九か月ぶりに杉野遥から届いたメッセージ、呑みにつれてけ、というたかり根性を前面に押し出した簡潔なラインを見て、尾形はまたか、と思ったのだった。
ふざけんななんでいつも俺が奢る前提なんだよ、何いってんのいいじゃんたぶん昇給したんでしょケチんなよ、なんで勝手に昇給したことになってんだよ変わんないし、えでもまあそれにしたって目上の人と呑むのにこっちがお金出したら逆に失礼じゃん私そんなことできない(うるうる)、ちょっと待て逆に考えようとするな俺はギーヌの上司なんかじゃない、いやいや私は個人的に敬ってるんでオナシャス!
幾度となく繰り返してきたようなくだらないやり取りをしながら、尾形はまた思った。――そうか、またか。
とりあえず互いに都合のいい日時を決めて、スタンプを送り合い、どちらからともなくラインは途絶えた。そういえば、と尾形は写真フォルダを開き、遡っていった。去年八月のフォルダにむき出しの、修正などまったく入っていない、杉野遥の画面いっぱいの笑みがあった。去年の夏、いつもの調子で俺を誘い出してわがまま放題に呑んでいたギーヌは、端末にこんな皺くちゃの痕跡を残していったな。――ほんとうにそれは痛々しいほどにむき出しで飾りのない笑顔だった。歯並びの悪さも、目尻の皺も、化粧崩れも気にしない彼女、それでもその表情には濁りも屈託もなく、少なくともこの瞬間、俺はギーヌと楽しい時間を過ごしていたのだと思えるような、そんな自撮り写真。
あのとき、沈黙に気まずくなった尾形がスマホをいじり出したのを取り上げて、杉野遥はインカメでこんな痕跡を残していったのだった。あいつにとってはただの思いつきのたわむれに過ぎなかっただろう、でもこんなもの勝手に残された俺の身にもなれよ、無神経な奴。ばかやろう。
そう思いながらも、尾形は乾いた胸の奥をひたひたと水が浸してくるような潤いを感じていた。でも彼はちゃんとわかっている、その浸潤の正体が他でもない慎みだということを。きっと今回も、俺はギーヌに対して慰めの言葉をかけることも、その肩に触れることもないだろう。あいつはいつだって明るいものしか残さない、残そうとしない、だからそれを邪魔しちゃいけない、損なってはいけない。
なんとなく、尾形は杉野遥の笑顔を画面越しにつついてみた。ミスタップだった。その笑顔は瞬時に小さくなり、他のおびただしい画像の波に飲まれていった。
御徒町の改札わきに杉野遥は所在なさげに立っていたものの、尾形の姿をみとめるとぱっと表情を輝かせ、手を振ってきた。他人から見たら恋人同士みたいかもな、と思いながら尾形も小さく手を振り近づくと、久しぶり、てか相変わらず妙ちくりんな恰好してるね、と杉野遥は言った。私服にまったく自信のない尾形はうっせーよ開口一番それかよふざけんな、と返し、ふたりはいつもの古くかすかにカビの匂いのする居酒屋へ向かった。――そこはいつもわりと静かでしかも二十四時間営業、明るいうちから呑むことを何より好む杉野遥のお気に入りだった。カビの匂いすら心地いいと言う。
生ビールをふたつ頼んだあと、杉野遥はメニューに目を落とし、えーどうしようかなあ、お刺身の盛り合わせ食べたいなあ、うーんやっぱお高めだけどまあいいや私は払わないし、などと言いながら次々オーダーを決めていく。おいおい、とかちょっと待て、とか返しながらも、尾形はうつむいた杉野遥の鎖骨の影をちらと見た。また痩せたか、と思った。まあでも相変わらずの旺盛な食欲にすこし安心した。
呑み進めるにつれ、杉野遥は軽いお喋りをしながらも、気がつくと子どもがいじけているような表情になっているのだった。それでまあやはり、尾形が訊いてもいないのに恋愛論じみたものを語りはじめるのだった。私やっと気づいたの、愛なんてもん、結局は価値観や利害のすり合わせでしかないもん、そんなことにこの歳でやっと気づいたの、遅すぎだよね、やっぱ私ばかなんだよね、はあマジほんと無理、云々。そしてがんばって笑ってみせる。――やっと気づいた、と言うものの、尾形は同じようなことを何度となく泥酔した彼女から聞いていた。そのたびごとに、ただ相槌を打ち、そうだね、としか言えなかった。
尾形はそっと、彼氏と別れたの? と訊いた。杉野遥は素直にこくんと頷いた。そのすぐあと、慌てたように彼女はバッグの中のハンドタオルをつかみ、トイレへと立っていった。
ほどなくして帰ってきた杉野遥は、赤い目のまわりの化粧がよれているのにもかまわず、尾形の目の前に座り、レモンサワーをぐいっとあおり、静かにジョッキを置き、にっこりと笑った。そしてかろうじて口角を上げたままぽつりと言った。いつもごめんね、ありがと。
――やがてテーブルに伸ばした両腕に顔をうずめ、眠ってしまった杉野遥を眺めながら、尾形はこいつも酒に弱くなったか、と思った。前までは男でも舌を巻くくらい強かったのにな。なあ、ギーヌ。尾形は杉野遥の頭に伸ばしかけた手を引っこめて、テーブルの上に垂れているその髪の先端にそっと触れてみた。あやうく、彼女のむき出しの心に感電しそうになる、でも、俺は、――
ねえ、と尾形は問いかける、ギーヌはいつも蓮っ葉にいろんなものを俯瞰して、いろんなことをあきらめてるみたいに話すけど、俺は知ってるよ、お前がまだ、まだ希望を捨てずにいることを。俺は知ってるよ、ギーヌが人並みはずれて愛情深いということも。お前には人を愛する、少なくとも愛そうとする才能がある、いつだってそうだ、のっけから人を疑おうとしない、まず信じて、愛そうとする。あらゆる人の愛すべき特徴を見出すことの天才と言ってもいい、でもね才能なんて自分の意思で捨て去れるものじゃない、それでギーヌは、お前はいつも最後に傷つき、傷つけられるんじゃないか?
――そしていつも俺に帰ってくる。そこまで考えて、尾形は杉野遥の無防備な髪から指を離した。まさにその無防備さが、どんなに悪態をついても押し隠せない人の好さがあやうかった。こいつほんとばかなんじゃないかと思った。あと何回傷つき、傷つけられたら気がすむんだ、いつもいつも同じようなことを繰り返して、呑み代をたかる風を装って俺の元に帰ってきたかと思えばまた一瞬でどこかへ行ってしまう。……尾形だって自分でわかっている、いつか杉野遥が戻ってこなくなるのをどこかで恐れていることを。でもそれにしたって、なんでいつも傷を負ったあとなんだよ、と言いたくなるものの、それも自分でわかっている。たとえ俺が何をしようが、お前にかすり傷すらつけることはできないだろうからな。
尾形がそんなことを思いながら目をしばたたいていると、杉野遥はむくっと頭を上げた。あれ私寝ちゃってたの? えなんで起こしてくんないの、え、でなにあんたひとりでぼけっと座ってたの、うける。てかごめんマジごめん。や、つかラーメン食べたくない? と言いながら彼女は店員を呼び、会計を頼んだ。そして伝票を見て、ごめん私こまかいのないから一万出しとく、四千円ちょうだい、と言った。
あんた食べるの早すぎない? ちょっと待ってよそんなに見ないでよ、と言いながら目の前で「野菜たっぷりタンメン」を一生懸命すする杉野遥を眺めていた尾形は、そういやこいつを下の名前で呼んだことがないな、とぼんやり思った。はるか。どう呼べばいいんだ、はるかちゃん、はるちゃん、はるちん? いや、やっぱふつうに遥だな、と思ったものの、こいつの元彼たちは思い思いの呼び名でこいつを、――と思うと今さら「ギーヌ」という苗字をもじったあだ名を変えるつもりにもならなかった。たとえ変えたとして、それが何になる?
時たま目を上げてもう食べ終えてしまった尾形の様子をうかがうたび腹を立てたように勢いよくラーメンをすする杉野遥、その鼻の下にこまかな汗の粒が浮かんでいる。そこまでつぶさに見ておきながら、まだ尾形は揺れている。そして、いつものように思う。俺はこいつに何もしてやれない、何もできない、そう、傷つけることすらできない。……そんでまたいずれ呑み代をたかってくるようにみせかけた連絡を待つしかないんだろうか。ほんとうにみせかけだけだよお前は。小悪魔ぶって、そのくせばかみたいに律儀で正直。要するにまぬけだ。そのことにお前自身はほんとうに、ほんとうに気づいてないのか?
ふー、ふー、と苦しげに「野菜たっぷりタンメン」を腹の中に押し込んだ杉野遥はがぶがぶと水を飲んだ。やば、お腹いっぱいで眠い、とつぶやいた。尾形は時計を見た、十一時ちょっと過ぎ、終電にはまだ間に合う。
よし、ギーヌ行こう、と言って伝票をつかみ立ち上がり、レジで会計した。尾形は日高屋で、他でもない日高屋で、一杯のラーメンを杉野遥に奢ったのだった。店を出てさっさと歩いて行こうとする尾形に、彼女は慌てたように、えいいよ払うよなに、えっといくらだっけ五二〇円だよね、と言いながら財布をさぐる。五二〇円、たった五二〇円。それなのに。――いいよ今日は、たまには「友達」にラーメンくらい奢ることがあってもいいじゃん、と尾形は言った。杉野遥は反射的にえっありがと、ごちそうさま、とぎこちなく言ったかと思うと、にやりといたずらっぽい笑みで、よし! これからはマジでガンガンたかってやろ! とはしゃいだように言った。
御徒町で、山手線の逆方向に別れるふたりは、いつもどおりの、ごくシンプルな挨拶を交わした。今日もありがとね、またね、バイバイ! そう言って笑顔で手を振ると、杉野遥はいつものように振り返りもせず歩いていった。それを見送ったあと秋葉原方面への階段をひとりで上りながら尾形は、またねって、またっていつだよ、となんとなく思った、けれども階段を登りきり、向かいの池袋方面のホームを軽快に歩いていく杉野遥を遠く見て、なぜか自然と笑みがこぼれた。そして思った、うんそうだね、またね、ギーヌ。
多宇加世 投稿者 | 2019-05-23 16:53
ギーヌっていうのがもういいです。なんだかちょっと泣ける感じもしました。でも最後は一緒に笑顔になりました。
波野發作 投稿者 | 2019-05-25 21:19
https://pbs.twimg.com/media/DubR8lKU8AE_E8J.jpg:large
HEISEIポップ恋愛ノベル系日高屋小説。女性をニックネームで呼んだ記憶がとんとない。本名だと思ったら偽名だったことはある。ハンドルしか知らない女はわりと普通にいる。何が善で、何が悪なのかもう俺にはわからないのだろうけど、悪人は出てこない気がする。金の話はしていた。
大猫 投稿者 | 2019-05-25 22:50
何度裏切られても懲りずに恋愛を繰り返す女と、女が好きなのに見守り役に徹している男。おそらくは男の思いが成就することはないんだろうなあと思いながら読みました。
痛々しい女性を書かせたら谷田さんの右に出るものはいませんね。可愛らしくて正直でどこか小悪魔的な匂いがある女は魅力的です。寂しくなった時だけの相手役を男が不満に思わないのも無理はないのかな。ただし「善悪と金」のテーマとはちょっと離れている感じがしました。
谷田七重 投稿者 | 2019-05-26 02:57
いつもありがとうございます!
私としては「個人」の中の「善と悪」を日常レベルにとことん突き詰めてったものを書きたかったのですが😭
ラーメン一杯奢ってもらうことすら躊躇するお人よしのくせに、男を誘い出すときはいつも強引に飲み代をたかる風を醸し出す(結局いつもふつうに払う)、まあ善人が悪人を装うけどいやお前シッポ出てるぞ的なやつがあってもいいかなと。
やー難しいですね、伝わらないと意味がないし😭精進します!!
駿瀬天馬 投稿者 | 2019-05-26 15:11
いつか彼女ができてもたぶん尾形の中でギーヌは特別で、彼女がいてもギーヌに誘われたら「友達だから」と飲みに行ったりなんかするんだろう(そして彼女はモヤモヤさせられるんだろう)、尾形よ……と、そこまで妄想しました。尾形に寄り添った視点でありながらも、ギーヌの痛みや狡さもわかるなぁという部分に好感を持ちました。卑近な話ほど読み手は個々人的な感情を乗せて読んでしまうので難しいと思いますが、そういう読まれ方がむしろ最適な作品だと思いました。
Juan.B 編集者 | 2019-05-27 00:35
日高屋にはいつもお世話になっております、俺は炒飯大盛りと餃子で760円がデフォルトです。しかしこんなお洒落な日高屋小説は始めて見た。俺の近所の日高屋は老人ばかりなのでこんなにエモくない。もし俺の隣の席で、この様な男女の様相が繰り広げられたら、俺は耐えられるだろうか。しかし善悪からはやや離れてるかもしれないと思った。
それにしても尾形もギーヌも日々大変だと思う。二人が納得の行ける形になるよう願って止まない。
(悠仁、アンパン買って来いよ 生)
Fujiki 投稿者 | 2019-05-27 05:45
掌編ではなく、もっと長い形で読みたい作品。尾形がギーヌに対して「慎み」を持つようになったのは、ギーヌとの関係だけでなく彼の過去の恋愛やその喪失が影響しているような気もするし、ギーヌの恋愛遍歴とそこから受ける傷の深さについても具体的なエピソードが読みたい。心情の説明がやたらと多い気がしたが、もっと示唆的なほうがいいというのは単に私の好みの問題に過ぎない。できれば、題名にある「鳥」をストーリーの中でもモティーフとしてもっと生かしてほしかった。テーマにある「善悪」の部分については、作者のコメントを読んでもいまいちピンと来ない。
Blur Matsuo 投稿者 | 2019-05-27 14:39
もどかしい男女の関係をリアルに描けていると思いました。いわゆる尾形は“都合の”よ(善)い人であり、ギーヌは自覚があるのかないのか、それを振り回す「悪い人」であるのかなと読みました。が、コメントを見るとギーヌの内面の話なのですね……誤読失礼しました。既に指摘がありますが、確かに善悪のコントラストとしては若干弱い気がします。恋愛小説として長くこの二人の関係性の変化を描くと面白いと思うので、期待しています。
牧野楠葉 投稿者 | 2019-05-27 22:38
恋愛小説として、こういう日高屋でもやもや酒飲む二人いいなー!と思ったのですがやはり善悪がわからず。お題が日高屋恋愛小説だったら星5つつけてます!笑
伊藤卍ノ輔 投稿者 | 2019-05-27 23:24
題名の放し飼いの鳥、に納得しました。
よくある形の行き違いでありながら、それを結構切実な形で読み切らせてしまうところ、技術のある方なのだなと感じます。
終わり方にも含みがあって、なんだかじんわりとくる作品でした。
一希 零 投稿者 | 2019-05-28 00:10
一歩間違えれば、依存関係のどうしようもない話になりそうなところを、なんだかいい話だったかのように見せる語りの上手さにやられました。この内容で読後謎の爽やかさ。上手いです。悪と見せかけて実は善でもありますよ、という話の展開も良かったのかもしれません。
とはいえ、僕には最後まで読んでも、「悪人ぶった善人」というより「悪人が善人のフリをしている」という方の感覚が残ってしまったので、それは不思議でした。語り手側に一度感情移入しちゃったからかもしれません。あるいは、僕が、悪人ぶった善人は結局他人からしたら悪人でしかないと思っているからかもしれません。
諏訪靖彦 投稿者 | 2019-05-28 00:53
御徒町の日高屋にはよく行きました。前に勤めていた会社が御徒町にあったので昼食に「ばくだん炒め定食」ライス大盛(サービス券)をよく注文してたなあ。「野菜たっぷりタンメン」は飲んだ後に締めで頼みました。サービス券持てるから大盛にしたいけど食べきれないから並を頼んで、飲みのたびにサービス券が増えて行ったなあ。それはともかく、確かな筆力で叙述されたとりあえず会いたい話を聞いてもらいたい女と聞く男の情景がなんともリアルで、尾形を自分に置き換え読み進めました。「放し飼いの鳥」というタイトルは秀逸だなあ。私がつけたら避難轟轟。
沖灘貴 投稿者 | 2019-05-28 15:03
読解力の低さゆえに突如出てきたギーヌに戸惑いつつ、ラインとはいえ口語でありそうな文章に読みやすさを覚えました。恋愛小説は読みませんが、大人の恋愛ってかんじですね(感想が童貞くさい)。
たった520円奢っただけなのに、この部分だけで二人の関係が大いによく分かるとは素晴らしいです。タイトルである「放し飼いの鳥」。逆に放し飼いにされているのは主人公なのかもしれないなと思いました。