星ではない

多宇加世

小説

19,153文字

重ね合わせるいくつかの物語。
自分からはとても離れた場所を書いたつもりですが、その遠さは必ず自分のいる「ここ」と繋がった道のりだと思う。
読み切り作品。

装画:髙橋哲也

デザイン:根本匠

 

ブーイングなんてしないでよ、小さなジミニー・クリケットたち。

僕は君たちの味方だと言ったよね。「僕が迎えに来るまでここを離れないで。この先いつ、また血と誤読に飢えた解釈怪物が現れるか知れないから」と、僕はそう言ってこの病院に君たちを置いてけぼりにしたんだっけ……。

「ずっと待っててほしい!」

――この言葉がどれだけ残酷だったか! 熔けてひしゃげたレコードのように、鼓膜を打つ針飛び混じりの、撚れて響くその言葉。いまさら遅いのは知っているのに僕の中でいま鳴ってる。だけど僕は僕の賛同者を必ず見つけ出す。爆破されたジミニー・クリケットたちの衣服をこの手にしながらそう誓った!

 

僕が高台にある大学病院へ初めてやって来た時、六歳だった。手術を含め長期間、僕は小児科病棟の一室で暮らした。そう七歳になるまで。過ごした時間は半年。長くないと大人は言う。でも、長かったよ。お見舞いにたくさん来てくれていた唯一の幼馴染も「なげえな」って言っていた。

「なあ、祐樹、俺たちのクラス、もうこないだひとり転校していって、もう昨日ひとり外国から転校してきたぞ。それぐらい、なげえってことだよ。なあ、みんな待ってるぞ?」

入院中、幼稚園の卒園式と小学校の入学式は僕抜きでおこなわれていった。だから幼稚園のみんなにさよならすら言えなかったし、「あたらしいまなびやのおともだち」をしばらく知れなかった。彼の言う「もう」とはそういう意味だ。一年生になったばかりなので「もう」なのだ。なあ、君の言う待ってるみんなって誰だよ? 僕が知ってるのは、赤ん坊の時から一緒だった、君くらいだった。でも見舞いの君の話にも日を追うごとに、僕の知らない子の名前が出てくるようになっていった。つまり僕だけおいてけぼりだった。君はじきに地元のサッカークラブ活動に熱中して、僕が退院したころには会話することはなくなってしまったね。それぐらい、なげえってことだよね。

〈視聴予定映画のビデオカセット群〉と大人たちの呼ぶ、待合の黒い背もたれの三連シートに腰掛けて、振り分け与えられた番号で呼ばれるのを待つのは、当時とても楽しかった。開腹手術のあとの経過観察の入院中、僕は病とは全く関係のない耳鼻科の外来にも通ったんだ。埃か塵のアレルギーだったんじゃないかってお医者さんは言った。僕が選んで座るのは、必ず、真ん中の列の前から四番目の、人知れず下側に、黄色地に赤で「ぽこちん」と書かれたステッカーが貼られていたシートだった。これは病院側の人間は誰も知らなかったし、患者も誰も知らなった。シートの下に潜り込めるくらい小さくならなきゃ絶対に知ることはできないのだ。――つまり僕も実際見たことがなかった。でも僕、知ってた。なぜかというとそれを教えてくれた人がいるんだ。私は病院じゃないところに所属してるのよ、病院より偉いの。だから知ってるの。その人はそう言っていた。クリケット一族のことを教えてくれたのもその人だった。クリケット一族に受け継がれてきた礼拝対象、それこそがこの「ぽこちん」のステッカーなんだと僕は解釈していた(これはまったくの誤解だったが、僕は解釈怪物にはならずに済んだ)。僕は「ぽこちん」という言葉が面白くって、その席によく座った。あったかい何かを座ったお尻に感じたりもしたし、秘密の所有がおいてけぼりの僕にはなんだか小気味よかったんだ。そしてそのステッカーを貼ったのは何を隠そう教えてくれたその人、張本人で、その人は病院の清掃スタッフのおかまだった。

「クリケット一族にはね」

とそのおかま(おじさん)は話してくれた。僕もクリケットなら知っていた。ビデオで『ピノキオ』をいつも観ていたから。クリケットといえば帽子をかぶったジミニー・クリケットだ。父がわざわざデッキを個室のテレビにつないでくれていたから、入院中僕はいつでもビデオを観られた。

「祐樹ちゃん、クリケット一族には気をつけなさいよ。特に若いクリケット族どもには。祐樹ちゃんが大きくなって、おちんちんも大きくなったら、ううん、いまだってこんな小さいおちんちんでも、こうして大きくなるんだから、発情したクリケット一族には御用心よ。ね」

掃除のおじさんは入院患者の夕食後、自分の仕事のあとそのままの格好で僕の個室にやってきて、よく僕のおちんちんの先をこすった。

そのたび僕のおちんちんは硬くなって高い高ーい、した。そしてお腹の傷が少し痛んだりもした。それに、いま思えばアレルゲンはたぶんその人に付いて来ていたんだな。

 

時は経ち僕も大人になっていて、僕は一人だった。

ついでに言えば僕は地元のサッカークラブの男子生徒のあいだで「チンカネのユウちゃん」の名でとおっていた。「ちん」こを見せればお「金」をくれる「祐ちゃん」だからだ。触らせてくれたらもっとお金をあげた。「チンカネだ」「チンカネのユウちゃんだ」子供らがそう言ってるのを聞いたことがあったので知ってた。「うーわ、チンカネのユウちゃんまた来てる!」ある日、ユウちゃんは仕事を見つけなければならなくなった。チンカネのユウちゃんにそのカネをくれていた母が亡くなったからだ。葬式にはジンジン・ニンジンエキス・ミラクルの母の同僚がたくさん来てくれて、たくさん泣いてくれた。はじめ誰だか気づけなかったけれど久しぶりに父さんにも会った。そして喪が明ける前に僕が見つけたのは、清掃の派遣だった。さらにいえば就業場所はあの頃入院していた、おちんちんをおかまに触られていた、あの病院だった。なぜだろう、僕は何を期待していたのか。人生の孤立の発端の片棒を担いだのがそこであるにもかかわらず、求人を見つけた時、ユウちゃんはギンギンに勃起したんだよ。

そしてあのおかまの言う通りだと分かった。今と昔でどこか変わったか知れないが、確かに僕ら清掃スタッフは病院には属しておらず(もちろんおじさんの言うような「病院より偉い」なんてことはなかったけれど)、クリーン・ほにゃらら・メンテナンスみたいな会社に所属していたので、僕らには休憩場所も病院内には用意されていなかった。他のスタッフがどうしてたか知らないが、僕は制服の上着だけ脱いで、耳鼻科と眼科の外来の広い待合で患者に紛れて菓子パンを食した。看護師たちは犬のくそでも見かけたように見ていたか? いや、目が合っても案外ほほえんでくれたりしたよ、特に若い女性看護師が。腰かけた何十脚あるか知れないシートは、三人掛けなのはそのままで、でもあの〈視聴予定映画のビデオカセット群〉とは全然違う、カラフルな新しいものに変わっていた。そりゃそうだ、とここへ久々に来た時、僕は思った。僕は何を期待していたのか。外来のほうの構内の区切られ方は変わっていないが、病院のいたるところが新しくなっている。増築した施設や、新規にコンビニなんかも入っているのだ。それならば、病棟のほうだって変わっているに違いない。僕は病棟のほうを受け持ってはいなかった。僕は何を期待していたのか。寂しかったのはずっとだ。幼稚園児と小学生の狭間で肝芽腫の手術と耳鼻科のなげえ入院をしてからずっとだ。

今日はちょうどこの耳鼻科と眼科の待合のワックスがけが待ってる。他に清掃する所もあったけれど、外来受付が終わり患者がみな帰るまで、それまでのあいだひと眠りすることにした。そういえば就業してから作業に反してくしゃみも喘息も出なかったから、アレルギーは子供のうちに消滅したってことだろう。そんなことを思いながら眠りに就く。

夢をみた。こういう時は夢をみることになってる。

 

イチ・ニー・サン・シー・ゴー・リー・ラー

ゴリ・ラの・ケッ・ツを・舐め・たの・はー

だー・れー・だー・おー・めー・だー

屁ー・ふっ・たっ!

 

唄に合わせて順番に指で指していき、〈屁ー・ふっ・たっ〉の〈たっ〉で最後に指された子が鬼ごっこのオニにされたり、罰ゲームをされたり、ボールを最後に片づける役を被る、ハズレ決めをする子供たちの掛け声。それをする輪の中に混じっている僕。このままだと僕が〈たっ〉だ。ハズレ役だ。順番が回ってきたぞ。しかし僕は知っている。みんなの掛け声は〈屁ー・ふっ〉まで僕の隣のやつへ来て、本来最後叫ぶ〈たっ!〉は僕を抜かしてもう一つ隣のやつにいく。僕はハズレ役にすらなれない。僕だけが大人の姿で輪を成しながら、まただ、と思う。僕はいるようでいない。だからそのあとのかくれんぼで隠れても、探されることがないのを知っている。その子供たちの中には外国からの転校生だって混じっているというのに。

だから僕は公園から出てとぼとぼ歩き、おじさんが閉じ込められたクジラの腹の中へ向かう。人生の孤独の原因のもう片棒が、もしかしたらそれであったのかも知れずに。その頃、おじさんは脳卒中で倒れてほとんど寝たきりになっていた。ヘルパーさんが来ない時間帯、僕はおちんちんを触らせてあげた。そして物語を紡いだ。当時の僕と、おかまが作る、架空の物語だ。クジラの胃の中はネコのフィガロも金魚のクレオもいなくて、トイレットペーパーが散乱している。それとおむつ。それといくつもの手すりといくつものゴキブリホイホイ。その中央のベッドにおじさんは寝ていた。ベッドにもたくさんの手すり。

「じゃあ私から話すわよ、新作!」

だが僕はこの日のだけでなく、毎回の新作が何だったのかを知れない。話が記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。いや、ここまでのくだりもここから先のことも、本当に起こったことではなかったのかもしれない。勝手に僕が作り上げただけなのかもしれない。だがきっとそれも違う。なぜなら夢の中、そのあとおじさんがこう喋ったのは、何度も再生されるから。

「祐ちゃん、解釈を間違えると、誤読を食べにそれが襲ってくる……。そしたら物語なんちうもん一瞬でパア。人生なんちうもんも一瞬でパア……。ちうて論文もパア? そう、研究もパア。祐、ちうても、祐、呼びかけても、なんも返事がなくて、ちうて、違うな、返事はあるな、祐、返事せい……。ひひ。ぽこちん、いいな。あの研究室で唯一のクリケット族のムスメっコがあんなこと言いふらしたから、私の人生が、パアちうて、な……。それで違うか? それでな、全員に村八分、パアてな。博士号とったのに私の道もパアちうて。ひひひひひ。だから全部使ってやったんだ。研究奨励費、全部ホモビデオに使って、あいつの棚の全部の私物と入れ替えてやった。ひひひひひひひひ」

麻痺をおいておいても、おじさんの声がそれ以上に卑屈に響くのが気になる。

「私があのクリケットの誘いを断る時に、な……、可哀想だと思った、だから、ゲイだって伝えたら、な……、『それでもいいから少し付き合って』ってパブ行こうちうんで、飲んだんだ。な……。話は弾んで『あたしたち親友になれるかもね』、クリケットはそう、ちうて、私も『ありがとう』ちうて。『ごめんね』ちうて。でもその次の日には、ひひひひひっひひひ、〈肛門ユルんでくせえぞカマ〉ちう書かれた小さな小さな小さな、違うか……? 違うくないな、小さな小さな紙片だけ残して机のもんも、なにもかも全部捨てられて。な……。そのさらに次の日には『私からレイプされた』ち言いふらして、いひひひひ。よっぽど、私のぽこちんが欲しかったか、あのクリケット!」

クリケット一族に受け継がれてきた礼拝対象、それこそが「ぽこちん」なんだ。

おじさんは誰に喋っているのか。僕にか。自分自身にか。クリケットにか。

過去、現在、未来のどこに向けてか。

「私もおかしいおかしい、言われるが、悲しい悲しいちうても、よろしいよろしい、ちうて、違うかと、ちうて、あまり喋らんが、結局、清潔に保てちうて、きれいきれいにしてくださいちうて、整理整頓してくれと頼む、ちうても、怒られたりしたり、邪魔じゃ言われたり、それがきっかけで、ちうか、昔からいた者、それとも逆で先のほう、あとのほうから来た者、やってみんか、お声がかかってちうて、とにかく本当は時間も体も自由自在じゃ、ちうて、その存在する誰かから、管理する役目負うて……、任されて……、ちう、清掃……。それに誇り持て、ちうて。様々ちうて、致し方ないんで、いろいろ居る、ちうて、時々勝手に外の人間が道教えてくれちうて、入ってきて、祐ちゃん、あんたみたくな……、でも、わしゃ自分が誰かわからないわからないちうても始まらんのを知っとったから、そのための努力を強いられて、勉強させられて、注意深く指導されて、いや、ちがうな。わたしゃ、みずから努力を強いて、勉強して、注意深く己で道切り拓いて、それでも怒られて、悲しまされて、悲しい悲しい言わされ、つらいつらい言わされ、苦しい苦しい言わされ、でも結果的になんとか、よろしいよろしい言われて、この役目担うこと出来て……。あの病院の中でも、いろいろちうて、昔から来たんだあ、ちう者もあれば、先の向こうの未来のほうから来たんだあ……、ちう者もあって、その者らの行方を決めるのもすべて、裁量、すべて、時の管理、空間の清掃、その務めの範疇ちうて、優しく優しく、励ますように、よろしくよろしくちうて、それで現在という何もないこの点、秒針の上、病身の上、わしゃ、きちんと勤めとる。研究なんぞ知らん。管理人じゃ。私は、私の場合は、ただおかしいおかしい、あんた、わたしゃ、ただ今のこの時点、おかしいおかしい、ただそれだけの人間なんじゃないんかね、違うか? おかしいおかしい、いいながらも、ただそれに甘んじとる人間、それがあんたじゃ、言われて、わたしゃ、違うか?」

おじさんは満面の笑みを浮かべた。

いつも、おちんちんだけで終わっていたのだが。

だがその日は、

「ね、おケツ、舐めさせて。祐ちゃん、もっと近づいて後ろを向いて」

僕は泣きそうになりながら、言うとおりにした。なんだか、おじさんが怖かったから。おじさんは手首が曲がったまま戻らない片手と、自由の利くもう片手で器用に僕のお尻を左右に開いた。

解釈怪物。祐。あなたが入院してた病院にもわんさかいた。偉ぶってゴミと人の区別もつかないような患者や病院側の人間……」

おじさんの声はだんだん上の空になっていく。だが喋り方はいつの間にか戻ってきていたので、僕は安心した。

お、おじさん、おじさんはクリケット一族が嫌いなの?

その途端、おじさんが弾かれたようにお尻から顔を離し、素っ頓狂な声で聴き返した、

「え? ク、クリケットって?」

僕は体を捩じっておじさんと視線を合わせる。

そう、僕は好きだけどな。歌もうまいし。

おじさんがぽかんとした表情をして、その直後、大声で笑い始めた。

え? どうしたの、僕、変なこと言った?

「ううん。言ってない、言ってない。あはははは、クリケットって、クリケットって、祐ちゃんがよく観てた『ピノキオ』のよね? あはははははは! うん、そうよね? 確かにクリケットだったらよかったのにね、そっちのほうがあいつらにはいいのかもね。そうよ、歌も上手だし、小さくって、良心として助言をしてくれるのよね、確か」

そう、最後に〈公認・良心〉の金バッジをもらうの。

もとのおじさんに戻った。よかった。けれど――

ねえ、クリケットじゃないの? おじさんが言ってるのは?

「ううん。ううん。いいね。そっちのほうがいいね。祐ちゃんにとってはクリケット一族が一番大事になる時がくるでしょうし!」

ふーん? ねえ、今日は僕も解釈怪物の話をしてもいい? 僕考えてきたんだ。

「ああ、祐ちゃん、祐ちゃん、愛おしい……」

ちゅうー、ぽっ! とお尻の穴を音を立てて吸ってからおじさんは言った、

「いいよ、祐ちゃん。聴かせてよ」

僕はなんだかおかしな気分になっていった。おじさんが「れるれるれ」と穴を舐め始めたので。そして子供の思考で僕は語る。どこを見て話そうか。ふと見ると壁に、紙でできた小さな人形が架けられていた。ヘルパーさんが配ったものだ、きっと。それを見ながら僕は語り始めた。

 

うん。僕の話はまさにジミニー・クリケットたちの話なんだ。僕はね、入院してた時、彼らとよく遊んだんだよ。かくれんぼとかね。でも退院の日、「君たちを迎えに来るまでここを離れないで、この先、いつ、また血と誤読に飢えた解釈怪物に見つかるか知れないから」って僕は彼らを病院に置いてけぼりにしてしまったんだ。というのも、かくれんぼのオニというのはそれだったから。つまり命がけの遊びだったってこと。ジミニー・クリケットたちはかばって僕を逃がしてくれた。僕は元気になって病院を離れて僕の生活を始めねばならなかったから。僕は学校で、全員とまではいかなくっても、友達がたくさんできた。退院して最初の登校日、みんなの前で、お見舞いの寄せ書きをありがとうって、先生に言わされて、言わされて……。でも僕にとっては見知らぬ子たちばっかりの前に立たされたわけだから、お辞儀をするのも結局できなかったんだけど、でもうまくやれたと思うよ。休み時間に僕の席の周りには必ず友達が集まってきた。だから僕は傷を見せてあげたりしてさ。セップクだよ、って僕が言うとみんな偉いことをした人を見ように眺めるんだ。「触っていい?」って聞かれたらもちろん触らせる。そして僕はある日の通院でまたクリケットたちに会うんだ。で、ブーイングなんてしないでよって僕は言わなければいけなくなる。サッカーでよくあるでしょ、僕テレビで観るからわかるんだ。一斉に観客がブーって唸ってさ。なぜならジミニー・クリケットたちは僕を覚えていてくれたけど、僕のことを恨んでいるから。彼らをほったらかしにして学校で友達と遊ぶから。だから、「僕は君たちの味方だと言ったよね」って僕は言うんだ。「ずっと待っててほしい!」その言葉がどれだけ残酷だったか。その頃には彼らは長い長い命がけのかくれんぼの末、すっかりやつれていたんだ。そして僕と再会した時の彼らのブーイングが命取りになった。「静かにしなきゃだめだ!」でもその音で、僕らはついに解釈怪物に見つかってしまうんだ。そして隠れ家の〈視聴予定映画のビデオカセット群〉一画もろとも爆破されちゃうの。血が焦げ付いた。だけどね、おじさん。クリケットたちは幽霊になって、僕と話をするようになる。ああ、その前にもちろんそれを煙に巻いてからね。僕はというとゼリーを塗られてエコー検査をされていたから、そのゼリーの匂いにそれは参っていた。やつは、いつもおじさんのしてくれた話に出てくる悪いやつらと同じ匂いがしたよ。不幸や災害、信心深くない人々、馬鹿にする人々。僕のお医者さんだけは、手術をしてくれて、ゼリーを僕に塗ってくれて、お腹の中を見てくれて、それらとは違っていい人だと思うけどね。お腹の中に、僕の秘密が隠れていて、それが透かされて見られてしまったらどうしようかと思ったけれど。最後には僕とクリケットの幽霊たちは『星に願いを』なんて歌ってさ。もちろん、英語でだよ。ジミニー・クリケットたちはどうして星が大好きなんだろう。願い星の妖精が衣装を新調してくれたから? ただのクリケットに役目を与えてくれたから? 物語の最後に〈公認・良心〉のバッジをくれるから? その妖精が美人で優しいから? 僕も星が好きだな。アニメでも星が映るよね。僕、星なら星座が好きだ。そして僕はキツネにも騙されないで、悪い子のおもしろ島にも行かずにロバにもされず、ちゃんと僕の賛同者を見つけ出した。それがおじさんだよ。入院中もお話ししてくれたし、ここの住所を教えてくれたよね。僕、退院してここを探すの大変だった。この場所はクジラみたいに泳いでいるからね。なんて。ね、おじさんって爺さんって歳じゃないけれど、ゼペット爺さんだよね。とにかくここへ来るのはクジラのお腹の中に行くみたいに大変なんだ。友達が僕と遊ぶのをやめなくて時間がないから、っていうのもあるし。でも簡単だった。おじさんが地図を書いてくれていたから。それに、母さんがロージン・ジンジン・ニンジンエキス・ハイパーの訪問販売で忙しくなったから、ばれる心配もないしね。でも今日だって友達とのかくれんぼから逃れて、ようやく来れたんだからね。ねえ、おじさん。僕、ピノキオみたいに正直者でない時、ちんちんが伸びるよね、ピノキオは鼻だけど。入院中も、おじさんが触ると僕のおちんちんは伸びてたね。あの時はおじさんがちょっと怖かったから、それを隠したから正直者でなくって伸びたんだと思ったよ。でもいまは平気なのに、嘘つきでないのに、伸びるのはどうしてなのかな。ああ、おじさん。ああ、おじさん。……

おじさんのごま塩ひげが、じょーりじょーり、とお尻の割れ目に感じた。おじさんが口を突っ込んで上下に動かしていたから。

ああ、おじさん。僕なんか出しそう!

僕はさっきから壁にかかった人形を見つめながら、嘘をつき続けていたのでちんちんが伸びたんだと分かっていた。だって、友達なんかいやしなかったからだ。こんな作り話をしたからだ。だから僕のおちんちんは木の棒っきれのようにとっくに硬かった。そしていま、何かが込みあげてきて、僕はおじさんのほうへ向き直った。子供の僕はおちんちんの先からピノキオの鼻みたく伸びた先に花でも咲くのかと思った。小鳥の巣でも先っぽにできて。でもその途端、腰ががくんがくんとして、おしっこが出てくるのかと思った瞬間、先からは、いや、もっと背骨の奥のほうが爆発したようになって、そして棒っきれの中を何か走り、白いものが飛び出しておじさんの顔にかかった。

「いやあーっ!」

お、おじさん。……ねえ! おじさん! これ、……なに?

「汚い、汚い、汚らわしい……」

ご、ごめん、おじさん。汚れちゃったね。

「そうじゃないのよ。……祐ちゃんも、……そんなんなっちゃったんだね」

おじさんはぺろっとそれをひと舐めしてから、涙を流してシクシク泣いていた。そして、

「出ていきなさい。それで二度と来ないで頂戴」

僕はそばにあったトイレットペーパーでおじさんの顔を拭いてあげようとしたけれど、おじさんが「いやいや」するから僕は自分のパンツと、あとシーツにかかったのを少し拭いた。その時、僕は丸めた紙がかさかさ動く感じを味わった。まさか。だが開くとやっぱりそこにジミニー・クリケットはいなかった。代わりにゴキブリの小さいのがいた。僕らはそれっきり会わなかった。僕らはっていうのはゴキブリと僕でなく、ジミニー・クリケットと僕でなく、もちろんおじさんと僕のことだ。

 

僕は耳鼻科の外来からすぐの多目的トイレでパンツを洗っていた。夢精してしまったパンツをふるちんで洗うこと、それも多目的には含まれる。それは「チンカネのユウちゃん」にとって日常茶飯事だったのでなにも感慨はなかった。この夢をみる時は必ずパンツを汚す。おじさんから追い出されてからの放課後は一人河原をぶらぶらすることしかなく、もう少し大きくなってから、そこに捨てられた本やビデオを見つけてもあまり気持ちと体が反応しないのはなんでだろうと思っていたけど、さらにもっと大人になってから、相変わらず僕はぶらぶら歩いていて、そして河原の先のグラウンドで、サッカー部員の少年の一人に声をかけたのがきっかけだった。自分でも最初は何がしたいのかわからなかったけれど、その時もこんなトイレの中で、「おじさんのやり方で」、僕は完璧に理解したのだった。おじさんの警告は僕に無意味だった。僕は女性に好意を寄せられがちだったけれど、おかまになって、クリケット一族には用がなくなってしまったから。クリケットが一番大事になることなんてなかったから。

おじさんは「クリケット一族」ではなく「クリトリス一族」って言ってたんだな、本当は。もちろんすぐには分からなかったけど。

月に一回、それもそのうち三か月に一回、半年に一回、年に一回と、間隔はあいていって、ついに僕は高台の病院に通院しなくってよくなった。一回だけ、僕は病院でおじさんを見かけた。車いすに乗ってて、押されていた。別人みたいだったけれど僕、分かった。もちろん声をかけなかった。その間に起こった話をすると、僕の両親は、僕の退院後に離婚していた。母曰く「お母さんにとって大事なのは、お父さんと祐樹でなく、私と祐樹だけだと気づいた」からだ。父は手術・入院・通院費用をまとまった額で現金で残してくれたので、僕らはあまり苦労しなかった。母はロージン・ジンジン・ニンジンエキス(その頃はミラクルもハイパーもつかないただの)の販売に出た。そして僕はひとりぼっちだった。

さあ、と僕はトイレから出た。作業だ。僕は上着を着た。

まずは塵を集めなければ。でも普段の外来の時間に清掃するより楽だ。邪魔になる患者がいないから。ワックスがけのためにまずは待合室の、半分の座席をもう半分のスペースの座席の上に乗っける。その分、労力はかかるけど、そうすれば一気にワイパーとバフがかけられる。気は乗らなかったが、僕はおもむろに三人掛けシートの一つを、よっと持ち上げてひっくり返した。そのほうが運びやすいからだ。カラフルなシートは思ったよりも重かった。一目じゃ気づかないが緊急の時には簡易ベッドになる優れものだったからだ。その時、何かが視界の端に入った。シートの裏に何かあった。目に飛び込んできたのは、ステッカーだった。僕の鼓動だけが早くなる――。

僕はシートを降ろして「それ」を初めて見た。

あの頃思い描いていたのと同じ過ぎて、デザインについての感想は特になかった。ただし頭の中の思考がぐるぐる回り始める。なぜ……。

黒と黄色の縞々模様を地にして(あの『危険』の意匠と一緒だ)、真っ白く型を抜いたような男性器のシルエット。男性器にはひびが入っていて『割れ物』の荷札シールのパロディだと分かる。脇にはご丁寧に『ぽこちん』と赤いフォントが並んでいる。

どうして? さらに別のシートをひっくり返したい、その衝動を抑えることができなかった。僕が隣をひっくり返すと、また貼られている。またひっくり返す。その次のにはなかったがさらにその次をひっくり返せばまた貼られていた。つまり最初のそこだけじゃない。よっと手をかけ、お尻を後ろに引く梃子の力でひっくり返す。僕は清掃の道具や手順などほったらかして、半分だけでなく、すべての座席をひっくり返したかったし、事実そうした。そして待合室の中心に立って、辺りを見回した。なんなんだ、これ? 僕の周囲、あるいはあちら、あるいはそちらにもステッカーは規則性なく貼られている。だが自分が『ぽこちん』に囲まれているという感覚があった。これがあのステッカーなのか? そんなはずはない、十何年も前のことだし、これは新しいシートだし、ありえないんだ! ひびわれたぽこちんの点在。それが薄ぼんやり輝いているように見える。一体誰が? 誰って……。いや、嘘だ。

僕は頭に浮かぶことを放棄しようとする。だって――

だって! あの体では無理なんだってば!

「おい、祐樹だよな?」

突然の声で振り返った。

「な、え……。 誰?」

誰。僕と同年代か、もう少し老けた男が立っていた。おじさん……。

「俺だよ、ほら、幼馴染の、ほら」

幼馴染? あ!

「あ!  う、うん、分かった。そう、祐樹……」

「久しぶりだなあ、元気してた?  今なにしてんの?  清掃?  へー」

僕はびしょびしょパンツが気になって、いそいそと上着を腰に巻いた。

「ん、なんだそりゃ?」

「……え?」

「それ、シール。『ぽこちん』?  お前が貼ったの?」

「あ、ああ……、違う。おじさんが……。や、違う」

「ふーん。あのよ、ちょうどよかったよ、ちょっとよ、知り合いの見舞いなんだけど病棟よくわかんねえから案内してくれよ。ちょっとよ、ちょっと。な、いいだろう」

「病棟ならあすこの突き当たり右に曲がってまっすぐのとこのエレベーター……」

「いいから、いいから」

 

病棟なら僕の見舞いの時の記憶を辿ればすぐわかるのではないか。だが、そんなこと、もう覚えていないのかもしれない。エレベーターが来るのが遅い。さっきまで饒舌だった幼馴染も黙り込んでいる。僕はさっきの光景が頭の中でぐるぐるして、そしてそれと同じくらい、突如現れた幼馴染との距離感にどきどきする。だがそれは僕が思い描いていた理想とは遠かった。彼の表情はなぜだか陰になってこちらからうかがい知れない。僕は無理をして声を出した、

「い、いまでもサッカー……」

「ん?」

「ほ、ほら、……サッカークラブ入ってたじゃん」

「サッカー?  いつの話だよ。俺、大人だぞ?」

「そ、そうだね」

「それにありゃあ小三でやめてたろ。ほら、三年から代わった担任が言ったじゃん、『サッカーなんてのは野球に比べていつ攻守が逆転するかわからない、テレビの前で落ち着いて酒も飲めない欠陥だらけのスポーツだ』って」

「そ、そうだっけ、てか、お、同じクラスだっけ」

幼馴染の声はエレベーターの中に入ったら途端にうつろに感じた。

「小、中はずっと一緒だったろうが。でなきゃ今のお前見かけたって、お前だなんて気づかないってば、多分。よく遊んだじゃん。ああ、お前の言葉で思い出したよ、けっ! あの先公、言ったろ、そうやって。覚えてない?  まあいい先生だったけどな。でも俺らサッカークラブの奴らもクラスに何人もいる前でよ。そんときゃ頭にきたけど、俺、なんだかその通りだな、って思ってやめちまったよ」

「そう」

「やめなきゃよかったかもな」

僕らをのせて上昇する――。

「外科ってことは、どこが悪いの?」

「肝臓の手術したって」

「そ、そう」

六階です、という音声案内とともに微量な圧から解放されて扉が開く。

降りたのは僕一人だった。エレベーターホールに彼の姿はなく、僕だけがいた。

誰かの声が響いた。

「ずっと、なげえってことだよ」

めまい。ただし混濁していないたぐいのめまい。あざやかなめまいは、あざやかな想像をうながす。いま、私の前にはまっすぐな道があった。僕/私はいま、「ぽこちんのステッカー」を見た。そんな僕/私が語り出すのはきっと愛に満ち溢れた物語だろうと私は望む。でもいま実際に一体どんな解釈怪物の話を語れるだろう、私は。

 

木製人形は、肝芽腫という肝臓の小児癌とともに「ピノキオ」という名を与えられ、操り糸なしに自在に動けるようになった。それらを授けてくれたのは母だった。父はいなかった。いやいた。そのころはまだ妻に捨てられる前の父がいた。だが父としてというなら彼よりも、ゼペットという名の、脳出血で寝たきりの時計職人がいた。彼は象徴としての父であり、母でもあった。ゼペットは良き友人であり、性犯罪者だった。そのようにして私は描き出し始めよう。そして敢えて明言を避けているわけでないが、私は最後にある告白をしようと思う。

解釈怪物はいま現在、ゼペットの夢現に頻繁に顕れる。これまで御覧に供してきた、ゼペットが作り出したピノキオの独白の形式をとった物語では、ピノキオにとってそれは対峙しなければいけない原初的な危機だった。病よりももっと畏怖する対象として登場するのだった。彼は病魔による絶息を恐れるにはまだ幼すぎたからだ(それを証拠に彼は「死んだクリケットの幽霊たちと遊ぶ」などという観念を持ち出す)。しかしこれらはすべて作り話だ。それは本当はゼペットの枕元に立つ。ゼペットは架空のピノキオの成長を願って、それを乗り越えてほしいという念願のもと、それを引き合いに出し、ただ話に盛り込んだに過ぎない。実際はピノキオはそれがなんなのかを知らないのだ。

また、ジミニー・クリケットが本当にピノキオの心に現れていたかもわからない。ピノキオが作り出した物語にはクリケットはアニメと同じように「良心」として登場するが、それは彼の作り話なのだ。『星に願いを』を甘い声で歌い、背丈の何倍もある本の表紙を開いて、その中に入り込み、ゼペットの家の住人がみな眠りこけていうるうちに、あの願い星の精が人形を糸のいらぬ姿に変えた瞬間を唯一目撃し、自身も衣装を新調してもらって、良心の役目を仰せつかるジミニー・クリケットの登場するアニメを、私のピノキオが(「私の」などとよくも言えたものだが、私はどうしてもそう書かねばならない。私が嘘をつくことを私が許さない。これは償いなのだから)、入院中に鑑賞してそれをもとに作り出したに過ぎない。それを証拠に彼の紡いだジミニー・クリケットのあの物語は稚拙さで溢れている。前述のクリケットの幽霊然り。だが、ゼペットのほうはというとその幼稚さが好きだったのだ。それは純真な好意というより、性倒錯をくすぐる憧憬であったが。そもそもゼペットに性的虐待の意識があったのか……、その背徳はもちろんゼペットにはあったと思う。でなければこんな話をいつまでもしない。だがそれもだんだんと、ゼペットとピノキオの境界が溶け出しつつあるいま、いっそのことゼペットでなくピノキオのほうに、いや、ピノキオという名のチンカネのユウちゃんのほうにこそ、男子児童を多目的トイレに連れ込むにあたって、罪の感覚があったかどうかを知ろうとするほうが良策なのかもしれない。しかしここであなたは思うだろう、なぜなら私が述べた通りであるとするならば、先ほどまでのエピソードはゼペットが作った偽の物語であり、ピノキオ/祐樹などそれこそ架空の物語の、糸に絡んだ操り人形に過ぎないのではなかったのかと。その疑問の根源はやはりゼペットの頭が緩んできているが故の混乱というところに繋ぎ合わせ、答えを明かすのがよかろう。この告解はそのようなあざやかなめまいとともにしか存在しないのだ。つまりいまゼペットは痴呆に近い状態にあった。ピノキオと別れてから(ピノキオを追い出してから)、ゼペットはどうしたかというと宗教にのめりこんだ。だが、それは特に意味のないことだと私は思う。そんなふうにゼペットが孤独であったから、ピノキオもまた孤独であったなどという道理が成り立つのか私は知れない。ただ、そうであったならその責任をゼペットは感じたか、ということだ。ゼペットは首肯するだろうか。私は問い掛けるが、ゼペットは返事をしない。返事をしろ、ゼペット、強く問う。だがゼペットはその思考を拒む。ゼペットはピノキオと別れたその後、願い星の妖精の手によってでなく、もっと複雑な手続きを踏んで遠縁の親戚の助けにより介護老人保健施設に入れてもらえた。余生と呼ばれるたぐいの時代が訪れたのだ。病院でピノキオが車いす姿を見かけたのもその前後である。

ゼペットは毎日問うた。「ピノキオ、あなたは何語で喋りたい?」 自分が話すようにこの言葉で?  それとも答えによっては、英語でもフランス語でも習いに行くよ。ゼペットは責任逃れをする。いや、ピノキオの存在の決定要因を自分にあると感じているからこそ、自分の言語がイコール、ピノキオの言語となることを意識して思考している。幼稚な発想だ。壁にかかった物言わぬ紙の人形をゼペットは見つめる。ピノキオが尻を舐められている時に見つめていた、あの部屋にあった人形だ。ゼペットはいつも問う。誰かがいなければ自分は笑えなかったか。昔のことでも笑えなかったか。そうだ。喋ることだってできなかった、鼻歌を歌うなんてもっと。それがピノキオにも当てはまるのか私は知れない。これはゼペットの身勝手な願望に過ぎない。ピノキオはピノキオで、ゼペットはゼペットなのだから。ピノキオ、あなたはゼペットに何かして欲しいことはあったの。それとも何もしてほしくなかった? 解釈怪物はあなたを襲わないよ。あなたの世界にはそいつはいないよ。解釈怪物というのはゼペットの入信しているままごとじみた宗教でよく出てくるワードだ。その教理にとって不都合な、この世の欲や敵対社会を表す悪を意味する。地獄や災害などの不幸のメタファーとして脅し代わりに利用される。そして悲しいことにゼペットの緩んだ頭にはそれがすっかり染みついている。と私は書く。その悪夢を見る。それは記憶のなかのピノキオを襲う。ゼペットを襲う。と私は書く。そういった影響力を考えると無意味な入信ではなかった。ゼペットのまだらにしか保てぬ脳はその教理とともにあったからだ。

ピノキオが結果、ゼペットと同じ清掃の職に就くのをゼペットは夢みるようになる。「ぽこちんのステッカー」をピノキオはシートの裏に見つける。それは介護施設のゼペットの個室にほどかれぬまま放置された段ボールの「荷札シール」がいつのまにか記憶に煌めいた乱反射である。と私は書く。だが私たちのピノキオにとっては、それが重要な物に思えてくる。

やはり私たちとピノキオはひとつではないようだ。先ほどまでの「僕」を主軸にして書かれたエピソードに「僕」本人の容姿を描出する部分が著しく欠如していることに誰か気づかれたかもしれない。もちろん「僕」張本人の告白なのだから、自らの姿を形容しないのは不自然ではないかもしれないが、理由は他にある。つまりこれはゼペットの記憶障害による記憶の損耗を意味する。ピノキオがゼペットの毎度の「新作」を覚えていないのも、ゼペット本人がそれを思い出せないからなのだ。あるいはそんな嘘はいつでも作れるのだから、いま私が語っている話がその新作だと平然と言ってのけることもできるではないか、でも、簡単に誤魔化せるからこそ、ゼペットはそれを避けて本当のことを話そうとする。つまり創作物ではないのだ、これは。これは記憶、そして告解なのである。「私」の罪の告白なのである――。

そしてピノキオは六階でひとりぼっちにされる。サッカーをしていた小さな幼馴染がピノキオにとっての初めての欠乏であり、性の対象となっていった。そしてその後のフェティシズムの偶像となったのだ。破られた約束のほうがいつまでも忘れないのはどうしてだろう。いや、約束など、していないではないか。

私はともすればほどけていきそうな意識の中、これを書いている。少し短気でそれが故笑いを取るジミニー・クリケットの言動に私はほほえむ。だが命を与えられる前の、塗料の染みに過ぎぬピノキオの眼のうつろさ、唐突にそんなふうに恐怖が割り込むこともある。例えば自慰行為なんかは覗かれてるかも、という妄想も。あるいは、別な子の尻を舐めているところを想像している姿を盗み取られる感覚。もちろんジミニーとピノキオにだ。ジミニーはオルゴールの陰に隠れ、人形はいつもゼペットの見える位置の壁に掛かっているから。自慰は見られているが生殖行為をしたことのないゼペットはそればかりは彼に見られたことはない。ピノキオ、あなたは女なの男なのそれとも自分なの。私は彼の物語を紡ぐ。おもしろ島に集まって、ロバになってしまう悪い子の中に男の子しかいないのはどうして? 告解と言いながらゼペットは問う。悪い女の子は存在しないの? そしてゼペットは問う。自分がこんなふうなのと一緒? あなたがそんなふうなのと一緒? あの悪い子の中にも私たちみたいなのがいたの? ゼペットは問う。自分はいつもクジラの腹の中にいた。彼は後悔していた。ピノキオにしてしまったことを。ピノキオの将来をそんなふうにさせてしまったことを。そう私は書く。

別な子を数人、施設へ入る前、ゼペットは自宅に招じ入れたこともある。そんな子らとどこで知り合ったか? ヘルパーの一人にそれに通じた人間がいた、と言うだけで十分だろう。だがそれらは些末なことに過ぎなかった。ゼペットは病院へもかよった。ヘルパーたちは、なぜ高台の大学病院構内一周が散策のコースに盛り込まれているか首を傾げたが、もちろんそれは、ゼペットが僕/ピノキオにもう一度会いたいからだ。だがそれも施設に入るまでの話。

この病院へはそれっきりだ。いま、私は彼とともにそこに立つ。

病院でピノキオはなすすべもなく六階を歩き出すだけ。と私は書く。だが、道はまっすぐ、それは私も知っている。外科は六階。それは彼が入院していたあの頃と変わらなかったが、フロアは様変わりしていた。デイルームが広くなっていて、テレビのディスプレイが大きい。黒い画面は何も映し出していなかった。患者も見舞客もいなくて、リモコンは遠くのテーブルの上で息絶えた蝙蝠みたいに羽ごと縮こまって伏していたからだ。そばに行くまでもなく、裏のカバーが外されて、電池が盗まれていたのがピノキオにはわかった。私にもわかった。誰か来たらきっと、点かない点かない、ちうて、な……。私は歩く。車いす無しで。ピノキオも歩く。その木の足で。しかし、四人部屋も、大きくなったナースステーションの配置によって、区切り方が変わっている。看護師が数人、勤務している。私/ピノキオは歩く。一人部屋のほうへ。行け、泳げ、ピノキオ、岸まで、行け。怒り狂ったクジラから追われて――、でもそんなものはいないよ、ピノキオ。解釈怪物がいないようにね。小さな彼のいた廊下の一番端の個室のあたりも、狭く区切られ、半分がリネン室になっていた。もう半分は何も表記のない小部屋。帰ろうとしたが、そこから人の気配がした。恐る恐る扉を押し、半身を差し込む。すると、

「あら、いらしたみたい」

聞き覚えのある女性の声がして、ピノキオは思わず完璧に踏み込む、そして驚くべきは、小部屋の中が、まるで彼が入院していた、あの個室の広さを持っていて、そして手前の洗面台といい、ベッドを囲むカーテンの配色といい、そのままな気がしたことだ。私も驚く。これでは空間は半分、建物から飛び出してしまっているではないか。私の思考がピノキオの思考からはみ出し気味なのと同じように。彼は進み、カーテンのかげから覗けるあたりまで来た。ピノキオの母がいた。母が立ち上がる。

「いっつもお見舞い、ありがとうございますう。お仕事終わりにお疲れのところすみませえん」

若い頃の彼の母がそう言う。ピノキオ/私に言っているのだ。彼は理解が追い付かない。ベッドを見やる。そこには小さい病衣を着た子供がいる。「まだ耳鼻科の待合室で夢を見ているのだろうか」と私はピノキオに胸中を語らせる。そして声に出してこうも言わせる、

「お母さんは僕のことをどれだけ知っているの? 僕、これでいいの?」と。

亡き母は笑う。私がそう書くから母は笑うのだ。

「いっつもこの子にいろいろ持ってきてくださって。ほら、祐もきちんとご挨拶して」

小さいピノキオは複雑な顔で俯いている。彼は小さな彼に拒絶されているのがわかる。小さな彼は本当はこうだったなと私も思う。ピノキオも「僕はおじさんのことも、あの頃そんな目で見つめていたのだ」と知る。怯えと大差のない――。そして彼の若い母は言うのだ、

「正しそうに見えて間違ってることがある。あるいは間違ってそうに見えて正しいこともある。大事なのは善悪の区別をつけ、誘惑を退けさせ、まっすぐな道を選ぶこと」

これは『ピノキオ』で登場するあの願い星の妖精とジミニー・クリケットの言ったことと同じなのだ。私もピノキオのアニメをあのあと何度も観た。私は、私/ピノキオに言わせる、

「妖精さん。お母さん。すべて僕がゲイなのがいけなかったの」

母は笑う。私は彼の母に笑わせる。そしてこう告げさせる、

「そうではないの。誰も悪くはない。それは悪いことではないの。ただし、安易な誘惑には気をつけて。軽い気持ちで自分を捨てないこと。でも何があっても私はあなたを助けに来ます。どんな力も善悪を知り、使うこと。それか力なんて捨ててあなたの良心だけを信じなさい」

私は私の母にもそう笑われたかった。私の母にもそう言われたかった。私は誤魔化して言う、

「良心? ジミニー・クリケットのこと? 僕はそんなことよりもお母さん、僕は見つけた願い星に頼みごとをしなくっちゃ」

「わかりました。行きなさい、祐樹。ね、祐ちゃん。こんなに大きくなったんだね」

そしてピノキオはあからさまにあの女を寵愛していた教授により社会的に抹殺され、職を転々とし、清掃の……、いや違う、それは違う。それは私の話でないか。ピノキオの話ではない。私の半生を彼に重ねてしまっている。

本当はこう続く。

ピノキオは何も言えず、ふらふらと病室を出る。あのステッカーは本当は誰が貼ったんだ。僕か? 違う。やっぱりあれはおじさんが貼ったんだ。いや、僕がおじさんなのか。私のピノキオは考える。私がそう考えさせてしまう。

ピノキオは廊下の行き止まりの窓辺へ寄った。彼の心を映すように、空も暗くなっていて、ガラスに明るい廊下にいる彼の姿が映っていた。まぎれもなく彼の姿だ。その姿は在る、だが私には視えない。記憶が欠損しているからだ。そのあやふやな像はもう三秒でも長く見つめていたら、きっと私の姿に見えてきただろう。それを恐れてか、「私たち」はさらに窓辺に寄った。反射は消え、その代わり外が見えた。星は、一つとして見えない。

僕の空はいつもこんな感じで……、思わず病室に戻って、おじさんとして振舞おうかと思った。あるいはあの頃の母さんを抱きしめて(あの母が願い星の妖精なのだから)、小さい僕にも、大丈夫だと優しい言葉をかけよう、と思ったりもした。だが何が大丈夫だというのか。彼はもう一度、外を見る。私は彼にそうさせる。

ピノキオは思う。

あのステッカー。あのおじさんって、星座を作ったんだ。いうなれば、おかま座を。ははは。ジミニー・クリケットに歌ってほしかったな。『星に願いを』って歌はこんな星座のためにあるんじゃないか。おじさん。おじさんも星々の一つ。僕もここにいるよ。ピノキオは笑う。私は彼を笑わせる。二人の目に高台からの夜景が見えた。

私は彼につぶやかせる。「僕も星座を作る星々の一つになったんだよね」だが、ピノキオは心の底では違うと分かっていた。僕は星ではない。僕は星座を観測したに過ぎない。僕はずっと何も変わっていない。私は彼にそう思わせることしかできない。私が何度やり直しても、どれだけ戻っても、話を戻しても、そうはならない。彼にそうじゃないと思わせることができない。

私は体がうまく動かせない図体であるため、視線の先を読み取る機械を用いてこれを書いている。ピノキオは私に微笑む。現実ではなく物語の中で。私のそばにピノキオはいない。もちろんボタンを押せば誰かスタッフはやってくるだろうが。

そして書き続ける私は、歩き続けるピノキオ/僕/私にこう思考させる。

またね、と。

けれどいつもそうだ。またね。だがそんな日は来ない。だから今後はもう、この私の人生についての告白を、私はしないことにする。「またね」はもう本当にない。涙があふれ、機器が視線を読み取れなくなり、入力が不可能になる。こんなもの告解などではないのを知っている。老人の、病人のたわ言である。最後に約束通り私は秘密を明かすことにして終わらす。もうお分かりの通りだ。私は清掃夫のゼペットである。またの名をおかまのおじさんだ。本当のことを言ったのに、脳裏に浮かぶピノキオという嘘が、私の鼻をまた伸びさせる。行け、泳げ、ピノキオ、岸まで、行け、生きろ。

私をおぶったままで、なんて言わないから。

 

 

 

 

 

 

2019年7月1日公開

© 2019 多宇加世

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