デイジーズライトハンド 第1回

デイジーズライトハンド(第1話)

多宇加世

小説

17,223文字

Hは朝目覚めるとやることがみっつある。ひとつは朝食を作ること。これは簡単。パンを焼くていどだから。ひとつは姉のデイジーを起こしに行くこと。デイジーはなかなか起きてくれない。これは苦労する。そしてもうひとつはデイジーに腕を引っ張られてベッドに誘い込まれないように努めること。このみっつめをクリアするのは生易しくない。
全4回

「爬虫類の骸」

 

市営野球場の裏のほうで、半生、もしくは半ドライと呼べるような干からびた大きな大きな爬虫類を猫がつついていた。Hはそれを見ていた。陽の光が真上から突き刺さる正午過ぎのことである。その猫に心の中で死んだ姉の名をいたずらに名付けたのだが、それによってHはこの世界を少しばかり広げてしまった気がした。一人の死者が蘇る瞬間。そのとき世界は一人分大きくならねばならぬだろうから。どこかの畑では赤ん坊が栽培され、いまやきのこ類は除いて農作物は完全密室の無菌の工場で育つという。とにかく、いま、ヒナと名付けたのだから世界は一人分広がる。そうでなければ僕たちの生活スペースはその一人分の皺寄せを受けて狭くなり居心地が悪くなる。人口密度が稠密な国や場所のことはこの際、置いておいても。だが、ぼわん。そんな具合に世界が膨張した気がしたが、実際、

「ヒナ」

といざ声に出して猫を呼んでみた途端、ぼわんと膨らんだ世界は元に戻りはしたものの、風船よろしく幾分か前よりもしぼんでしまい、Hは襟元が窮屈に感じられたのだった。猫は逃げていった。

猫はHの与り知らぬ所で即座にはねられて路肩で死に、襟元は緩んで呼吸は楽になった。

野球場は古ぼけていた。

野球選手たちが集合して、二列になり向かい合い、お辞儀をしているのがHには見えた。

彼らは小さかった。

「ありがとうございました!」

子供たちの声が響いた。彼らは子供だった。

野球場が、きらめいた。まるで化粧用コンパクトが開いたまま、無数に土の上に散らばっているように。なんて綺麗なのだろう? あの子たちの声がそうさせたのだった。Hも小さな声で、ありがとうございました、ありがとうございました、ありがとうございましたとさ、と呟いた。光線は乱反射し、Hのいるところまでをもおびやかした。鏡が散らばっているところで野球なんか危ないや!

短くなった煙草を口からすぐにぷっと吐きだすと、おもむろに猫がつついていた爬虫類の死骸のしっぽをつまんで、そんなグラウンドのほうに向かって勢いよく放り投げた。

子供たちのところまで、全然届かなかった。

「なあんだ、驚かせてやろうと思ったのに」

爬虫類は土埃混じりの風に吹かれ、千切れそうな箇所がたなびいていた。……

Hは無性に苛々していた。友人に約束をすっぽかされたからというのもその原因だった。電話にも出てくれない。そこで街を歩くことにし、広場まで行くと鐘が鳴り、昼の二時だということを知った。途端に彼はどこか店を見つけようと思わずにいられなかった。カフェでいいだろう、と店へ入りサンドイッチとコーヒーを頼んだ。手をつける前にトイレの前の洗面台へ行き、丹念に手を洗った。

さっきの爬虫類のカサカサした感触が残っていたのだ。電話に出られるわけがない、とその時思い当たった。まだ授業中なわけか。

鏡に映った自分を見た。

「うん。やっぱりそうだ」

この店では煙草はやめておこう、このシャツは子供っぽすぎるのだ。ガーゼみたいな生地で、胸ポケットが透けて、中に仕舞った白地に赤い丸の、この国の旗のような煙草の箱が見えてアンバランスだった。うっかり、癖で喫煙席に注文した物を置いてきてしまったが、急いで手を洗い終えたらトレーを持って移動しよう。ただでさえ停学中なのに。街をぶらついたのも本当はまずかったのだ。幸運にも誰にも見られなかったからよかったものの。この店だって学校からそんなに離れていない。野球場の裏で一服したばかりだというのに、もう一本あそこで吸っとけばよかったという後悔に苛まれていた。それからガーゼ風のシャツからは腕の傷もわずかに透けていた。よくよく見なければどうってことはない。本当なら奴が酒やお菓子も持ってくるはずだったんだ。それなのに約束した時間に現れなかった。停学を言い渡された自分と違って、奴には受ける授業があるのだから、仕方がないといえばそうなのだが。なぜ奴でなく僕なんだろう? 奴はヒヤシンスの球根の水耕栽培を、水の半分に注射器を使って抜いた自分の血液を足して行うくらい、とち狂っているというのに。髪の毛だって奴だけ脱色して金に近い髪色にしている。なぜ学校は奴でなく僕なんだろう?

「あの野球少年たち、今日は学校がないんだろうか!」

Hは突然そのことに思い当たり、鏡に向かって声に出した。後ろを通って行こうとする営業マン風の客が鏡越しにぎょっとしたが、Hは気がつかなかった。

ヒヤシンスの根は赤い血を吸わなかった。

答。血の色の花は咲かなかったということ。

どうでもいいよ、そんなこと。

それよりもあの子たちあのあと、あの爬虫類の死骸を見たかな。気付いたかな。しかしあれはなんていうトカゲなのだろうな。人生であんな大きなトカゲは見たことがない。飼っていたのが逃げ出して、否、故意に逃がしたのかもしれない。それが死んで。或いは僕が知らないだけで元々、世の中の草叢にはあんなのがたくさん暮らしているのだろうか?

「僕は体をぶるっとふるわせた」

Hはそう言い、更に考え事を進めた為、つい今しがた自分が注文して席へ置いてきたのがなんなのかを忘れはじめるところだった、

「……ああ、サンドイッチとコーヒーだ」

苛立たしそうに、どちらかの壁に手を拭く紙か、風の出る乾燥機がないかを探しながら、したたる水を、手を振って思い切り飛ばした。

その拍子だった。胸ポケットから煙草の箱が飛び出て危うく洗面台の水の中へ落ちそうになった。咄嗟にそれを掴もうとしたところ、Hは蛇口にしたたか手の甲をぶつけてしまった。皮が剥け、瞬く間に血がにじんだ。

Hは鏡越しに血を見た。声には出さなかったが、口が何かを叫ぶように歪んだ。

もう一度だけ、今度は血を流すために手を水につけ、そのあとで喫煙席から入り口側のガラス張りの窓際に移動した。……

「学校に行きたきゃ、行きゃあいい!」

Hはサンドイッチを飲み込んでから、また声に出した。今度は周りに客がいなかったので、誰かをぎょっとさせたりはしなかった。コーヒーを一口、二口啜って、またしても何か叫ぶように口を歪めた。本人には知り得なかったことだが、その表情は彼の後ろの壁に掛けられた白黒に赤の色の入った肖像画の表情にそっくりだった。だが、もしも彼が振り向いても、額装されたその絵と目の距離が近すぎて、像を結ばなかったであろうが。

あの子たち、あのあとあの爬虫類の死骸を見たかな? Hは考えた。

どうしよう、これから兄さんの部屋へ寄って、このあいだの絵の進み具合と、それと兄の子の様子でも見に行く? Hは考えた。

「いや……、やめておこう」

兄が今日は不在なんだったのを思い出したからだ。甥っ子は産まれたばかりでとても可愛いが、でも義姉さんと三人っきりになるのは嫌だな。義姉さんはいい人だけど、昔はもっと積極的に話をして、それが結構面白かったりもしたのだけど、甥っ子が生まれてから変わった気がするな。一番大きなことは、僕の冗談が通じないこと。まあ僕の言う冗談以外の話もうまく通じない時があって、僕はだからそうなるといつも甥っ子をあやすふりをして誤魔化したりするんだ。まるで僕の冗談を、言葉を良しとしないような……、甥っ子にそれらを聞かせたくないからとか? 赤ん坊の教育はいつから始まるのだろう? 子供ができて多分、神経過敏になっているんだ、きっと。大いにあり得る。だからやめて……。

Hは、ふと顔をあげた。自分の席の斜め前の先、レジの所に親子連れらしき二人組がいた。子供らしいほうは眩しい白の野球のユニフォームを着ていた。袖と腰のベルトと脛だけが赤いコントラストだった。親であろう大人のほうは注文した物ののっかったトレーを持って、足早にさっきHがいた喫煙室のほうへ向かって(大きなげっぷか、それか意味の無い短い鼻唄を発しながら)、行ってしまった。

野球少年のほうはというと自分のトレーを遅れて受け取ると、辺りをきょろきょろした。

そのきょろきょろのかわいらしいこと!

親が奥の喫煙室のほうへ一人入って行ったのに気付いていないんだろうか? お店の人は一連の様子を見ていたかもしれない、まだ子供なのだから、彼に教えてあげるべきだ、とHが見ていると、少年が振り返り、二人の視線はこの時初めてぶつかった。途端、少年の口が開いた。そして……、そしてなんたることか、少年はトレーを持ってHのテーブルに躊躇いがちではあったが近寄ってきて、今度はただ口を開いたのでなく、Hに向かって声を発するためだけに口を開いたのだった!

「あのう?」

Hは、ああ、やっぱりそうだ、と思った。

この子はさっき野球場で試合をしていたうちの一人だ、と気付いたのだ。あの人数いる内、はたして顔を覚えていたわけでは決してなかったが、ユニフォームがあそこにいたチームの片方と一緒だもの。Hはしげしげとそんな少年を眺めていた。少年の顔は、すこしシャープさがあった。この背丈に似合わぬ、やたらな肌の白さもあった。そばかすが少しあったが、鋭さには影響しなかった。少年は続けて言った、

「さっき野球場で煙草吸ってた人ですよね?」

今度はHのほうが口をあんぐりあけた。

Hは突然のその問いかけに大変動揺しつつも、そうだ、と答えた。まさか向こうから見えていたとは思わなかった。

……君は、野球を、していたね、と返した。

少年は材質がエナメル(恐らくそうだ)の四角い大きな鞄を肩に掛けたほうの片手でトレーを持ち直し、見事なバランスでもう片方の手で帽子をとってお辞儀した。普通の(こちらはエナメルでない)野球帽だった。アルファベットの大文字が一つ、ワッペンでついていた。帽子を取る前、それだけは確認した。だが思った。あれ。この子はレジ前にいた時、帽子をかぶっていたかな。僕は駄目だな、注意力という物が欠けている。だが、そんなことは吹っ飛ぶことが起こった、少年の脱いだ帽子の中からあふれてきたのは、豊かなブロンドのセミロングのくせっ毛だったからだ。

「はい、そうです。もしよかったら僕、ここに座ってもいいですか? お邪魔じゃなければなんですけど」

肌の色も白いし、この子はハーフかクォーターかもしれない。眼の色は薄い茶だった。あれ? 再びHは思った。さっきの親らしき大きな人物はこの国の人間だっただろうか、それはどう思い返しても確証が持てなかった。

しかしこの子は本当に野球をしているのだろうか。ユニフォームだけ着せられたひ弱そうな子供に見えるが(仮装だ、仮装、少年野球選手の仮装! ……そんなものあるのか?)。あの髪だって、本当は監督か指導者に五厘刈りにするよう下命されてしかるべきじゃないのか……。

だがそう考えた頃には、その髪はもう既にすっかり帽子の中へ仕舞われていて、もう目にすることはできなかった。その芸当を少年はトレーを片手で持ったままやってのけたのだ。

Hは自分の二つの黒眼が動揺で左右にぶれたのを感じたが、ようやっと机の上の自分のトレーを寄せて……、もちろんどうぞ、といった感じの返事をした。そして続けて言った。

「君は親御さんがどこに行ったかを探しているんじゃないの?」

あんなにきれいな髪の毛を、誰にも刈る権利なんてないじゃないか。Hはそう思った。本物の金髪!

「いいえ。父は奥の喫煙室にいるのを知ってます。いつもそうなんです。大人はあっち、子供はこっち。僕はいつもこっちです。……あなたはいまは煙草を吸わないんですか、あっちじゃなくていいんですか?」

Hは喫煙のことを触れられ、みずからの胸につい伸ばした手を止めた。そしてシャツのことを、席に着いた野球少年によく見えるように見せて、さきほど自分が思い当たった問題(子供っぽすぎるデザイン)と年齢のことを説明した。停学中だということは言わなかったが。

「あの髪の毛!」

Hはもう一度だけそれを心の中で叫んだ。

少年は何度もうなずいて、そのあとでカフェオレを一口飲んだ。猫のようだった。ごくごくとは飲まなかった、舌を出して、一口、二口だけ舐めた。Hもコーヒーを啜り、少年の姿をもう一度しげしげと眺めた。グローブやタオルを入れているであろう四角くて、エナメルっぽい材質の鞄は、足元に置いているらしかった。こういう鞄を僕は使うことは今までなかったし、そしてこれからもないだろうな、とHは思った。

野球少年ならではのバッグだ。

僕は時たま野球少年に憧れるな。

それも彼みたく小学生くらいの野球少年に。彼らにはなにか威厳があるのだ。僕は、大人や高校生の野球にはこれっぽちも、何も感じない。むしろ大人(プロ野球というのだろうか?)やあるいは高校生の彼らは、小学生くらいの年頃の野球少年の下手糞な模倣をしているだけにしか見えず、威厳なんてあったもんじゃない。金や根性を絡めた所で、それは果たして本物とは呼べない。野球少年たちこそ本物なのだ!

野球少年たちがただ道を行く様にも、ただ寄り道して駄菓子を食らっている様にも、ただ普通に電車やバスに乗っている様にも、つまり試合や練習以外の時であっても、僕は佇まいに悲しいほどの純粋で本当の威厳を感じるんだ。電車の扉の前に道具を置いて立ち、流れゆく風景を車窓から見つめる眼差し!

だからこの鞄にも僕は憧れるのだな。

そんなことは口にはしなかった。代わりに、それにしても、とHは言った、

「君のユニフォームは全然汚れてないね。きっと上手い野球をするんだね?」

Hはからかうつもりはなかった、本当に思ったことを言ったまでだった。

少年も笑った。しかし、その拍子に首をがくっと下げた。子供がよくやる、なにかの真似みたいなオーバーなリアクションだ。子供の漫画でよくある、ギャグを聞いてずっこけるあれだ。そして彼の場合はそれをおそらく謙遜を表すために使ったのだ。それでもHは彼のその行動に幻滅なんてしなかった。少年もHに幻滅していなかった。少年は言った、

「僕、上手くないです」

続けて、

「試合のあとはいつも父とどこか店でお茶をするんで、その為に汚さないようにしてるんです。泥だらけじゃこうやってカフェにも入りにくいですから。だから監督からはいつも怒られてるんです。今日の試合でもそんなふうなプレーだったから、約束通り今度からの試合はベンチウォーマーです」

「約束」とはなにか、とHは尋ねた。

「本気でプレーしてると見えなかったら、試合に出さないって監督に宣告されていたんです」

……それはどういうこと?

本気でプレーすれば自ずと、もっと汚れるということです。つまり、やる気がないって。

……僕は野球をあまり知らないが、本気でプレーをしても、きれいなユニフォームのままということもあるのじゃないのか、汚すばかりが真剣なプレーじゃないと思う。監督はちゃんとした人なのかい?

Hの見せた同情心に少年は答えた。

「ええ、まあ監督は頑固です。僕は、僕らはいつだって真剣ではあるんですけどね。だけれどもこれはもうしょうがないんです」

彼はそう言いながら片方の開いた手のひらに、拳骨にしたもう片方の手を一、二度ぶつけて(守備の最中にするあれだ)、ふっとすぐにそれがなんだか自分では恥ずかしかったらしく、手をテーブルの下に引っ込めた。そしてもう一度片手だけ出してグラス持って少し傾け、ぺちゃっと舐めた。少年が言った、

「ところであの時、ほら、野球場で。グラウンドに向かって投げましたよね?」

Hはコーヒーカップをたんっと机に置いて身を乗り出した。

「見たろ! あれ。驚いたかい?」

すると少年は口をつぐんで、顔の中心、鼻にきゅっと力を込めた。Hはそれが何を意味するかわからなかった。彼の親か祖父母の国での、何かの表しだろうか。いや、ひょっとして僕のことを悪趣味な男だと思っているんだろうかと、Hは考えを巡らし、怯んだ。

気持ち悪がられてるんだろうか? あんなトカゲの死骸を投げつけたもんだから……。

あれは悪戯の、それこそギャグのつもりだったんだと弁解すべきなんだろうか。でも、もし彼が僕に嫌悪の念を抱いていたなら、こうして僕に話しかけてきて一緒のテーブルでお茶をしているのはどういうことだろう?

少年が口を開いた。

そしていまの顔の筋肉の動きが、たじろぎの証だったとわかった。

「僕、……僕、あなたが何かを投げたのは見えたんです。ちょうど試合が終わってお辞儀して顔をあげた時。すごくいいピッチングフォームでしたね。はじめはびゅんって、そのあとゆっくり弧を描いて、何かがグラウンドに落ちたのは見えました。でも、何を投げたのかわかりませんでした。わからなかったんです……。雑巾みたいなものですか? それにしては、どてっとした重量のあるものに見えました。というのも、僕にはわからずじまいだったんです。監督に足止めを食らって……、宣告通りの次回のゲームのこととか、お説教とか、あれこれを言われたあと、あなたが投げた何かの近くまで、僕、一人で走って行ったんですけど、というのも、もう他の子は帰ってましたし、僕はそのなにかを独り占めしたい気持ちもあって嬉しかったんです。それで父を待たせてまでして走って、僕、見に行ったんです。でもその、それが、あなたの投げたあれがなんなのかわかる目前で、トンビみたいな、もしかしたら鷹、とにかく大きな鳥が飛んできて持ってっちゃったんですね。茶と灰色のあいだみたいな大きいのが飛んできて脚でガッチリ掴んでそのまま……」

Hの体は前傾姿勢のまま硬直していた。

野球少年が言った、

「あれ、なんだったんですか?」

Hはちょっと間をおいて、

「あれはさ……」

そしてそのまま、口を閉じてしまった。

少年は待ったが、目の前の人間がもう何も言う気がないのがわかるとぷんぷんして言った、

「えー、気になりますよ」

もう一度だけ、Hは口を開いて、なんでもなかったのだ、という感じのことを言った。それが本当に最後だった。

その時、奥の喫煙室からさきほどの大人……少年の父親……が現れ、大股で歩いて来た。

それを見た少年は、まだ大半残っていたカフェオレのグラスを掴み、口をつけて急いで飲み干した。ごくごくと飲んだ。グラスを思いきり傾け、最後の一滴をちゅっ、と音を立てて吸った。この時Hはこの子は試合のあとだというのにいま初めて喉が渇いているような感じだなと思った。今までぺちゃぺちゃ飲んでいたのはどういうわけだろう? でも少年はこの時喉が渇いているわけではなかった。机の下に置いた鞄の中にはスポーツドリンクの入った水筒が入っていて、試合のあとそれを飲んでいたから。だからさっきまでぺちゃぺちゃ飲んでいたのは……、

「ああ、僕もう行かないと!」

口の周りを手で拭いながら立ち上がった。帽子を再び脱いだ。真っ白なユニフォームを、Hは眩しく思った。父親に見られぬよう帽子と金髪で目隠しになるようにして、少年はHの唇に軽く口づけした。少年は頬を少し赤くした。

少年の父親は勿論、見ていなかった。大股歩きの速度を緩めなかった。少年を待つ気など毛頭無いようだった。そして少年にはそれが初めからわかっているようだった。

少年は素早くトレーを置きにカウンターに行くために一度、すでに自分のトレーを置いて自動ドアへ向かう父親とすれ違い、それから踵を返してなんとかドア前でそれに追いついた。彼の父親は、やはりこの国の人ではなく、この国のでない球団の帽子をかぶっていた。少年は出て行く寸前、Hのほうへ小声で、

「こんど絶対、なんだったのか教えてくださいね!」

そして親子は出て行った。……

そのあとで、だいぶたってからサンドイッチを割って口に放り込んだ。どういうわけだかまったく冷めていないコーヒーを一口飲んだあとで、どうも僕はあの子よりもずいぶんと子供っぽいなと、そう思ってまた一人でぼうっとしていた。ブラックコーヒーに、少年のミルクの唇の香りが足された。結局、少年が去ってから思い出したのだが、なぜ彼らが今日学校がなくて野球をしていたのかを聞きそびれてしまったことに気付いた。Hはサンドイッチの最後の残りをたいらげて皿の上を空にした。

「どうも僕は子供っぽくていけない」

このごろ特にそう感じる。第一、トカゲの死骸を喜ぶなんて。でも僕はどこかで、自分は誰よりも大人なんじゃないかとも強く思ってる。兄や母や父や義姉よりも。世の中の誰よりも。少なくとも学校の友達よりも僕のほうがはるかに大人だ。友達は煙草のあれが美味いだのこれが不味いだの、あの酒はどうだこうだというばかり大きな声に出して子供だ。でも、そんな彼らのことをそんな目で見てしまう自分のほうがもっと本当は子供なんだともHはわかっていた。彼らはいまを謳歌しているだけなのだ、罪などないのだ。そうHは思ってもいた。僕はなんにも楽しめていないんじゃないか?

「そうだ。さっきの少年に比べたら僕は何も楽しむつもりがないみたい」

でもあの子が特別そうなのかもしれないな。だってさっき、あの親子が店を並んで出て行った時なんて、なんだかあの子の父親のほうが退屈そうだったもの。そう、そもそも子連れで来て自分だけ平気で喫煙室に入っていくのは、しかも自分のお茶がすんだからって一方的に店を出ようとするなんて、身勝手で楽しみ方を知らない子供じみた行動だ。あの子のほうが、堂々と他人の僕に話しかけたりして時間をつぶして、よっぽどずいぶん楽しんでいたじゃないか。

「それにあの帰っていく時、あの父親が僕に向けた目、あの、なにか僕を疑るような目つき!」

彼はまた一人、声に出した。親子が去って行ったドアを、今さらながら睨みつけた。この時も誰も、Hがそうやって声に出したり、ぎっと睨みつけているのには気付かなかった。

だがHこそ気付いていなかった。あの父親がHをどんな目で見ていたか、わかるはずがなかった。何故ならあの父親は黒いサングラスをしていたのだから。だがHはそれを見ていたはずなのに、自分のことを変な目で見たと思っていた。Hの思考は次へと移った、戻ったともいえたが、

「そうか、あのトカゲは結局誰も見なかったのか」

またそんなことを考えた。誰かが見てくれれば、と思ったが、見たところでどうなったというのだろう。けれどもHにとって今や、あのトカゲを誰か別の人も見てくれれば、それは無性に嬉しいことだったのだということを、ただ悪ふざけでやっただけではないことを、Hにはちゃんとわかり始めていた。なぜならあのトカゲの死骸は、H本人があの場所にいたという痕跡を残す、重要なしるしになったであろうと、知らず知らずに思考が育っていっていたからだ。つまり、Hは自分の結末を予感していたともいえよう。

ただ、あの子と話せてよかった、という気持ちがありながらも、結局本当に誰もあのトカゲを見ることはなかったのだという事実を、あの子のせいで僕は知ることになってしまった、というやるせなさがどうしようもなく彼を苛んだ。

ああ。野球少年、君はすごい。ユニフォームを汚さず、自分の姿勢を貫いたんだ。僕は尊敬するし、愛情のようなものを感じる。残酷なほどに威厳を身に纏い、残酷な事実を僕に告げてくれた。それでも僕は君とまた会いたい。

彼と、もっとキス出来たら、もう少し違っていたかもしれないのに。昨日あたりから僕はずっと苛々している気がする。

「また、近いうち野球場に行くことにしよう。あの子は補欠だけど、僕は手を振ってやろう。そのあとでまた話をして、トカゲのことも、トカゲを僕がなぜ投げたのかも克明に話して聞かせよう、聞いてもらうんだ」

Hはそう思い、顔をほころばせた。

だがHは突然目を見開いた。あたりを見渡した。ぼんやりとした圧迫感を、体に感じたのだ。そして今、ぎゅっと目を閉じた。確かに先に殴ったのは僕のほうかもしれないが、その前から奴は僕に、よくわからない注意をしてきたのだ。それも何度も何度も。これは警告だとかなんだとか言い始めた頃には僕はもう我慢がならなくなったんだ。それで昨日、さらにむしゃくしゃして、学校の花壇の花を何本か折った。そしたら茎の中に針金が仕込まれていて、僕は危うく失明するところだった。誰かが、僕が花を滅茶苦茶にすることを知っていて、あらかじめ先回りして罠を仕掛けたのだ。これは紛れもない昨日の昼のことだ。あれはなんだったんだろうか? 危なくって仕方ないや、あんなもの!

と、私たちのHは思いがけず、ある夢の光景を思い出し始めていた、と我々は述べねばならない。しかしそれは実際は、「我々の」や「私たちの」Hの身に起こったことではなく、もはや彼が全身全霊をもってして、途方もない全責任を負わねばならぬ「一個人的なHの」身に起こったことであり、「我々のH」などと軟弱に、H、Hなどと我々が軽々しく呼ぶことなど、つまり甘っちょろい握手を結ぶことなど、当然端からしていない、本当の孤独に陥っていたHの精神的体験、それがこのあいだの夜のことなのだった。……

Hはある山を見たのだ。

深夜過ぎあたりに目が覚め、いつものとおりの寝相の悪さで、うつぶせの状態で顔を前にあげた。何かが僕を目覚めさせたと彼は思った。それはまるで、夜の泥濘が湯に溶けて、粘着質な物体となり眠る彼を圧迫して、ほんの一瞬の途切れに彼に息をさせた瞬間のようだったと思った。と、突然、山が鼻先にあったのだ。

それは厳密には夢ではなかった。

湯に溶けた夜は彼を襲った。

恐ろしいほどの現実だった。

実際はなんのことない、読書灯に照らされた毛布の表面が目を開けたHの前にあっただけのことだった。お気に入りの黄土色の毛布の端が、目を覚まして完全に頭が覚めきるまでの、あれは何分くらい続いたのだろう、一瞬ではなかったはずだ、その毛布が彼の前で木々のない丸裸の黄土色の山になっていたのだ。くっきりと稜線が象られていたのだ。

初めはそれが山にも毛布の折り重なった物のようにも、どちらにも見ようと思えば見られた。その時ならまだよかった。だが次第に僕はあれを、ジオラマと一瞬認識したのを通り越し、僕の焦りのような物がそれを確かに山にさせたのだ。今まで夜が溶けたと思い込んでいた気配は彼の頭の中に居座って、Hはその時、頭の中枢をもう奪われている、と感じた。そして山はそんな何かが見せている、あらゆるしがらみや意味から切り離された光景と思うしかなかった。山は「俺はお前のために現れた純粋で本当の山という景色だ、これこそが世界だ!」とHだけに呼びかけてくるような意志を持った、そんな景色だった。

恐ろしい真実の気配を持った、真実の世界の姿が目の前に現れたように感じられた。

Hは突如現れた山を、世界を、見つめていた。また、見つめ返されてもいた。

「なぜなら山の中腹を、僕自身が登っていくのが見えたからだ。そうだ。視界が急激にクローズアップされてそれが見えた。そして、視界はまた、山全体をとらえた構図に、元に戻ったりしたんだ。そうなると山を登る僕は蚤くらいの大きさだった。僕はその中にいて、この僕を見上げたのだ。いや、もはや肉眼では見えなかったが、そこを確かに僕が登っているという存在が感覚的にわかったんだ!」

今度こそはカウンターの向こうの店員がぎょっとした。

だんだんと、だんだんと、山は読書灯に照るただの毛布になっていった。景色と意味と認識が移ろいゆくあの時間をHはどう思い返せばいいのだろう? どう言葉でまとめればいいだろう? それを切欠に……予兆といえたが……Hはなぜこの後の全責任を負わねばならなかったのか。なぜその身に起こったのがHに非のない、貰い事故のようなもの、と軽く我々は片付けられないのか。なぜかといえば、それはHに残されていた蝋燭の芯そのものとぎゅっと結ばれ過ぎていた病だったから。ほどこうものなら、彼は四十二歳という若さであっても、同室の患者に絞殺されるまでのあいだ生きのびることはできなかったであろう。といっても芯は元の芯に接ぎ木された、彼の中に居座った仮寓の、病の芯であって彼の順風満帆な未来へ続く本当の芯ではなかったのだが。居座られたという、この夜の彼の感覚は真実であった。元の芯はとっくに燃え尽き、運命は路線変更していた。

山が元の毛布に戻った時、Hには山の背後の灰色の空までもが、薄暗い自室の景色に変わっていくのも見えたが、だがそれを見ているHのほうこそが、もはや元のHではなくなり始めることとなった、としか我々には言えない。あなたが目にしてきたHのことである。

「あれはどういうことなのだろうな」

Hはいつのまにか片手ずつ指をこすり合わせていた。爬虫類のカサカサした感じを、今度は必死で取り戻そうとしていた。

「あれはどういうことなのだろうな」

僕はあの状況に圧迫感を感じたし怖くも感じたな。

Hのその腕にはまだかなり新しい、と呼べる大きな傷があった。先程、蛇口にぶつけたのは手の甲なので、それではなかった。傷の深さ、大きさ、そして何針かの縫い目が自分自身をまだ新しく見せていた。腕のそれは昨日の今頃、教室のドアの窓を破った時のものだった。Hはなお指をこすり合わせた。次いで両の手を、こすり合わせ始めた。それが止められなくなった。停学。て・い・が・く!

「奴等め、学校じゃ僕のことをひどく言ってるんだろうな!」

途端、彼は心底ぞっとした。胸が圧迫され、息が上がってきた。そうなったらもはやトカゲも、何も、頭に思い描かれるのは破滅の使者としての感覚的な姿だけだった。それらは彼を絶望させた。この世界の本当の仕組みがわかった気がして、確信があたりに広がって行った。猫を呼んだ時のあの姉の名と、あの子の口づけ以外が押し迫ってきた。……

暴れる彼を床に押さえつけるには、カフェの店員だけでは数が足りず、警察が到着するまで、他の客たちまでもが彼の手足を掴み続けねばならなかった。押さえつけられた分だけその箇所が熱くなり、反射的に暴れた。

彼はそのあいだに、だんだんと自分の周りにあるもの、つまり椅子や倒れた机、グラス、トレー、折れ曲がったモップの柄、そして自分を押さえつける人々の腕や顔すらも、自分以外の、あらゆるしがらみや意味から切り離された、あるいは剥き出しの、「俺を見ろ」と絶叫し続ける物であふれた自分以外の、恐ろしい世界に跳梁跋扈する自分以外の邪悪な姿へと移ろいゆくのを感じられ、独りぼっちの息苦しい閉塞感に襲われた。

首を捩じってガラス張りの外を見た。

取り押さえられた自分の姿が、窓越しに、外を通り過ぎていく人々に、少しずつ盗み見られ、奪われていくのを感じた。

見えない位置に、少年がうっかり忘れたエナメルの四角い鞄が存在するのが感じられた。コーヒーの残りがひっかけられている。あの子がいまに走って鞄を取りに戻って来るぞ。ほうら、もう落ち着いて、立ち上がろう。声を掛けて、この人たちから解放してもらおう。だができなかった。あの子は、きちんとバッグを持って出て行ったのだ。幻想は自制の利かぬ妄想に塗り潰されようとしていた。野球少年に大事なあのバッグをよりにもよってあの子が忘れるわけがないじゃないか。

Hのなかでは、いま思い浮かぶ野球場のグラウンドの時刻は真夜中だった。グラウンドのあちらこちらに爬虫類が点在していた。それは半生、もしくは半ドライと呼べるような干からびた大きな大きな爬虫類たちだった。千切れそうな箇所が夜風にたなびいた。彼らのいる場所はHが日中見たコンパクトの鏡がきらめいていたあちらこちらだった。そしていま、爬虫類の骸たちが、ゆっくりと動き始めた。その光景を胸に抱きながら、Hは思った。ああ、あの子に番号をナプキンにでも。

僕、死んだ姉とはシュミが同じだったかも。

 

 

 

 

 

第一章

光が純真を守るなんて嘘だ。暗がりでも、無垢のままのものもいる。

体温の高い君の背中にそっと指先で触れた瞬間、ベッドの端に腰掛けた僕はようやく膝の震えをしずめることができたことに気がついた。もっと違うやりかたでこの部屋へ帰ってくるべきだったのだ。もっと早くにここへ、ちゃんと来られたらどれだけよかったか。エアコンによって一定に保たれている部屋の温度よりもはるかに、そして君の体とは対照的に、僕の体温は低かった。

 

「親類の葬儀」

 

幼いHがいう。

「デイジー、バスが来た」

「まだよ、嘘」

「嘘じゃないんだ」

「寝ぼけてないでタライにもっと氷を入れてちょうだいよ」

「もう溶けてなくなったの?」

幼いHはタライの中を覗き込んだ。

「とっくに」

デイジーはぱちゃぱちゃとタライの中で両足を激しく動かした。

Hは嫌ってほど、跳ねた水をもろに頭にかぶった。

デイジーはHの頭を片手で上から押さえつけた。

片手でといったが、デイジーの右手の手首より先は産まれた時から無かった。

だから左手だけで。そして足をぱちゃぱちゃ。

「デイジー、デイジーやめてくれ!」

「なにを?」

「僕の髪の毛がこんなに濡れちゃったじゃんか!」

「あんたがバスの話なんかするからでしょ」

「それとこれとに何の関係があるっていうんだよ?」

「あたしを怒らしたってことで十分関係あるじゃない!」

「ああ、ああ。悪かった。バスはまだだよ」

Hはこれで都合、四度も氷を台所まで取りに行く羽目になった。本当は足を冷やすのは間違っているのだが、デイジーがきかないのだ。台所まで座敷を二つ通らねばならなかったので、のべ十六部屋ぶん、行ったり来たりした。デイジーは畳の上のソファにずっと座ったままなのに。Hは三十八度五分、デイジーは三十七度四分の熱があった。僕のほうが熱が高いのに、とHは思った。だが、デイジーの熱は彼がうつしたものなのだ。家族が皆、出かけたのを見計らって二人でベッドで楽しんだあと、もともとHに熱があったためか、今度はデイジーの体温も高いまま戻らなくなったのだ。デイジーのその先の無い右手で触れられると、確かに感触があるのだ。それも相当気持ちの良い。実体のある普通の手よりも。それで体中を撫でられ、つままれ、しごかれて、されてみたまえ。幻肢とは本来当人が感じるものだが、このデイジーの無い手で触られると、触られたほうが感じるのだった。

「デイジー、でも本当にバスが来る頃だ」

「あたし、嫌。バスなんて。霊柩車みたい」

「だったらどうするの?」

「タクシーを呼んでちょうだい」

「お金は? また父さんの部屋から持ってこさせるつもりなの?」

「またって何よ? つもりって何よ!」

「姉さんはいつも、そういうつもりじゃんか!」

Hは姉の言葉にうんざりしていった。

「とにかく、霊柩車になんて乗らない」

デイジーは再び、弟の髪の毛をびしょ濡れにした。

 

 

 

 

 

第二章

 部屋の光源は一つだけだった。あれだけいったのに君は同じ水槽に暴動魚を何匹も入れたね。赤や青や紫や緑や黒の色をした暴動魚は繰り返し繰り返し互いを傷つけあって、もう今は一匹もいない。今はその水を張った大きな水槽だけが明るい。

 静かに立ち上がり部屋の中央のベッドを回り込む。ナイトテーブルの上のラジオは時折、電波を掴む。前髪を短く切っているにもかかわらず、君の顔は隠れていてよく見えない。

ベランダに出て、手摺りに軽く両手を添えて見下ろすと、ミニチュア模型のような水族館が見える。イルカが輪をくぐるショーが見える。しかしそんなはずはないのだ。真夜中なのだから。

 

「迫害」

 

Hは朝目覚めるとやることがみっつある。ひとつは朝食を作ること。これは簡単。パンを焼くていどだから。ひとつは姉のデイジーを起こしに行くこと。デイジーはなかなか起きてくれない。これは苦労する。そしてもうひとつはデイジーに腕を引っ張られてベッドに誘い込まれないように努めること。このみっつめをクリアするのは生易しくない。

Hは八歳、デイジーは十二歳。

手や口を使うだけで済むことはまずなくて、きまって最後までいく。本当の絶頂を迎えるのはまだまだ姉のデイジーのほうだけなのだが。

もちろんそれは兄や父母、家族が出掛けた後に行われることが常ではあった。でももともと家を最後に出るのはたいてい彼ら二人なのだ。彼らは典型的な朝寝坊主義だったから。とにかくHが起こしに行ってから一時間は白いシーツがごそごそと出っ張ったり引っ込んだりする。そのあとでHの作った朝食を食べ、彼らは人もまばらな街へ出てバスに乗る。巡回バスだ。適当な店を見つけてコーヒーを飲む。デイジーはバスの中では眠りこけているので、Hは彼女の手を掴んで降車する。

デイジーには夢遊病というか癖があって、眠っているときのほうが頭は冴えてる。

途中、車窓から、音楽を大音量で流して映画かドラマの撮影しているのが見えた。寝ぼけ眼でデイジーが、あれは有名な歌手のビデオの撮影だろうといった。Hはなるほどとうなずいた。デイジーは、この街の美術大学の映像の学科が絡んでいるのだろうともいい、Hはまたもうなずいた。

途中、車窓から、箱のような筐体を三脚にのっけた機器の前に子供たちがもじもじ十人ほど並んでいて、そばで中年男性が困り果てているのが見えた。寝ぼけ眼でデイジーが、あれは測量機をカメラだと思って子供らが写真を撮ってもらえると思って並んでいて、仕事にならなくなった測量士が途方に暮れているのだといい、Hはなるほどとうなずいた。デイジーは、途方に暮れている測量士といえばKというのが出てくる小説が家にあるから今度読むようにといい、Hはまたもうなずいた。

途中、軽飛行機が墜落していた。黙々と煙が出ているので、バス運転手が窓を閉めるようにアナウンスで告げた。墜落した場所はフェンディやプラダやドルガバのような高級店ではなかったが、みんな火事場泥棒で煙に咳き込みながら店内の品物を盗んでいくところだった。寝ぼけ眼でデイジーが、あれはもともと爆弾を載せてこの先のフェンディやプラダやドルガバのような高級店に抗議の意を込めてつっつこむ自爆の予定だったのがその手前で墜落したのだ、といった。高級店を狙ったのは、まあどこでもよかったのだ。高級車同士の連続玉突き事故のニュースみたくテレビが注目してくれるとでも思ったのだろうといい、Hはなるほどとうなずいた。デイジーは、もうそろそろ火薬に引火して爆発するだろうといい、Hはまたもうなずいた。

直後、大爆発がバスの後方で起こった。バスがスピードを上げた。

Hとデイジーはぼーっと前を見つめたままシートに納まっていた。

様々に、見えてくるもの、聞こえてくるものを街では愛することが肝心だ。それを騒音や敵やノイズと受け取ってはならない。街を愛する僕らは愛されている。なんにせよそう思うことはよく生きていくヒントだ。愛でる。愛される。でも、誰に? 少なくとも僕らが僕ら同士愛し合っている。それに疑いをはさむものではない。

デイジー、デイジー、デイジー……。

姉のデイジーの本当の名前はお墓に刻まれている。

デイジー、デイジー!

幽霊よ、願いをいえ!

はじけるポップコーンのように、僕は(とHは思う)彼女とともにいると考えると、飛び上がらんばかりに心が跳ね続けるのをこの胸に感じる。

適当な停留所でHはデイジーの手を引いて降りる。振り返ると、走り出したバスのお尻が黒く焦げていて変な匂いがした。二人は歩き出した。……

今日訪れたのは碧い目の外国人たちがいつも迫害を受けているカフェだ。彼らだけ割増料金なのだ。それに彼らに出されるのは作り置きしてラップのかけられた薄く平たいパンケーキのみ。電子レンジでわずかに硬くなくなるくらいに温められて、店の者の手で皿がテーブルに運ばれてくるが、ラップを剥がすのは彼ら自分の手でなのだ。それから彼らに出されたナイフやフォークはざらざら錆びついている。一度も洗われた形跡がない。だが彼らは他に店を知らないからいつもここへやってくる。

「あなたはそれで納得しているのか?」

とHは一度、ハンチング帽の老人に尋ねたことがある。彼の目は碧くうるんでいて、淋しそうに頭をわずかに横に震わすだけで、強く否定も肯定もしない。痩せさらばえた頬の肉がぷるぷると震える。それは怒りのためか(碧くうるんでうるんで濡れてべちゃっとした目は非人間的にも見え、無感情にすら思える)、枯れ果てた最後の涙をまとって泣いているためか、それともただの老人性の力動的緊張のためなのか、とにかく……

 

しょうがないんだ。

 

といっているようだ。ぺちゃんこにへこんだパンケーキに赤錆が付くのも構わずフォークを刺し、口に入れ、ひどくゆっくり噛む。もちろんメープルシロップなんてものはない。

他にも、孫から祖父母までの三世代の家族連れなども初めて来た時、マナー知らずだったので迫害されている。あんなに人数がいるのに、いまやカフェの隅で無音で食事をしている。

でもみんなここへ来る。

そういえば店の窓から隣の建物とのあいだを覗くと、そこには店の主人と同じ国の(この国の人ではない。だが顔は我々によく似ている)男が警察官らしき制服を着て一人、いつも立っている。警備員としてそこへ立つのか、彼とは目が合ったことがない。誰とも口を利かず、立っている。店の主人はこの男がいるにもかかわらず、しょっちゅう警察に電話をかけて、客との些細な揉め事を解決してもらう。呼ばれてやってきた警官と、立ち続ける男の眼差しがぶつかることもあり、その都度、ビープ音のみの音声の欠如した信号をトランシーバーで送りあう。彼らの眼差しの中間地点に割り込んでとある計測器を作動させると、たくさんの言葉が印字された紙が吐き出される。計測器(なんでもよい。ポケットに入るような大きさが一番好ましい)は紙切れのランプが点滅し、ロール紙が枯渇するまで、会話を活字に置き換えたものを吐き出し続ける。たいていは罵詈雑言だが、時折、片方が下手に出て、

「いくらだ?」

「いくらにまける?」

「高い」

「誰がさせるか、このカマ野郎」

と最終的に喧嘩別れという、定型的なやりとりをする。

実はこの警備員のような男は元・入国管理局の人間なのだが、今も局からそこへ立つと金がもらえる仕組みになっている。どういう仕組みかは、彼に聞いてみるといい。きっと無視されるから。

コーヒーを飲んだあと、姉弟は玩具店でパーティーグッズのクラッカーをたくさん買ってから家路についた。

家で二人はクラッカーをぶっ放す。

デイジーはどうやって紐を引くかって?

幽霊にだって義手はあるんだよ。服や下着もそうでしょ?

そして二人はまたベッドで楽しむのだ。

 

 

 

 

 

2019年5月13日公開

作品集『デイジーズライトハンド』第1話 (全4話)

© 2019 多宇加世

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