デイジーズライトハンド 第2回

デイジーズライトハンド(第2話)

多宇加世

小説

8,435文字

急激な熱波は、その事件の初動のあらゆる解釈をひとまずはねつけて、その街を一夜にして国中で有名にした。
全4回

第三章

まだ夜空のほうが明るかった。無音の花火が上がっているから。水族館の屋外プールの水は、ぽっかりとあいた闇だった。そこへ落ちたら、ありとあらゆる想像で握りつぶされてしまうような闇。そんな闇を見つめつつ、地上へ灰をこぼさぬように注意をしつつ、僕は煙草を吸った。しかし半分まで吸ったところで煙草の火は消えてしまった。気付くと箱に残っていた他の煙草も同じように駄目になっていて、僕はなんだかどうしようもない気持ちになって、それまでの慎重さを忘れ、箱を柵の向こうへ勢いをつけて投げ捨てた。今指に挟んだものも箱の中のものも、すべてずぐずぐに濡れていたのだ。

 

「小部屋から出て」

 

小部屋から出て、八人部屋を出て、七人部屋へと移った。

この八人部屋で、隣のベッドの年寄りはなにかにつけてHに話しかけてきた。この総入れ歯で、わずかにぼけの進んだ、Hの留守の間に必ずベッドからティッシュを数十枚盗む年寄りに、Hは気に入られていたようだった。だがある晩を境に、年寄りはHが前にいた八人部屋に移されて、ベッドに縛り付けられてしまった。一日の排便の有無を確認しに来た看護師を殴ったためだった。

Hはその一部始終を隣のベッドの上で見ていた。殴ったといっても、実際は少々唸りながら軽く手を払ったに過ぎなかったようだったが、ここではそのような些細な事柄こそが、積もり積もれば大きな無秩序を生むと判断されるのだろう。そしてそれはひどい結果に繋がるのだとHは知らされた、いやこの場合、感じ取ったといったほうが正しかった。感じ取らぬことは断固として拒否されたように思えた。とにかくひどいことが起こった。

唸り声と、反抗的な態度、つまり周囲に危害を加えるかもしれないという懸念。年寄りの入れ歯だけが、数日間、Hの隣の空のベッドに置かれることとなった。

ベッドに縛り付けられ、おむつを履かされることになった年寄りの、頭が次第に緩んでいくのをHはその部屋の前を通るたび見ていた。通るたびに呼びかけられたからだ。そしていつからか、明け方になると年寄りは叫び声をあげるようになった。

「痛いよー! 痛いよー!」

別の部屋だったに関わらず、その声に睡眠を邪魔される患者が出た。みんな不眠症になった。もともと不眠症が多いのに、それを悪化させた。何が痛くて叫ぶのか? 後々に分かったことだが、年寄りはおむつだけでなく陰茎にチューブを入れられて導尿されていて、どうにもそれが痛いらしかった。

 

「ヨクセイ!」

それは抑制という字なのだろうか? あの晩、年寄りにぶたれた直後、男の看護師は(看護師も介護士も全員男性だったが)大きな声でそう叫んだのだった。看護師が一度立ち去って行った時、年寄りはいつもとは違う乱暴な口調でHの名を呼んだ。よくないことが起こったのだと、また、おそらくこれからもっとよくないことが起こると悟っていたHは、そのヨクセイという号令のような言葉が響き渡った時にはもう、年寄りに背を向けていた。知らない振りを決め込もうとした。年寄りとは反対側の、簡易トイレを眺めていた。

「おい、おい」

背後から低い、だが興奮した声が聞こえる。

Hはトイレの形状を、生まれて初めて見るように見えるように眺めていた。

「おい、見たか、おい、見たか」

何を見たというんだろう、自分で看護師を殴ったのを?

「見たか、見たか、見たか」

この部屋には、簡易トイレがあった。それはHのベッドの脇にあった。ベッドが一つ分なくて、トイレがあった。だからここは七人部屋だった。Hは自分のベッドの脇にトイレがあることがそこまで嫌じゃなかった。みんな大体同じものを食べるから、体臭も便の匂いも一緒だった。だから匂いは気にならなかった。でも、トイレにやってくる患者が、Hのベッドの端に手をついて歩くのだけは嫌な気分だった。

年寄りはHへの呼びかけをやめて静かになった。

だが、暴力的な衝動に駆られているであろう人間にずっと背を向けているのもなんだか恐ろしくなったので、しょうがなく向き直った。とたん、年寄りの老人特有のつぶらな眼の奥が轟々と燃え盛っている、それを目の当たりにした。恐怖心は抱かせなかったが、Hはその年寄りの変わりように少々驚いた。

なにを自分に伝えようとしたのか、しかし年寄りは入れ歯をはめ直そうとした時に看護師が他の数人を連れて戻ってきて、抵抗もむなしく、抱えられていってしまった。

「やだああああああああああああああ」

その晩はそれで消灯時間になり、終わった。

翌日の朝になって、年寄りがベッドに縛られているのを見たのだ。……

自分がいない間にティッシュがごっそりと減っていることも、もうなくなった。誰も自分に話しかけるものがそばに居らず、静かな日々だった。だがHの気分はしばらく高ぶっていた。なぜならHは目の前で見てしまったのだ。ここでは少しでも秩序を乱そうとするとああいった目に合うということを。僕らの自由は、握られてしまっているのだ。ここでは病院側の人間が絶対なのだ。

ときに、自由というのはその時々において掴み取ることが可能な範疇からのみ選択するものなのだというふうに思えてならなかった。手の届かない自由は自由ではないのだと。

「真の自由という言葉が指し示す夢物語のようなものや希望は本来存在せず、というか自由には真も偽も両方あるんだ」

そう考えると理屈が通った。

夜空に浮かぶ月が、満ちたり欠けたりするように、月全体ではなく光が当たって目に見えるその時々の表情こそが、その時々で選び取れる自由の範囲であって、そこにこそ、自由の何通りかの在り方(何十通りか何百通りか何千、何億、とにかく無限とも思える有限な)が示されている、とそう思った。

ただし、それらから実際に選択し、掴み取るのは容易ではない。

「自由は手の届く範囲にあって、僕たちは自由を文字通り掴み取るが、それは月のように手が届かない。それを求めることはある種の行動の指針ともいえるし(なんの? それこそ自由の)、歩いて来た道に刻まれる行動の地図ともいえるだろう(なんの? それこそが自由の)」

Hは軽い眩暈を感じた。そして思い当たった。食事の時になるといつもなぜか進んで配膳や後片付けなどの、看護師の手伝いをする、ある患者の魂胆を。

「あれは要するに看護師たちに気に入られようとしているおべっかなんだ」

そんなことをしたってご褒美が出るわけではない。点数を稼ごうと、それがなにかに繋がることはない。点数などないのだから。だが、おそらく彼はそうせざるを得ないのだ。なぜなら自分の身かわいさに、自分の行動が自分の自由のために、少しでも病院側へのアピールとして、けれどもそれがなにかプラスに作用することがないのをわかっていながら、それでもけっしてマイナスになることはないようにと、ある種の強迫観念に駆られていることを。それは徒労である。なぜなら病院側にとっては、秩序や規律を乱さねば、なんでもないのだから。だが、それがHには痛いほど理解できた。Hもまた、そのような衝動に駆られそうになったからだ。ただ普通にしていればいいものを、尻尾を振って腹を見せるようなことをしたくなる瞬間があった。おそらく本来はあり得はしないが、病院側の誰かによくない印象を持たれたら、よくないことが起こるのではないか、ということを感じ取った。

Hを襲ったそういった考えが次第に薄れていった頃、例の明け方の「痛いよー!」が始まった。日中、縛られた年寄りが、廊下を歩くHを見つけるたびに、掛けてくる呼び声にも、だんだんと奇妙な影が落ちかけ始めた。HをHと認めて、自分がもといたベッドからなにかを持ってきてほしいと懇願する時もあれば(その願いは叶わなかった。そうすることはHは看護師に止められていたし、H自身もそうする気はなかった。それに年寄りには知る由もなかっただろうが、その頃には年寄りのもといたベッドは別の患者の物となっていた)、あるいは「ねえ。お兄ちゃん」と甘えた声を出す時もあった。またある時はHを責めるのだった。自分がここに縛られているのをなぜ助けないのかと。……

 

Hはそのあと、もっと広い大部屋へと移された。年寄りの部屋の前を通ることもあまりなくなり、明け方の「痛いよー!」を除けば、年寄りの存在をHが忘れかけたある日、ベッドで本を読んでいると、布団の足元をつつく者がいた。見るとあの年寄りが立っていた。

「こんちは」

広い大部屋は、野戦病院のようだった。三十六人くらいいた。みんなテレビを見にいっていて、残りは数人、自分のベッドで午睡を取っていた。

「こんちは」

あの年寄りがいった。片手をあげて。そしておもむろに、Hの手を取り廊下へ連れていこうとした。Hはなぜこの年寄りが、自由に出歩いているのだろうとびっくりした。だが年寄りはHの動揺もお構いなしに、廊下を歩きながら真面目な顔でいうのだった。

「俺のちんぽ、管が刺さって腐っちゃった、看護師がへたくそで、おしっこするたび、ちんぽ腐っちゃった。だからここでは治療はもうできないから、もっと大きな病院に行く。お金も貰った。院長先生から慰謝料貰ったから納得することにしたの。ちんぽだめになっちゃったけど、今朝、俺んとこに封筒が届いたの。五百万入ってた。だから許すことにしたの」

年寄りの思考に落ちた影はそれまでのHの見立て以上のものだった。Hはなにもいえることがなかった。縛り付けられ、おむつを履かされ、行動を制限されたために……そうとしか思えなかった……思考が緩んでいくことの恐怖を感じた。

「でもね」

年寄りは続けた。

「でもね、お兄ちゃん。なんで、なんで殴られた俺のほうが、ベッドに縛られなくっちゃならないの? なんで看護師さんは俺を殴ったの。だから一緒に来て。俺が殴られたほうだってことを証明して。お兄ちゃん、証人になって」

そしてHははじめて年寄りが恐ろしく見えた。とりわけ、Hはそれらの言葉を発する年寄りの口元、入れ歯が恐ろしく見えた。腕力などはほとんどないのは歴然だったが、その入れ歯だけは硬く、なめらかで、この年寄りの唯一の武器に思えてきた。年寄りの顎の力とはどのていどのものなのか……。しょうがなく一緒に廊下を歩いた。そして寝たきりの患者のおむつを替えている最中だった、例の、年寄りにぶたれて「ヨクセイ!」と叫んだ若い男性の看護師の元へと連れていかれた。

「証人、連れてきた」

看護師は呆れ顔で、

「H君、そのままを言っていいから。このおじいさん、ぼけてるから」

再び年寄りをベッドに縛り付けながら告げた。

「次にまたもし出歩いて、彼に近づいたら、二度とヨクセイ解かないからね!」

年寄りはへらへらと笑うばかりだった。

ここはそうやって秩序が保たれる。

 

 

 

 

 

第四章

落下していくそれを目で追っている途中で、僕はあることに気付いた。観覧席に誰かが座っているのが見える。

「先にいってるね。さびしいし、すごく怖いよ。だけど先にいってるからね。ずうっと待っててあげる」

 妹の最後の日、小さな彼女はこういったのだった。病院のベッドに横たわった妹の体には色々なチューブが繋がれていて姿がほとんど見えなくて、口にも酸素を送るマスクをしていて、本当はそんなことは一言もいってはいない。夢でたまに見た、僕がつくりだした架空の台詞だ。それから、街外れの病院に入院している弟のことも考えた。ある昼下がりのカフェで取り押さえられ、そのまま入院してしまった弟。僕らはもとは三人だった。僕、妹、弟。僕のポケットはたった今投げ捨てたばかりなのに煙草の箱で膨らんでいる。

観覧席の姿は消えている。

 

「ハニー・ハニー」

 

デイジーは幼いHの体をよく弄んだ。Hにお楽しみのやり方を教えたのももちろん姉のデイジーで、良心的なパズルのようにそれは簡単なことだったので、Hは容易にそれをすぐに完成させた。死んだデイジーの存在自体を理解するのも、同じようなことだった。きわめて利口に、二人は楽しんだ。

 Hの部屋というのはあったが、デイジーの部屋というのはなかった。デイジーは自分の部屋を持つ前に亡くなったので。だから二人はほとんどHの自室で楽しむか、畳敷きの居間のソファの上で絡み合った。

「何事にも踏み出せない愚かな人というのは、デイジーの美味そうな餌に過ぎない」

「なに、それ、なんかいい気しないんだけど? あたしってそんななの?」

「いや、いってみただけだよ」

「あたしの餌はあんただけ」

「それはいい意味なの?」

「知らない。どうだかね」

デイジーの笑い方は独特で、よくHは思わず振り返ってしまう。まず高い音に始まって、次第にビブラートが効いた低い音へ降下していく。それで最後はまた上がる。それらはデイジーのすらりとした容姿と幾分かけ離れていて、だからこそHは、その姿に引き付けられ、その笑い声で度肝を抜かれる。あーあっああっあっあー。セックスの時もHはよく耳にする。喘ぎ声とほとんど一緒なのだ。

デイジーはHの耳をよく噛む。もちろんベッドでの話だが、彼女に噛まれると、Hの陰茎はぷんっと激しく一瞬背伸びする。それをデイジーは狙い定めるようにタイミングよく噛む。デイジーの中に入っている時は、それが急所を刺激するらしい。

「え? なんで、甘い」

「耳にメープルシロップを塗っておいたんだよ」

馬っ鹿じゃないの? とデイジーは例の笑い声をあげた。

Hは時折、本当に馬鹿なことをやる。姉さんの笑い声が好きだから。

「四季がそれぞれ人間の体の部分だったら、どうあてはまる?」

「うーん、むずかしいな」

「あんたのおちんちんは秋って感じ」

「どういうこと?」

「そんな感じなの」

「じゃあ、姉さんの唇は真夏って感じ」

「あんたの手は春って感じ」

「姉さんの右手で撫でられるとやっぱり春みたいだもんな」

「嗅いでみて、桜餅の香り」

「うん、ほんとだ。それから姉さんの胸は冬って感じ」

「どういう意味よ?」

「冠雪した冬の峠味って感じだよ」

 

 

 

 

 

第五章

君は待ちくたびれて眠ってしまったのだ。僕は待たせすぎた。僕も少し疲れすぎてしまった。ベランダの柵に寄り掛かり、しゃがみこんだ。どうやら君は夢をみている。ベッドの上で、わずかに体を波立たせたのを、僕はサッシの窓越しに見た。

左右に揺れるワイパー。フロントウインドウを叩く雨。君の部屋までの山越え。ちらりと見やったデジタル表示の時計。いくつものカーブ。視界の悪さ。気のはやり。スピードの超過。ヘッドライト。前方、飛び出してきたなにかの動物のかげ。スリップ。

車の発見は明日の朝だろうか。いや、それも怪しいものだ。なぜなら他に走っていた車はおらず、目撃者は皆無だからだ。ガードレールが変形しているのが発見されて、そのあと谷底の車が見つけられるまでどれだけ時間があるだろうか。

 

「蝋製の蝋燭」

 

急激な熱波は、その事件の初動のあらゆる解釈をひとまずはねつけて、その街を一夜にして国中で有名にした。半分が海で、もう半分が山で塞がれた街(地元の銀行がみっつあった、といえば大体の規模がわかってもらえるだろうか? あるいは大学があり、さらには美術大学までもがある、といえば?)の様子はテレビカメラに写された。といっても、テレビ画面に姿を見せたのは、マイクを持ったリポーター一人と、その背後の、ある古びた遊園地の大きなアーチ門だけだったが。そのニュースはその局の独占報道だった。暑気によって煽られて立ち込めた腐臭を嗅がないようにするためか、リポーターはハンカチで口元を押さえていた。リポーターはひどく動揺していた。

「四十体の遺体は、以前からお化け屋敷などの、屋内アトラクションに身を寄せていた住所不定の老若男女とみられております。まだ依然としておおまかな情報しか入ってきていないのですが、事件・事故の両方から捜査は進められています。(『なぜその方々は、そのような所にいたのでしょうか?』というスタジオのアナウンサーからの問いかけがあり、一瞬間をおいてリポーターは突如激怒し、怒鳴り始めた。)おい! 彼らをそこへ追いやったのは、俺たち全員が知っている事実だ、『なぜ』だあ? なんにも知らないふりしてとぼけた声出しやがって! ガキだってそれくらい知ってるぜ!」

だが、誰もそんなこと知らなかった。質問したスタジオにいたニュースキャスターも、あるいはその中継放送自体を見ていた世の中の視聴者たちも。

廃墟と化した遊園地におよそ四十人もの人が暮らしていたことを誰も知らなかった。

五つ年上の姉のデイジーとそのテレビを見ていた九歳のHも知らなかった。

「ねえ、H。あたし、今からここに行ってみたい!」

どうして、というコーヒーを啜りながらのHの率直な疑問に対し、デイジーはいった。

「あんた、この遊園地に行ったことないでしょ。そうでしょう? 当り前だよね。あたしはあんたが産まれたばっかりの頃、一回だけ行ったわ。いえ、二回かも、三回かも! そのあとで遊園地は倒産して閉鎖されたの。今からここへ行ったら、気持ちいいこと、いっぱいしてあげる!」

Hは曖昧に首を横に振った。

「い、いいよ別に。だってテレビ局とか野次馬とか、きっとたくさん来ているよ。それに今聞いてたろ、四十人の死体があるんだよ?」

それを聞いてデイジーは鼻で笑った。

「死体なんて、もうとっくに運ばれてなくなってる!」

「でもさ……」

「いいから、行きましょ」

それで二人は家を出た。

「でもさ、やっぱり気持ち悪くない?」

Hの発言は無視された。

 

遊園地は以前から閉鎖されていたが、その入口前には今もバスの停留所があって、巡回バスが通るルートではあった。すぐ脇には電話ボックスがあり、夜な夜な、その中に幽霊が立つという噂もあった。そのため遊園地を含めそこら一帯は肝試しのスポットだったのだが、今回の事件でさらに、物好きが訪れることになるのだろうなとHは流れ去る景色を眺めながら思った。隣のシートに座る姉のデイジーが窓ガラスに映っていて、姉さんもその物好きのうちの一人か、と考えた。

ああ、そこには僕も含まれるのか。

「ねえH」

「なに、姉さん」

「運転手のおやじがさっきからバックミラーであたしに色目使ってる」

「素足をそんなふうに通路に伸ばしてるからじゃないの?」

「ああ、そうだ。これも持ってきたの」

「何、蝋燭?」

「これでお楽しみ。ねえH」

「なに」

「なんか興奮してこない?」

「全然してこない。ぞっとしてる。ぞっとしない?」

「しない。興奮してる」

「そう」

「見て、海。ていうかさ、さっきのテレビのおっさんが怒鳴り出したのわかった? どういうことなのか」

「ううん」

「あの人はあの遊園地が閉まる前から、こんなことがいずれ起きるんじゃないかってわかってたのよ。あたし行ったことがあるっていったでしょ? あたしね、その時のこと思い出したんだ。その頃はもう客足もなくて、閑散としていたっけ。昔はわんさかお客さんが来たんだろうなあっていうのが、その場所の記憶として残っててね、わかる? メリーゴーランドなんかに乗ってるとね、いないはずの隣の客が見えたりするもんだった。でも、それも含めて楽しい場所だったのよ、あたしにとっては。なんか、あたしもいつかはここの住人になりたいなって。誰にも相手されなくなったらここに来ようかなって思ってた」

「ふうん。姉さんもそんな感傷的になることがあったんだね」

「失礼ね。でもそれって感傷的とは違う。やっぱあたしってドライなの」

「でもあの人はなんで?」

「あの人こそね、ドライになれず、感傷的なことに耐えられない、振り回される人なのよね、おそらく。自分の親が死んだ時、いつまでも受け入れられない質ね。あの人言ってたたでしょ、『彼らをそこへ追いやった』とかなんとか。本当は感傷的な方に自分で『自分』を追いやっているのよね」

「感傷的なほう……、か」

「ていうか、あの事件自体、本当にはないんだけどね」

「え?」

「今に見てて御覧なさいな。あれ、あの人の妄想ってことになっちゃうのよ、本当には」

「え?」

デイジーは降車ボタンに手を伸ばした。

「どういうこと?」

「どうもこうもない」

デイジーはボタンを押した。そうして一滴、涙を流した。

Hはそれを見て、『ああ、誰かのために泣く時の、デイジーのあの涙だ』と思った。

そのあと二人はデイジーのいうとおり、テレビ局も、野次馬も、警察も、誰もいない遊園地で楽しんだ。

約束通り、デイジーは様々なアトラクションで、とても気持ちいいことをいっぱいしてくれたが、Hは時折、いないはずの他の客たちの息遣いも感じた。蝋燭を用いることも忘れずに。

 

 

 

 

 

2019年5月14日公開

作品集『デイジーズライトハンド』第2話 (全4話)

© 2019 多宇加世

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