東京の残照、南国の太陽

残照(第3話)

村星春海

小説

19,853文字

「簡単な話だよ。日本は自殺者が出るほど仕事がないのに、過労死するほど仕事が多い国だからだよ」
資本主義の光と闇、僕は彼女と共に破壊と再生を体験する。

 遠くで小波が聞こえる。子供の声が聞こえる。砂を踏む音が聞こえる。肌を焼くジリジリとした音が聞こえる。音という物は視界を奪われた状態でも、ここがどこなのかというのを的確に伝える事が出来る、機能的でユニバーサルデザインだと思った。
 アラ・モアナ・ビーチに降り注ぐ太陽が僕を焼いているあいだ、サイドテーブルのグラスの中の氷が乾いた音を立てて崩れた。それを聞いて喉の渇きを思い出し炭酸の抜けたコーラを一気に飲んだのだが、冷たさはあっても爽快感はなかった。気の抜けたコーラはただの甘い水だ。しばらく口の中に、コーラのベタついた甘さが侵略者に恨みを持つインディアンの執念の様に残っていた。
 僕が遠くの波打ち際をぼんやりと眺めていると、二人組の女の子が僕の目の前を軽やかに通り過ぎて行った。一人はサンライトイエローの水着でもう一人はオリーブグリーンの水着を着ていて、どちらも小さいビキニだった。開放された華やかな夢が、そこにあるのを確かめながら歩いているようにも見えた。そして砂浜を踏みしめる音が、妙に大きく聞こえた。
 ハワイだ、と僕は思った。
 ここに来てから買った手のひらサイズのラジオからは、ニルヴァーナが流れている。なぜこんなものが流れているんだ。20世紀の音楽の歴史を変えたとかよく言われるが、僕には正直よくわからない。よくわからなくて高校時代、当時のクラスメイトと喧嘩となり、それで余計に嫌いになった。僕の中ではボーイ・ジョージやデュラン・デュランと大して変わらない。「レイプミー」など正気の沙汰とは思えない。
 僕はラジオの周波数を変えた。今度はビーチボーイズが流れ始めた。「カリフォルニアガール」「サーフズアップ」いい曲だ。音の風景描写が素晴らしい。これを聞くとハワイにいるような錯覚を覚える。実際に来ているのだけれども。
 ビーチを行き交う人々を観察していると、カップルは愛の言葉を囁き、父は子に空の青さについての雑学を披露し、友達同士は今日の夜のバーはどこにするかと話し合っていた。僕はそんなどこにもある話を聞いていると、途端に昨日行ったバーで飲んだ多少甘めのピナ・コラーダを思い出した。でも、今はまだ昼だったし夜のピナ・コラーダよりも先に、刺激の強いコーラを飲むのが先決ではないかという結論に達した。
 細かい砂の入り込んだビーチサンダルを履くと、耳にビーチ全体の音が入ってきた。遠くを走る車の音だとか、今まで日本で聞いていた生活音とさほど変わらないはずなのに、なぜかここだと別世界の音に聞こえる。不思議だった。ここは確かに地球なのに、こんなにも東京と違う。空気そのものがまるで違う。僕はラジオを消して、その場を後にした。
 ビーチを後にしてヤシの木の並木沿いに進み、目についたドリンクスタンドで立ち止まった。スタンド横のテントの下には、放り込まれたおもちゃ箱の様な喧騒の中で、人々が冷たいモヒートやミント・ジュレップを飲んでいた。その光景に一瞬僕は足がすくみ他のところへ行こうかと思ったのだが、躊躇しているうちに後ろから押されて否応なしにカウンターまで運ばれてしまった。
 カウンター内には3人の店員がいた。奥でグラスを用意する女の子、注文を作る女の子、そして僕の一番近くにいた女の子が注文を聞いていた。心地よく日焼けした小麦肌のショートヘアーの女の子だった。空の青とのコントラストが妙に色っぽく見えた。まだ20代の前半だろうか。
 ご注文は?と聞かれて、僕は冷たいコーラを注文した。彼女はちょっと待っててね、とウインクをした。この世の終わりであのウインクに巡り会えたなら、思い残す事はない、自分のそんな不条理で理不尽な境遇も許せてしまう。そんな仕草だった。
 注文品が出てくるのをカウンターに肘をついて待っている間、僕はスタンドの中を見渡してみた。世界の裏側で貧困に苦しみ紛争に明け暮れる国がある事はおろか、地球が回っている事も知らなさそうな若者で埋め尽くされている。良くも悪くも、ここは現実から見放されている。
 気持ち良さそうにアルコールの回ったヒッピーの生き残りの様な若者が僕に話しかけてきた。日本人か?と聞かれ、そうだと答えると、世界の貧困について日本人の意見が聞きたいと言ってきた。どんな風に彼の目に僕が映ればそんな質問をしてくるのかさっぱりわからなかったが質問の内容的に、ある程度教養があるように見られている事にホッとした。
「大抵の日本人はその事に関して無関心だよ」と僕は言った。
 彼は、なぜだ?と聞き返した。
「簡単な話だよ。日本は自殺者が出るほど仕事がないのに、過労死するほど仕事が多い国だからだよ。無関心というよりは、そこまで気が回らないのさ。シカゴの曲にあるだろう?一体現実を把握しているものはいるだろうか。Does Anybody Really Know What Time It Is?」
 僕がそう言っているあいだ彼は無言で頷きながら真剣な顔で聞き、話が終わると有意義な意見だったと言った。彼は元々、カリフォルニア州立大学で経済学を学んでいたと言った。なるほどね、と僕は言った。カリフォルニアとビーチボーイズ、と思った。
 小麦色の彼女からコーラを受け取ると、あまりの冷たさにグラスを持つ手が痺れた。ありがとう、と伝えると、ウインクを返してくれた。その様子を見ていた彼は、意見のお礼だと言ってコーラの代金を払い、そのまま太陽の日差しの中へ消えていった。
 しばらくスタンドで涼んでいたが一向に減らない人の多さにうんざりして外へ出た。しばらく日陰にいたせいか日差しの強さにめまいがした。このまま外にいると体調が悪くなる気がした僕は、ビーチには戻らずホテルへ戻る事にした。
 ジョガー達に追い抜かれながらのんびり歩いていると、ふと空を見上げたくなった。立ち止まり空を見上げると、そこには太陽が爛々と輝いている。今までだって東京で太陽は見てきた。しかし巨大なビル群に囲まれた東京の小さな空の下で当たる日光とここの日光はまるで別物だった。到着した当初は別の太陽が空に輝いているのではないかと疑ったくらいだ。それでも滞在して暫くたった今は、あの東京の空にあった太陽こそ偽物だったんだと思うようになった。少なくとも東京の太陽が示す時間は生きる為のコンパスではなく、人を縛る物だ。そしてそれに合わせて力任せに自分を動かして生きてきた僕は、大学を卒業してからずっと余裕もなく生活していた。それに気づいたのが2、3日前、僕の精神の糸がプツリと音を立てて切れた時だった。さっさと辞表を提出し、そのままの足で銀行へ行き預金を全て下ろした。そしてハワイ行きの航空チケットを買った。
 旅行の際に関して、大した準備はなかった。歯ブラシやタオル、替えの洋服などは現地で買えるし、パスポートと現金だけしか持ってこなかった。なるべく日本を思い出す物は持って行きたくなかったからだ。
 しかし、現実はいつか再び訪れ、僕を東京へ連れ戻すだろう。そしてまた地獄のような日々が始まるのかもしれない。そんな事を考えていると、目の前のブルースカイや綿菓子のような雲も、何もかもが僕を取り残して過ぎ去って行くように感じた。僕はぎゅっと目をつぶった。猛烈なスピードですべての景色が後方へ下がっていき色を失っていく。音も光も、ありとあらゆる感覚と言えるものすべてが霞のようにちぎれて消えていこうとしている。
 立ち止まったまま動かない僕を心配して、ジョガーの一人が「大丈夫か?」と声をかけてくれた。その瞬間、僕の周囲には音と色と、様々な感覚的情報が戻ってきた。僕が大丈夫だ、と言うと彼は、無理をするなよ。と言って走り去った。
 僕は頭を振った。僕は幾分、感傷的になりすぎるし、考えすぎる所がある。そして思い詰めすぎる。再び空を見上げる。そこにはブルースカイや綿菓子のような雲が行儀の良い小学生のようにそこにあって、間違いなく僕はハワイにいて、景色は僕を放置していない。
 ホテルに着いて、未だに天高く海を照らす太陽の光を見ながら、クーラーの効いた部屋のベッドに腰掛ける。外とは違って、ここは音が少なく、ベランダで音はわだかまっていた。
「休養」と僕は口に出して言ってみた。
 久しぶりに聞いた言葉だった。自分の口から発せられたとは、にわかに信じがたかった。でもそれは間違いなく僕の声であり言葉である。僕の目の前には「休養」が存在している。
 かつて僕が資本主義のコマだったちょっと前。一週間の間に休みの日はあった。しかしそれはただの「仕事のない日」であって「休養」ではない。朝から晩まで数多くのノルマをこなし、社内の掲示板に貼られている背比べのような業績グラフを穴が開くほど見つめ、満員電車に揺られて帰ってから風呂に入ってわずかばかりのビールを飲み、下らないバラエティ番組を見る(大抵は仕方なく見ていた)。そして仕事への愚痴をあれこれと思いつく前に布団を引っ被って寝てしまう。そしてまた朝を迎える。
 僕はそんな毎日を過ごしていて、気づいた事がある。それは「金の有無」は「幸せ」に直結していないという事だ。この高度資本主義の社会において、金を多く持っていて資産がうまく回せて、言ってみれば家賃収入だけで暮す事が出来る、というのが成功者の理想だとは思う。だが、そこまでに至るのに(人によって)どれくらい心身をすり減らさなければいけないのか。そこを考えただけで、僕は高度資本主義から好かれていないというのを実感した。メキシコの漁師(Mexican fisherman story)の話を読んでから僕は特にそう感じた。「幸せ」とは感じるものであって(金額などで)数値化出来るものでは無い。
 実際それほど働き詰めだった僕の預金口座は割と信じられないくらいの金額になっていた。今回のハワイ旅行前に通帳記帳した時に、その金額にとても驚いた。それこそ一年か一年半かそれくらいは特に何もしなくても生活が出来るくらいの金額だったが、じゃあ幸せか?この生活に不満はないか?と問われれば僕は声高らかに「そうだ」と言える自信はなかった。
 それだけの貯金があっても、今後に関して不安がないといえば嘘になる。金は全て下ろしたし、これからの収入がないのだから至極当然の事だ。だが、人間一度束縛から抜ける事が出来たのならばなんとでもなるだろうし、なんとかやっていける。少なくとも今までのように心を蝕まれながら仕事をしなくてもいいと考えただけで、心が安らかになった。
 そのままベッドに寝転び、まっさらな天井を見上げる。染み一つない。シーツにも染み一つなかった。しっかりと手入れされているのだ。こうして天井をゆったりと見上げる事が出来るという事だけでも、小さな幸せを感じる。家の安アパートの天井を毎日見上げて床についた。今にも落ちて来て僕をひと思いに潰してくれればいいのにと、いつも考えていた。
 ハワイには滞在するだけで心と体を癒してくれる独特な雰囲気が漂っている。現実を忘れさせてくれる。だからもう考え込むのはやめる事にした。考えたところで何もならないし、進む事は出来ない。僕はとにかくハワイの事だけ考えて、今晩のバーで飲むピナ・コラーダの甘さだけを考える事にした。
 僕はそのまま一眠りする事にした。まだハワイには居られる。ゆっくりと休養すればいい。
 ふと気付いた時には、天井を見上げたまま僕は眠っていた。すっかり太陽は水平線の向こう側へ沈み、静かな夜となっていた。腕に巻いた時計は夜の20時頃を指している。目をこすりベッドから立ち上がり窓際まで行くと、眼下には街頭やカフェの灯りがひっそりと灯っている。僕はその明りに導かれるようにホテルの部屋を出た。
 廊下は観光地のホテルにしてはいささか、静かすぎるように感じた。今の季節、たしかにシーズンではないにしろ、真夏のスキー場ならつゆ知らず、ここはハワイなのだ。廊下の両脇には、真鍮のノブのついたダークチョコレートの様なドアが、忘れ去られた老犬のように規則正しく並んでいた。そしてぎっしり敷き詰められた床のカーペットは歩く音を消している。こそこそとした足音は、おそらく僕だけに聞こえているだろう。この空間は今だけは僕だけのものだ。
 ホテルのロビーから外へ出て、眠気覚ましにアラ・モアナ・パーク・ドライブ沿いに海岸散歩する事にした。外にはホテルと違って多くの人々が歩いていた。昼も夜もジョガー達は汗を流し、海上ではサーフボードに乗ってヨガをしていた。サーフボードの底裏に取り付けられたLEDが、海ほたるのように淡い光を発している。ビーチでは大学生の様な若者数名がキャンプファイヤーを楽しんでいる。昼間の焼けるような太陽は冷たくひんやりとした月に取って代わられ、少し冷えた風が焼けたビーチと日焼けした肌を心地よく冷やしている。こういうのを「ムーンセット」というのかもしれない。
 僕は予定通り、バーを探した。アラ・モアナ・パーク・ドライブを離れて、ニルS・ブライスデル・センター方面に歩みを進める事にする。あまり深い路地は正直怖かったので、ひとまず通りからは見えるところを歩いた。
 ある路地に差し掛かり、あまりこんでいないバーを見つけそこに入った。中はしっとりとした間接照明でほの暗く照らされ、人はその空間に溶け込んでいる。賑やかさはない。おそらくみんな、この空間を楽しみに来ているのだろう。小さなステージでは、バンドが「スタークロスド・ラヴァーズ」を演奏していた。
 カウンターに座ると、僕はピナ・コラーダを注文した。いささか神経質そうな黒人のバーテンダーは正確に二回頷くと、グラスにクラッシュアイスを入れた。コールドテーブルから濃厚そうなパイナップルジュースを取り出し、ホワイトラム、ココナッツミルクをシェイカーに入れ小気味よい音とともにシェイクした。グラスに移してカットしたパイナップルを淵に飾り、丁寧な手つきでコースターに乗せて僕の前に出した。僕がお礼を伝えると、少しだけ唇の端を上げた。
 いつ帰国するのかなんてはっきり決めていないのだけれど、この分だと日本に帰ってからピナ・コラーダに関する本が書けるようになっているかも知れない。僕はそれほどまでに、このいかにもな南国の飲み物に惚れ込んでいる。
 ピナ・コラーダは正確な発音では「ピニャ・カラーダ」と言い、「裏ごししたパイナップル」という意味がある。元々はカリブ海で誕生した甘みの強いカクテルで、1970年代にはマイアミやニューヨークで流行した。ベースはホワイトラム、1862年、キューバで創業したバカルディの物を使うのが通ともいえる。ちなみに僕は以前、宅飲みでこれを作った事があるが、ココナッツが余って困った。あの時確か、余ったココナッツを「隣、空いてる?」
 
 ふと気がつくと、一人の女の子があふれ出るような笑顔を僕に向けていた。
「僕の隣が空いているかって聞いたの?」と僕は言った。考え事をしていて、聞き間違えたかもと思ったからだ。
「そう。あなたの隣。それとも、誰かと待ちあわせ?」
「いや、空いてるよ」
 僕がそう言うと彼女は滑り込む様に隣のカウンター席へ座った。何でここに座ったの?と聞く前に、僕は彼女に心当たりがある事に気づいた。
「もしかして、昼にドリンクスタンドにいた子?」
「そう、忘れられてたらどうしようかと思った。隣に座ったのに、君は誰だい?なんてとてもかっこ悪いもの。そう思わない?」
「もちろん。でも僕は忘れてない。よく冷えたコーラをありがとう、あの時は暑さで倒れそうだったんだ」
「なんだかそんな顔してたから、思いっきり冷やしたの。どう、結構効いたでしょう?」
「一気に頭がスッキリしたよ」
 なら良かったわ、と言って彼女はギムレットを一口飲んだ。しなやかな指がショートカクテルグラスの細い足をつまむ。軽く傾ける。首を少し上に傾けると耳に飾られたイヤリングが顔を覗かせた。とても素敵な所作だ、と僕は思った。
 そして僕は彼女の全体像を眺めてみた。昼間の様子とは違う、大人の雰囲気だった。赤いワンピースにハイヒールを履いたその姿は、昼間の雰囲気とは真逆だ。
「あなた日本人よね?」
「そうだよ。中国人に見える?」
「いいえ、サムライみたいにかっこいいわ。英語がお上手ね」
「ありがとう。でも学校ではそんなにいい成績ではなかったよ」
「自信持っていいわ。ハワイは観光地だからよく日本人も来るけど、あなたほどスラスラ喋る人は珍しいのよ。日本の人って英語が苦手なの?」
「母音の数が少ないんだ」僕はピナ・コラーダ一口飲んだ。「日本語は母音が少なくて、英語で使われるいくつかの母音が存在しない。それが原因で日本人は英語が苦手と言われてる。小さい頃から学べば別だけど、日本の英語教育はとても遅れてる」
「へぇ。あなたって何だかとても博識に見えるわね」
 そんな事ないよ。と僕は心ばかり言っておいた。彼女はカウンターの下で組まれていた脚を、正確に時間を計ったかのように組み替えた。
「あなたは観光に来たの?」
「うん。仕事を辞めたからね。骨休めだよ」
「なんだかとても疲れた顔してたから、そうじゃないかって気がしたの。日本人は働きすぎるって聞いた事あるから」
「僕も大分、身を粉にしたよ。でも何も得られなかった。得られたのは、使い道のない預金と情緒不安定だ。だから全部投げ出してここに来た」
 彼女は優しくほほえみながら僕の話を聞いていた。僕が言い終わるとバーテンを呼び、ギムレットをおかわりした。
「それで、ハワイはどう?少しは元気になってるの?」
「もちろん。でもまた日本に帰らなきゃいけない時が来るかと思ったら、気が滅入るよ」
 バンドが演奏を終え、ジョニー・スミスの「ムーンライト・イン・バーモント」を演奏し始めると、ギターの丸っこい音色がバーを優しく包んだ。
 バーテンダーが彼女に新しいギムレットを持ってきた。ギムレットは冷えたグラスの曇りで、淡い乳白色に見えた。
「人は生きる為に仕事をするのか、仕事の為に生きてるのか。どっちなのかなって私も思うわ。私は昼しか働かない。あのスタンドを24時間にしてもいいとは思う。夜も人はビーチ沿いをジョギングしたりしてるものね。でも、人は夜寝るものだし、夜は友達や恋人と一つの星空の下で語り合ったりするほうが人生においては大切だと私は考えてる。あなたはどう?その考え方に賛同してもらえるかしら?」
「僕もそう有りたいと思うし、そうして生きていきたい。そう考えてる」
「あなたの考えがしっかりまとまって、日本に帰ってもその決意が変わらないようにする手伝いの為に、私達がハワイにいるのよ。心を洗って一度リセットして、きちんとした気持ちに切り替えれるようにね」
 彼女はそう言うと、僕のピナ・コラーダを一口飲んだ。ハワイの独特な雰囲気。開放的でストレスフリーで、人々に安らぎを与える場所。
「私、昼は大体あのドリンクスタンドにいるから、いつでも来てね」
 そう言うと彼女はまた脚を組み替えた。脚を組み替える時間が決まっているかの様に。時間は本来、人を縛るものではないが、自分を律する為にはとても有意義に使える。自分を習慣化するというのは、とても大切なのだ。
 彼女としばらく談笑したあと別れ、僕もバーを後にした。外に出ると少し生暖かい風が吹いていて、そしてどことなく雨の香りもした。もしかすると今夜あたり、急なスコールになるかもしれない。僕は足早にホテルへ向かって歩き出した。
 ホテルに戻ってシャワーを浴びて、ベッドに寝た。テレビをつけるとヤンキースと僕の知らないチームの試合をしていた。実のところ僕は野球に興味がなくて、大リーグはヤンキースくらいしかまともに知らなかった。それにテレビをつけたのは、なんとなく物静かなのが寂しかっただけで、特に野球中継が見たかったわけではないのだ。こうしてハワイに来てテレビの野球中継を見ると、テレビの向こうに現実があって、僕は向こう側から何かしらの理由でこちらへ来てしまったのではないかという妄想が広がった。
 夜中に目が覚めると、巨大なスコールが窓を叩いていた。布団から抜け出して真っ暗な中わずかに外から入り込む光を頼りに窓際まで行くと、外に見えるヤシの木は雨の勢いに頭を大きく揺らしていた。日本でここまでの雨を見た事はない。同時に僕はふとバーで会ったあの女の子の事を思い出した。昼に見せる笑顔と夜に見せる笑顔が全く違う不思議な印象の女の子だった。あの子もスコールに目を覚まして窓から外を見ているのだろうか?それともハワイに住んでいればそんなに珍しいものでもないのかもしれない。そういえば名前も聞いてなかったな。明日もあのドリンクスタンドにいれば、名前を聞いてみよう。そうしなければならないような気がしてきた。
 雨雲はありったけの雨を降らせてすっきりしたのか、少しずつどこかへ退散していった。そして雲の隙間からはゆったりとした月が顔を出し、地面に溜まった水で光を反射させた。スコールのあとは、じっくりとした静寂が訪れている。音そのものを雨が流してしまったようにも思えた。僕はその静寂の中、再び眠りについた。
★☆★
 翌朝、7時くらいにホテルを出てアラ・モアナ・パーク・ドライブを歩くと、多くのジョガー達とすれ違った。違うのは顔ぶれだけだ。ジョガーという広義の存在は、ここでは張り付いたシールの様に存在していた。どちらが欠けても、このビーチは成立しないのだ。
 昨日の強烈なスコールによって出来た水溜りは、強まる日差しをキラキラと反射している。ジョガー達は器用にその水溜りの間を、そこに架空のバイロンがあるかの様に走っている。まだこの時間には泳いでいる人は少ない。それより、近くのカフェから香ってくるパンや卵を焼く香りが漂っていた。とたんに空腹を覚えた僕はその香りに導かれるままに、風の吹く方へと歩みを進めた。
 香りに誘われ、僕は一軒のカフェに入った。席に案内されて僕は一応メニューを見るが、実のところあまり読み書きはそこまで得意ではない。分かるものを頼んだ。
 注文が来るまでの間、僕は店内をぐるりと見渡す。僕は店内の様子を見るのが好きなのだ。隣の席には大きいサングラスをした若い女の子が二人、エッグベネティクトを食べている。そしてその隣には、とっぷりと太った中年男性と中年女性(おそらく夫婦だろう)が座って、朝から濃そうなパンケーキを食べていた。店の道路側はテラスになっていて、そこには何人かの観光客らしき団体がコーヒーを飲みながら談笑している。そして皆一様に、ラフで開放的な装いだ。
 しばらくすると、僕の前にこんがり焼けたマフィンとベーコンのエッグベネティクトとパイナップルジュースが配膳された。半熟のポーチドエッグにナイフを入れ黄身がとろりと流れマフィンに染み込むと、色を薄い黄に染めた。少し染みたマフィンは切り分けやすい。皿にまで流れた黄身と白身を掬って切ったマフィンに乗せて口に運ぶと、濃厚なオランデーズソースのさわやかなレモンの香りが鼻から抜けた。
 僕がたっぷり時間をかけてエッグベネティクトを食べ終わった頃には店内に少しずつ人が増え、賑やかさがいつものハワイになってきていた。これからブレックファーストなのだろう。僕は会計を済まして外へ出て、さっきより気温の上がった太陽の下を歩いて、一度ホテルへの帰路についた。
 僕は部屋に戻ると無地のTシャツとショートパンツに着替えて再び外へ出た。人々はさっきより多くなって、海岸沿いを歩いている。手にはラジオがある。昨日の様にビーチで寝転がる事にした。そしてパラソルを借りて木陰になりそうなところを探した。流石にパラソルがあるとは言っても直射日光は避けたい。太陽はゆっくりだが確実に天へと登っている。しばらく歩いて良さそうな木陰を見つけるとそこにパラソルを立て、そして周りを見渡して見ると昨日のドリンクスタンドの近くだった。僕は少し考えてからそこへ足を運んだ。
 まだ人は混んでおらず、数人がテントの下で寛いでいる。僕がカウンターへ行くと昨日の三人の女の子がグラスを出したりドリンクの瓶やミントの準備をしたりしている。カウンターへ顔を出すと、昨日の女の子が声をかけてくれた。
 彼女はジーンズのホットパンツに、体のラインを強調している薄いピンクのTシャツを着ていた。
「来てくれたのね、ありがとう」
「この時間はまだ忙しくないんだね」
「そうね、もう少し太陽が登ったらピークかな。昨日あなたが来たくらいの時間が一番忙しいかも。この時間に来てくれてよかった、少しお話出来るもの」
「そうだね」
 僕は彼女にレモンスカッシュを頼んだ。よく考えたらレモンスカッシュがあるか確かめてなかったが、問題なくそれは出てきた。ハワイには何でもあるのだ。
「ねえ、そういえば僕はまだ君の名前を聞いてなかった。良かったら教えてほしいな」
 僕は単純に好奇心から聞いた。もちろん少しの下心はあった。彼女は少し照れくさそうに、そして悩む素振りを見せながら「カハナ」と教えてくれた。
「カハナ。いい名前だね。生まれはハワイなの?」
「そう、生まれも育ちもハワイだし、両親の生まれも育ちもハワイ。生粋のハワイアン」
「いいね。だから君は太陽みたいなんだね。太陽に祝福されてる。そして太陽が沈むと、君はどこか妖艶になる。昨日の夜みたいに」
「日本人は社交辞令が上手ね、そこまで言われたのは初めてよ。」
「社交辞令じゃないさ、嘘じゃない」
 彼女はクスクスとくすぐったそうに笑った。笑顔が眩しい。僕は彼女に、ランチを一緒にどうかと聞いてみた。大体13時くらいに休憩するからそれまで持ってもらえるなら、と彼女は言った。とりあえず時間まで太陽の下で過ごす事にした。昨日よりは少し涼しく感じるのは、夜中のスコールのお陰かもしれない。
 ラジオから流れる音楽を聞きながら、パラソルと視界の隙間に見える雲と青空のコントラストを眺めていた。ゆったりと時間を忘れた様に右から左へと雲は遥か彼方へ流れていく。時間はそこにいるのを忘れ、物理法則に反してどこかへ行ってしまったように感じた。
 ゆったりとした時間に暑さを忘れて僕は少し眠ってしまい、気づくとカハナが僕の顔を物珍しそうに覗き込んでいた。
「ごめんなさい、起こしちゃったわね」
「いや、そんな事ないよ」僕は時計を見た。時間は、13時を少し過ぎていた。「ごめん、時間を忘れてた」
「いいのよ。今さっき休憩に入ったから。ランチに行きましょう?」
 ラジオを止めると流れていたクリームの「クロス・ロード」の千切れたサビが、しばらく空中を彷徨った。パラソルとラジオをドリンクスタンドに預けて、僕らは海岸沿いを談笑しながら歩き、彼女オススメのカフェに入った。ここのロコモコが美味しいのよ。と彼女は言った。そういえば僕はハワイに来てから一度もロコモコを食べていない。
 ランチタイムにざわめいている店内は多くの人で込み合っていた。僕が座る場所に困窮していると、カハナは一人の店員のもとへ行き何やら言葉を交わした。そして僕に手まねきをすると奥の特別席のような所へ案内してくれた。
「私の友人なの。特別よ」と彼女はウインクをした。
 注文をしてから五分ほどしてから、湯気の揺らめくロコモコが運ばれてきた。肉汁の香りが濃厚なグレービーソースはしっかりとライスに染み込み、ジューシーなハンバーガー・パティに目玉焼きの半熟卵が絡み、ねっとりとした食感が食欲を増進させる。僕は久しぶりのライスに思わずがっついて食べていると、彼女は嬉しそうにそれを見ていた。いい食べっぷりね、と言った。
「いつ日本へ帰るの?」彼女は食後のエスプレッソを飲みながら僕に聞いた。
「一ヶ月未満、一週間以上かな。はっきりとは決めてないんだ」
「もう定住しちゃったら?居心地良さそうよ。ハワイはあなたに合ってるのかもね」
「そうかもしれない。定住もいいかな、とちょっと考えたりもしてるけど、とりあえず一回は日本へ帰らないと。いろんなものを置いてきてるから、そのままには出来ないよ」
「それもそうね」彼女はまたクスクスと笑った。とても魅力的な笑い方だ。「今夜また、昨日のバーで会わない?」
「僕も君に会いたいな。それに僕はピナ・コラーダが好きなんだ。昨日のバーはとても美味しかった」
「あのバーはピナ・コラーダが美味しいって有名な場所よ。知らずに入ったの?」
「知らなかった。導かれたのかもね、ピナ・コラーダに」
 食事を終え店を出てドリンクスタンドに戻ると、彼女はカウンターに入り、僕は預けていたラジオとパラソルを持って再び木陰で寝転んだ。ラジオからは「スピニング・ホイール」が流れていた。誰の曲だったか、ど忘れした。
 人々の往来を眺めながら時間を過ごす。そして太陽は水平線に少しずつ沈みはじめ、空がオレンジ色に染まっていった。海で泳いでいた人々は次第に姿を消し、浜辺は閑散としていく。僕はパラソルを返しラジオの電源を切って引き上げる事にした。帰りにドリンクスタンドに寄って、カハナに挨拶をすると一先ずホテルへ戻った。
 シャワーに入って汗を流し、出てから姿見に自分を映して全身を見てみる。20代後半にしては緩い体型だったが、ハワイに来て汗を流すようになって若干だが絞れたような気もする。あくまでも、気がするだけだ。洗面台で髭を剃って歯を一本一本丁寧に磨いて、頭をドライヤーで乾かし終わる頃には日没を迎えていた。外の気温もそれに合わせて少し下がり、過ごしやすい時間になる。
 僕はアロハに着替えショートパンツを履き、のんびりとホテルを後にした。廊下にはいつも通りきちんと老犬の様に客室のドアが並んでいた。チェックインする客が受付で鍵を受け取ったり、ロビーにあるパソコンでインターネットをしたり、様々な人を横目に外へ出る。外は思った通りの過ごしやすい気温だった。
 ジョガー達を横目にアラ・モアナ・パーク・ドライブをのんびり歩いた、太陽が沈んだ後のビーチの上には、月が輝いていた。ムーンセットだ、と思った。太陽がビーチを焼き、月がそれを冷やしているのだろう。地球上の物すべてにそれぞれ必ず役割がある。それをそれぞれがちゃんと把握出来ていればいいのだ。それが出来ていないと、いろいろと苦しむ羽目になる。
 バーに到着して席に着くと、昨日とおなじバーテンダーが注文を聞きにやってきた。ピナ・コラーダを注文すると正確に二回頷き、同じ手つきでカクテルを作り始めた。僕がぼんやりそれを眺めていると、昼と同じ服を着た彼女がやってきた。意外とバーでも合う服だ、と僕は思った。
「早速飲んでいるのね」
「ごめん、待ちきれなくてね」
「謝る事じゃないわ、私でも先に飲んでるかも。今日もそれなりに暑かったもの」
 カハナは目の前でピナ・コラーダを作るバーテンダーにブラッディマリーを注文した。この時も正確に二回頷いた。彼の中でその行為は、大切な儀式のように感じられた。なぜなら、会計の声をかけた時は、一度しか頷かないからだ。
 僕のピナ・コラーダを作ってから、彼はブラッディマリーを作りだした。ウォッカにレモンジュース、トマトジュース、氷を入れてシェイカーを小気味いいリズムで振り、酸味と甘みを持つ真っ赤な色合いのカクテルをグラスに注ぐ。カハナはそれを上品に傾けると、美しく一口飲んだ。
「なに?何か付いてる?」彼女がじっと見る僕を訝しんだ。
「目と鼻と口が付いてる」
 何それ?と彼女には受けなかったが、目の前のバーテンダーは少し唇を愉快そうに曲げた。黒人はユーモアが分かる。彼女はその様子を見て肩をすくめた。
 店は人が増えもしないし減りもしなかった。一定の人数が決まっているかのように、一人入店すると一人出て行った。均衡は保たれているのだ。
「なんだかあなたと飲むとお酒がすすむの。昨日ギムレットを2杯飲んだでしょ?ふだん私、一杯しか飲まないの。飲んでも軽いものしか飲まないし」
「僕のトークはそんなに上手かな?」
「そうね。私、一度日本の人とちゃんとお話してみたかったのよ。世界的に見て、日本人ってちょっと変わった感性してるから」
 カハナは、日本人の感じる日本人としてのメリットを知りたがった。今、僕はハワイにいて外から日本を見る事が出来るが、どう見繕っても日本がハワイより勝っている部分が下水設備しかなかった。僕としてはハワイの方が良かった。
「だめよ、ちゃんと自分の国の事を理解しないと」
「日本が経済大国だったのは昔の話だよ。今はちょっと違う。昨日も、とある大卒のヒッピーに話したんだけれど、仕事は過労死が出るほど山積みなのに自殺者が止まらないほどに仕事が無いんだ。それが今の日本さ。そして日々労働者は高度資本主義社会に巻き込まれて生きてるんだ。前に進むために少しずつ削れる靴底と同じだよ」
「そうなの?」
「そうさ。そうじゃなきゃ、僕だって日本を逃げ出さないよ」
 溜息と入れ替わりに、カハナはタバコに火をつけた。煙は風のない店内で、まっすぐに引っ張り上げられるように上っていく。一回だけ吸って、ゆっくりと吐き出す。
「難しいものね。私もハワイでずっと暮らしてるけれど、やっぱり日本の方が治安もいいし、住み易い様な気もするけどね。その部分は自慢していいと思うわ」
「そんな日本でも、事件があると毎回のように報道される危険地域があるのを知ってる?しかも日本全国にあるんだ」
「そんなとこがあるの?」
「そう。『閑静な住宅街』って言うんだ。空き巣や強盗、はたまた殺人とかも多発してる。ロサンゼルスのコンプトンやスキッドロウに匹敵するんじゃないかと思ってる」
 その冗談には彼女も少し笑ってくれた。バーテンダーを見ると、彼も笑っていた。
 僕は彼女の日常についても聞いてみた。どこに住んでいるのかは教えてくれなかったが、近辺であるとヒントをくれた。仕事に関しては、いつものドリンクスタンドをメインに、ライフセーバーの様な事もしていたりスーパーマーケットでレジを打ったりもしていると教えてくれた。
「仕事は苦じゃないの。したい時にしているし、みんなそう。それぞれの職場でちゃんと話をして、負担にならないように仕事してる」
 僕は正直、うらやましいと思った。僕では出来ない事を、カハナはしているのだ。僕だって好きな時間に好きな事をしたい。本も読みたいし音楽も聞きたい、そんな事が出来るのなら、僕は大した収入がなくとも不満はない。すきま風の通るボロアパートでも何でもいい。僕は兎角、そう思った。
 そんなに収入は多く無い。そうカハナは教えてくれた。あぁ、これはメキシコの漁師そのままじゃないか。幸せの指数は金額ではない。僕とカハナはそれをそのまま体現しているように思えた。
「とても悩んでるのね。まだ休息は足りてないみたい」風の抵抗を受ける羽毛の落下のように、カハナはふわりと僕の肩に手を乗せた。「ゆっくりしたらいいのよ。ここはハワイなんだから」
 そうだここはハワイなんだ。僕は自分に言い聞かせてみた。声はどこか遠くから聞こえているようにも感じた。
★☆★
 次の日の昼間、僕は日差しを避けるように木陰でラジオを聞きながら時間を過ごしていた。ラジオからはベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」が流れていた。スパニッシュではあるが、ハワイにとても良くマッチしている。僕はここに来て、今までの人生で一番音楽を聞いた。ジャズをしっかり聞くようになり、M・J・Qが特にお気に入りになった。
 時間はどこにでも流れているありふれたものなのだ。ただその感じ方次第で早くも感じるし、遅くも感じる。そして時間には感触がある。僕が日本で感じていた時間は、とろりとした苦みのあるとても強い粘着質だった。もがいても出る事が出来ない、時間に縛られその言う通りにしか動けない、食虫植物の中に捕えられた気分だった。だがここの時間は違った。時間は時間でしかなく、人々は時間に従って生きているというより、時間と共に生きているのだ。人の感じ方によっては、時間はどこかへ行ってしまう事だってあるだろう。まるで風だった。僕としてはいつまでもハワイの時間の風を感じていたいところだが、そろそろ帰る時が来ている様な気もしている。家出のように日本を飛び出し、もしかしたら行方不明者扱いになっているかもしれない。僕はあまりに多くの物を日本に置いてきていた。けじめもまた、そこに置いてきている。まだ僕は何でもかんでも放り出して来ただけなのだ、早い話が逃げ出したのだ。
 
 でも僕は結局それからあれこれと考えながら約一週間ずるずると休養を取り、その間ほぼ毎晩カハナとバーで会い、彼女は毎回違うカクテルを飲んだ。モヒート、サイドカー、シンガポール・スリング、ミント・ジュレップ。一度たりとも、同じものは飲まなかった。それの意味を成すところはわからなかった。
★☆★
 ある日の昼間、ホテルのカウンターにいた女の子に、一番早い東京行きの便がいつかと問い合わせた。きちんと髪をセットし、かっちりとしたブレザーを着た愛想良い女の子が対応してくれた。彼女はパソコンでいくつかキーを叩き、明日離陸のダニエル・K・イノウエ国際空港から成田行の最も早く乗れる便を検索した。彼女はちゃんと訓練された笑顔で、昼に席が空いておりますと一字一句はっきりと教えてくれた。僕はそのまま彼女に航空チケットの予約をお願いすると、やはりもう一度よく訓練された笑顔で対応してくれた
 僕は客室に戻って帰りの支度をする事にした。服をしまい洗濯済みの下着を畳んでスーツケースの隅に押し込んだ。消耗品は明日の朝にホテルで捨てていく。日本の物を持ってこなかったのだ。ハワイの物もハワイに置いていくのが礼儀のような気がした。
 あらかたの準備が済むと、僕はベッドに仰向けで寝た。静かに回るクーラーの音と、ベランダでわだかまっている外の喧騒が混ざり合って、僕は少し寂しさを感じた。あと僅かでこの非現実が終わるのだ、そう思うと現実に戻されていく感覚になる。でも、いつまでもこうして遊んでいる事が出来ないのも事実だった。何せ収入が無いのだから。
 僕は少しでも休養が出来たのだろうか。東京で浴びていた日差しはもう残ってはいないだろうか。あの独特なワイシャツに張り付くような粘り気のある日差しを取るためにここへ来たのだ。残っているのなら帰ってはいけない。
 僕は起き上がって部屋を彷徨ってみた。まるで、無人の駅で捜し物をしている野良犬のように。そして、何も見つからない事に気づいた。
 これ以上ここにいても仕方がないので、いつもの服装に着替えてホテルを出た。強い日差しが僕に降り注ぎ、ジョガー達はいつもの様にパークドライブをランニングしている。ぐるぐると回り、彼らなりの時間の過ごし方を体現している。僕はドリンクスタントへ行き、レモンスカッシュを頼んだ。
「はい、お待たせ。今日も暑いわ」
「ハワイはいつだって暑いさ」
 カハナは僕の顔をじっと見た。「何かあった?」
「何かって?」
「ううん、何ないならいいの。なんとなくね」
「ねぇ、今日もいつものバーに来れる?」
「もちろん。問題ないわよ」
 僕はカハナとの約束を取り付けたあと、テントでレモンスカッシュを飲んでいた。ただ何をするわけでもなく、水平線を眺めていると、ハワイに来た頃に会話をしたヒッピーと再会した。今日は酔っていなかった。
「やあ、久しぶりだね」僕は彼と握手をした。
「お互いに。あれから、君に教えてもらった日本人の貧困に関しての考えを考察してみたんだ。それでね、とても日本に興味が湧いたんだ」
「何かの参考になったのなら良かったよ」
「日本で少し仕事をしてみる事にした。知り合いの日本人の紹介でフリーのライターをしながら、日本人から見た資本主義の光と闇を僕なりに探ってみようと思うんだ」
 それはいい事だ、と言って彼を後押しした。
「いつ頃から日本へ行くんだい?」
「来月かそれくらいだね。日本でも会えたら、どこかで飲もう。誘っていいかな?」
「僕でいいなら付き合うよ。これも縁だからね」
 彼はそれだけ言うとテントを後にした。彼の名前も何も知らないが、これで本当に日本で再会出来たなら、僕と彼には何らかの縁があるのだろうなと思った。
 昼に少し離れたハレクラニのカフェでカハナとランチを食べ、食後のエスプレッソを飲んでいる時に、明日日本へ帰る事を告げた。
「そう、いよいよ帰るのね」
「十分ゆっくり出来たような気もするんだ。いろいろけじめをつけて、もう一度日本で再スタートするつもりだよ」
 彼女は少しだけ微笑んで、エスプレッソを啜った。
「前にも言ったけれど、私の知っている人たちは、仕事を強制したりされたりしてないの。みんな自分がしたいからしているの。だからあなたが自分自身で決められたのならうまくやっていけるわ。自分のしたいようにすればおのずとうまくいく、世界はそういう風にシステムが組んであるものよ。たとえ収入が少なくとも幸せかもね、その生活の方が」
 僕は頷いた。彼女が僕の考えていた事全てを言ってくれた。何も言う事はなかった。
 その日の夜、カハナとの最後のデートのためにいつものバーを訪れた。黒人のバーテンダーとも仲良くなった。
「明日日本に帰るんだ」
「そうなんですか。あなたのジョークはとても楽しかった。聞けなくなるのはさみしいですね」
「そう言ってくれてうれしいよ」
 彼と会話をしていると、カハナがやってきた。僕を見つけて滑り込むように隣に座ると、彼女はX・Y・Zを注文した。
「もうこれでおしまい」
 僕はそっと一言つぶやいたが、カハナはバーテンダーの手元だけを見ている。
 僕の一言は空気中に吸い込まれた。そしてX・Y・Zがカウンターに置かれると、今度はカハナがつぶやいた。
「違うわ。これ以上ない最高の、という意味よ」
 X・Y・Zはファベットの最後。でも終わりだけでなく、始まりの暗示でもあるかも知れない。カハナはそう言っているのだ。
「あなたは大きな決断をしてここへきた。ある種のターニングポイントなのかも知れないわ。そしてこの地で再びあなたの物語がはじまる。それを記念してこのカクテルにしたの」
 カハナはグラスを傾けて、一口飲んだ。初めてここで会った時のように、髪がほどけて耳があらわになる。そこには小さなイヤリングが輝いている。柑橘ベースの黄色のカクテルは、グラスのほのかな結露で乳白色になる。
 ターニングポイント。そうかも知れない。一度僕は時間を修正したのだ。そう思えば、たしかにそんな気がしない事もなかった。
「でもやっぱり寂しいわね。明日の昼の便だったかしら」
「だからここで一緒になるのも今夜が最後だ」
「さみしい事言わないで」
 ふと彼女の目が曇った気がした。そしてそれを隠すように俯いた。僕は彼女の細い肩にそっと手を載せる。
「またきっと来るよ、君に会いに。ここは僕のターニングポイントだ。そして君という存在も、僕のターニングポイントなんだと思う」
 顔を上げ僕を見据える彼女の瞳には、少しの涙が浮かんでいた。それがバーのほの明るい間接照明のかすんだ明かりと混ざり、X・Y・Zと同じ色合いになった。
 僕らはバーを出て、マジックアイランドへ向かった。月が天高く登り、爛々と海面を照らす。海面はその黄色い光をまばらに反射しヤシの木の幹にイルミネーションの様に絡み付き、月の雫は僕らに降り注いでいた。海ではサーフボードに乗ってヨガをしている。遠くを走る車の音はここまで来ない。音は置き去りにされ、ここら一体は波の音と月の光の音に支配されていた。
 彼女は僕の隣を歩いている。暗がりであまり表情は伺えない。でも特に笑顔ではなかった。二人の足音だけが聞こえる。カハナとバーの後まで一緒だったのはこれが初めてだった。
「今日は月がとても大きく見える。空気が澄んでるからくっきりと見えるんだね」
「そうね」
 言葉短めに彼女は応えた。僕はカハナの歩幅に合わせて歩いているつもりだったが、意識をしていても、少しだけ僕が早く歩いてしまった。次第に僕は少しずつ彼女に合わせて減速し、海がきれいに見える位置で、予め定められていたようにゆっくり止まった。そしてそこには何も残らなかった。僕らは何も話さなかった。呼吸の音が音階ではっきりと聞こえてきそうなほど澄み切った空気の中、僕らはただ真綿の様にゆったりとそこに存在していた。
 話す事がないのか、何を話していいのかわからないのか、どれが本当かわからないけれど、とにかく僕らは何も喋らなかった。
「終わりのないものは存在しないわ」彼女は思い出したように口を開いた。「だからと言って、すべてが終わるという意味での終わりじゃない。それは区切りよ。一つのカテゴリーが終わりとなり、新しいカテゴリーが始まるの。あなたも前のカテゴリーがハワイで終わって、新しいカテゴリーがハワイで始まる。そう考えてもいいのよね?」
「僕もそう考えていたよ。終わらないんだ、生きてる限りは。ここに来て新しい太陽と空高い青空と雲と、眩しい君に出会えた。だからもう、何も怖くない」
 心にはなんの雑念もなかった。ただ澄み切った風ときりりとした月が新しい太陽を歓迎するようにそこにあった。
「カハナが僕のターニングポイントだったんだね」
 彼女は僕に微笑んだ。
★☆★
 翌朝、僕は目覚めると最終的な帰り支度を始めた。とは言っても計画性のある観光旅行ではなかったし、なによりお土産を買って帰る様な相手は日本にはすでにいなかった。だからしまい込む荷物もほとんどなかったし、ハワイで買った日用品は置いて帰ると決めていた。
 手短な支度がすむと僕はロビーに降りてチェックアウトの手続きをした。ロビーには人が多くいた。PCのキーを叩く人、何人かで談笑している人、一人でコーヒーを飲んでいる人、それぞれが自分の時間を過ごしていた。
 ホテルを出ると燦々と輝く太陽が僕の頭上に輝いている。その日差しの中でタクシーを拾うために通りに出たところで、カハナに声をかけられた。
「送っていくよ。これから日本に帰るのに、少しでも節制した方がいいんじゃない?」
「いいのかい?仕事があるんじゃないの?」
「いいわよ、別に。私が2時間くらい居なくたって回るから」
「じゃあお願いしようかな」
 そういうと車を取りに二人で駐車場へ向かった。少し離れたところではもはや見慣れたジョガー達の姿が見える。彼らはいつものように時間を付添いに走っている。時間と共に生きているのだ。
 駐車場にはコンパクトな、ジープ・レネゲードが停まっていた。真っ白なボディカラーが日差しをまっすぐ跳ね返している。
「なかなかかっちりしたのに乗ってるね」
「楽よ、結構。あなたも日本に帰ったら試乗してみてよ。きっと気にいるわ」
 熱気の充満した車内で、日本においてのこの車の税金がいくらになるのかと気になった。
 高速道路ハワイ一号線をひた走る。後方に遠ざかるアラ・モアナ・ビーチに少しの寂しさもあった。カーラジオからは「ハイウェイ・スター」が流れている。ハイウェイにぴったりの曲だ。
 シーズンを外しているとはいえ国際空港に変わりはない。少しだけ渋滞に巻き込まれた。カハナとは会話らしい会話は無い。彼女の凛々しい横顔は唇を固く結び、少し哀愁を帯びていた。
 空港に到着するとカハナは、手荷物検査から出国審査までを僕と一緒に歩き、出国審査入り口までくるとどちらからともなく立ち止まる。
「ここまでありがとう。またきっと来るよ」
「辛いときはいつでも来て。私はあのドリンクスタンドで待ってるから」
 彼女は僕と握手をして、そして僕の頬にキスをしてくれた。
「あなたの瞳。とても輝いてるわ。きっとうまくいく。自信持ってね」
 彼女と手を振って別れ、出国審査を抜ける。小腹の空いた僕は離陸時間までの間、フードコートでフィッシュバーガーとポテトを食べ、コーラを飲んだ。あのカハナの出してくれた手が痺れるほどのコーラには、遠く及ばない。
 今回の旅で、僕は少しでも変われただろうか。少なくともカハナの目にはそう見えたのだ。なら家出同然でここへ来たのにも意味はあるだろう。それなりに金を使ったし、おそらく日本にいる誰かにも心配をかけているだろうし、時間も金も投資したのだ。これで変われないのはあまりにも寂しすぎる。
 しばらくして搭乗時間となりJALの飛行機に乗り込む。心ばかりの荷物をオーバーヘッドビンへ押し込みシートベルトをして窓から外の風景を見ていると、見送りの人だかりの中にカハナがいたような気がした。でも僕はそんなに目がいい方ではない。あくまでも気がしただけだ。でも、本当にそこにいて僕を見送っていてくれていたのではないかと考えたら、少し目が潤んだ。涙が溢れないように拭うと、それを合図のように飛行機は離陸滑走路へ動き出し、見送りの団体は視界から消えた。
 スタート地点についた飛行機はエンジン出力を上げ、一気に加速しハワイの大地から足を離した。しばらくすると眼下には白い砂浜や、青いキラキラとした海とマジックアイランドが見えた。
 僕の人生にターニングポイントを持ってきてくれた女の子が住む街。これがハワイだと思った。

2019年4月22日公開

作品集『残照』第3話 (全4話)

残照

残照は1話、2話、3話、4話を無料で読むことができます。 続きはAmazonでご利用ください。

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© 2019 村星春海

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