ひと殺し

中田満帆

小説

6,731文字

ひと殺しについての短篇。「月曜日と出会うとき」改作。

かれにとっていまいましい月曜日の、早い時間というのにもかかわらず、子供が誘拐された。仕事にでられず、さんざあたりを走りまわって、いやな汗をうんとかきながら気も狂いそうになる。だれだってそうなるに決まってる。そうでないというやつがいるのなら、かれはそいつのつらにくそのまじったクリームパイを投げてやるだろう。週明けには入荷量が限度を超える。しかも1月だ。手いっぱいというところ、さんざ時間というやつに追いまわされ、ついに通報しようとした矢先だった。犯人がわかった。かれの妻だった女だ。子供の母親だ。かれにとって月曜日はいつもなにかが毀されて、それをまともみてしまうもの。
「もしもし、うちの子供の様子がおかしいんです。それでいちど病院へと」──出勤できそうですか?──ええ大丈夫です。午后からむかいますので。すいません。──次からは気をつけてください。
離れたい、別れたいといいだしたのは女のほうだ。家事もやらず、子供に関心も持たない。パートタイムの仕事には執心で、昼も夜も遣い果たし、みてくれのいいやろうを捕まえていった。元ストライカーのスポーツ気狂いと。夜の試合が好みで、そのほか大勢らとやじを飛ばすのをなりよりの快楽としているらしい。かれはそのやろうをいちどだけみたことがある。いつかの月曜日、近所のスーパーマーケットにでかけていったときだった。深夜、終夜営業のその屋でベーコン、卵、香料、ライム、ウォトカをそろえていると、酒の売り場をふたりが立っていた。でもかれはなにもいわなかった、──いえなかった。かれにしてみれば、ずっとばかたれ女のことが好きだった。ぜんぶかれが惚れてはじまったまちがいに過ぎない。かれにとってはあのばかたれ女が、かれのお姫さまだった。とても大事なものはずだった。かの女はきれいだったし、多くのやつらに抱かれてたことは知ってても赦すことができた。機嫌がわるいとき、かれはどうにかかの女を慰めようと手を尽くした。
かの女も少しづつであるが、かれのわるくないところもみてくれた。だのにそれが出産でおかしくなっていった。はじめはたんに産後の体調がよろしくないんだろうっておもってた。でもちがう。とにかくよそよそしい。せっかくの子供にも興味がないみたいだった。どうなってたのかはいまもわからない。でもいまじゃどうだっていい。
いいたいのは、かの女にはあきらかに悪意があったってことだ。かれのような安物の労働者を朝からひっかきまわすなんていかれてる。狂ってる。まったく、でたらめでなんの意味があるのかもわからない。どうすりゃいいっておもった。でもとにかく遅刻の連絡をしたあとで、さらに欠勤の連絡を入れた。正后はとっくに過ぎていた。ばかげていることだとはわかっている。でもいかなきゃならなかったのだ。あの女のところへ。──いってどうなるというのか。
もちろんあの女がいかにくそったれかを子供のまえで明かしてさっさと立ち去ることができればいい。かれは詩を書いていた。言い回しには自信があるはずだった。称賛するひとびともいる。でもほとんど女なのがかれには不満だった。男色というのではない、ただそれまで女に受けた屈辱であたまがどうかしている。まるで賛辞を送られても、拍手の仕方がへただといって責めているようなものだ。だれともわかりあえはしない、ひとはひとを遠ざけるためにいる、かれにとって結婚がそいった考えを甦らせた。それまでは少しだけでも通じあえるのがあるだろうという、あやふやさのうちで暮らして来た。だというのに手を触れあったもののためになにもかもが瓦解していく、瓦解している。なにをどうすればいいのかがわからない。子供が連れ去られた。それでもいまはもう顔が冷たくなっていた。通勤経路を大きくはずれ、駅がみえてきた。車を走らせ、女の家にむかう。私鉄付近のアパートメント。そこへ入っていくまえ、とりあえず知り合いに電話をかけた。
「なあ、これから女に──元妻へ1発かまそうとおもってるんだ」──離婚したんだろ?──関係ないじゃないか?──聞いてくれよ、朝っぱからやつは子供を攫いやがった。おかげに仕事に穴だ。──わるいけど、おれは働いてないんだよ。ほかのやつに電話してくれって。──おまえしかいなかったんだよ。──ちょっとしたいやがらせってわけだ?──ところでおまえの女はどうしてる?
「おれのか? なんの問題もないね」──通話をあきらめてゆくっりと扉のまえに来た。なかからいそがしい子供たちの声、かの女が叱る声がしている。若い元妻、そして中年のやろう。3回ノックしてようやく女がでてきた。子供はもちろんかれをみて喜んでくれた。ひと安心ってふうだ。もう2年育ててきたのだ。あの女よりもおれのほうが親としてなってるはずだ。肩をいからせてみて、まるでちからの入らないのを覚った。暖房の効いた室で下着みたいなかっこうでかの女がかれを見あげ、ゆっくりとなかに招いた。なにもない起こってはないのだ、かの女のうちではいつもどおりの1日が歩いていく。かれは居間で腰を降ろすとき、あたりを見渡した。くだらない装飾でいっぱい、ものが溢れ、そこらじゅうに転がっていた。
「なにか用なの?」──なにか用だって?
かの女は長椅子にだらしなくなって、かれのほうはみない。子供は、娘はお気に入りのおもちゃをかれに教えてあげる。少女のかたちをした人形、その笑みがとても白々しいものに映り、声がつまる、舌がとても渇く。どういう意味だ?──その通りの意味よ、あなたばかなの?──ながいあいだなにもいえなかった。どうにかして舌や歯を震わせてると娘がかれの胸に顔を埋め、それでやっといえた。
「誘拐は犯罪だ」──じぶんの子供を連れていってなにが犯罪よ?──娘の手がかれの肩を掴んだ。まだまだ、なにもはじまってはいないというのに対話は、もう終わりかけている。かれは抗おうとして、
「ふざけやがって、聞け」──うまいぐあいに相手の悪意を指摘しようとした。なんども車のなかでかっこのいい科白を練習していた。直前にいったコンビニエンス・ストアでも店員相手にだって、空想のなか、なにかことばでやっつける練習をしていたのだ。でも実際にむかいあったらなにもいえなかった。まえとおなじようにかの女をお姫さま扱いしてるじぶんがいる。
  いきなり連れていかれたら、こっちだって困まるじゃないか。
   でもお母さまには伝えてあるわ。
  うそはやめろ、あけっぱなしだった、裏口が。
   それはそっちの問題。
  仕事さぼってまでここに来たんだよ。
   それもそっちの問題。
  お願いだ、少しはおれのことも考えて欲しい。
   それもそっちの問題。
「卵を突き落とすようなまねはやめてくれ──なにそれ?──ハンプティ・ダンプティ、卵男。どういう意味?──だからマザーグースは好きじゃないんだ。──わたしことはどうなの?──わからない。──まだあたしに気があるの?──わからないよ──わたしはあんたのその、文学者きどりがきらい、いまもそれでむかむかしてるの、もう終わったのを蒸し返さないでくれる? ねえ? 聞えてる? なら答えて! あんたはいっつも黙ってるばかっり、ほかのひとからいわれなきゃ動けないもしない、できそこないのあほ! それでぬけぬけと好きだとか愛してるとかいってて恥ずかしいとおもわないの? コウガンムチってあんたみたいなやつのことをいうってわかった。少なくてもそれだけはよくわかった、はっきりと。ねえ、知ってる? 塵は塵箱に入れるの。お解り? ねえ、ねえって! ちゃんと喋ってよ!
科白につまった役者みたいに、その場に立ったまま、かれはおもった。こいつには勝てないんだ。まったく、あんなくそったれだというのに。ぴっちりとした服がそそる。長い脚にも。なんでこんな気分になっちまうんだ? なにもいえずに立ちつくしてると、かの女が微笑んだ。ずっとまえ、婚前の日のようだった。おれはまだ惚れてるのか?──けっきょくみてくれが好きなだけだったんだ。ほかにはなにもないのに愛していると勘ちがいしていたのだ。
そのとき、男の声がした。巨きくて荒っぽい。
「いい加減にしてくれ、ヌケサクども。時計みてみろよ、ばかたれ、おれの室だぞ!」──寝室からやろうはやってきた。身の丈のある、ちょうどパンサー戦車みたいなからだをしてる。12ヤードを3秒で飛び越えそうな足が、胴体部分から生えてた。蹴られでもしたらどうなってしまうだろう。壁といっしょに再婚するはめか、テーブルのうえで散乱か、ともかくやっつけるなんて無理だ。かれには時計をみるしかない。
「いま12時35分です」──声がでた。女が笑う。男は笑わない、長椅子にかけ、珈琲を呑みはじめる。ぜったいにこいつとやりあうべきなんだ、倒すべきなんだ、辱めてしまうんだ。かれの中身が回転しながら、──子供を連れて帰る、おれのすることはそれだけだ。──けっきょく逃げを打った。男はテーブルの雑誌入れから紙束をひっこ抜いてうえに投げた。ゴールがひとつ決まった。大きな顔が丘のようにかれのうえにある。
知ってっか? おまえの血なんか入ってない。
冗談はやめて欲しいですね。困ります。
おれの児だ。わかったか?
ようやく男が笑った。突き刺さって抜けなくなるような声を聴きながら、かれも笑ってみせた。無理くりつくった表情は痛む。かれは紙を眺め、唇ちを閉じた。鑑定結果やなんからしい。それがなんだっていう? まるきり将来を契ってくれるものみたいにそんなものを投げやがって。ゴールはそこなんかじゃないはずだ。だのにますますかれの声はつまり、つまりは古便所だ。フィールドからはずされ、予備隊にも入れない役立たずのやろう。もうどうだっていい、こんな連中と話なんかできやしない、──いや、まだなにかが。「もう帰ってよ」──みえない蠅を払って片腕をあげた。つづまりながらふたりに語りはじめていた。でもそれだってどうにもできやしない。
「でも、考えてもみてくれって。ほんとうのおれの児じゃなくたって、2年も暮らしてきてる。それじゃ、もうおれの子ってことでいいだろ? もちろん戸籍にだってそうなってるんだから。なのにどうして?」
正直にいってもう答えなんか欲しくもなかった。けつくらえだ。もうどうでもよかった。とにかく仕事がある。もういいやっておもった。子供づくりなんて不幸の培養だ。最悪の行いだ。そうルーマニアの狼狂もいっていたっけ。娘はまだかれのそばにいた。なにかいっているが、なにをいっているのかはわからない。人形を戦闘機のようにふりまわし、上昇と下降でぶるぶるしながら朝日の浴みてる。それでも薄昏く、日当たりはあまりよくない。逆光のうちでかれは自身の顔を匿った。たやすいことじゃないか! すぐにこっからでていけばいい。それでまた品番との決闘やなんかにもどれば、少しくらい癒されるものがあるのかも知れない。
「わたしにとっていま子供が必要なの。あなたはそうじゃない。あなたにとってわたしがお嬢さまでも、あなたはただの倉庫作業員よ」──仕事はたしかに必要だ。──おれみたいな人間はけっきょくだれかに雇われ、命令されてなけりゃ喰っていかれないのだ。わかるだろ? だれかが使ってくれなけりゃ、生きていけないんだ。おれにはなんの才能もひらめきもない。神の啓示なんて受けてない。そもそもおれにとっての神なんかいない。神はいたところでつねにどっかの共同体の味方でしかない。おれの生活に機能なんかしてない。頼むからおれから職をとり上げないでくれ、お願いだ。派遣のアルバイトで入って、ようやく正雇用になったのだ。照明会社の下請け倉庫。いやな上司。あいつはいつだって他人の陰口ばっかりいってるし、つまらないジョークにひとをつき合わす。どこにでもいるんだ、こういった手合いは。つねにだれかを虚仮にしてないとじぶんを保てないくそったれがだ。たしかにおれは追いつけない。朝っぱからの入庫で、棚づけにてまどってる。どこにどの製品があるかなんて把握しきれてない。でもあの倉庫だってでたらめだ。どかどか品は入ってくるのに置く場所はない、ロット確かめて順番そろえるのだってひと苦労じゃないか。残業がばかみたいにつづく。娘にはもう表情がなかった。
「バイバイ」
かれはそのまま家へ帰ってきた。運転が荒い。車庫へとつづく傾斜に自動車を後退させる。勢いがつきすぎた。悲鳴が耳を射る。母が飛びだしてくるなり、大声をあげた。猫を轢いたのだ。まだ息はあった。車から降りて確かめる、はらわたを口から漏らした猫が空をじっと見てた。なんてこった。母が家から飛びだしてきて、タイヤの下にあるものを見つけた。掴みかからんばかりだ。──ちくしょう。
「あんた、猫を殺したのよ!──なんでちゃんと家のなかにおかないんだよ──うるさい!──あんたは猫殺しのろくでなしだよ。子供を奪われたはらいせにこんなことしなくたっていいじゃないの!──子供は関係ない。ただの注意不足だよ──なにいってんのよ、あの児の面倒だってあたしにまかせっきりだったくせに!──あんたはいつもそうよ、被害者ぶりがうまいだけの息子よ!」
なにも言い返せない。かの女はまちがってない。車庫に隠しておいた酒壜をとってひきかえすと、車に乗って走り去った。近所の連中がみな顔をそろえて死んだ猫について話してる。失せやがれってんだ、くそったれのダニども。猫を殺したって、なんどもなんどもなんども、なんどもだ。──あいつら全員、始末したい。ひとりひとりに似合った塵箱を与えて、なかに入ってもらって、あとは廃棄場への旅行。──ありきたりの毒を吐いて酒を呑んだ。道はほとんどからっぽだった。対向車も後続車もない。ほとんど見えないくらいのところに先行車のかげがうっすらとしてる。
かれは走り回った。酒を呑みまくった。気がついたときには安全地帯で停まったまま、眠りこけてしまってた。こういうとき、警官たちはすばやい。おとなしすぎるかれにとまどいながら、連れ去ってった。身元引受人に母がやってきた。かれの顔を一切見なかった。なにもいうことだってない。ただそのまま家に帰ってきた。とうに仕事は失って、もう月曜日の、過剰な入荷に耐える必要もない。かれは電話をかけてみた。元妻にだ。──お姫さま、聞いてくれ。
「豚箱じゃなかったの?──もうでたところさ。なかなかいいところだ、おすすめしとく。おれをくそみそにしてくれてありがとうよ。これから女を買いにいくよ。おれ好みの、愛くるしいバイタの女の子を探しにな──いますぐに死ね。──切られてしまった。どうせそんなものだろうとかれはひとりごちた。無免許のまま自動車をだすと、有り金といっしょに走りだした。できるだけ、遠くの辺鄙な場所がよかった。山麓バイパスを越え、燈りの失せた通りをいく。もう7時を過ぎていた。とりあえず車を小売店の駐車場におき、ウィスキーの水割りを買う。
「暖めますか?」
一瞬ホット・ウィスキーにでもしてくれるのかとおもった。ただのいいまちがいだった。それを呑みながら倉庫街にむかって歩いていった。もうどこも終業していて防犯燈があちこちでまたたいているのがわかるくらいだった。なんだってこんなことになるのだろう。
黝いなかをゆっくりと歩いた。犬のようにつきまとう自身のかげが、かれをよりいっそう不安にさせた。もうなにもない。かげなんかなければいいのにな。道はやがて真っ黒い倉庫街にきてた。ここでひと休みしよう。かれが莨を咥えて、吹きはじめたかぜと、それにつづく塵のなかに眼を細めたときだった。音がした。土嚢のくずれるような、ゆるやかで重みのあるやつだ。マッチ箱を握ったまんま、そのほうへむかっていく。わずかな燈しがみえる。フェンスでかこった小さな建屋。その裏口のまえで男の肉体がくずれてた。その隣で立ってる女はうつむけて、そのやろうを見つめてる。かれは一呼吸おいて莨に火をつける。それでなるたけ静かに歩みを入れた。若い女だ。そんでわるくないおもざし。きれいだとおもった。白くていい服を着てる。でもそれは返り血が散りばめられ、そのまま着てるのはあやうい。つかまっちまう。もしかしたらかの女は威嚇のつもりだったのかも知れない。やるつもりもなかったのかも知れない。かれは声をかけた。
「寒いだろ? 送るよ」
女はかれをみた。いい女だ。かれの望み通りだった。かの女は振り返るなり、そのままかれの咽を切り裂いた。迸る血に驚きながら、路上も世界もないにかもがかれにやさしさを示し、はじめてかれは世界と和解した。

2019年5月8日公開

© 2019 中田満帆

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