戦況は僕の思う通りに進んでいた。ヤツェラは30万もの軍勢を差し向け、ゴールス国のは10万ほどの軍勢でそれに対抗した。数で言えば不利とも言えるが、武器の分でそれは補える。蟻が巨人と戦うというような状況ではない。
季節は冬だ。肌寒いヴィクスの村長宅から、戦闘が行われている方角を見つめるが、何も見えないし何も聞こえない。それはそうだ、兵器などは使っていないからだ。
戦争が始まってから一週間後、前線部隊からの伝令がやってきた。メッセージを送ればいいのだが、なぜか彼らは融通が効かなかった。
伝令によれば、武器を持っている分、ゴールス国が優勢だそうだ。後方に残っていたイジェ国の残存勢力が体制を整え、サンドイッチのように挟み撃ちが始まってもいる。ヤツェラは快進撃の末に今、一番の危機に貧していた。
僕は前線まで出発することにした。今この村には僕とサエルスと少ない軍人だけしか残っていない。エテルもテールも前線まで支援に出ており、民間人は後退していたからだ。
エテルは無事でいるだろうか。とりあえずそれが心配だった。
「サエルス。僕は前線まで行こうと思うのだが」
僕が話しかけたときちょうど彼はフィークを一口、口に含んだところだった。
「前線へ、ですか?」
「うん。実際の戦況も見てみたいし、みんなが心配なんだ」
「みんな?みんなというより、エテルが、ではないですか?」
サエルスは、意地悪そうに微笑んだ。
まぁ、それもある。と濁しておいた。
一晩寝てから、明日出発することにした。
寝る前に歯を磨く。フィークはコーヒーと一緒で歯が茶色になるのだ。顔も丁寧に洗う。鼻の脇から唇の端までだ。本当なら鼻を取り外したいくらいだ。
布団に入ると、エテルの姿が天井にプロジェクターから映し出された映像のようにぼんやりと現れた。今何をしてしているのだろう。元気にしているか、怪我をしてないか?他の男に言い寄られてないか。次から次に現れる諸疑問を自分の中で解決していくと、一番最初に荒野で出会った頃のエテルが現れた。僕の背後までにじり寄って来ていた。あのまま僕が気づかなかったらどうしていたのだろう。なにか鈍器のようなもので殴打されていただろうか。今となっては分からないが、もしかしたらあの時からエテルに心惹かれていたのかもしれない。ヴィクスまでの道のりで盗み見たエテルの横顔は、なにかのしるしの様に心の片隅に張り付いている。
翌朝目覚めると僕はサエルスに言葉少なめに挨拶をした。そしてフィークを飲んで、ヴィクスを後にした。前線までは徒歩で約3時間、昼までには到着できるだろう。日が空にあるうちに現地へ到着したかった。
1時間ほど歩いた道中で日陰のあるオアシスを見つけ、そこでローストビーフのサンドイッチを食べる。喉に詰まりそうなサンドイッチをフィークで流す。生ぬるいフィークが喉から胃まで流れるのを感じた。その流れる異物感は、僕の心に染み込んだ。
その時、からっ風が吹いた。からっ風は無遠慮に僕の体を愛撫して無愛想に通り過ぎていくと、少し先で唐突に姿を消したように見えた。この風はエテルの元へも行くのだろうか。僕はあと一切れを箱にしまい込んで、腰を上げると再び歩き出した。
日が頂点から傾きだした頃、遠くにゴールス国の旗がはためいているのが見えた。解像度の低いサムネイルの様な旗はまるで僕に手招きをしているように見えた。どうしようもなく疲れた足を一歩一歩前に踏みしめ、次第にはっきり見えだす旗を目指す。もうすぐエテルに会える。
陣営の簡素な柵の切れ目が入り口になっており、そこにいた兵士に話しかける。
「僕は岡田亨です。ヴィクスからやってきました」
「あなたが岡田亨さんですか。お話はかねがねお伺いしております。どうぞお入りください」
「エテルとテールはどこにいるかわかりますか?」
誰のことか分からないといった様子だったが、ヴィクスから来た巫女だと伝えると僕を案内してくれた。
そこまでの道のりで野営の中を見たが、どうも戦争中という感覚がない。みな思い思いに過ごしていたし、戦争中という枕詞がなければヴァカンスに来ているんだと言われても、誰も疑わないだろう。本を読んでいる者、アルコールを飲んでいる者、昼寝している者。ある時間以外は戦をしないのかもしれない。にしても油断しすぎてはないか?
あるテントに到着すると、兵士は大仕事を終えたように持ち場へ帰っていった。
入り口の湿気た色合いのカーテンを開けると、エテルとテールがすでに食事を摂っていた。
「トオル。どうしてここに?」エテルがギャートルズに出てくるような肉を頬張りながら僕の顔を見て驚いた。
「落ち着かなくてね。僕もここに滞在するよ。だめかな?」
「ううん、来てくれてありがとう。トオルが来てくれたらもうなんの心配もないよ」
僕らは三人で食事を摂った。肉肉しいいかにも高カロリーな献立だった。エテル曰く、戦争が始まって以来、回復の術式の使用頻度が非常に高くとても多くのカロリーを消費する。故に毎日、これだけの食事を摂っているとのこと。僕としては肉付きの良い女の子はとても好きだ。と伝えたら、二人から「すけべ」と言われた。
食事のあと、テールは「あとはお二人で仲良く」と言ってテントを後にした。二人きりになったテントの中は、急に心細くなる。フィークの暖かな湯気がカップから昇り、すっと消えていく。湯気が消えるたびに、テント内の温度が0.2度ずつ下がっているような気がした。その寒さにエテルは僕にもたれ掛かってくる。エテルの体の暖かさが僕に伝わって、周りにふわりとしたベールを広げているような気がした。
「戦況はどうなの?」僕は言った。
「うん、問題ないよ。私達が優勢」エテルが答えた。
「あとどれくらいで終わるんだろう?早く終わらせて、君と二人でヴィクスに帰りたい」
「ここではね」エテルが僕の顔を見た。「トオルは有名人なんだよ」
「到着した時、門番の兵士にも言われたよ。どんなふうに有名なんだろう?」僕は鼻の横を掻いた。
「武器を持つどころか、武器自体の概念がなかった私達に、新たな考えを吹き込んだって。世界中央政府でも話題みたいだよ」
僕は特に答えなかった。ここまで人に頼られるのは初めてだったから、どう反応していいかわからないのだ。
「ちょっと嫉妬しちゃうな」
「嫉妬?」
エテルはもう一度僕の方に頭を置いた。エテルの暖かさが戻ってくる。
「だって、もともとは私がトオル呼んだんだもん。最初は間違いだとか、こんな無能がとか。そんなこと言ってたくせに、今では救世主だ!なんて、都合がいいよね。私が呼んだのに」
無能はエテルが言っていた。
「そうだね。でも僕に活力を与えてくれたのは他ならぬ君だよ。僕はエテルだけに感謝してる」
エテルはありがとうと、小さく答えた。僕らは二人、そのまま談笑した。
テールはいつまでも帰ってこなかった。僕とエテルは静かにキスをし、そのまま夢の中へ落ちた。
朝日が差し込む。テントの外がにわかに活気づき、その喧騒で目が覚めた。
ちゃんと敷布団の敷いてあるベッドのおかげで、体は凝っていない。ちゃんと半日歩いた体の疲れは剥がれ落ちていた。
外に出ると、隊列を組んだ兵士たちが武器を持って戦場へ行進していた。まるで津波のようだった。何人の兵士たちがいるのだろう。何千だ。冷たい風を切りながらはや歩きで進んでいった。
隊列が僕の目の前から居なくなると、エテルとテールがやってきた。
「おはようトオル。疲れは取れてる?」
僕は問題ないと答えた。
「岡田さん。これから数時間後に戦闘が開始されます。ここから数里離れた平原です。一緒に行かれますか?」
僕は二人について戦場である平原へついた。海が近いのだろうか西の方から微かに潮の匂いが混ざっており、戦場はヴィクスの周りと違って草木が生い茂りまではしないものの、40代後半男性の頭髪くらいには自生している。
僕が見ていた左手手前、ゴールス国軍が陣を整えていた。そして遥か先、あれがヤツェラ。黒を基調とした防護服を纏っている集団が集まっているためか、それは黒い平べったい巨大な布を思わせた。
「あれがヤツェラです。彼らは凄まじい機動力を誇り、一瞬で陣形を変え取り囲んできます。まるで、一つの意思を持った生き物の様だと、イジェ国の残存勢力から聞いています。今のところこちらが武器を持っている分、ヤツェラの包囲陣に対抗できています」
僕の頭にその機動力に対しての、一つの仮説が現れた。
ヤツェラは通信機器を持っているのではないか。
スマホがあるのだ。十分考えられるのではないかと思ってテールに話したが、そんな高度なものはありません、と矛盾した答えをもらってしまった。
しばらくして、戦闘が始まった。遠目に見てわかるが、ヤツェラはそもそも進軍速度が早く、あっという間に間合いを詰めてくる。我々が10歩進む間に彼らは20歩は進んでいる。つまり倍だ。
そしてテールの言ったように、スライムが動くように黒い塊はぬるりと形を変えてゴールス国軍を取り囲もうとしている。しかし取り囲むように動く腕の付け根にナイフを突き立てるように自軍の陣形の一部が突進し、腕をもいでしまう。そしてバラバラになった腕は次第に本隊へくっついていく。
ヤツェラが黒を基調としているのは、相手への牽制の意味があるのかもしれないと僕は思った。黒という色の意味するところ、黒は重いイメージだ。言葉の音もそうだし色もそうだし、黒は白より重い。【蜂蜜】より【黒蜜】の方が、どろりとしている気がする。
しばらく見ていたが、その繰り返しをしている。これでは持久戦そのものだ。4時間ほどその動きを繰り返した後、お互いに陣を引かせた。
「しばらく停戦です」テールがつぶやいた。「私達は軍のもとへ。負傷者の救護へ向かいます」
僕もそれについていく。
被害はそれほどでもないが、疲労が激しいようだ。エテルとテールは回復の術式を施していく。しかし数が多すぎだ。30人を待たずに二人の顔には疲労の影が見え始めた。まだ何百人と回復待ちがいるというのに。
その日の夕方。太陽が沈み始めた頃には戦闘は終わった。夜戦というものは存在しないようだ。
それから二週間滞在した。
結局徐々に押しているとはいえ、なかなか決着に至らないのが現実だった。エテルは一度倒れ、しばらくあとにはテールも倒れた。ゴールス国中央から何人かの巫女が派遣され二人はなんとか回復したが、戦争の終わる気配はなかなか見えなかった。
しかし、ある日。戦況が一気に動いた。
それは世界中央政府からの伝令だった。いかにも長旅しましたというような出で立ちの男だった。僕はスマホのメッセージ機能とか使えばいいんじゃないの?という無粋な事を言うのはやめた。おそらくこれから彼らのやり方なのだろう。
伝令によると、ヤツェラの動きに異変が見え始めたとのこと。この戦局以外のヤツェラが撤退を始めているとのこと。それを聞いたゴールス国軍の司令官やエテル、テールは終戦間近と喜んだが、僕はなぜか腑に落ちなかった。手こずっている戦局はここだけのはずだ。ほかを捨てる理由がない。僕の考えでは、この地区に全戦力を投下する可能性が浮かんだ。
この世界がどれほど広いのかはよくわからないのだが、各地に散らばる戦力をどれくらいの期間でここへ集めるのかが気になった。喜びに浮足立つ陣営を抜け、僕は自分のテントに戻る。
あれこれ考えていると、僕がいないのに気づいたエテルがやってきた。
「トオル、ここにいたの?」
「うん。どうにも、腑に落ちない」
「え?なにが?」エテルが僕の顔を覗き込んだ。
「手こずっている戦局はここだけだ。他を捨てる理由がない。落としてしまえばいいだけの話なんだ。なぜ撤退するんだ?」
「それも、そうね」エテルは顎に手を当てて考えた。「そういえば、この戦局のヤツェラも撤退をはじめたわ」
「なんだって?」僕はエテルを見返した。
「さっき撤退を伝えた伝令が来たくらいに、ヤツェラの陣営が後退をはじめたそうなの。とりあえず警戒して深追いはしない方針なのだけど」
ここも捨てるなら、ヤツェラは降参したと見ていいのだろうか。一体、何を考えているのか僕はさっぱりわからなくなる。ひとまず様子を見るしかなさそうだった。
ヤツェラ撤退から数時間後、戦場ではヤツェラの影も形もなくなっていた。おそらくイジェ国まで撤退したのだろう。司令官は兵士たちに休息を与え、皆、体の力を抜いた。
僕は戦場の見渡せる場所で考え込んでいる。戦場には誰一人いない。そしてやはり腑に落ちない。子供にナイフを持たせているような予測できる不安ではない。大事な会議の前日に何かを忘れているようななんとも言えない不安感だ。
タバコが吸いたくなってポケットを探るがテントに置いてきたことを思い出し、僕はその場を去るために振り向いた。しかし、体に響く何かの振動を感じ取って、もう一度戦場の方を振り向いた。そこには何もなくただ無駄に広がる荒野だけだ。いや、違う。地面じゃない。空だ。遥か彼方に巨大な影が浮かんでいる。あまりに遠くにある為か霞に包まれてぼんやりとなめらかな三角をシルエットに映している。
「あれはなに…?」いつの間にかやってきていたエテルが僕の背中越しに話しかける。
「なにかが、迫っていてる」
次第に近づく影はゆっくりと陰影をはっきりさせ、おぼろげな三角は鋭利な正三角形を表す。それは全部で3つだ。僕らの頭上まで迫っている。とてつもなく巨大な正三角形は、空を飛んでいるにも関わらずジェットエンジンのような音は一切聞こえず、くぐもったモーター音だけが聞こえていた。
それらは僕らの頭上を過ぎ、遥か彼方へ飛び去った。僕はあれを見たことがある。エテルは僕の背中にしがみついて飛び去った方の空を見ている。服の裾を引っ張る。
「トオル…。あれは」
震えるエテルの手を取って、僕は努めて冷静に告げた。
「とりあえずテントに戻ろう」
宿営地では大騒ぎが起こっていた。それはそうだ。誰でも未知のものに触れ合うとパニックを起こす。僕はエテルとテール、何人かの軍関係者と会議を開いた。
「あれは一体何だったのだ!あんなものは見たことがない!」
一番落ち着かなければならない司令官が一番取り乱している。他の人間が黙っている分、ある種滑稽に見える。
「トオル、あれはなんなの?知ってる?」エテルが僕に問いかけるが、答えるべきなのか。僕はあれが何なのか合っているかどうかはもとより、他に言いようもない。
あれは間違いなくピラミッドで、しかもエジプトにあるギザの三大ピラミッドだ。今のピラミッドは石が剥き出しだが、かつては大理石で覆ってあったらしい。さっき見たそれはまさに大理石の黒光りする姿そのものだった。
この世界は宇宙の平行世界ではなかったのか?これじゃ、平行世界じゃなくて─
「とりあえず!」司令官の机を叩く音と怒号で我に返る。「ヤツェラもいなくなったことだし、必要最低限の警備兵を残して本隊は中央へ撤退する!この事も報告する必要がある」
司令官の言うことはもっともだ。これ以上ここに宿営地を展開する必要はない。僕らはかねがね同意し、3日後の完全撤退を目標に行動を開始した。
解散したあと、僕はエテルとテールにここら一帯の、なるべく広域の地図がないかと聞いた。テールがしばらくして持ってきた地図を開いてさっきのピラミッドが飛んでいった場所を概算してみた。すると飛んでいった方向はもとより、そもそもこの地形がアフリカ大陸北部に似ていることに気づいた。そしてピラミッドが現れたのは西。そして向かっていった方向と方角はまさしくエジプトだった。
そして直前に撤退した各地のヤツェラ。この2つの事実は何かを示唆しているのだ。僕は考える。そしてこの世界は本当に平行世界なのか。
「大丈夫?」エテルがフィークを持って僕の横に置いてくれた。「かなり思いつめてるよ。表情に出てる」
「うん。多分そうだろう」僕はエテルに聞いてみることにする。「ねぇ、エテル」
「なに?」
「この世界についてだ。ここは僕のいた宇宙の平行世界。そうだよね」
「そうよ。隣り合わせになっている。」
「その隣り合わせというのは、ぴったり寄り添っているのかな。それとも倦怠期の夫婦みたいに少し離れているのだろうか」
エテルは少し考え込んだ。
「ごめんなさい。そこまで考えたことはないわ。ただ、そうとだけ習ってきたから。でもそれがどうしたの?」
「これから話すのは仮定だ。僕の夢物語、いいね?」
エテルは黙って頷いた。
「このリンデンは、僕のいた宇宙に侵食されている。僕が来たのが原因なのかどうかはわからないけど、ゆっくりと侵食されているんだ。重なっているんだ。恋人たちが手を重ねるように。問題はどちらの手が上にあるのかだけど、僕の世界にあるものがこっちにあるから、おそらく宇宙がリンデンに重なっているんだと思う。それにさっき見たあの巨大な3つの正三角形の飛行物体は、僕のいた宇宙にある。配列から何から全く同じように。」
エテルはなんと言っていいかわからないといった風に僕の顔を見たまま黙っていた。
「それで」エテルがゆっくりと口を開いた。「あの巨大な飛行物体はなんなの?トオルはあんな巨大なものが飛んでいる世界から来たの?」
「いや、僕の生きていた時代には、既に何千年も前の遺物だった。王の墓とされていたけど、もしかしたらまた別の目的があって作られたとも言われていた。あれは、僕の世界ではピラミッドと呼ばれてた」
「そもそも飛ぶものではない?」
「そう。僕の知る姿は、どっしりと腰を据えてそこにあったよ」
エテルは再び黙り込んだ。
「トオル。この際、そのピラミッドがなんでもいいの。私は、この先何が起こるのか、それが不安なのよ」
そうだ。僕の不安はそこなのだ。あんなものが出てくるとは想定外だ。僕の予想通りに宇宙に侵食されているのならばもはや戦争どころではない。それにピラミッドの出現と入れ替わりにいなくなったヤツェラはなんなのか。もしかしたらピラミッドと密接な関係にあるかもしれない。さすれば、ピラミッドは我々の敵である可能性もある。あんなものを飛ばす科学力がある相手に、僕が木の棒で作った武器など役に立たつはずはない。
僕は事態を静観するしかないのではと結論付けた。
次の日から軍は徐々に撤退を開始し、僕らは後続隊として続く。まだ謎は残ってはいるもの、ここにいては仕方ないのだ。僕らの隊が撤退するまでにある半日ほど、ゆっくりとフィークを飲んで過ごす。
あと少し。もう少しで出発の時、警備をしていた者が恐ろしい形相で駆け込んでくる。隊長が話を聞くが、はっきり言って要領を得ない。僕が割って入り話を聞くと、イジェ国方面の様子がおかしいとのこと。まだ出発までに時間があるので、僕らは今一度、誰もいなくなったはずの戦場へ向かった。
僕は、いやそこにいたすべての人間、僕、エテル、テール、隊長、伝令は目を疑った。はるか先に白い線が180度展開していた。あれは、波だ。津波だ。誰かが僕の裾を引っ張る。僕はそれでハッとする。このままでは先行している部隊ごと飲み込まれてしまう。
「逃げましょう!」
僕の合図をきっかけに全員が動き出す。皆で来た道を駆け下り陣営に戻ると、出発を待つ部隊に即時撤退命令を出した。
一斉に動き出した部隊を眺める僕に、エテルが話しかけてくる。
「トオル。さっきのは…」
「津波だ」
「津波?」
「そう。遥か彼方にあるのにも関わらずあれだけはっきり見えた。かなり巨大なものだ」
エテルは津波がよくわかっていない様だったが僕の様子を見るにただ事ではないというのはわかっているようだ。
僕は彼女の手をしっかり握った。彼女が不安そうな目で僕を見返す。その瞳には僕が写っている。瞳は今にも零れ落ちそうな、悲しい宝石を思い起こさせた。
「どうなるの、これから。私達、死ぬの?」
「死なないさ。早くヴィクスへ戻ろう。流石にあそこまでは来ないだろう」
僕はとにかく進軍を早めるように隊長に伝える。追いつかれたら元も子もない。あれだけの波では助かりようもないからだ。テールとエテルにとにかく皆に回復の術式を当ててもらい、進軍を早めさせた。
しかし撤退開始から約三時間、進軍は間に合わなかった。たまたま丘にいた僕とエテルと数人は波に巻き込まれず、一先ずは助かった。しかし、そこにテールの姿はなかった。姉を探すと言って取り乱すエテルを皆で押さえ込んだ。
テール。この波ではおそらく助からないだろう。僕はテールの流れる滝のような黒髪を思い出した。妹思いで、いつも僕とエテルを応援してくれていた優しい女性だった。僕は泣くことしかできなかった。
時間が経つにしたがって水量と勢いは増していった。丘はあまりの波の勢いに削られていった。この勢いではおそらくヴィクスまで到達しているに違いない。僕の計算は甘かったとした言いようがない。
「トオル」エテルが光を失った瞳で僕を見ている。
「なんだい?」
「もうだめね。助からないわ」
「そんなことない。必ず水は減る。気をしっかり持って」
だが、僕自身、その言葉になんの将来性は見いだせない。実際に足元まで迫る水量は増えている。
「僕は、この世界を守るために来たんだ。必ず生き残ってみせる。君のためにも、必ず」
「トオル…」
エテルを抱きしめようとした瞬間、僕の体はエテルから遠ざかっていた。一瞬増水した水に足を取られ、僕は洪水の中に落ちた。
叫ぶエテルの声は少しだけ聞こえたが、すぐに水の音にかき消される。耳や鼻に水が侵入してくる。強い潮水だ。ツーンとする痛みに僕は口を開け、大量の水を飲んだ。
もう目を開けても水しか見えない。エテルも何もかも見えなかった。
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