デイジーズライトハンド 第3回

デイジーズライトハンド(第3話)

多宇加世

小説

13,331文字

「大人一枚と子供二枚」
「下のお子さん、おいくつですか?」
「三歳です」
「でしたらチケットは二枚だけでお楽しみいただけます」
全4回

第六章

僕はしばらく笑っていたみたいだ。
君の水槽は空っぽで、ライトに照らされて明るい。僕はいっそのこと、この水槽にすっぽり入ってしまおうか。そうしたら実感がわくかもしれない。僕がすでに死んでいて、冷たくなっているのを。君は僕に一日に一度食事をくれて、水が蒸発して減ったら足してくれて、僕はずっとこのままでいようか。
僕はこの部屋で君の絵を描きすぎた。だから僕はこの部屋目掛けて帰ってきてしまった。妻と子の待つ家にでなく。チャイムを鳴らすことなく、いつのまにかここに……、僕は歩いて来た。その道のりは糸巻型歪曲収差に乗っ取ったかのように、A点とB点のあいだを歪ませた。けれども辿り着くのは一瞬の出来事だった。だが僕は道すがら、いろいろなものを見てきた。沿道から拍手が起こったような気さえもする。でも僕は一人で来たよ。

 

「夏が、八月の太陽をして」

 

「だからつまりさ」
「つまり?」
「なんていうかな、つまり、先行き未確定な未来の生よりも、自分が確実に生まれてきたという生にすがってもいいのではないかってことだよ」
Hは先程から鏡に向かうデイジーに問うた。Hはひそかに、今のは死人のデイジーにもぴったりの言葉だと彼女の背中を見ながら思った。そう思ったことは口には出さなかったが。
デイジーは鏡越しにHをちらと見た。彼女は自分で髪を切っているところだった。
「自分の未来を否定するってこと?」
なんだか雲行きが怪しいなとHは思った。
「未来を肯定する気も否定する気もないってことかな。それよりも、もっと過去から得られることがあると思うんだ。今というのはそもそもからっぽの容器で、虚無みたいなものなんだ。でもそれに充足した印象を感じるのは、過去や歴史で文字通り満たされているからなんだ。今というのは虚無にもかかわらず、今に存在する僕は虚無を感じない。なぜなら、いや、だからこそ自分が今ここにいるのは過去が充填されてるってこと、要は生まれてきた瞬間があったからだ、と思うことを大事にすることから得られるものがあるはずなんだ」
「ばっかみたい。それって自分勝手な年寄りのいってることと一緒じゃない。自分がこれまで生きてきたやり方ばかりを重視するってことでしょ。それに、そのあんたのいうような今を充足しているように感じるのであれば、それを感じてる今のあんたは、一体どこに立っているわけ? あんたはあんたのいう今には身を置いてるの? 結局のところ過去に甘えているんだよ」
そうきたか。
「そうじゃないよ。僕は僕が生まれてきた瞬間があるだけで、ただそれだけで十分、僕自身の存在理由になるといいたいんだ」
「あんた、生まれてきた時の記憶あんの?」
「いや、それはなんていうかな、もののいいかたでさ。ないけどさ」
「なんかあたしには、そっちのほうがよっぽどふわふわしたものに感じるけど」
「じゃあさ、姉さんは未来にはどうなってるの?」
これは少し意地悪な質問かもしれない。死んでる姉に向かっていうことじゃない。
「あんたは?」
Hはほっとしつつげんなりした。
「質問に質問で返すの悪い癖だよ」
「いいから。あんたは? 未来は?」
「肯定も否定もしない立場からすると、なんともいえない、と答えるのが一番正しい」
「それじゃ、未来には死んでるのと変わらない。少なくとも生きているとはいえないわ。その立場を取るのなら、今現在から死は始まってるんだ。先行きが未確定でも、未来は今現在と繋がってる。あたしがたとえば、ほら……」
といってデイジーは前髪をつまみ、義手でもって剃刀を持ち毛先をばっさり切りとった。
「ほら、これでこのあたしは未来のあたしよ。そして過去のあたしから文字通り切断された、今現在のあたし。要するにあんたの考えてるのは、目の前になにか新しい変化が訪れるのが恐ろしくって、いつまでたっても自分が楽しかった記憶だけを玩具にして、ああだのこうだの頭の中で積み上げたり、並べ替えたり、転がしたりしてるだけで満足するってこと。なんでもっと未来の自分を信じられないのか、お姉ちゃんにはわからないわね」
そういうとデイジーはまた鏡のほうに向き、座り直した。
Hはため息を一つ吐いて、いった。
「だからさ、こういう日ばかりはさ、普通に、『誕生日おめでとう』の一言で済むんじゃないの?」
Hが十歳になった日の朝のことだった。

なんだかデイジーはいらいらしている。
そう、デイジーは今朝からいらいらしていた。
そういえば、昨日の夜まではいらいらしていなかった。
そう、だからデイジーはおそらく僕の誕生日に対しいらいらしている。
ならば去年は。一昨年は?
おそらくデイジーは去年も一昨年も僕の誕生日に対しいらいらしていた。

夏が、八月の太陽をして、季節を減速させ、遅滞させる頃の、僕が歳を一つ重ねる毎年のその日が、デイジーをいらいらさせる。彼女の生理の周期が偶然毎年その日に重なっているわけではない。いや、どうだろう。それもなくはない。そういえば今朝は僕をベッドに引きずり込もうとしなかった。でも姉さんは生理でも構わず僕を誘うことが多いはずだ。

まさか姉さんが死んでから毎年?
毎年僕の誕生日にいらいらしてる?
成長はしているけれど、自分は誕生日を迎えないから。
それはありうる。

死んだはずのデイジーがHの前に現れたのは、彼らがベッドで楽しむようになった瞬間からスタートしているともいえる。Hが五歳になったあの日からデイジーはHの前に現れたのだ。
「いいね、姉さんのその髪の長さ」
「あったりまえじゃない」
二人は結局ベッドで楽しんだ。
デイジーの機嫌もまあまあよくなり、次の日にはすっかり元通りになった。
しかしデイジーの髪の長さはあまりにも非人間的で、通りかかった月面探査機・ソ連時代のルノホート一号がデイジーのその姿をとらえるも、……けれど機械にも良心があるんだね、そこの映像データは部分的に意識的に消去され、デイジーの非人間的髪型は他の誰にも見られることはなかった。

 

 

 

 

 

第七章

 沈黙は続く、と僕はいう。沈黙は続く。僕は黙ることすら許されていないのか。
 ならば喋り続けよう。
 君はもうすぐ目を覚ます。それまでに僕がいわなければいけないことは。
 僕はあの病院のある防砂林の中で、迷子になって、ある人と出会った。こんな話でどうだろう。僕はあそこで子供の僕にそっくりな大人が絵を描いているのを見た。裸の女性たちを絡み合わせて、写真も撮っていたような気もする。

 

「サルバドールねずみ 第一部」

 

僕が小さい頃、兄と父と僕でこの国を車で横断したことがあって、僕のその時の不確かな記憶(僕は三歳でした。兄は十二歳。不確かな記憶は、甘い蜜のようなものです。多分僕だけでなく、世間一般的に不確かな記憶とはそういう蜜のようなものなのだと思います。思い出せる範囲において不確かな記憶は、あとから幸にも不幸にも、その天秤を、どちらかに、あるいはその両方が釣り合うように、揺らすことができるでしょう。もしも天秤の揺れが大幅に不幸の側に傾いたとしても、あらゆるほつれた記憶の分銅を、計量皿にのせていくその行為それ自体すらも、とろける蜜のような充足感を与えるものであることは間違いありません。八方から剣を差し込まれて飛び出すパーティー用のおもちゃの人形にでもなったかのような気持ちの落ち着かなさをえてして含むものも、なかにはあるのですが、僕もこの不確かな記憶を甘い蜜のように感じていることは今も変わりありません)それによると僕たち三人は誘拐されたことがあるようなのです。
僕と兄の二人だけが誘拐されたのであれば、それは新聞に載るたぐいの事件となっていたでしょうけど、この事件の誘拐犯である、ある麗しき外国人のヒッチハイカーは、僕と兄だけでなく、僕の父を含めて僕らの車まるごと、僕らを誘拐し、ついには、新聞沙汰にはならなかったのです。これはこの話の一つのポイントとなるでしょう。先生。先生方はこの話のいくつものポイントをもってしても、この話の全容を理解することはおそらくできない。なぜならこれは僕の記憶だから。もしも道筋立ったディテールを知りたくなって、僕の兄や父の口からこの誘拐事件の話を聞きたいと思っても、それはやはり無理でしょう。彼らはなにも知らないのですから。なぜならやはりこれは僕の、僕のみが知る誘拐事件の僕の不確かな記憶だからです。

その時、僕らは国横断の旅程の三分の二をわずかに過ぎたあたりで、とある田舎町に立ち寄って、小さな可愛らしい美術館から出てきたところでした。ちょうどその折、併設された建物ではたまたま、特別展示として蝋人形展が巡回してきていて、当然のように僕らは、そちらの入口にも吸い込まれるようにして足を運びました。安っぽいポスターが貼ってあったのも覚えています。その途中で僕は駐車場のほうを見て立ち止まりました。遠くに駐車した僕らの車のボンネットの上に女の人が腰かけているふうに見えたからです。でも、もしかしたら隣の車のボンネットかもしれなかったので、僕はそのことを兄にも父にもいわず、急いであとを追って建物へ入りました。
「大人一枚と子供二枚」
「下のお子さん、おいくつですか?」
「三歳です」
「でしたらチケットは二枚だけでお楽しみいただけます」
インディアン。保安官。ミュージシャン。革命家。政治家。俳優。スポーツ選手。エスキモー。貴族。農夫。狩人。グリズリーの剥製。ワニの剥製。スポットライトが各人形にあたっていて、薄暗かった。取り立てて不思議なことではないですが、蝋人形の中にはこの国に関連したものは何一つありませんでした。
めらめらと燃えている火は風に揺らめく偽物のビニールで、吹雪の音はカセットテープでした。僕はそこが一目で気に入りました。
なかでも僕が気に入ったのが保安官の蝋人形で、僕は彼のかまぼこのようなかたちの分厚い髭から目が離せなくなりました。彼は胸に星形のバッジをつけて腕を組んでいました。彼の立つ床面は黄色い砂が敷いて固められていました。ホルスターには拳銃がささっていて、彼は堂々と……あの分厚いかまぼこのような髭を見て! 僕を一番夢中にしたのはそれでした……していました。僕は当時、海外のホラー映画を観たことがあって、ある田舎町を舞台にしたその映画に、ちょうど彼のような保安官が出てきたのです。いや、彼そのものでした。だから僕は、その蝋人形はその映画に出てきた保安官をモデルに作られたものだとすっかり思い込みました。
僕は存分に堪能して建物から出ました。父や兄がなにか話していた気もしますが、僕の頭の中は蝋人形のなめらかでしっとりとした印象でいっぱいでした。
「あれは誰だ?」
そういって指をさしたのは父でした。
「あれ、僕らの車だよね」
兄が父の顔を見ました。
そして父の指さした先を僕も見てみると、僕はさっきのがけっして見間違いではなかったのを知りました。
僕らの濃緑の色をした車のボンネットに金髪のロングヘアの女性が腰かけているのです。ウインドウディスプレーからそのまま来ましたというような恰好で。遠目で、女性がミニスカートからすらりとのびた両脚を包む靴下の(タイツだったかもしれない)左右の高さを整えているのが見えました。僕らのほうに気づくと彼女は大きく手を振りました。
父と兄がまたなにか喋りました。そして僕たちは段々と近づいていった。彼女は微笑んでいました。ああ、そうでした、車へあとわずかのところで、僕らは左から来た猛スピードのスポーツカーに危うく轢かれそうになったんです。もうちょっとで本当に、特に僕なんかはおそらく一〇〇〇メートルは飛ばされていたでしょう。ぶつかっていたらの話ですけど。
そして僕らはいつのまにか車に乗り込んでいて、彼女が車を運転していました。……
いや、その前、彼女は僕らが近づいていった時、こういったのではなかったか?
「……という小説を書いた人?」と。
たしか父は頷いたのだ。
そして父と兄が後部座席に、僕が子供用シートのついた助手席に、彼女は運転席へ座って、駐車場から出発したのでした。……
いや、彼女は車に僕らを乗せる直前、手に持った拳銃で僕らに指図しながら、父へこうも訊いたのではなかったか?
「その小説、賞金はいくら貰えたの?」と。
父は指を三本立てていいました。
「地方の新聞の文芸コーナーでやっているコンクールだったから、大して貰えなかったが」
「上等。そもそも小説を書いたってだけでも条件は満たしてるから」
彼女は(金髪で目の碧い彼女のことを、僕はこのあたりからベロニカ先生だと思い込んでいたのですが)父の言葉を無視しました。あるいは彼女には父の言うことが聞こえていない。そしていいました。
「私、小説を、憎んでるの。小説を書く人も。それも本物の小説じゃない小説を書いた人を。世界中で一度でも本物でない小説を書いた小説家はみんなその対象なの。父のかたきがとりたいの」
そう、たしかにベロニカ先生はこういったのでした。で、僕らは誘拐されたのです。

カーブに差し掛かるたびにハンドルを思いきり切るので、彼女の拳銃がダッシュボードの上を右から左に、左から右に滑っていったのを僕は今でも思い出せます。そのさらさらした音。それが助手席側に滑ってきて、弾丸が飛び出す銃口がちょうど僕のほうを向いて止まった時のあの何ともいえない感じ。そのさらさらした音を除けば、車内ははじめ静かだったと思います。しばらくして彼女はさっきみたいにゆっくりと話しはじめました。
「あなたのお父さんはね、小説を書いたの。執筆といったほうがいいかしら? しっ・ぴ・つってわかる? 小説を書くことよ。小説はわかる? お話よ」
車内は依然静かでした。兄も、父も……父の話題なのに……何も答えませんでした。だから僕は後部座席の黙ったままの二人を振り返り、そのあとゆっくり彼女のほうを向いていいました。
「ねえ、ひょっとして僕にいってるの?」
「当たり前じゃない!」
「ああそうか」
「あなたはあなたのお父さんがどんなことをしたかわかってるの?」
また静寂。僕は気づいて返事をしました。
「小説を執筆した」
「正解」
「あなたのお父さんは小説を書き、わたしのお父さんは小説に押しつぶされて死んだ」
「僕のお父さんの小説があなたのお父さんを殺したの?」
「正確には違うけど、似たようなもん」
「ねえ、あなたってベロニカ先生でしょ?」
「いいえ違うわ。……ベロニカ先生って何?」
「テレビに出る人」
「おあいにくだけど、わたしは違う外人よ」
「でも、ベロニカ先生みたい!」
「くそっ! ハンドルが逆で走りにくいわね」
はじめて彼女は彼女の母国語らしい言語を使いました。その悪態に。
彼女が漏らした一言で僕がどれだけ感動したことか! 彼女は外国人なんだ! ベロニカ先生みたいに!
僕はいいました。
「……ねえ、僕のお父さんが小説を書いたなんて僕知らないよ」
「当たり前じゃない、あなたのお父さんは小説なんて書いたことがないのよ」
「どういうこと? さっきあなたはお父さんに聞いて、お父さんはうんと答えたよ」
「わたしがいってるのは、本当の意味でってこと。あなたのお父さんは小説を書いたわ、たしかにね。でも、それは小説なんかじゃない。あなたのお父さんがやったことってのはさしずめ、飲んだ人をかりそめに幸せにするけど飲むと目が潰れちゃう口当たりのいい密造酒をこしらえたみたいなもんなのよ。さらにはその密造酒でお金をとったのよ、あなたのお父さんは。わたしはあなたのお父さんのことはほとんど知らないし、あなたのお父さんの小説をこれっぽっちも読んだことはないけれど、わたしにはあなたのお父さんが本物でない小説を書いた人だってことがわかるの。わたしはこれまで散々、密造酒みたいな小説を書いた人の典型的な人相や、生活パターンや、そう、今回のあなたたちみたいに国を横断しようと企てたりすることや、どんな車に乗ってるかを。わたしはわたしのお父さんの死んでいく過程でいやってほど知ったのよ。いやってほど、いろんな人を見てきたわ」
「だから僕たちの車に座って待ち伏せしてたんだね。でもなんでさっき、お父さんの書いた小説のタイトルがわかったの?」
「鋭いわね。でも理由はしょぼいものよ。なぜタイトルがわかったかというと、わたしにはそういう力が宿っているから」
「ふうん、そうか」
僕は振り返って、相変わらず何も喋らない父の顔を見ました。顔のどのあたりに「密造酒みたいな小説を執筆した人」の特徴が出てるんだろう? 後部座席の二人は微動だにしない。本当に微動だにしないのです。二人は蝋人形になっていました。
僕は尋ねた。
「あなたのお父さんはいつ死んだんですか?」
「かれこれ三年たつわ」
「それからずっと、あなたはお父さんのかたきの、密造酒みたいなのを執筆した人をこんなふうに誘拐してきたんですか、何度も?」
「何度も? ええ、何度も。さっきもいったけど、人相でわかるの。あとは仕草や行動ね、あなたのお父さんみたいに国を横断しようとするとか、あとはワインの樽で自作のオーディオスピーカーを作ろうとするとか」
「ワインの樽でオーディオスピーカー?」
「なんでも、その樽に入ってたワインの年代によって音の良し悪しが変わるらしいわ。ワインそのものの出来がそのまま、樽に浸み込んでいて音に反映されるんですって。(さっきとは別の悪態)」
「本当だね。(僕も真似て悪態)だね。でも、きっとブドウのいい匂いがするでしょうね。ねえ、小説家でなくて小説を書いた人たち、あなたのいうその人たちは悪い人たちなの?」
「極悪ね」
僕は彼女の顔をまじまじと見ました。
「僕のお父さんも?」
彼女は僕のほうを向いて、とっても優しく微笑みました。
「あなた、名前なんていうの?」
「僕、芳太」
「Houtaね。残念だけれど、芳太。それは、これからわかるわ」
一九九八年はそういった年でした。ゆっくりゆっくりミキサーにかけた幾つかの出来事……父の事業立ち上げや、ようやく再び見せるようになった母の笑顔や、兄の進学や、姉の三回忌や、それに僕の誘拐の記憶……がごろごろ混じりあって、やっと完成したミックスジュースを家族みんなでやっと飲み干してお互いににっこり目を合わせた年でした。そうです、姉の三回忌です。僕が一歳の時に死んだ。先生、一九九八年のワイン樽製のスピーカーはこんな音で鳴るんです。
その頃の僕の想像力が実に逞しいものだったのは、いつもみんなからいわれていましたし、僕自身も認めていました。でもこの時の僕は、誘拐犯の彼女のいった言葉から推測される間近の未来、つまりこのあと何が起こるのか、何がこれから、どのようにしてわかるのか、まったく見当もつきませんでした。なぜってこの時、先生、僕はまだ三歳だったのですから。
僕の初恋の人は、実際には会ったことのないテレビのベロニカ先生をのぞけば、この三か月後に、幼稚園に入って同じクラスになった女の子と出会う前、僕のまだスタートしたばかりの人生に滑り込むようにして現れた、この誘拐犯の彼女でした。
どこへ向かって車が進んでいるのかわかりませんでしたが、その間、誘拐犯の彼女は僕にたくさんのことを話してくれました。それはとても楽しい時間だった。彼女にとっては悲しい話だったかもしれない。けれども僕は楽しかったです。
なかでもサルバドールねずみがどうやって死んでいったかというくだりが一番面白かったな。
だから先生、僕は兄が死んだなんて信じません。

担当医「でも芳太さん。それは事実です」

 

 

 

 

 

第八章

 あれが僕なのだと思った。彼は僕自身だと思った僕はいつのまにか、その女性たちの前に立つために、竹とんぼを作るために持っていた小刀を手にしていた。そしてあの僕の描いている絵を切り裂いたあと、それを止めようとした僕(絵を描いていた僕)を刺した。するとすべては消えてしまった。自分の太腿に、小刀で切り付けた傷痕だけが残った。
 僕はその後、僕がこれからやるべきことを知った。こんな話、どうかな。

 

「サルバドールねずみ 第二部」

 

「ところで誘拐された身の僕なんかがこんなに喋っちゃってていいのかな?」

その日の作業療法の時間は映画が上映された。僕はその暗闇の中、部屋の端のほうを看護師に連れられて、やがて明るい外の世界へ出た。父が車を運転した。母が助手席に乗っていた。僕は兄のことについては一言も質問をしなかった。車は一九九八年のものではもちろんなかった。別の車。別の車。別の車。別の車は乗り心地がよかったが、僕はこの車のことをすっかり忘れていた。僕は一九九八年の車に乗っていた。だが、車窓からの景色は瘡蓋のように剥がされていく。
サルバドールねずみは本棚をノックする。ノックされた本棚の持ち主は小説を書くようになる。彼女の父も本棚をノックされた。それはペストの比喩ですか?
「似たようなもん。でももっと恐ろしい部類の伝染病よ」
彼女の父は本棚をそのねずみにノックされたうちの一人だった。
彼女の叔父(彼女の父の弟)は読書家の大工で、サルバドールねずみが街へやってくる前年に首の骨を折って死んだ。建築中の梁から落ちたから。だから彼はねずみにノックされずにすんだ。叔父のことを彼女は少し恨んでいる。父に本棚を作ってやってしまったから。それまで彼女の父は本など読んだことがなく、だからもちろんそれまで本棚も持っていなかったから。それ以来彼女の父は小説を書き始め、やがて野たれ死んだ。出来損ないの密造酒をたくさん作り、へべれけに悪酔いする用意は完璧だった。警察には自殺として取り扱われてもよかったくらいだったが、街全体をねずみが襲い掛かるほうが早く、警察の捜査はそれ相応の報告書を書き上げたが、その報告書すらも小説の形式をとっていた。みんなサルバドールねずみにノックされていたのだ。
「僕らの家? それとも兄さんの家?」
僕は尋ねる。
「私たちの家よ。マンションだといろいろと大変だから」
母さんが答える。
それに合わせて父が頷く。それとも車体の揺れでそう見えただけかもしれなかった。
スクラップブック。
僕は父さんの本棚から、古いスクラップを見つけた。てっぺんのほうだけ糊付けされていて、畳み込まれていた。広げてみるとそれは父の書いた小説だった。僕は読む。僕は読む。僕は読む。それで時間はほとんど潰れ、僕は病院に戻った。一時帰宅だったから。
旅の解放感に似ていた。僕がここにいるのを誰も知らない、僕はどんなことだってやっても構わない。そんな考えが浮かんだ。商社マンが余所の国で女子供を買うように。父さんと母さんと義姉さんと甥っ子は、居間のほうにいる。僕が一人この場所……自分の部屋……にいるのを僕は不思議に思った。でもそれは、たった一秒でも一人きりになることのない入院生活中の、何物にも代えがたい解放感だった。それを催させるには十分な……。
僕は立ったまましばらく陰茎を擦りあげて果てた。だが果てた時、思いがけぬことが起きた。いや、起こらなかった。起こらなかったのが問題だった。それが問題だった。僕は、入院中の無接触、無刺激、無感動で不感症に陥った結果、陰嚢と陰茎のあいだが完璧なまでに関係を断ち切り、絶交状態を決め込んでいるのだと知った。陰茎の先からは何も、予期していたものは一切、一滴も出てこなかったからだ。陰茎は屹立した……、手を添えると快感があった……、そして果てた。果てた感覚を覚えるも(つまり不感症ではないということを後追いで気づいたが)、その行為が絶頂に至った時に残すだろう激しく飛び散るはずの……、僕の予想では爆発といってよかった……、ほとんど期待とも呼べた……、大量の白っぽい濁流のような……、それだけは出てこなかったのだ。股の付け根の両者は断絶しているのだった。
おそらく長く通常運転が行われていなかったためなのだ。もう一度試してもよかったのだが、僕は傍らに出しておいた無駄になったティッシュ十数枚をすべてごみ箱に捨てた。捨てなくてもよかったのだが。
僕はこれら一連のことで思わずにやにや笑いを浮かべてしまった。なぜだか奇妙なおかしさがこみあげてきたのだ。「それはなんとも不思議なこともあるものですよ」と僕でない誰かがいったので、僕はまた笑いが重ねて襲ってきた。
「つかぬことをお聞きしますがあなたももしや何も出なかったのでは?」
「そうです。お見事。よい感性をお持ちですよ、あなた。ところで、もう一度やってみたらどうです。もう一度やってみたらどうです。もう一度やってみたらどうです。もう……。えへん。買い手はたくさんおりますよ。だからもう一度やってみたらどうです。」
「誰かにこの不思議さを伝えたいな」
そう思い、誰かに伝えたわけでもないのに少し赤面した気がした。

僕は家に着くと、玄関でサンダルを脱いで廊下を歩いた。病棟ではずっとサンダルを履いて歩いていたので、裸足で廊下を歩くと硬い衝撃が足を伝わった。それが心地よかった。居間に行くと、義姉さんが甥っ子にミルクをあげていた。兄はソファが片付けられたところで横たわっていた。義姉さんはミルクをあげたのだ。甥っ子に。僕はいった、
「義姉さん、大丈夫。僕はすぐまた病院に戻るから。安心してね」
僕はジョークのつもりだったのかな? なんでこんなことをいってしまったのだろう。僕も含めて誰もジョークだとは思わなかったかもしれないが、義姉さんだけは少し憤慨したようにいった、
「芳太くんのこと、ずっとこの人、心配してたんだ。もちろん私も心配してた。だからそんないいかたはやめて……ね?」
「うん。義姉さんが一番つらいのに、ごめん。」
「ううん。久しぶり、お帰りなさい」
「ただいま」
僕は兄さんの顔を見たけれど、兄さんが死んだなんて僕は信じられなかった。いい絵描きで、優しくて、僕の記憶にない死んだ姉のことを時々話してくれた兄さん。子供が生まれて、さらに優しくなったのに。死ぬ時、兄さんは一体どこへ車を走らせていたのだろう? 聞くに聞けなかった。
甥っ子の顔をくすぐったあと、僕は僕の部屋に入った。いつのまにかベッドで手淫して、そのあとで父さんの部屋にこっそり忍び込んだ。スクラップブック。

「密造酒、大いに結構じゃないか」
それが父さんの書いた小説を読んだ僕の感想だった。というか、その台詞がそっくりそのまま、父さんの小説に出てきた。国を横断する家族。蝋人形。誘拐。密造酒という単語。サルバドールねずみという、それまで平穏無事に暮らしていた人たちに小説を書かせる伝染病。〈密(・)造酒(・・)、大い(・・)に(・)結構(・・)じゃ(・・)ない(・・)か(・)〉。それらがそっくりそのまま。父さんの書いた小説の題にしたってその名も『サルバドールねずみのノック』であった。なんだ、僕は昔これを読んでいるんじゃないか。内容に多少の差はあれど、僕の不確かな記憶であるはずのすべての事柄は、この小説だったのだ。ふと、兄さんはこの小説のことを知っていただろうかと思った。結局僕らが国を横断しようと旅に出たことはなかったというのか。
「母さん、僕は葬式に出ないほうがいいと思うんだ」
「どうして、春馬が死んだのよ、ねえどうして? 先生に説明すれば、一晩くらい家族みんなで過ごせるのよ、きっと……」
ううん、決めたんだ。なにも、僕がこんなところで日々暮らしているからそれが引け目になってるとか、そういうんじゃないぜ。僕はただ、出ないほうがいいような気がしてるんだ。兄さんの顔が見られればそれで十分なんだ。
でもやっぱり、僕は兄さんにもう一度、生きているあいだに会いたかったな。来週か再来週にはまた面会にも来てくれたんじゃないかな? こんなことにならなければ。
「絵の仕上がり具合も知りたかったな。兄さんの話は愉快だったからね」
そういえば母さん、僕、こないだの定期的な血液検査で、梅毒の項目が引っかかってね。先生もおそらく偽陽性といっていたし、なによりここではそんなものに罹りっこないからね。ここでは誰かと誰かが、ここでは誰かと僕が、僕とここでは誰かが、誰かと僕がここでは、それらひっくるめて病院の歴史的に鑑みてもここでは性行為が行われたことなんて、きっと一度もなかっただろうし、なかったしね。もしも患者全員が、全員じゃないにしても、例えば寝たきりで体を縛られてる患者たちみんなが一斉に梅毒のチェック項目に引っかかったらそりゃあ、夜な夜なベッドから抜け出して彼らのおむつを外して、ことがすんだらまた履かせ直す連続強姦罪の犯人を特定せねばならないだろうがね。カルテには性の嗜好対象なんかは書いてはいないだろうね。だってゲイはただそれだけでは病気というわけではないんだから。でもね、寝たきりの患者を襲うことは元々無理なんだ。なぜなら彼らの体は、介護士か看護師が持ってる鍵でしか開かない、鍵付きのジッパーがぐるりとついた服にすっぽり包まれているんだからね。それに僕らは僕らの抱える病気にプラスして別の病気を持ち込むことなんてできっこないんだよ。定期検査があるからね。だから再検査をすればすぐにわかることなんだ。でもまさか、よりによって梅毒だなんてね。
「義姉さん」
「うん、なに?」
「赤ちゃん、喋った?」
「ええ、ちょっとずつね……。私はこの子の父親のことを、早く言葉が理解できるようになる前から、教えなきゃいけないのね、きっと。ううん、多分自然と、私、心の中に留めておけなくって、死についての様々なことを、それらをみんな話してしまうわ」
いや、早々と再婚してしまうことだ、義姉さんは。
子供のためだよ。僕はそんな、振り向いた先の四つ辻に死の影の尻尾をちらりと見かけるような、物悲しい子供はこの世に一人もいてほしくない。だから義姉さん。子供には楽しいことを教えてね。大学の時の友人が兄さんの葬式に来た時に見つければいい。早く再婚してしまうことだ。
もちろんそうは口に出さなかったが。
どこかデパートへも行ってみたかった。煙草は吸ってみたがそんなに感慨深いものではなかった。でも父さんの小説を読んだらなんだかすっきりした。月が出る前に帰るのだけは嫌だったけれど、僕は帰った。病棟の作り上、あそこでは絶対に月が見えなかったから、この目で見たくなったんだ。
「今日は月が普段より大きいのよ」
「テレビで見たよ」
大きさなんて、どうだっていいんだ。
死んだ姉さんの写真立ては、手淫するとき伏せてしまったままだったので、元に戻すのは母さんが掃除に入ってくれた時にお任せするとしよう。姉さんの記憶は僕にはない。生きていればここにいただろう。僕を腫れもののように扱っただろうか? 義姉さんを支えて、悲痛さを軽減させてあげることに柔らかく奔走してくれたのは間違いないだろう。
肝芽腫という肝臓にできた癌で姉さんは死んだ。神の手と呼ばれる小児科医の触診によって判明したのだが、その時にはもう手遅れだったとか。兄さんが話してくれたんだ。兄さんの裸婦をベースにした幻惑的な絵には時たま死んだ姉さんのような幼い女の子が出てくる。兄さんが残していった絵は僕には必要ないだろう。病棟に飾ってもらうことも考えたが、もし病院に寄贈しても、ものの二、三日で誰かに絵具を剥がされて、くちゃくちゃしゃぶられるのがおちだ。
「石鹸を食べちゃう人もいるくらいだからね」
「あら、そうなの……」
「母さんは具合、大丈夫?」
「私たちは大丈夫よ」
「本を今日は自分で選んで持っていくことにするよ」
「ああ、本屋とか行けばよかった? 行きたかった?」
「ううん。これからは兄さんの本を読むことにする。兄さんの荷物はこの家で引き取ったほうがいい。義姉さんのためにも。もちろん、全部とはいわないけれど」
サルバドールねずみにノックされても兄さんはもう死んでるから平気だ。
僕の本棚は叩かれたのだろうか? 父さんに小説のことはいわなかった。

「まだ一匹残っていたの?」
僕は彼女が胸ポケットから尻尾をつまんで取り出したねずみに目を丸くした。
「こいつは使い方によっては役に立つの。第一にあなたのお父さんや、同じように小説を書いている連中を嗅ぎ出すためにね」
彼女はそういって一度口をつぐんだ。
「あなたのいう通りかもしれないわ。密造酒万歳。かたき討ちはもうこれでおしまい」
ガソリンをかけられたサルバドールねずみは文字通り濡れねずみ。
彼女の細い指がライターの石を擦って、一瞬、炎が燃え上がり、炭がパラパラと散る。芳醇な香り。一九九八年の香り。
スクラップブックを閉じて、帰ろう。
「これからは誰が密造酒みたいな小説を書くのかな?」
「なに、いってるのよ、でもきっと密造酒にはならないでしょうね」
ああそうか、僕が書くんだ。

 

 

 

 

 

2019年5月15日公開

作品集『デイジーズライトハンド』第3話 (全4話)

© 2019 多宇加世

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

純文学

"デイジーズライトハンド 第3回"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る