夜明け前。

世界の果て、夜明け前(第6話)

村星春海

小説

4,925文字

最終話です。
お付き合い有難うございます。

 よく考えたら、僕は彼女の名前も知らない。彼女も僕の名前は知らない。出会って日の浅い女の子を自分の部屋に呼んだこともあるし寝たこともあるけど、流石にそれらは名前を知ったあとだ。いくらなんでも名前も知らないのは不便だと彼女に問うたのだが、「名前なんて必要ないでしょ」と言われて結局自己紹介すらしていない。結構。僕は黙った。
 彼女がノートを黙々と開いて読み進める間に、僕は彼女のためにオレンジジュースをコンビニに買いに行った。なるべく酸味の強いやつという注文に沿うものを探してきた。酸味が強いほうが頭がはっきりするのだそうだ。しかしなかなかお目当ては見つからず、遠回りしてコンビニのはしごをした。ちなみにお金は返してもらった。
僕が帰ってからもノートを読み進める彼女の顔は真剣そのものだった。大学入試でも受けるような真剣な眼差しに、僕は足音一つ立てぬよう気を使ってしまう。彼女は併せて、ノートを読みながら僕にあれこれと質問をした。なにかの答え合わせと自分の仮定を確定していくように。
 そして約一時間半、彼女はノートを閉じて目頭を押さえてマッサージをした。
「読んだよ」コップに半分ほど残ったオレンジジュースを一気に飲んだ。「やっぱりその彼女が出てこないと、なんだかしっくりこないね。それ以外は小説というか、叙事詩みたいにまとまってる。文才があるんじゃない?」
「そんなことないよ。学生時代の国語は最低なものだったよ」
彼女は笑って、ノートを適当に捲った。テーブルに頬杖をついてパラパラ漫画を見るようにページをすばやく流す。その流す隙間から文字が溢れて飛んでいきそうだ。
「本当にこれ、あなたの夢の中の話だよね?なんかで読んだ物語の改変とかじゃなくて」
「間違いなく、僕が見た夢だよ。それも夜の睡眠中じゃなくて、入浴中のうたた寝の時だ」
「なんにせよ、夢をここまで克明に覚えてるって珍しいよ。大体はその日に記憶した物事の整理の際に浮かんで消える情報が夢として流れるのであって、忘れるべき光景のはずなんだ。だから断片的な情報しか残らない。でもこのノートの内容は、常識的な部分が欠落はしてはいるけど最初から最後まで物語の辻褄が合ってる。夢というより、昔を思い出して書いたとか、忘れないように書いた備忘録、という感じだよね」
 書いている最中から僕が感じていたことだ。普通、夢は忘れるべきなのだ。記憶に残ることはあまりよろしくない。
「しかも不思議なのは、このラストシーンの大洪水というか津波の話。さっきも聞いたけど、多くの水が北アフリカ大陸を流れた痕跡なんて、夢のあとに知ったことなんだよね?」彼女は空のコップにオレンジジュースを注いで、僕の空いたコップにも注いでくれた。「情報のインプットが逆だよね。知り得ない情報を夢で知るなんて」
「もとより僕はオカルトマニアじゃない。無神論者だし無宗教だ。旧約聖書とライトノベルの区別もつかない。だから事前にこの情報を知っていたわけじゃない」
 オレンジジュースを一気飲みして、コップを勢いよくテーブルに置くと、僕に詰め寄る。
「もうさ、これほんとに体験したことにしちゃいなよ」
「どういうこと?」僕は驚いて聞き返した。
「夢の話じゃなくて、ほんとにこの彼女に召喚されて異世界に行ったって事にしたほうが、物事が進むと思うよ。だって、そうじゃないと辻褄が合わないよ」
 暴論だと思った。でも確かに彼女の言うとおり、夢を見たことをしたためたというより、本当に体験してきた事を夢と誤認識していると言ったほうが理論ではなく本能的に納得できた。夢の中の彼女を思い出さないのも、なにかそういった真実を拒否しているためなのではとも感じる。
「さて、私はそろそろご飯の時間だな」彼女は立ち上がってジーンズ地のカバンを肩にかけた。「お腹空いちゃった」
 僕が時計を見ると、時間はそろそろ昼前にかかるところだった。
「あてはあるの?」
「うーん、まぁどっかあるでしょ」
「あのさ、良かったらなにか作るよ」
「え?あなた、料理なんてできるの?」彼女は珍しい物を見るように、目を丸くした。
「独り暮らしが長いからね。自炊位しないと、お金がいくらあっても足りないんだ」
 そうなんだ。と彼女は腰を下ろした。「じゃあお願いしようかな?でもいいのかな、ほんと」
「話に付き合ってくれてるお礼だ。30分ほど待ってて」
 僕は冷蔵庫にあるものをチェックしてからパスタを茹で始めた。ベーコンがある、アスパラがある。パスタ以外の物が浮かんでこなかった。戸棚にはツナ缶があったから、野菜室のサニーレタスとトマトでサラダを作った。ドレッシングはノン・オイルドレッシングを即席で作る。
 塩茹でされたアスパラは鮮明な緑を体現した。フライパンにオリーブ・オイルを敷いて弱火でガーリックを香出しして、小さく切ったベーコンをカリカリになるまで炒める。茹で上がったパスタを茹で汁と共にフライパンへ移すと、油の弾ける元気な音が広がった。
 香りに誘われて彼女が僕の後ろから顔を覗かせる。「危ないよ」
「こんないい香り出されたら、作るところから見ないと失礼だね」
 炒めるパスタに塩とコショウを振り、火を消してから香り付けに醤油を数滴垂らす。火を消してから垂らすのがポイントだと伝えると「勉強になります」と返ってきた。
 飾り付けにアスパラと輪切り唐辛子をちらして料理が完成すると、僕らはテーブルを挟んでパスタとサラダを食べた。
「あなた、料理人になれるんじゃない?」
「まさか。人に出せるのはこの程度の物しかないよ。あとはどっかの賄いみたいなものばかりだよ」
「いやいや、その賄いが美味しかったりするんだよ」
 彼女はとても美味しそうに完食した。

 のんびりとした食事を終えると、僕らはまだガーリックとベーコンの匂いの残る台所でコーヒーを淹れた。台所の窓からはそよ風が入り、居間から外へ抜けていった。そしてコーヒーの香りが食事の香りを拭い去っていった。
 彼女は何も言わず僕の肩越しに台所の窓から外を見ている。僕はその横顔を見る。僕はなにかのしるしをそこに見た気がする。それは遠く名も忘れた夢の中の彼女の横顔。すべての動作が、夢の中の彼女と重なっている。
「ねぇ」僕が問いかけると、彼女は何も答えず、顔を向けてから視線を向けた。大きな瞳が僕を見据え、その瞳の中に僕が映る。それほど近くに彼女の顔があった。
「君は、誰なんだろう?」
 彼女はゆっくりと瞬きを正確に二回分溜め、首をわずかに傾けて「誰だろうね?」と答えた。
「君には名前がある。じゃなかったらアルバイトもできないし、大学にも入学できない。区役所には、君の戸籍だってマイ・ナンバーだって保管されているし、そして親兄弟もいる。でも、それは社会的に体面上、必要な君の情報だ。僕にとっては、それらに縛られない全く別の君がいるような気がするんだ。社会的に見るとき君は”A”という女性だけど、僕という存在を通すと”B”という女性になるんじゃないかな?」
 彼女は僕が喋り終わるまで何も言わなかった。ただ、ゆっくりと義務のように瞬きを繰り返し、悲しみを帯びた宝石のような瞳を僕に見せてくれている。それはまるで、彼女の心を言葉ではない何かで伝えようとしているかのようだった。
「それは答えにくい質問だね。私はあくまで私だし、それ以外の何者でもない。ただ駅前のベンチで座ってたあなたに個人的に好奇心が湧いただけ。私が”A”か”B”か、それはわからない」一口、コーヒーをすすった。
「おそらく君の言うとおり、あれは夢じゃないんだ。僕は実際にあのリンデンに呼ばれて、火や敷布団や武器を伝播して、そして大洪水の果てに還ってきたんだ」
「わたしも自分で言っててなんだけど、なぜそう思うの?あなたは元々、法律事務所の事務で働いていた超現実主義のリアリストじゃなかったの?そんな異世界転移なんてオカルトを信じてもいいの?」
「君の中のしるしが、それを裏付けてる」
 しるし?と、彼女は首を再び傾ける。それはとてもチャーミングな仕草だった。
「僕は君の横顔を知っている。夢の中の彼女と初めて会ったときから、その横顔は宿命的に運命的に僕の心に楔としてしるしをつけた。そして、君の横顔はその鍵になっている。そうだろ?」
 少し口元に優しい笑みを浮かべて僕の顔を見ている。よくその顔を僕に見せてくれていたのを思い出す。
「─エテル、僕を許してほしい。君を残したまま僕はこちらに還ってしまった。世界を救うと約束したのに、その後がどうなったかも知らずにいた」
 しばらく何かを探るように僕を見ていた彼女は、コーヒーを置いて僕の頭をそっと撫でた。優しく、恐竜の化石発掘で砂をブラシではたくようにそっと撫でた。
「私はエテルじゃない。でも、私は託されたの。あなたはきっと今みたいな気持ちになると、予想していたんだろうね。だからテールは私になって、あなたが帰ってくるのを待っていた。ずっと悠久の時を流れながら。そしてあなたを安心させることができたなら、私の人生の役目の一つはここで終わると、そういう風に彼女たちから言付かったの」
 彼女は頭を撫でていた手を赤ん坊の肌に触れるように、頬に添えた。彼女からはメンソールとコーヒーの匂いがする。その匂いは、ある種の誘引剤の様に香っている。
「勘違いしてる。エテルはあなたを憎んではいない。そして、感謝してる。あなたと過ごした日々はかけがえの無いものだったし、あなたを愛することができて良かったと、エテルはテールと私を通して気持ちを遺した。─伝えたよ、確実に」
そう言うと、彼女は僕に優しくキスをした。

 僕は彼女の背中を抱きしめながら、夕方まで眠った。なぜだかとても眠かったのだ。後頭部を強く殴られたように眠ってしまった。そして彼女も眠った。深夜帯のバイトは、昼食後がとても眠くなるのよ、と彼女は言った。それはそうだ、人は本来、夜寝るものなのだ。
 夢にエテルが現れた。その顔は笑顔に溢れていたし、なんの心配も入り込む余地はなかった。エテルはハッキリ見えたし、いつものように笑っていた。そこに昔からあったかのように。言葉はない、それは彼女が言うべきことを代弁したからだろう。僕は、ただエテルに会えたことが幸せだった。

 日が沈みだす頃、僕らはほとんど同時と言っていいタイミングで目を覚ました。隣で夢と現実の境にいる彼女の髪を耳にかけた。
「ところで」僕はボソリと呟く。「さっき言ってた、【私の人生の役目の一つ】って何のこと?他にも役目があるの?」
 彼女は僕を見つめたまま考えていた。どう伝えようか、思慮してる様に見えた。
「人はいくつかの宿命を背負って運命を生きてると思う。生まれつきそれがわかって生きてる人もいるかもしれないけど、大体の 人はそれを探しながら人生を模索してるんじゃないかな。私はまず、二人の巫女の代わりにあなたを導く私なりの巫女の役目があった。とりあえずそれは終わったけど、宿命は一つじゃないだろうし、他の事も探してみるって意味かな」
なるほど、と僕は言った。

 いつものように聞こえる子どもたちの声と、前の路地を通る車の音。全てはいつもの日常だ。だから、僕は自分のこれからの事を思案する時期に入っている。いつまでもフラフラと遊んでいる余裕もないからだ。 でも、僕一人であれこれと出来るのだろうか。リンデンでも、エテルがそばにいてくれたから僕は決意を持って行動することができたに他ならない。
「ねぇ」彼女に呼びかけられて、宿命的に僕は振り向いた。「あなたはこれからどうするの?」
 僕はこれからどうすればいいのだろう。一人で生きていける自信は、あまりなかった。
 でも僕はこの世界で生きていくのだ。人はこの世界でしか生きていけないし、自分で自分を磨いていかなければいけない。ただ、その生き方というのをエテルとテールが彼女を通して導いてくれた。
 僕は彼女を再び見た。答えなど、既に決まっているんだ。ただ深く考えて込み入った内容になってしまうから、とにかくシンプルに言うしかない。僕はいくつかの候補を上げて、自分の声を確かめながら意思を伝えた。

「君の名前を教えてくれないか。朝を一緒に迎えよう」

2019年4月22日公開

作品集『世界の果て、夜明け前』最終話 (全6話)

© 2019 村星春海

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