序
ばりッばりばりッと耳つんざく音を立て、炎が柱を駆け上がる。
あちらこちらへ手を伸ばす烈火に、呑まれまいと、人々は我先にと走った。火は床を焼き、屛風を焼き、壁を焼き、屋根を焼き、都中を焼いた。闇夜に不吉な明かりが揺らぐ。
がむしゃに逃げる人々は、腕を振り上げ、必死の形相だ。着の身着のままで、肩に引っ掛けた衣を引っ張り合う。
「矢頭奴が火を放った」
「武者上がりがッ まさか奴ら天下を握る気か!」
「だろうよ! えれぇ人の首をはねっところ、見ちまった。一人だけじゃねぇぜ、何十人もの首が転がってんだぁ」
何とか高台の寺に逃げのびた人々は、不安に浮かされ饒舌になる。唇が乾き、痛みを覚えるのも構わず、喋り続けた。
「ありゃひでぇ火の海か! 矢頭奴の奴ら、油でも撒きやがったかッ」
男の一人が声を上げる。寺の石階段から下の民家は、燃え上がる炎に巻かれ、今にも崩れ落ちようとする。あの下にいたならば、命などないだろう。
時折風に乗って、人々の泣き叫ぶ声が聞こえて来るようだ。ぶるぶるっと男は身を震わす。湿り気のない寒風は、さらに火を煽ってみせた。
「おい、ここも危ねぇんじゃないのか……」
火の粉を両手で振り払う。高台とはいえ、寺の境内は狭い。火に囲まれれば、ひしめき合う人々が逃げ場を失うだろう。
「いや、ここには仏様の加護があるはずだぁ」
答える男も、声に微かな不安を滲ませる。
「あのう、おれのおとうとおかあ見なかったか?」
と、こちらへ走って来る子供の姿があった。子供は立ち止まるなり、ぜぇはぁと荒い息をして、激しく咳込んだ。
「お前、大丈夫かい?」
小さく丸めた背中を、男が叩いてやると、幾分かましになったのか、堰を切って話し出す。
「一緒に逃げてたんだぁ、けど、途中ではぐれちっまて。おれのおとうと、おかあ見てねぇか? おかあは髪を一つにくくってて、おとうは背が高ぇ」
子供は黒ずんだ手で目を擦り上げた。目元にべったりと煤がつく。
男達は互いに顔を見合わせた。そんな平凡な特徴を備えた男女なぞ腐るほどいる。可哀そうに、もう見つからないだろう、子供の頭上で囁き合った。不安そうに子供は俯いた。やがて、見かねた一番年かさそうな男が答えた。
「子供を探してるって人は見てねぇな」
子供はそれを聞くなり、きっと顔を上げ、「じゃあ、おれのおとうとおかあがいたら、おれが探してたって伝えてくれよ」と、また駆けて行こうとする。
「あっ待て! お前、名前は何ていうんだい⁈」
男達は後ろ姿を慌てて呼び止める。
「おれの名前は―――」
その時、子供の振り返った声を、人々のどよめきが掻き消した。あっ火がッ、女の悲鳴が境内に響き渡る。見ると、寺社に乗った火が屋根に踊る。火が燃え移った。
「火ぁ事ぃいだぁッ」
前後左右、一斉に逃げ惑う。走る人々の手足が次々と、子供の肩にぶち当たった。痛みで子供は身を固くする。足が竦んで動けない。
「何ぼうっとしてんだッ 逃げるんだよ、早く!」
先程の男が怒鳴った。あっちへ行けと、腕を振る。走り出した子供を見てから、男も走る。熱風が耳元をかすめる。火の手はすぐそこまで迫っていた。
*
「はぁ 喉が渇いてしょうがねぇ」
「どこまで行けばいいんだぁ」
逃げる人々のぼやきが寺の森に反響した。
ひりひり痛む喉に子供は顔を顰めた。草履はとうの昔に脱げ、裸足である。踏み締める土はひんやりしているのに、身に当たる風は熱い。鼻から口から入り込む。玉の汗をかいて、石階段を駆け下りた。子供は今、石階段を降る集団に混じって走っていた。
「はっ話が違うぞ! これじゃあ逃げられないじゃないかッ」
先頭を走る男が大きく喘ぎ、体を折り曲げ、咳をする。続いて下へ辿り着いた子供も、その光景を目にする事となった。
いまだ激しく燃え上がる炎が、目の前の家々を焚き上げていた。すぐ近くの杉が火に呑まれ、軋み、耳障りな音を立てて倒れる。地響きと火の粉が、子供の耳と目を襲った。
「麓はもう火が消えたんじゃないのか!」
「は、反対側も火がッ」
「山から炎が下りてくる! もう駄目だッ 逃げるところがねぇ」
下へ着いた人々が口々に叫ぶ。後ろからも前からも炎に囲まれ、完全に逃げ場を失った。炎の熱が人々の肌から湿り気を奪う。それだけではない、間接的に喉を焼き、目を焼き、肺を焼いた。煙で、涙が目から垂れ流しになりながらも、子供は前を見続ける。
おとう、おかあはきっと生きている、自分がこっから逃げさえすれば必ず会える。諦めかけた心を奮い立たせる。
そして、子供は小さな希望を見つけた。
「あの平家と茂みの間ッ あそこなら逃げられる! 衣を上に被せたら、火が防げそうだ」
人々を取り囲む炎の中、一カ所むらがあった。あそこさえ通れたら、すぐ先に川がある。
あともうちょっとだ、子供は目を輝かせ、隣の大男に伝えた。火の大きさからして、子供一人では、衣を被せることはできそうにない。誰かと力を合わせれば、すり抜けられるはずだった。しかし、男は子供を一瞥すると、
「なら、お前がその衣になれぇ!」
子供を蹴っ飛ばし、火の中へ突き落す。下駄が背中にめり込んだかと思うと、悲鳴を上げる間もなく炎に巻かれる。
あつい、あつい―――もう声にならなかった。ただ口から無意味な濁音が吐き出されるばかりだった。
「やった、やった 俺は助かるぅ! ここから助かるッ!」
大男は小躍りして、小さくなった火を飛び越える。それを見た周りの幾人かも、飛び越える。その間も、子供は炎の中をもがく。視界の中央を炎に奪われ、叫びながら地面に転がる。半身を、無数の砂利が擦り上げた。
どうして、おれがこんな目に合うの? おとうとおかあには会えないの?
蹴り出した足が突如、じゅっと湿った音を立てる。あっ川だ――激しい痛みと共に、力を失った体は川へ落ちた。
じゅっじゅっ、先程よりも大きな音が耳元でする。半開きになった口から、容赦なく水が入り込む。子供の意識は、暗い水底に沈んでいった。
第一章 葦丸
1
「ごらぁ盗人がぁあ!」
真新しい木材の上、並べられた魚を手にした途端、頭上から剣呑な怒鳴り声が降ってくる。だから、その筋張った指は急いで、ひっつかんだ魚を袖の中へ、二匹三匹しまい込んだ。
「こぉの糞餓鬼ッ」
亭主が箒を振り上げたのを、見るや否や、糞餓鬼と呼ばれた子供は、継接ぎだらけの頭巾を引っ張り、袖をたくし上げ、右肩を大きく突き出した。
「おやじ、これ見えっか?!」
「ひぃいッ」
情けなくのけぞった亭主は、均衡を崩して、桶につまずきすっ転ぶ。糞餓鬼はキシキシと歯の隙間から、息を漏らして笑う。
「ははッびっくりしたかぁ おめぇ」
無理もない。露わになった糞餓鬼の右腕から右手には、皮膚と皮膚が溶けあい、骨が剥き出しになった醜い傷痕があった。嘲るように細められた目も、左右とで大きさが異なる。右の相貌は、腕と同様、深い火傷の痕があった。
「化け物ンみてぇだろ? この前の都ンの火事でこうなっちまった。おめぇも火事に気をつけろよッ」
と、七輪を蹴っ飛ばす。網の上の焦げ目のついた魚は宙を舞い、それを待っていた猫も呻って飛び退く。幸い火は地面を小さく滑って、すぐ消えた。
亭主がそれを見届ける間に、糞餓鬼はもう大通りの角を曲がっていく所だった。半身を火傷しているにもかかわらず、すばっしこい奴だ。いまだ尻餅ついたままの亭主は
「でたぁああ 葦丸がでたぞぉおぉ」
と、力の限りに叫んだ。一斉に通りの女、男らが振り返る。何だと! 奴が出たのか! すぐ近く店を構える亭主らが集まって来た。
葦丸は、この都通りで悪名高い糞餓鬼だ。物をすぐ盗み、壊し、そしてあの恐ろしげ
な火傷をこれでもかと見せつけてくる。特に被害を被ったのは、市場の露店だった。品物はこっそりと、時に堂々と盗まれた。
こうしちゃおられねぇ。腹に据えかねた亭主達は、葦丸を追い払おうと、徒党を組んだ。葦丸は川辺の葦原に住んでいた。
2
帰りはやけに体が軽かった。
いっとーにいとーさんとーしいとー、道によれて突き出た小枝を飛び越える。頭の中では自分は旋風だ。そのたび魚の入った袖は、ずっしりとした質量を伴って跳ねた。糞餓鬼こと葦丸は、なんだか楽しくなって、きししと笑った。魚屋の亭主の驚愕顔が、今でも目に浮かぶ。
都の大火から、朝廷が、いや国中が騒乱に陥った。天下を取ったかに思えた矢頭奴の棟梁が、腹心の武者に殺されたり、東国の武者が帝の弟君と組んで謀反を企んだり、あっちこっちで諍いが起こった。けれども、そんな事に気を揉むのは貴族だけである。
市井に生きる人々は、己の生活を立て直す事に注力した。僅か一週間余りで仮小屋ができる。二月もすれば市が再開された。都中の家々が真新しい杉の香りを漂わせた。人々は互いの顔を見合わせ、安堵した。ようやく住む家ができた――家族一丸となって更なる発展に努める。けれどその中で、拠り所のない葦丸は、人々の輪から弾き出されていった。
葦丸が、肌の痛みで身を起こしたのは、どこかの川辺だった。水草がゆらゆらと口腔を、出たり入ったりした。水が器官に入り込んだのか、えずきながら、四肢を使って土手を這い上がった。
寺から石階段を下って――絶対に見たことのある景色のはずなのに、見渡すばかり、黒く焦げた木やらの残骸が転がっているだけで、ここがどこなのか見当もつかなかった。
北風が、木片と煤とを一緒くたにして吹き上げる。それらが容赦なく、葦丸の頬を打った。つんとした嫌な臭いが、辺りに立ち込める。
「おとうーおかあー」
そうして都中を彷徨っている時だった。微かに幾人かの悲鳴を押し殺した声が聞こえた。何事かと、葦丸は後ろを振り返る。すると、
「うぅうわぁあ! おめぇ顔がねえ」
腰を抜かして後ずさる男がいた。言われて初めて、両手を顔へ持っていく。左はちゃんと鼻がある。けれど右は明らかに凹凸が無かった。触れた瞬間、鋭い痛みが走った。呆然と歩き続ける葦丸に、
「ここれやるっ、なっ? 勘弁してくれよぅ、近づかないどくれ!」
震える手で男が差し出したのは、白飯のおにぎりだった。一粒一粒が、朝の日を受けて、つやつや光っている。思わず喉をごくりと鳴らす。火事前ですら、食べた事のない代物だ。受け取るのを見咎められやしないかと、葦丸は肩中を丸めて辺りを見回した。黒く焼け落ちた家の残骸から、幾人かの白目が見え隠れする。彼ら彼女らは、葦丸の視線から逃れるように、素早く顔を伏せた。
――あぁこりゃ商売になるな。
空腹に任せて、葦丸はおにぎりをひったくると、貪り喰った。指についた米粒、口の端についた米粒をも、舐めとって食べる。目の前の男は縮み上がって、更にもう一個おにぎりを投げて寄こした。うめぇ、うめぇ。躊躇する事なく、葦丸はそれを拾って食べた。掴み取る腕も焼けただれている事に、この時初めて気付いた。
そっから荒れるのは一瞬だった。葦丸は自分の顔や腕を悪戯に見せては、食い物をたかった。これに飽きると、今度は脅かしてから盗むようになった。
こんな物が怖いだなんて。ふざけて右頬の皮膚を葦丸は引っ張ってみた。やはり、己には左頬と何ら変わりはないように思えた。いつまで経っても慣れず、怖がる人々を、葦丸はせせら笑った。けれどその一方で、腹の底は嫌にむしゃくしゃした。人々の表情が、右腕を捲り上げた途端、頭巾を脱いだ途端、歪められるのが気持ち悪くてしょうがない。
鬱憤を晴らすかのごとく、物を見れば盗み、壊した。そのくせ、川面に映る自分の姿を見るのが恐ろしかった。火傷の傷痕に、まだ慣れていないからじゃない。人々を睨む己の目つきと対峙するのが怖かった。
お父とお母はいまだ見つからない。それで良いような気さえした。人々の群れに近づく度、傘が雨粒を弾くかのように、人々の輪は自分から離れていった。それならば、己の方を向くようにと、暴れてみせる他なかった。
走りながら、袖の袂より、盗んだ魚を一匹取り出した。指の腹で撫でると、複数の鱗につーっと爪で引っ掻いたような傷がいっているのが分かった。持ち上げて、じっと目を見る。白く濁った汚い目だった。
すぐ食べてやろうね。葦丸は、緩やかな手つきで、魚を袖の中へ戻した。少しも荒い音はしなかった。
道の両脇に、再建の追い付いていない焼け焦げた家の一帯が、そびえる。黒く折れ曲がった骨組みは、曇天と相まって、圧迫感があった。市のある大通りと比べて、その荒廃具合は凄まじい。
葦丸は鼻をつまんだ。ここは酷く埃っぽい。灰と煤が上へ下へと不規則に辺りを飛び回る。大通りの杉の香りとは大違いだ、捨て置かれた――という気分に浸る。
前へ前へと差し出す手足の産毛が、徐々に水気を孕んできた。じんなき川の葦原はもうすぐだ。葦丸はさらに早く足を繰り出す。土から砂利へ、砂利の間に生える苔を、足の裏は詳細に伝えてくる。葦丸は、足の指がぬめる感覚を楽しんだ。
土手を降りると、遠くからでも背の高い葦が目立ってきた。風に揺れる水草が、根元から川に水紋を起こす。
あぁ疲れた、頬を膨らませ葦丸は腰を下ろした。水草の蔭からセキレイが飛び去った。セキレイの白と黒の翼が川面をかすめ、新たな水紋を刻んでいくのを、葦丸はいつまでも飽きずに見ていた。
「おいッ! あそこにいたぞ!」
と、呼び掛け合う野太い声がする。そして、大人数が騒々しく草木を踏み荒らす音がした。ぱきんと小枝が折れた。
葦丸は振り返った。こちらへ男達が走って来るのが見えた。
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