夢のあなた

残照(第4話)

村星春海

小説

16,091文字

遠くのあなた。
手の届かないあなた。想いは千里をも超えるのでしょう。
「あなたはその心を飛ばしたの。雨月物語の一節の様に」

 これは夢だ。
 彼女はただいつもそこにいる。そしてどこか遠い異国の晴れた天気の下の青々とした平原に、手を後ろに回して僕に背中を向けて立っている。時折吹く風が彼女の長い髪と濃いブルーのワンピースの裾を揺らした。
 彼女は誰なのだろう。僕にとって至極当然の疑問なのだが、なぜか夢の中では声を出す事は禁じられていた。呼吸するために口を開くことは出来るのに、声は出ない。声帯が無くなってしまったように思えた。
 僕は夢の中で、夢というのを認識していた。こんなにはっきりとした夢は普段見ることはないのだが、この夢を一週間ほどずっと見ていた。今日もまたこの夢かと、僕はため息交じりに「君の声を聞いてみたいな」と口から声を発した。誰か僕ら以外にここにいるのかと一瞬思ったが、彼女がその声に反応して少し顔を向けたのだから間違いなく僕の声だった。とはいえ心ばかり顔をこちらに向けただけで、いまだ顔は見えなかった。
「はじめまして」彼女は背中越しに僕へ話しかけた。
「僕はずっと君の後ろ姿を見ていたんだけれど、気付かなかった?」
「えぇ、今初めて気づいたわ。ごめんなさい」
 僕は彼女に、気にしないで、と言った。彼女はその一言を告げると、再び黙ってしまった。真っ白なキャンパスに点々とついた黒いインクの様に、千切れかけた会話だった。でも僕は少しとはいえ彼女と会話が出来て、心が踊るように嬉しかった。
「また来てね。私は気付かないから、良かったらあなたから声をかけてくれると嬉しいわ」
「きっとまた来るよ」
 その言葉を合図に、夢の中で眠気が来る。そして眠りにつくと同時に僕は、自分のベッドの上でうつ伏せになって目覚めた。
 妙な脱力感と疲労感が体に残っている。でもそれは100m走で上位を取った様な心地いい疲労感だった。いつもとは違う目覚めだった。
 ベッドから這い出て、足元のヒーターを点火し、歯を磨き、顔を洗い、パンを焼き、コーヒーを沸かした。バターを塗ったパンをコーヒーで胃に流し込み、僕はスーツに着替えた。姿見で身だしなみを整え、車の鍵を手に外へ出た。外は雪が降っていて、靴底の高さ位にまで積もっていた。家の中では感じる事の出来ない、深々とした寒さが僕の体の周りにまとわりつく。靴底の雪を落とし車のドアを閉める。鍵を挿して回すと車は咳をする様にエンジンを始動し、僕と同じ様にしばらく寒さに体を震わせた。
 暖気の間、僕は夢の彼女の事を思い出した。長いしなやかな髪とほっそりとした腰回りは、清純さと表裏一体に情慾を掻き立てる何かが潜んでいる様な気がした。声もそうだ。少し鼻にかかった低めの声は、足もとから這い上がる蛇が肌を逆撫でして鳥肌を立たせるような、その種類の妖艶さを持っていた。思い出そうと思えばいくらでも思い出せる。触れていれば、きっと、その感触までも思い出せるだろう。
 暖まった車を車庫から出し、タイヤのスリップに気をつけながらアクセルを煽る。新雪特有のくぐもった音が、車体の下から聞こえた。
 僕の会社は、車で30分ほどのところにある。自宅の目の前からずっと海まで流れている川の上流にあり、少し山の中を走る。山中とはいってもちゃんとコンクリート舗装されている片側1車線だし、歩く人はめったに見ないけれどすれ違う車はよく見かける。雪の影響で道路脇の木の枝は重たげにしなり、のろのろ走る僕の車を珍しそうに覗き込んでいた。
 車を走らせてしばらく、会社の正門に着いた。その頃には雪は少し強くなっていた。僕の車を視認すると、守衛が顔を出して話しかけてきた。
「おはようさん。昨日の夜に一段と冷えるなと思って朝起きたらこれだよ。無事に来れたかい?」
「とりあえずは問題なく」僕は入場許可証を提示した。「でもこのまま降ると、夜の帰りが怖いですね」
「間違いない。こんな時は仕事を早く切り上げてくんねぇかなぁ。会社のお偉いさんは遅く来て早く帰れるからいいけどよ。俺らなんていつ帰れるかわかんねぇからな」
 彼の愚痴に少し付き合ってから、僕は車を場内に進めた。轍の深さや数を見るに、まだそこまで社員は出社していない様だった。もしかしたら急な積雪で来られないのかもしれない。何が理由かは分からないが、この状態のままだときっと残業になるだろう。
 会社には5つの棟が存在する。それらには1から5までに番号が振ってありそれぞれを○番棟と呼ぶ。そして僕が配属されているのは、一番奥にある5番棟だ。ここではそれぞれのセクションで組み上げられたアンドロイドのパーツの最終点検を行う場所で、主に関節の駆動関係や感情表現回路の確認を行う。
 彼女ら(または彼ら)は出荷前に僕ら検査員と寝る事になる。もちろん男性型アンドロイドには女性の検査員が付き、女性型アンドロイドには男性が付く(ごく稀に例外もあるがそれは個人のセクシャリティの事なので割愛する)。問題なく行為を行えれば、最終洗浄に入り、電源オフの後に梱包され各地に出荷される。
 僕は新卒でこの会社に就職し、各セクションへと順番に配置されてきた。それぞれの工程での経験を積み、最終的にこのセクションに配置され今に至る。最初は簡単な仕事内容の上に、リビドーを捌き出して金がもらえることに喜んではいたが、今となっては淡々としたその作業のせいで、僕は未だに独身を貫く羽目になった。しかも合わせ技で性的不能者になってしまった。
 僕と同じ悩みを持つ検査員は多いだろう。実際不感症になる者も多く、退職理由の上位を占めていた。特にこの会社で製造されるアンドロイドは用途が用途なだけに、男性型も女性型も造形に優れているのも要因の一つだった。
 僕は作業服に着替え、除菌室で消毒を受ける。除菌室を出て右に曲がると、電源のついていないアンドロイド達が性別毎に列になって並べられ、一糸纏わぬ姿で立ったままその時を待っている。もはや見慣れた風景ではあるが、配属当初はその光景に激しく情慾を掻き立てられ、毎晩辛い思いをしたのを思い出す。
 僕より2つ年上の相棒が既に作業に取り掛かっていた。無口でガタイもいいタフな男で、基本的に喋ることをしない。まるで喋る事が罪のように寡黙だった。僕が話しかけても基本的には「うん」とか「そうだな」としか返っては来ないのだが、彼は彼なりにコミュニケーションを取っているのを知っていたし、僕はそんな彼の秘められた聞き上手な部分がとても気に入っていた。他の検査員はどうか分からないが、少なくとも好意的に接してはいない。
「おはよう。今日は雪で大変だったろう?他の検査員の姿が見えないけど、急な積雪で遅れてるのかもしれないね」
「そうだな」
 僕らはいつもの様に作業部屋に向かう。二人一組となり、検査体のチェックに入る。まず最初に検査対象の一体を運び込むのだが、意外と重いのでここは力のある相棒が担当する。運び込まれるとドアを締め切り、うなじあたりにある電源ボタンを押し起動する。そうすると検査体は感情を帯び「モノ」から「彼女」になる。問題なく感情表現回路が動いていれば、本物の人間の様な反応をする。
 感情表現回路はタイプによって分けられており、恥ずかしがるモノもあれば、知らん顔するモノもいる。とにかく人間臭く造ってあるのだ。だが、どのタイプにも共通しているのは、行為を拒否しないところだ。もちろん拒否をする様な感情表現回路をインストールしてあるモノもあるのだが、それは一部のマニア向けとなっていたし、僕の会社ではそのタイプは扱っていない。
 その後は普通の男女が行う行為を一通り行う。配属されたばかりの新入りになると、検査する度に射精してしまい、退勤時間まで体力が持たない事が多い。ある程度仕事をこなしていけば、射精することなく検査を終える事が出来るようになるのだが、その過程で性的不能に陥る者が多い。僕は、仕事は仕事として割り切って、なんとかこなしていた。
 検査が終わり電源を落とし、問題がなければ相棒に引き渡して最終洗浄に流される。最終洗浄はその担当がいるので、その後の処理の詳細は分からない。生命保険の規約の様なチェックリストを基に検査を進めるが、一つでも問題があると第1棟まで戻されたあと分解されて一から組み直される。とはいえ、余程のことがなければチェックリストを逸脱する事はなく、実際に僕も何百体と検査をしたが、戻されたのは数えるほどしかいない。
 僕が経験したその数えるほどの数体の中に、今現在、僕が性的に不能になる要因のモノがあった。その検査体は顎関節に異常があったようでオーラル・セックスに問題が発生し、僕はチェックリストの「Out」をクリックした。その時だった。検査体は涙を流し僕の腕を取って、一言「死にたくない」と囁いたのだ。僕はその時の人間臭い、機械のモノではなく一人の人間の女の言葉に、DNAレベルでの恐怖が起こった。僕が怯んだのを見計らって検査体は逃げ出したのだが、相棒に捕まえられ第1棟へ戻された。
 あとから聞いた話では、感情表現回路を一から組み直され、問題なく出荷されたと聞いた。僕が最後の検査を担当しなくて心底ホッとしたのを覚えている。
 結局のところ、彼女の意思は全く新しい意思に殺されたのだ。僕はそれ以来、気がついたら人間の女を愛せなくなってしまっていた。余程のショックだったのだろう。
 5体の検査を終えたところで、会社全体に昼休憩のチャイムが鳴った。検査体の運び込みしている相棒が戻るのを待ってから、一緒に食堂へ向かった。
 味は適当だが、値段は兎角安い。僕はラーメンとライスを注文し、相棒はカレーライスを注文した。大柄の割には、相棒はあまり食事を取らない。本人いわく、ある程度体を鍛えると、意識的に省エネで動くことが出来るとの事。後にも先にも、相棒が一番多く喋った時だった。
「僕も30才に近くなってきて、そろそろ体がしんどくなってきたよ。早く企画とかの方へ行きたいんだが、まだお呼びがかからないな。君はどう?体力的に」
「問題ない」
「まぁ、そうだろうね。君はとにかくタフだ。僕も本当はそうならないとね」
 我々は黙々と昼食を摂った。これがいつもの昼の風景だった。
 1時間半の休憩後も検査を続けたのだが、今日は予想通り積雪で来られない検査員が多く、結局朝の予想通り、僕らは2時間の残業をする羽目になった。普段昼夜で15体前後なのだが、数えてみると今日は20体の検査を行っていた。我ながら体力がよく持ったものだと感心した。
 仕事が終わり外へ出ると、日はすっかり沈んでいた。時計は19時半を指し、雪はなおも降り続けていた。送ろうかと相棒を誘ったのだが、歩く事そのものが好きな彼にやんわりと断られ、僕らは駐車場で別れた。
 車は相変わらず咳をする様にアイドリングをした。そして守衛も未だにそこにいた。
「おつかれさん。今日は出勤者自体少なかったろう?」
「おかげでこんな時間まで残業だし、守衛さんも飛んだとばっちりだ」
「ほんとだよ、まったく。早く帰って熱燗でも飲みたいね」
 彼にも別れを告げ、僕は車を走らせた。ヘッドライトの光は雪の弾幕で散り散りになり、正直、とても気を使った。朝よりも積雪が増えていて、ハンドル操作の度に予想以上の車の滑り方をした。両脇の木々の枝は更に頭をもたげ、このままだと肩こりになるのではないかと心配になった。
 いつもより多めに時間をかけて自宅へ戻る。既に右足は気を遣いすぎて油断すると足がつりそうなほどに緊張していた。靴底の雪を落とし玄関を上がると、部屋は真っ暗で、しんとしていて、そこら中に死んだ時間が散らばっていた。僕は電気を一つずつ点灯し、最後にベッド横のヒーターを点けた。いささか気怠そうにヒーターが温風を吐き出す頃に、僕は熱いコーヒーを淹れた。勢いよく立ち上る湯気は、天に浄化されていく時間を思わせる。
 ヒーターがぼんやりと部屋を暖め始める頃、僕はコーヒーとショートケーキを片手にベッドへ腰掛け、サイドテーブルにそれぞれを置いた。割と体力を使うこの仕事には糖分は必要不可欠だ。
 外の音を全て雪が吸収している。どんな音も雪は吸い込んでしまうというのは、雪の結晶の形が音を打ち消すからだ。音だけじゃない、黒いアスファルトも茶色の砂利道も、分け隔てなく雪は真っ白に美しく覆い隠してしまう。それは利益不利益問わずだ。積雪という気象状況が僕にとって、利益なのか不利益なのかは分からない。でも、雪自体に、僕はなんの恨みもないし、どんな感情もなかった。
 僕がカーテンの隙間からゆらゆらと降る雪を見ていると、電話のベルが鳴った。僕は電話よりも先に壁にかかった時計に目をやる。時計は間違いなく21時半を指している。こんな時間に電話をかけてくるのは一体誰なのか。僕は少しの嫌がらせも込めて、きっかり10回のコールを数えた。電話はそれでもけたたましく鳴り響き、僕は仕方なくベッドから立ち上がり、電話機のところまで行って受話器を取った。
「もしもし、どなた?」
 電話のむこうでは、何人かが話ししている声が聞こえる。テレビの音か、人の声かは判別ができない。僕が受話器を取った事に気づいていない様子だった。
『あ、まだ起きてた?』
 気が付いた様に声を出した電話の相手は、半年前に結婚して実家を出た姉だった。その声は若々しく張りのある声だった。
「どうしたのこんな時間に。早く寝ないと、お肌に悪いよ」
『あんたに言われなくてもお手入れ済みよ。それよりそっちはどう?』
「どうって?」
『雪よ。こっちは降ってないんだけど、ニュースだとあんたの住んでる辺り凄いみたいね。世間知らずの弟が一人で暮らしていて心配になったのよ』
「あのね」僕は電話機本体を持ってベッドまで戻り腰掛け、受話器を左手から右手に持ち替え、左耳から右耳に当てた。「一体何歳の弟に言ってるんだ?実家を出たのもだいぶ前だし、もう30才も前だぜ?」
『何言ってるのよ。お姉ちゃんにとって、あんたはいつまでも弟なのよ』
 姉はいつも姉ぶる。こうなると僕には止めようもないのでひとまず相槌を打っておくのだが、その相槌が姉にとって心地良いのだろう。どんどん饒舌になる。僕はやれやれと思いながら、温風を義務的に吐き出すヒーターを眺めていた。
 コーヒーはすっかり冷めてしまい、表面にはミルクの薄いまだら模様が浮かんでしまっていた。
「俺の心配もいいけど、そっちはそっちで問題なくやっているんだろうね?」ケーキをフォークで削り、口に運んだ。
『もちろんよ。私を誰だと思ってるの?問題なくやってるわよ』
「義兄さんに迷惑かけるなよ。いつも一人で何かと大騒ぎして周りに波及させてるんだから」
『はいはい、問題無いわよ』
「とにかく、健康に過ごしなよ。ちゃんと義兄さんの言うこと聞いてな」
 義兄はとても頭のいい人だった。なんでも地元では何代にも渡って県議だか市議だかを務めた家系らしく、彼は次男ではあったがそのコネクションを使って地元の有力企業に務めていた。御曹司ではあるが仕事に関しては有能だそうだ。僕とは姉の結婚式の時を含めても数回しか会ったことはないのだが、第一印象として、とても好印象な男だった。だったが、ストイックでクールで、そして時に覗く効率至上主義な部分が見え隠れし、解散の頃合いにはあまりいい印象は残っていなかった。別れ際に握手した時、張り付いた仮面が取れかかっていたのを僕は覚えている。
 それでも夫として家庭の収入を支える事に関しては優秀な義兄は、姉とそれなりに良い関係で過ごしている様で、安心していた。
 姉は久しぶりの電話に興奮してなかなか切らなかった。一時間位して思い出した様に就寝の挨拶をし、姉は電話を切った。規則正しい兵士の様な信号音が鳴り続ける受話器を下ろすと、後に残ったのはヒーターの息吹だけとなった。
 電話機とコーヒーを手に立ち上がり、電話機を所定の位置に戻す。コーヒーはやかんに入れて温め直した。寒さで沸くのに時間がかかった。じわりとしたキッチンの寒さに、僕は姉の事を思い出した。
 姉は僕の実の姉ではない。僕が初等教育過程1年目に母が死に、3年後に父の再婚相手の、つまり義母の連れ子として僕の前に現れた。僕より4歳年上な為かそれとも初めての弟だったが為か、とにかく姉は僕を可愛がってくれた。僕はといえば多感な時期に母が変わり、他人が姉になった事によっての精神不安定に陥り、なかなか心を開けなかったのを覚えている。あの頃の僕の心は混沌が渦の様に周囲を取り囲み、いつでも悪魔が住み着いていた。しかもその義母が人間的に僕とは反りが合わない人物だったのも良くなかった。
 そんな中、救いだったのが姉だった。彼女はいつも僕と遊んでくれた。父が義母を殴り大げんかをしている時や義母と半ば強姦の様な性交をしている時、彼女は僕を連れていつまでも近所を歩きまわってくれた。今でも僕の脳裏には鮮明に夕日がこびりついている。中学生となった僕は自立心もあってか家に寄り付かなくなり、大学に入学し同じく自立心から一人暮らしをしていた姉の自宅アパートに良く転がり込んでいた。そのおかげか姉にはなかなか彼氏が出来ず、しばらくたってから僕は姉に対しての罪悪感が芽生えた。
 いつもどおり姉の自宅アパートにいたある時、思春期だったのだろう、僕は自分自身が姉に対して欲情している事に気づいた。血の繋がりが無いからといって、そこは越えてはならないというのももちろん分かっていたから、姉の家に行くのを自粛していた時期がある。だがそれを知ってか知らずか、姉は僕が家に来ることを要求した。姉にしてみれば救いようのない両親を持ったもの同士、シンパシーの様なもの感じていたのかもしれない。僕はもはや生殺し状態だった。
 僕に彼女が出来るまで、その生殺しは続いた。僕は彼女と健全な性交を行う事によって、姉に対する欲情を抑える事が出来るようになった。彼女に両親を紹介するのが嫌だった僕はいつも、まず姉に彼女を紹介していた。それは付き合い始めたばかりの彼女でも結婚前提の彼女であってもだ。だがいつもそれを節目に彼女とうまくいかなくなり関係が自然消滅し、僕に向かって、二度と顔も見たくない、と言って別れた子もいた。
 僕は真剣に悩んだ。もしかしたら僕がいまだに姉に対して残っている欲望を、その時々の彼女が感じ取っているのではと思った。
 しばらく僕には彼女が出来ず、大学も卒業して今の会社に入り、性的不能になり、姉は結婚をして遠くへ行った。
 回想しているうちに沸き戻ったコーヒーをカップに移し、飲みながらふと考えた。自分が性的に不能であると自覚し、さらには自覚しながらも、夢の中に現れる彼女にはなぜ欲情するのかと。理由は分からない。でもかつて僕が姉に対して持っていた感情に、それはよく似ていた。
 コーヒーとケーキを食べ終えた僕は風呂に湯を溜め、足先から浸かった。熱さに痺れる感覚が平常に戻る頃合いに、眠りがじわりと背後まで忍び寄っていた。眠気に捕まる前に体と頭を洗い、さっさと浴室から出た。
 寒さが体を抱きしめてしまう前に下着を着て、寝間着を羽織る。体の暖かさで眠気が来ると電気を消して、布団をひっかぶって目を閉じた。じわりと真綿に押さえつけられる様なのっぺりとした眠気が僕に覆いかぶさっているのがわかる。多分、カウントダウンをして正確に眠りに入れる様な気がした。
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 僕が気づくと、彼女がいた。彼女の立つ周りの風景に、僕は冬を忘れた。そしていつもの様に夢を夢と自覚している。風が一吹きすると彼女の青地に花柄のワンピースの裾はゆらりと、洗いたてのレースのカーテンのように揺らいだ。彼女の足元の緑鮮やかな草は一斉に風に流され、和紙を擦るような音をざわめかせた。
 僕は既視感に囚われた。そうだ、このワンピースには見覚えがある。これは姉がかつて大学時代に好んで着ていたものだ。寝る前の姉からの電話で、夢の仕様がこうなったのだろう。僕はそう思った。
「こんばんわ」僕は彼女に話しかけた。問題なく声は出た。
「今日も来たのね」
「うん。強制的にここへ来てしまうんだ」
「本当は来たくないの?」
「いや。そんなことはないよ」僕は少し赤くなって応えた。「ねぇ。君は誰なんだろう?こっちを振り向いてくれないか?」
 それに彼女は応えなかった。もしかしたら聞こえなかったのかもしれないが、もう一度同じことを言う勇気はなかった。
「ここはいい天気よ。いつまでも居ていいのよ。ここは私とあなただけの場所なのだから。わかる?誰も来ないし、誰も邪魔できない場所なの。そしていつでも来ていいの。私はいつもここにいる。あなたが望めば、いつでも会える場所」
「君は僕の知っている人なの?」
「さぁね、どうだろう?なんでもいいと思うよ。あなたの思う存在になってあげる。手の届かないもの、かつて失ったもの。私がその代替になってあげる。もちろん知っている人でもいいよ」
 彼女は向こうを見ながらそう言った。その言葉は僕に向けられたものなのか、次第に自信がなくなった。もしかしたら僕の立ち位置からでは見えないところに他に誰かいるのではと疑ったが、僕はなぜかこの場所から動けなかった。まるで約束された地の様に。
 しばらく僕は彼女の背中を眺めた。見渡すばかりの青空の草原に佇むのは、僕と彼女だけ。空にはゆったりと意思を持った様にぬるぬると形を変える雲だけだ。音はない。風とそれに靡く草の音だけだ。だから彼女が黙ってしまうと僕も何故か黙らなければいけないような気がした。僕が一人で話し出すのは、罪のような気がしたからだ。
 もっと彼女と話したい。そしてそのしなやかでほっそりした腰に手を回して命の息吹を確かめたかった。でもそんな事はしてはいけないというのを、本能的に理解していた。それは罪に他ならない、といった風に。
 どれくらいの沈黙があったのだろうか。眠気が僕を襲い始めた。最初は気のせいにも思えたが、次第にそれは抗えない津波の様になって僕を取り囲み始め、目を開けていられないほどになった。
 そして気がつくと僕は冷えた部屋のベッドに、うつぶせで眠っていた。
★☆★
 朝食を摂り服を着替えて玄関を出ると、降り続いた雪は踝ほどまでに深くなっていた。車をいつもより多めに暖気をし、いつも以上に気をつけながら車を発進させて会社に向かった。
 昨日よりは従業員は出社していたから、今日は残業無しで帰れそうだった。相棒はいつも通り寡黙だったし、僕もいつも通り彼に話しかけていた。すべてがいつも通りに戻った様な気がした。
 5体の検査をし、昼食時に相棒にいつも見る夢の話をしてみた。
「ここ最近、変わった夢を見るんだ」
「うん」
「だだっ広い草原に僕はいるんだ。そして目の前に背中を向けたワンピースの女の子が立っていて、長い髪とワンピースの裾を風で揺らしているんだ。もしかしたらそれは女の子ではなく女性なのかもしれない。なぜならば、いつも背中を向けているから、顔を見たことがないんだ。言葉をかけても、少しこちらを向くだけで終わってしまう。だから彼女が何歳なのかは分からない」
「うん」
「僕は彼女に恋をしたのかもしれないけど、それは分からない」
「なぜだ?」
「だって夢だもの。見ている風景や感じている風や太陽の熱や彼女自身も、みんな見せかけなんだぜ?という事は僕がその彼女に対する何かしらの感情だって、見せかけかもしれない。だからそれを恋というのはいささか軽率な気がするんだ」
 相棒は食べかけのカレーライスの上にスプーンを置いて、僕の顔を見た。いつもの様に何かを言いかけている顔だった。
「夢の中から責任は始まるとも言う」
「?」
「夢という幻想から物質に移行するんだ。逆も言える。現実が夢になって現れているとも言える。現実に存在する女を想い、お前がその女を強く想像する。そして夢に現れる。姿形は違っていても、それは紛れもなくその女だ。だから恋をしているといえる。ここまではよくある話で、問題はそこから。夢を見すぎると、夢に対するお前の強い想いが相手に及ぼされる。だからお前が意図しないところからでも、お前に責任が生まれる」
 相棒は言い切ってしまうと再びスプーンを取り、カレーを口に運び始めた。内容はさっぱりよくわからなかったし相棒がこんなに口を開いたのは初めてだったからとても驚いた。
 昼食のあと、再び検査の続きを行った。
 一体目の検査が終わり、検査体を相棒に渡して僕は次を待っていた。水を飲み、しばらく待っていると、次の検査体が運ばれてきた。僕はその検査体の顔に何故か見覚えがあった。よく見るとそれはとても姉に似ていた。無機質な姉は目を閉じ、唇をうっすらと開いていた。
 僕はその時、久しぶりに激しく勃起していることに気づいた。検査の為ではない、私利私欲のために反応しているのだ。震える指でうなじの電源を押すと、くぐもった電子音とモーター音がして検査体は眠りから目覚めた。感情表現回路の起動とともに目に光が宿り、人工角膜の瞳がしばらく宙を彷徨ってから僕を視界に入れた。
 彼女は僕を視認すると少しの恐怖の様な顔をした。この検査体の感情表現回路は「心ばかりの恐怖」だった様だ。その人間臭い感情に、検査体のはずがもはやそれは姉そのものの様に見えた。恐怖する検査体に、僕は神経の糸が切れた様に襲いかかった。
 ただ彼女を検査の為ではなく、欲を満たすためだけに行動した。不安定な積み木が音を立てて崩れていく。その様子を僕は理性という外の概念から様子を見ていた。
 やめろ。そんな事をするな。僕は俺に対してガラスの向こうから大声で叫んだが、防音室にいるかの様にすべてがかき消されてしまい、僕はなすすべなくそれらの行為を黙認した。耳の奥には、相棒の言った「夢の中から責任は始まるとも言う」、その言葉が淀みの様に沈澱していた。
 そこから記憶はない。
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 僕の目が覚めたのは、夕方の17時半だった。会社であるのは間違いないようだ。昔、指を怪我して利用した時の記憶が、ここが医務室であると教えてくれた。だが医務室は、太古の恐竜の化石の様に死んでいた。体を起こし辺りを伺うが誰かいる様子はない。白いカーテンで仕切られた僕のベッドの上にある蛍光灯以外が灯され、カーテンと床の隙間から光がそっと忍びこんでいた。
 ベッドを降りカーテンを開き、医務室を見渡したがやはり誰もいなかった。作業服のままだったので、そのまま廊下へ出るがそこもやはり物音一つしない。廊下の窓からは雪の降る積雪の中庭が見えた。外は既に真っ暗だった。
 僕がしばらく窓から外を見ていると、廊下を誰かが歩いてくる。固いハイヒールの音だった。白衣を着た女の医務員が廊下の角から姿を見せた。彼女は僕に気づいて歩調を速めた。
「目が覚めたの?気分はどうかしら」僕の前まで来ると、医務員は僕に話しかけた。「あのまま目が覚めないかと思ったわ」
「僕はどうしたんですか?」
「覚えてないの?」
「はい」
 彼女は眼鏡のつるを儀式の様に触り、腕を組んだ。
「あなた、検査中に我を失ったみたいに検査体に襲いかかったのよ。検査体の首を強く絞めてね。あれが人なら死んでいるんじゃないかしら。異変に気づいてあなたの相棒さんが検査体を引き剥がしたの。そしたらあなた、気絶したらしいわ」
 僕は少し体が震えた。僕が寒いと思ったのか、医務員は僕に医務室へ入るように促した。寒さもあるだろうが、多分、体の震えはそれだけが原因じゃない気がした。
 後の詳しいことは分からない、と彼女は言った。明日にでも相棒に聞いてみようと思う。他に彼女から聞いたのは、目が覚めたら帰宅する事と始末書の提出をしろという上長からの伝言だった。
 僕は駐車場の街頭に光を反射させる降雪を見ながら、ゆっくりとした歩調で車へ向かった。ギュリギュリと軋む雪上のおかげか、他に全く音が聞こえなかった。雪が音を隠しているのだ。僕は今日の事も雪が隠してくれないかなと思った。
 もちろんそんなことは起きないのだけれど。

 帰宅するといつもの様にヒーターを点火し、風呂に湯を溜めた。なぜか体か異常なほどに冷え切っていた。体は普通なのに内臓だけが凍ってしまった様だった。湯が溜まるまでの間、インスタントのコーンポタージュをカップに注いで飲んだが、それでも体は温まらなかった。あまりの寒さに耐えかねて、半分ほど湯が溜まった浴槽に身を沈めたが、体の芯は冷え切っており、かえって寒気が深くなってしまった。
 今日のことは一体何だったのか、いまだによく分からない。僕はあの検査体に対してどんな感情を持てそんな事をしてしまったのだろうか。体の温まりと共に少しずつ思い出してはきたが、肝心の暴行途中は思いだせなかった。
 風呂から上がり、僕はパンを焼かずにそのまま2枚食べた。特に食欲はなかったが、睡眠中に空腹になるのも厄介だ。この寒さの中、ベッドから出る余裕はない。もう一杯、インスタントのコーンポタージュを飲むと、今度はちゃんと体は温まった。そして眠気の訪れとともにベッドにもぐりこみ、夢の中へ落ちた。
 そしてやんわりとした感触の中、気がつくと僕は夢の彼女と緩やかに交わっていた。彼女に僕は初めて触れていた。そこに彼女がいるのを確かめる様に抱きしめていた。でもそうしているせいで、顔は見えなかった。僕の顔の右側に彼女の耳があり。つややかな髪からは新緑の様な鮮やかな萌える香りが僕の鼻をくすぐった。
 僕らはいつもの太陽と草原の風の中で交わっていた。「誰も来ないし、誰も邪魔できない場所なの」以前彼女はこう言った。聞こえるのは、風とそれに揺らめく草の音と、そして彼女の熱っぽい吐息だけだった。
 時間をかけてから射精をしてしまうと、彼女は僕をしっかりと抱きしめた。
「ゆっくり眠りなさい。私はここにいるから」
 僕はその言葉を耳にすると、とたんに眠気に襲われた。そしてその言葉は、かつて姉が眠れない僕にいつも言ってくれていた言葉なのを思い出した。
★☆★
 次の日、僕が相棒に聞いた話は、全く持って見に覚えのない話だった。そんな事をする理由は無いからだ。でもそれは間違いなく本当だったし、ちゃんと始末書を書く理由でもあった。
 一体何が僕にそうさせたのかは全くわからないけど、不思議な事に、心の底にはそうしてもおかしくないのかもしれないという、漠然とした不安感もあった。この感情に何か名前があれば、少しは不安感も無くなったかもしれない。でも結局は名前なんてなかった。ただ、漠然とした不安感だけだ。
 
 僕がその電話を受けたのは、その日の夕方、退社するちょっと前だった。実家の父から直接会社に電話があり、姉が自殺したと知らされた。冗談だと思ったし、そんな話をまともな神経で聞けるわけがなかった。でもそれは本当だったのだ。
 上長に5日間の休みをもらい、実家についたのは次の日の昼間だった。もっと早く着くはずだったが、雪の影響で緩慢な高速道路のせいで、遅くなってしまった。実家のある地方でも雪は絶え間なく降り、薄曇りの空には朧の太陽が東から80度程の上空でじっと行儀よくこちらを伺っていた。
 かつての威厳の無くなった父と、苛立ちさが出る義母に挨拶をし、僕は居間に上がった。懐かしい居間ではあるが、そこには懐古の気持ちはない。古臭い梁や壁に掛かった誰かの小さい絵画、色の褪せた薄いコーヒーの様な畳、それらは全てこの家の昔からの記憶であり形として残っている物だ。だが、これらに残る僕の記憶は驚くほど希薄だった。大黒柱に残っているはずの僕の身長の記録を残した刻みも新しく塗り直されて消えていたし、もう僕の記憶はこの家に残っていない。何かの宿命の様な暗い影がこの家全体に重くのしかかっているかに見えた。
 姉の棺はそれを体現している。中を覗き込むと姉はその棺の中で微笑んだ様に、でも確実に死に続けていた。死は逃さまいとしている様に姉にしっかりとしがみつき、確実な死をもたらしていた。
 僕はそんな姉の姿に、何故か憐れみも悲しみも浮かばなかった。目の前にあるのは、あくまでも姉だったもので、僕が愛してやまなかった姉ではないからだ。
 検査体と同じなのだ。感情の無い物はただの「モノ」でしかなく「彼女」ではない。感情の失われた「モノ」に愛を持つことできない。
「馬鹿なやつだ」
 いつの間にか僕の後ろに来ていた父が誰にともなく呟いた。僕はそのつぶやきが耳に入ったに過ぎない。
「姉さんの自殺の理由は?あと義兄さんは?」
「理由なんか知らん。帰ってきたら首を吊って死んでたそうだ。──君は今、出掛けている」
 そう台本を読む様な父に僕は若干の不快感を覚えたのだが、僕がそれを責めることも非難することもできないし、そもそも彼にとってはただの連れ子でしかないのだ。彼も僕と同じ気持ち同じなのだろう。少なくともそう思わないと、姉が救われないような気がした。
 通夜をその日に無事に終え、次の日には葬儀が執り行われた。姉の学生時代の友人が集まり、悲しみの中、普通の葬儀の様子で淡々と進んだ。そして姉はただの灰なってしまった。
 僕はこの時、初めて泣いた。声を上げて火葬場で泣き崩れることが出来て、僕はまだまともな人間なんだと思うことができた気がする。
★☆★
 僕を忌み嫌う義母が恐らくそうしたのだろうが、仕事があるだろうからと僕は帰されてしまい、残りの2日間の過ごし方に困った。自宅に帰ってからも結局何も思い浮かばず、一日の間に迷い犬の様に何度も部屋の中を隅から隅まで往復し、思い出してはコーヒーを飲んだ。そしてトイレで長い小便をした。完全にコーヒーの飲み過ぎだった。ヒーターは当てもなく温風を吐き続け、窓は結露で外を乳白色に透かしていた。外は雪が降っていないとはいえ気温の低下で積雪はそのまま残り、どこかへ行こうという気力は起きなかった。かと言って休みと決めていた為か、仕事へ行こうという気にもなれなかった。 
 あらかた時間を潰し、時計の針が21時半を指し始める頃、僕はベッドに仰向けで横になり、天井のシミを数えてみた。だから何ということもないのだが、姉の住むアパートに行っていた時にも良くこうやって寝転がって天井を見ていたのを思い出した。夕飯を姉が作り、僕はそれを待っていた。いつも僕が好きなものを上手に言い当てた。好きなものもそうだし、今食べたいものも。姉はエスパーなんじゃないかと思った事もあった。最後に食べたのはいつだったか。姉が死に、姉にまつわる記憶までもが死んでしまった様にも思える。
 ふと僕は彼女に会いたくなった。夢の中の彼女。そういえば姉の通夜があった前の夜を境に夢に出てきていない。僕は彼女を殺してしまったのではないかという妄想をした。だから彼女は姿を表さなくなったのではないのか。そう思った途端に、いつか僕を襲った悪寒が現れ始めた。爪から侵入した悪寒は一気に全身を駆け上がる。歯はカチカチと鳴り、両腕で体を締め付けても震えが止まらず、僕は布団を頭から被った。体を幼子の様に丸めて震えを抑えようとしている時に気づいた。これは悪寒じゃない。恐怖だ。
「夢の中から責任は始まるとも言う」
 相棒の言葉が象の鳴き声の様に耳鳴りとして響いた。耳だけじゃなくて部屋全体が震える様な音に感じた。そして僕は夢に落ちた。
 
 僕の目の前には彼女がいた。姉のワンピースを着て、僕の正面に立っていた。
「誰なんだ。君は僕の何なんだ」
「私にもわからない」
 彼女の顔を初めて僕は見た。でもそれは知らない人だった。僕は激しく混乱した。
「私には私がわからないけど、私は入れ物に過ぎなのだと思う。誰かの入れ物。誰が入っているかわからない」
「意味がわからない」
「全てに意味がある。それを考えるのよ。意味のない所に行動と結果はないわ。なぜ起こったのか、いいえ、なぜ起こす理由があったのか。あなたにはそれを考える責務がある」
 彼女が何を言っているのか分からなかった。僕は空き缶に入れられてバットで殴られた様に混乱した。落ち着こうと周りを見渡すが、そこはいつもの草原ではないが見覚えがある場所だった。義兄と姉の新居だ。姉の結婚式の後、一度だけ訪問した事のある、命の吹き込まれきっていないほぼ無機質な家。僕はその家に上がってすぐ、姉と二人で過ごしたあのアパートを懐かしく思った。あのアパートには姉と僕の、ささやかな思い出と幸せとシンパシーが満ちていたのだ。
「あそこで死んだのよ」彼女が指さした場所に目をやると、ダイニングと廊下を仕切るドアだった。ドアノブには縄の軋んだ跡が残り、付け根は少し歪んでいた。あそこに縄を掛け、ドアを背もたれにする様に吊ったのだろう。首を吊るのは意外と簡単なのだ。
「苦しかったのかもしれない、でも、そうじゃなかったのかもしれない。少なくとも、苦しそうな顔じゃなかったでしょ?なぜ彼女が自殺を選んだのか私には分からないけれど、それにも意味があっての行動かもしれないわ」
「違う。違うよ」僕は首を振った。
「何が違うの?」彼女はどこからか出したウイスキーをグラスに注ぎ、義務的に飲んだ。
「意味と理由は同義なのか?こんな行動に意味なんてない」
「同義よ。そしてあなたが理由を知っているはずじゃない。知らないなんて言わないでよ、彼女が悲しむわ」
 彼女の言っている意味ははっきり言って、器もなく水を貯めようとするようなものだった。はっきりと形になっていない無形な漠然としたヒントは僕を余計に混乱させた。多分だけれど、相棒の言う様に想いは飛ぶのだ。何キロも離れた場所でも一瞬で移動できる。姉が苦しんでいたのかどうかは分からないが、遠回しにあの雪の降りしきる遅い時間に電話してきたのかもしれない。
 シンパシー、と僕は思った。姉の考えていることはすぐに分かった。姉が僕の食べたい物を言い当てる様に僕も姉の事は何でも分かったのは、血の繋がった兄弟よりもとても強固な絆故だと知っている。だから僕は姉に似た検査体という媒体を通じて、姉を殺したのだ。
「あなたはその心を飛ばしたの。雨月物語の一節の様に」そう言って彼女はウイスキーグラスを置いた。
 強い力で僕は彼女から引き剥がされた。窓を突き抜け空高くに引っ張り上げられ、家はどんどん小さくなっていく。もはや彼女の姿は見えない。
 多分、もう彼女には会えないだろう。僕は直感でそんな気がした
★☆★
 僕が目覚めると時計は次の日の朝7時半を指していた。悪寒も消えていたし、目覚めも悪くなかった。
 ベッド脇のカーテンを開けると、また雪がちらついていた。風がなかったので、雪は仕方なくといった様子で上から下へと落ちていった。
 僕はこれまでの人生の意味と結果を、何となく理解できたような気がした。なぜ恋人は僕から去っていくのか。なぜ僕は性的不能になったのか。なぜ僕はあの検査体を襲ったのか。そしてなぜ姉が死んだのか。よく考えれば、なんとなく分かりそうなことだったのだ。
 相棒は言った。「夢の中から責任は始まるとも言う」
 夢の彼女は言った。「あなたはその心を飛ばしたの。雨月物語の一節の様に」
 単純な事だったのだ。姉は僕と生きようとした。だから僕は男として弱い存在になったし、恋人との不和が起こりやすかったのだ。僕も姉と同じ想いを持ちながらも一歩踏み出せなかった。でも姉はいつでも待っていた。僕にあと一歩の勇気があればよかったのだ。
 意味のない所に結果はない。姉は変えられない未来を悲観したのかもしれない。それと同時に僕も姉の見ただろうその未来を無意識に悲観していた。姉を救いたかっただけなのかもしれない。そして結果として、姉は救われたのだろうか。それは分からない。でも、僕はこの結果を飲み込むしかないのだ。無意識とはいえ、それは僕が行った事なのだから。
 
 雪はまだ降っている。その雪の下に、僕の業は隠せるだろうか。そして太陽が高く登る頃、僕は僕なりのけじめを付けなければいけないだろう。

2019年5月14日公開

作品集『残照』最終話 (全4話)

残照

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© 2019 村星春海

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