話をしているのも、また夢だ。(岩波文庫『荘子』金谷治訳)

中空から俯瞰すれば光を屈折させる空気のゆらめきを透かして、おそらくは白砂の曠野ひろのにみえるであろうれた芝の平原が、ゆるやかな傾斜をなして前方の木立まで広がっていた。そんななかを点景として移動する二つの小さな黒い粒があって、心眼を凝らすと、それらは一組の男女で、斜面の低いほうからわずかに高いほうへと、っくりと登坂しているようだった。
それぞれが黒くみえるのは、女のほうが黒いラグラン袖のステンカラーコートを羽織っており、同様に男のほうも黒い角袖かくそでの外套に身をつつんでいたことに因るところ、しかもそのいずれも申し合わせたかのように黒いフェルトのバスクベレーをかたぶけて被帽していたのだから、尚更らそうであった。
男のほうは、黒足袋に、白木の駒下駄を合わせており、それがかれ芝ですべすべらないように、幾分慎重に足を運びながら、しかし顔を上げて、一朶いちだの雲も認められないまったき冬の晴れ空を、栩々然くくぜんと満喫するふうを、あえて同道者に衒うかの如くであった。
まぁお互い四十を過ぎた男女であり、尚且つそれほど昵懇であったこともなく、更らにまるまる廿年以上をけみしての再会ともなれば、その挙措が些かぎこちなくなってしまうのも道理であるし、それはいつのまにやら塵垢のごとく纏綿したある種の社会性――そんなもの果敢に拒否するつもりだったはずの――然らしむるところでもあったろう。相対あいたいする女のほうはといえば、そうした男の不自然なさまをとりたてて気にとめるでなしに、ただ遠景を眺めるかのように、あるいは稍やはすの日射しのせいか目を細めて、虚心に流していた。
いずれにせよ樗蒲チョボのついた黒ベレーを被った二人は、若干男が案内するようなかたちで先んじて、いつのまにやら冬の、れ木ばかりの丘陵にまさに分け入らんとしている。どこやらから、ブラームスの弦楽四重奏第三番が聴こえてきて、前方にみえる木立に這入る少し手前、つまり視野にその全景(木立の巾でなく高さ)が収まり切らなくなる前に男は立ち止まった。ワンテンポ遅れて女も立ち止まった。男は大仰に諸手を挙げて天を仰ぐかの如き姿態をとると、明朗に「欅かぁー」と歎美した。真黒で重みのある角袖の袂たもとを大きく広げての「万歳」のような仕草は、どうやらすっかり葉を落し尽くしたおおきな欅の、そのほうき顚倒さかしまにしたようなさまをかたどってのことらしかった。

子供の頃棲んでた家の玄関を出てしばらく南に行くと、ちょうど同じくらいの高さの欅並木がずぅっと続いていてね、今考えるとあんなのが原風景だったのかなと思う。
女は特に何も発することなく、かといって憮然としているわけでもないが、ただそのいかにも涼しげな淡々あわあわしい眉目のまま、卵型の面貌と真一文字に結んだ酷薄な唇は冬の陽光をうけて透き通るように白く輝き、ゴワゴワとした撥水生地の、けれどもしっとりとした艶を帯びた撫で肩のコートのポケットに両の手を突っ込んで、黒革の嶮岨こごしい編み上げブーツ(若干オーバーサイズであるが、がっちりと足首を緊縛しているため歩行に支障をきたさない)の踵を合わせて足を九〇度前後にひらき、スチール入りの反り上がった「おでこ」――つまり爪先――と踵とを交互に浮かせたり着地させたりしながら、さればとて寒いというわけでもなければ退屈というわけでもないようで、ただ落葉樹の高い梢が、冬晴れの縹色はなだいろの空に微細な黒いひびを入れて、ともすれば忽ち割れて玻璃はりの如き砕片を落剥させやしないかと訝るのみだったが、欅については彼女なりに相応の所感はあった。というのも彼女はかつて阿佐ヶ谷をねぐらとしていたことがあって、駅を貫いて南北に縦走する高い欅並木の、その四季の変化を身を以て知っていたし、ついでにいうならば、それを愛でるのは細かい木漏れ日が通り一面に撒かれるこう、つまり新緑の頃が一番適当であろうと思っていた。

 

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僕はちょうど廿歳はたちの頃に、故郷を離れて紀伊半島のほうに移り棲んだんだ。四、五年ほどね。そのとき杜の緑というものが噎せ返るほどに色濃く、生命力を横溢させたものであることを初めて知って、ひるがえって吾が故郷の、その色の薄きこと。せている、というよりどことなくすすけたような――きっと排烟を透かして拝するからだろう――風合いだったことに気づいた。四囲ぐるりを黒潮に囲まれた岬の、照葉樹林のヴィヴィッドなことといったら、吾々、――とひとくくりにしていいかわからんけれど、というと男は女のほうを一瞥して、しかし決して目を合わせることはせずに絶句し、またすぐに続ける――僕みたいのは何につけても、パステルカラーより端的に濃厚なのが、クールなものより暑苦しいのが、腹八分よりも腹十分、十二分なのが好きだから、春浅き頃の早朝、南の海に抜ける山間の隘路に這入れば、黒光りする椿の杜と、朝露に、昨夜の雨に濡れてやはり黒々とした路面を夥しくう鮮やかな緑色のアマガエル、ぼたぼたと堕ちた侘助わびすけの紅い首。黒と緑と赤と、そんな見事なトリコロールに直面してしまうとね。
姑らく逡巡するふうをみせてから、男は再び踏み出して、女もそれに稍や遅れて続いた。

はなの季節だったら、ベタだけど吉野――花は吉野に嵐吹くってね、――また紅葉だったらやっぱり京都には敵わない。吉野には爛漫のとき行ったけれど、ほとんど何も憶えていない。ただ陽気がよくって、老人の白髪みたく真っ白な、一面桜の谷を渡るときに同道者が急な坂で息を切らせて顔を真赤にしていたことしか思い出せないけど、京都は昔、東山に友人がいて、たまさか晩秋に訪れたことがあって、彼は小さなワンルームマンション――これまたえらく急勾配の坂の途中にある――に棲んでいたけれど、エレヴェータァもなかったものか、外階段を上ると踊り場に伊呂波楓いろはもみじの枝が大きく洩れ出していて、午后の陽をしてあたり一面を真紅に染めていた。あんなのに吾が故郷が敵するわけないんだからね、だって僕の出身は、武蔵野だもの。東京なのかも知れないけれど、山の手でもなければ下町でもなく、さればとて多摩丘陵でもない。なんの特長もない、中途半端な、のっぺりとした、凡庸でニュートラルな、中間色の、武蔵野なのだから。僕は松蔭神社の近傍、――「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも」って、知らない?――廿三区の一番の西のさんで、三歳くらいのとき引っ越したけど、やっぱり廿三区の西の一番端。棲んでた集合住宅の裏口を出ると、今はマンションになってしまっただだっ広い駐車場があって、それを抜けると――百メートルくらいかな――昔の用水路があって、車も通れない小さな橋を渡ればもう都下、武蔵野市。その橋の上で、同市のパンクの友人と欄干に腰掛けり掛りながら、とくにすることもなく他愛のないパンク談義を祇麼ひたすら続けていた。どんな音源がいいか、今どんなの聴いてるかとか、どこそこでこれこれの服が売ってるとか靴があるとか、海外のから都内のインディーズ・シーンまでのパンクバンドの、今思い出すとほとんど都市伝説みたいな虚実交々の噂話とか。まだお互い高校生で、いや、彼は中退してたっけ。それにしても同世代の儔類なかまが少なくってね、やっぱり時代もあったのかなぁ、パンクなんて全然流行んなかったから。まぁ僕もスッカリそういうものが剥がれ落ちてしまって、その後自分の属性を見喪みうしなって長らく虚脱状態にいたけれど――あ、ちなみにこれは、というと男は自分の頭に軽く手を添えて、パンクとは関係ないよ、現役の時分には大黒帽ベレなんて被ったことなかったから、だってぼかぁ広い意味に於いてはパンクだったかも知らんけど、狭義ではルードボーイ、あるいはスキンヘッドだったわけだから。被るとしたら、ご存知の通り、豕餡餅ポークパイか、山高帽ボーラー、せいぜい鳥打帽ハンチングでしょ。
そういうと、男は――昏々斎こんこんさいと自称している――は初めて女のほうをきちんとみた。先程までは顔は向けても遠い目をしたり、伏し目であったりと、決して眼を合わそうとしなかったのだが。

胡波こなみさんのは――名残かね、うん、白紐でガチガチに縛り上げたゲッタ・グリップの、その皺の寄り具合い、風景が映り込むほどにピカピカに磨かれて、往時のテイストをよく遺している、といって反応を待つように一瞬もだして、今し方しかと合わせたはずの目線は心づけば既に彼女の脚下に落ちて、英国発祥の、元来は安全靴であったかと思わせる甚だ魁偉なブーツの、そのよく磨き上げられた皮相が蔵する冬景色を昏耗ぼんやりとみるようにしていたが、無反応であることを怱々に予見してか、目線を再び稍や上げると、今度は彼女の膝上あたりに照準を定めた。
黒系のタータン柄、落ちついていて、今頃の季節は特に相応しい。
彼女は――岩久良いわくら胡波こなみといい、かつて界隈シーンでは専ら「コナミちゃん」で通っていたが、どうしてか今「胡波さん」と呼び換えられた――たしかに「ブラック・スチュアート・タータン」というスコットランド起源の格子縞模様の、丈の長いキルト・スカート(二連の革のサイド・ベルトで繋縛する巻きスカートで、側面から後部に掛けて複数の襞の施された、恐らくは男物)をけており、それが黒い外套の間隙から垣間みえたのであった。大胆に赤や緑などの原色をあしらってはいるけれど、黒を基調とするその柄模様はなるほど光陰の具合によっては、他のタータン柄に比して「落ちついている」と評することもあながち不自然ではないかも知れない。胡波がそういわれてどう思ったか。まぁ尋常人がいちいちタータンの柄の――それが赤基調であろうが、青基調であろうが、はたまた黄色基調であろうが――塩梅を気にしたりしないこと、そして他ならぬ彼女自身が、実は数あるタータン柄のなかで、「ロイヤル・スチュアート」でもなく、「ドレス・スチュアート」でも「ブラック・ウォッチ」でもなくして、特にこの「ブラック・スチュアート」に若い頃より拘泥していたことから、それを端的に指摘されることは、恰かも彼女のタマシイの急所を無遠慮に衝かれたような気がして、一抹の得心の行かぬ、割り切れないものを心中に去来させた。つまりは何かしっくりこなかった。今時分他人の服装について彼是かれこれ言挙げすることが(特に異性間、もっといえば男→女)まかり間違えば社会的指弾の対象にすらなるということについて、この男がまだ鈍感なのか、それともかつての同好の士ということから――なるほど「トライブ」の世界でそれぞれの装いを賞することは寧ろ交歓のひとつ形式であったろう――往時のままに接している、ということのなのか知らんが。

 

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ああ、デス・オア・グローリー、

昏々斎は尚も、しかし力なく独り言ごちた。目線はいつのまにやら、胡波の首の、咽喉仏の、センシティブなあたりに遷移していた。胡波が外套の下に着込んだ「ロンジャン(サイド・バックルのライダース・ジャケットで左袖にボール・チェーンのジップ・ポケットのあるもの)」の、その甚だ小振りな襟の間からみえる、細かいフリルの施された黒色のブラウス、その高い襟――とても硬く仕立てられた、クラブカラー(尖端の丸いラウンドカラー)――は、髑髏スカルをモチーフとした銀色のブートレース・タイの、交叉する骨クロスボーンズによって両端を抑えられていた。それは「パンクテイスト」というのであれば真先に言及されるべき要素であったろうけれど――何せパンクカルチャーの直接的な因子とも目されるマルコム・マクラーレンが、ロンドンはキングス・ロードに開いた市肆みせ「レット・イット・ロック」を通じて、ライダース・ジャケットとともにロッカーズ(テッズ)からパンクに継授(正確には簒奪)された象徴的なアイテムであったから――それが胸元で燦然と耀いていたがゆえに却て指摘しづらかったのかも知れず、バスクベレー、ロンジャン、ブラック・スチュアート・タータンのキルト・スカート、がっちりと緊縛された、相応に履き込まれて摩耗したラギッド・ソールのゲッタ・グリップ・ブーツ、そしてデス・オア・グローリーのブートレース・タイ――上から下まで紙一枚容れる隙もないほどの、金甌きんおう無欠ともいうべき、俗人であれば恐らくその息苦しさに思わず「抜き」や「外し」を欲するであろう完全装備――とくれば、かつて「コナミちゃん」と通称され、今何故か「胡波さん」と呼び直された、恐らく帽子の下は黒髪のベリーショートであろう、――ぺったりとした、所謂「セシルカット」――この四十を過ぎた女が、もともとある特定の属性を有していたことはもはや昭々乎しょうしょうことして明らかであった。つまり彼女は世に謂う「パンク」のカルチャーに関聯している、と少なくとも外形的には推断された。しかしここでいう「パンク」とは、あくまでも広義の意味に於けるそれであって、サブジャンルとしてその下に狭義のパンク(初期パンク)を筆頭に、スキンヘッドやサイコビリーネオロカビリーハードコア・パンクからルーディーズまでいろいろあるけれども、煩いからここでは詳述せぬとして、いずれにせよ、彼女はそれらのサブジャンルをある程度自由に横断できる位置にいて、その若い頃――ハイティーンの頃――にそれらのシーンからシーンへと自在に跋渉することができた。それはそれらのストリート・カルチャーに於ける性差も関係したので、つまり「トライブ」などと呼ばれる英国発祥のユース・カルチャー(テッズ、ロッカーズ、モッズ、スキンズ、パンクス(広義))に於いては、男のスタイルが厳密に定義されているのに比すれば、女のほうにはだいぶ巾があった。それは一面に於いては制約の少なさを意味したが、逆にいえばそれぞれのトライブへの帰属意識の希薄さの表われともいえ、より直截にいうなら「トライブ」が元来男のためのものであったであろうことを示唆していた。いずれにせよ、女たちはそれゆえ自由にその界隈を遊弋することができたし、頭顱あたま天辺てっぺんから爪先まで規定されていたそれぞれのスタイルから好きな要素だけを気儘に摘み喰いすることも許されて、実際胡波もそうであった。だから彼女に関していえば、炳焉はっきりとどのトライブに、どのサブジャンルに属していた、とはいいにくいのだけれど、しかしまぁ広義のパンクのなかの、ルードガールとか、スキンヘッドガールとか、そんなふうな属性を基調とし、主にその定義に応じた身装を撰んで、そこで推奨された音に傾聴し、偏ってそんなシーンに隠顕出没していた、とはいえるであろう。

 

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それから四半世紀を経て、けれども彼女は遠ざかっていた。つまりはOGとなっていた。シーンが消滅したというのではない、もとよりメインストリームの流行とは直接関係しない地下・傍流のムーヴメントであるから、それは太くなったり細くなったりをくりかえしつ、――驚くべきことに――勃興から半世紀近くをけみした現在も尚、それも汎世界的な広がりを獲得して、連綿と続いている。彼女と同じくトライブに挺身したかつての儔類の何割かは未だ現役である。だから、たんに彼女の脚が遠のいただけなのだが、それがいつのことなのかというと明示できるような区切りはなく、ただ漠然と「いつのまにやら」というほかない。
しかしそうだとすれば、本日の――昏々斎がいみじくも指摘した――些か食傷を催すような「パンキッシュ」いでたちはいったいどういうことになろうかといえば、それは幾たびか訪れる服飾上のリヴァイヴァルの波がちょうど寄せていたことによるのかも知れず、また往年の同志と相見あいまみえるという、そのための「おめかし」という側面もあったのかも知れない。つまりは幾分肩に力が入っていたということかも知れず、しかし舞台に上がろうが降りようが何ら変らぬところの、演じてるでも化けてるでもない、いうなれば皮膚感覚としての「」の装い、否、装いどころかたといはだか一貫であっても、それこそてもめても廿四時間、三六五日パンカーである、スキナーである、サイコビリアンであるという「オフの欠缺」こそがトライブ本来の在り方であることからすれば、今の彼女はどんなにパンク特有の要素を衒ったところでやはりそれは所詮OGの所業に過ぎず、ただ俗人の如くにその日その日の気分で皮相を変え、今日はたまさか旧友と会うからその嗜好に合わせて装った、というだけのことになるか知らん。要するにタマシイの入ってない仏像、仮装コスプレや道化の類いとその本質は相違なかった。それゆえ昏々斎のものいいがその都度肯綮こうけいに当たって、却て皮肉イロニアの如く、あるいは諛言ゆげんのように思えて耳朶に快く響かなかったのであろう。もし現役でいたならばそのような心理には――たとえどんなにブランクがあっても――ならなかったろうから。

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世間の目や加齢を相手とせずに現役に踏み止まるでもなく、かといって完全に払拭して心身しんじん脱落させたわけでもない、ただ旧染きゅうぜんともいうべきテイストをずるずると引きり、それが自身のみならず、あまつさえ一対一の相手となるべきものに対しても発動されてしまうのだから、これはもはや桎梏、あるいは宿痾ともいうべきで、彼女もそう認識していたけれど、しかしそれをそそがんとして過去幾たびか努めて、ついぞ奏功することはなかった。つくづく「業だな」と思う。パンクという音楽に遭遇さえしなければ――「ノー・ミュージック・ノー・ライフ」という、いっとき人口に膾炙した定型句があったけれど、それは音楽がなければ生きていけないなどという、牧歌的な、甘ったれた音楽好きアピールのためのものではなく、「業」としての音楽を知るものの、これにさえ出遭わなければこんな振幅の激しい行路を経ずに、もっと人並みの、退屈かも知れぬけれどそこそこ快適な人生が送れたかも知れない、という惆悵ちゅうちょう、もっというならある種の諦念として受け取られるべきものであった。少なくともそこでいう「ミュージック」が「パンク・ロック」である限りに於いては。他は知らぬ。

 

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実際パンクは「毒」であった。みんな若い時分にその毒に当てられて道を踏み外した。あるものは進学校にい、その毒が心身に廻ったために発作的に机を蹴り飛ばして教科書類をまどからなげうち、またあるものはあたら無垢なるその肌膚はだえに、落書きみたく手彫りで自ら刺青したし、儔類に施しもし、それが背中や肩くらいにあればまだしも、凡そ隠しおおせぬ指先や手の甲であったりして、それによってただでさえ広くない職業選択範囲を更らに狭めたりした。そうした営為に結果何ひとつとしてメリットはなかったのだから、それはやはり「毒」であった。だから思春期にパンクを聴いてはならない――という命題が世俗的には導かれる。どうして「思春期」に限定されるのかといえば、これが不思議なことであるが、成人してしまうとどうしてかパンクの「毒」が心の奥まで達しないのである。逆にいうなら、成人――それが必ずしも廿歳を区切りとするとは限らぬが――さえすればもはや心をかきみだされることなく、安心してパンクを堪能することもできる。しかしまた、そうなったら二度と浸礼できない、つまり大人になってからパンクに宗旨替えすることもできぬのだ。そしてそれが不能であれば、その機微にも――また大袈裟にいえば「真髄」にも――触れることもできないのだから、本当の意味で堪能することはできないことになる。

 

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いずれにせよ彼女もやはり「ハイティーン」の頃にその毒針に刺されて、爾来趣向が世の標準と齟齬を来してしまい、その後いろいろと努めてはみたけれども、そのテイストを持たぬもの(つまり毒が廻っていないもの)とはどうやってもねんごろになれず、だからとて稀有稀見けうけげんの同類とは、今度は必ずしも気性が合うとは限らなかった。毒抜きを果たしえぬままに馬齢を重ねて、そして時々街衢まちでパンク(広義)要素の断片を目睹、交錯しては、ひそかにタマシイを勃起させるのであった(そのとき疼くものは「陽物」ではなくして、「羽翼」である)。
たとえばそれは、たびたび忌まわしい「流行」に穢された結果巷間に瀰漫せるフライトジャケットの後姿で、そのうなじのあたりから――これまた近年「流行」に玩弄された――ギンガムチェックのシャツが仄見えていたりすることがあって、それが「その筋のもの」であればもちろんであるが、仮にそうでなくとも、ただ無責任な俗世の潮流のせいで、たまたまそういう服装的要素の組み合わせになってしまっただけの(その配合はまったくスキンヘッド・トライブの様式である)まったくの俗人を見掛けるだけでも、胡波はいっときの壺中天こちゅうてんへと自らを誘なうことができた。

これは彼女の、数少ない特技といえた。それらの服飾要素のいくつかを端緒として、彼女はタマシイ――正確にいうならばそれはタマシイよりも高次のものであって、「真我」といえば宗教臭が過ぎるから当座は「感受主体」とでも便宜的に名づけて置くけれども、そのものは無色透明であって、「タマシイ」がおのがおのが帯ぶるような特定の「色」に染められ汚されておらず、厳密にはそれは胡波ですらなく、胡波以前の何ものかであるが、レトリックとしては「タマシイ」とする――の「羽翼」を暫定的に恢復させて、特定の領域に游ばせることができた。そこは春雨の已んだ直後のように、やわらかくって、鞦韆ブランコに乗ったまま漕ぐこともせでただゆらゆらと低徊するような、雨上がりの砂地が水を悠っくりと滲み込ませ吸収してゆくのを虚心に眺めるかの如き心地で、ジャケットの黒色や、革靴のチェリーレッド、デニムの蒼さを鮮やかに際立たせる、しっとりとした空気感を帯びた、ある種の異界である。知っているような、あるいは知らないような、様々な記憶の断片、あるいは記憶と思しき虚像の断想との錯雑した異世界であって、何よりもそこに気線を通じさせるときには、決まってハイティーンの頃の匂いを感得するのだけど、その感覚はすぐに、恰かも指間からけむりが洩れるかのようにするするとのがれ消えてしまうのだった。けれどもしかし、それは単なる気のせいというよりも、少なくとも彼女にとってはどうやら客観的に実在するらしい世界の気配であったが、しかしそこへの確実な行き方、つまりたまにタマシイをあくがれさせるのではなく、肉体そのままでとぶらう方途は皆目見当がつかなかった。

 

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そうやって考えると、実に廿五年ぶりに再会した昏々斎と名乗る――往時はそんな卦体けったいな「号」など名乗ってなかった――吹けば飛ぶよな男は、数少ない、彼女の嗜好に添う男ということになる。パンクからもつとに足を洗ったけれどどこか残臭を帯びているという点も類似している。しかし却々なかなか意図が読めないところがあって、否、とりたててこの男でなくとも、例の属性を有するものはおしなべて男であれ女であれ、読みにくかった。その理由は至ってシンプルで、その価値判断に際して世の標準と径庭があるからである。ときに世俗人よりもよほど紳士的であったり、生真面目な部分があるかと思えば、思いきり不羈であることもあり、また不道徳、ときにストレートに不法であったりする部分も同居していて、その精神領域がどのような歪さで拡がっているのかが不明で、従ってその選択する手段も読めないのである。
あ、そうだ、胡波さん、当時黒いMA-1羽織ってたよね、たしか市松模様のパッチなんか縫いつけて、格好良かったなぁ、あの頃は女の子であんなふうにしてMA-1――アルファ社製の――着こなしてるひとなかったから。今日もその勇姿をみてみたかったけど、今は生憎瀰漫しちゃってるもんね、まぁあれには普遍的な意匠美があるんだろう、周期的に爆発的な流行に曝されるから、今度だって何度目だろうかって感じもするけれど。
それにしてもメインストリームの卑しきこと、貪婪どんらんなること! 僕の愛するものたちが――MA-1が、ライダースが、マーチンが――何遍きずものにされて、揚句棄てられたことか! 僕がこんなふうな珍妙な風体なりを――下駄とか作務衣とか――しているのにはわけがあってね、伊達や酔狂でやってんじゃないんだ。あいつらに喰い散らかされたくないから、なるべくあいつらの手の届かないものをけているの。地上世界の住人が袖を通すなら僕は脱ぐし、彼奴等きゃつらが穿けばぼかぁ棄てる、そうやって俗流から逃げて遯れて尚も追い詰められた結果がこのザマさ。ここまでやれば流石に奴等も追い掛けてはこないだろうとふんでるんだけど、でもメインストリームってやつぁときどきゲテモノ喰いをやらかすからね、油断できない。万物流転――否、遠くヘラクレイトスを持ち出すまでもなく、諸行無常が世のさだめなのだから、どう足搔いても物事はすべて悉く転変していくのだから、何もわざわざ自分からその尖兵となって「流行」に挺身しなくたっていいじゃない。せめて、無駄とは知っていながら、それに少しでも抗おうという気概のある奴はないのかね。「如何なるかこれ堅固法身ほっしん(『碧巌録』)って僕だって絶叫したいよ、もちろん有為転変のすがたそのものが法身ほっしんである、なんて答えではぼかぁ絶対に納得しないよ、そんなものはペテンだ。
ゲッタグリップだってさ、トライブのうちの、広義のパンクのうち、就中なかんずくそのサブジャンルとしてのスキンとかサイコの連中に好まれていたわけじゃない? だからそれをあえて選択するということは、そのものがそれらのカルトに染指していると、そう推測することができたんだ。しかしそんなのももう古い遣り方になってしまった。そんなファッションアイテムの「特権性」というものはとうに剥奪されてしまったもの。かつては「その筋」のものしか身にけることがなかった、もろもろの表徴はなし崩し的に「民主化」されて、「めでたくも」人民に解放されたから、たかだかゲッタグリップごときで、それを履く人物の属性を推測することなどもはやナンセンスなことだ。「筋者すじもん」と「衆生」との間に引かれていた越え難い一線はいつのまにかぼかされて、なるほどきっとそれが時代の流れというものなんだろう。ぼかぁそれを是としたい。かつては異様な恰好、奇を衒った風体をすればそれに応じた同調圧力が封殺せんとして弾圧してきたけれど、「特権」が瓦解した代償として、その種の不愉快なことは少なくなったものね。入手しにくかったもろもろの物品も――かつて筋者にだけ珍重された――往時では考えられないほど、容易く入手できるようになった。だから、きっといいことなのだろう。何も服装に限ったことではないが、すべての境は曖昧に、グランデーションを描くようになって――しかし、僕も四十も超えて、世の趨勢というものが一方向に、不可逆に、いわば発展史観的に進むのではなくして、行けば必ず戻ってくることを知ってしまったからね。それは、ある種の徒労感を、亦候またぞろ同じことがくりかえされるのであろうという諦念を必然的に伴う、いうなれば循環史観だ。ボーダーはにじんでやがて消えるだろう。しかしそれで「万物斉同せいどう」になるわけではなく、いつしか別の線が浮かび上がり、早晩それは確固たる境界をなしていくだろう。そういうニヒリスティックな予感が僕にはある。今はそうするとさしずめ過渡期ということになるだろうか。
しかし不惑を超えたところで特別何かが変わることなどないと思っていたけれど、変わったよねぇ、実際。吃驚するくらい。いろいろあるけれど要約すれば、つまるところ――もはや逆立ちしたって若者ではない、ということに尽きる。滑稽なのは客観的にはっくに若者でなかったハズのところ、たんにその認識が追いついてなかっただけで、それが漸く一致するのが、――つまり主客の一致――四十という一線なんだね、今思い返すと。ぼかぁずっとハイティーンのままだと思ってたから、姑らくはその主観的な意味の若者から脱したばかりのショックで、すっかり自失していて、それを未だに払拭しきれずに、尾を引いてる気がする。それにしても年経ふるごとに、かつて燦然と輝いていたものたちが悉く皆色褪せていくのはどういうわけなのかなぁ、単なる主観的なものであれば兎も角、客観的な話だとすれば問題だ。なんとなれば――端的に昔魂魄をふるわせ惞衝きんしょうさせたものは、その実大したものではなかったということになるから。ぼかぁそれだけは認めたくないんだけれども。

それでも街衢まちでMA-1と交錯するとついつい凝視してしまう自分がいる。そんなことして屢々相手に不審な目で見られてしまうことがあるけど、違うんだ。その人間を見てるんじゃなくて、そのMA-1に見惚みとれてるの、特にブラック。それを着てれば女だろうと男だろうと鑑賞対象だから。でもやっぱり往年のアルファ社の色、シェイプを髣髴させて呉れるのじゃないと不満かな、今世間で持て囃されてるのはなんだか「のっぺり」していて必ずしもそうではないようだけど。漆黒のナイロンの艶と、張りと、肌理とを目睹するとね、忽ちいろんなことを思い出すんだ、空気感とか、匂いとか、しかとは思い出せないハイティーンの頃のいろんな感情、名前も失念した誰れそれのこととか――。

 

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この男に限ってみれば、一見恬然として人当たりは尋常人よりもよほどやわらかく、変に狷介であったり麤笨ぞんざいであったりすることはないので、人を無闇に不快にさせるようなことはない。しかしパンクに代わって自らの属性をタオイストだというし、風采が少し異様な感じがするのはまぁよいとしても、やはりその出方は甚だ不測であった。そもそも自らの書斎を――大した蔵書があるわけでもロクな本を披見するでもあるまいに――名づけて、あまつさえそれを雅号として名乗っている時点で胡乱うろんに感じないでもない。「昏々」というのも、おおかた『老子』の「俗人昭昭、我独昏昏」からとっているのであろう。本当のインテリゲンチャが自嘲的に「昏昏(道理に暗い)」と名乗るのであればそれは洒脱ということにもなるかも知れぬところ、この男がもともとインテリとは程遠い人物であることは知っているし、人格形成期を経た後の、たかだか廿余年で雑学(教養の反義語は「無教養」ではなく「雑学」である)の蒐集家がインテリに変貌を遂げることなど本来的にあり得べからざることであるから、やはりその斎号は実態に即していえば滑稽であったろう。そしてまたタオイズムというものがあらゆる種の落伍者の拠るべきセーフティーネットとして機能することまでは、胡波は気づいておらぬだろうが、そういう人生の敗北や零落についての弁明を捜すならタオイズムのテキストはまったく都合がよかった。まれ、この男昏々斎がとるに足らぬ人物であろうことは疑いなかった。

 

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たとえばある初秋の昼下がり、僕は職場の休憩室の、まどの傍らにあるボロいソファに深く腰掛けて外を眺める。ベートーヴェンのト調のメヌエットが心の裡で再生される――世にざらにある録音盤よりももっとずっと悠っくりと。その日は残暑も既になく、かといってまだ冷えるようなこともなかった。だからというわけでもないけれど、牖は開放されていて、外気が微かにカーテンを揺らす。
それほど遠くないところにタワーマンションがみえて、それが西日を受けて白く光っている、その輝きの具合から空気が乾いていることがよくわかる。僕は一通り空を見渡して雲がないことを確かめると、俯いて、それから指を折る。そして順番に開いていく、否、開かれたのを折り曲げるのでもどちらでもよい、指折り何を数えるのかといえば、たとえばそうだな、失職して非正規の身分で糊口を凌ぐようになってから何年経ったろうか、とか、あるいは妻が還暦を迎えるまであと何年だろうか、とか――妻は僕より九も年上だからね――いずれにせよ十指に満たないことばかり。
うん、子供はいないな。結婚したときに妻は既に四十を超えていて身体もよわかったからね、とりたてて欲しいと思ったこともないよ、だってそうだろう、夫婦二人生活するのでも齷齪あくせくしているんだから、況んや子供をや、だよ。けれどもね、こうは思うんだ、この寥々りょうりょうたるさかいに吾々たった二人だけしかいなくって、そこに二人だけに通用する言語や規範があって、そして二人だけが認識する様々な事実があり、二人だけが共有する記憶――それは些細な家常茶飯のことが主だけど、たとえば誰れにも祝われずに結婚して、隠れるようにして棲んだ荻窪の屋敷森で、夜天を見上げたときに二人同時に、「あ、」「あ!」って流れ星を目撃した冬のこととか――があって、しかし、それでいつか相手に先立たれたとしたら、いったいそれらのことが幻でなくほんとうにあったということを誰れが証明して呉れるだろうか、とは思う。当然、誰れも証明なんてして呉れやしない。それどころか、そもそもほんとうにそんなひとがいたのかどうかさえ、覚束なくなってしまうのではないかと、実のところぼかぁ今から怯えているんだ。その限りで、せめて子供がいれば、忘れ形見として、場合によってはもろもろの事実がほんとうに実在したことの証人となって呉れるかも知れないのだけどね、そう考えると、子供を持たないということは、天地に独り立ち尽くすかの如き寂寥感を、予め引き受けるということになる。

2019年8月3日公開

作品集『トゥー・レイト・トゥー・ダイ・ヤング』第1話 (全3話)

© 2019 東山 廿二

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