川底に捧ぐ

ハギワラシンジ

小説

3,332文字

私は夫に疑念を持っている。 どうしてそうまでしてあの川に行くのか。雨が降っているのにもかかわらず。 そして私の歯は抜ける。ぽっかりと夜が訪れて、私はしゃがみこむ。

#夜の訪れ

 ひっきりなしにあごを動かして夕食を食べていた。夫は私の方を向いて今日の釣りの話をしてくれる。口から食べかすが飛び出さないように喋り、時々ナプキンで口端を拭く。私は夫の言葉に耳を傾け頷き、ほほえむ。でも夫は川を見て話しているように見える。何かが私たちを隔てていた。
「どうしたんだ」と彼は魚を切り刻み「具合でも悪いのか」と言う。
「そんなことないわ」私はフォークを置く。
「ちょっと小骨が刺さっちゃって」
「まったくだ」
 彼は口をかばみたいに開き、爪で歯の間をほじくった。つるりと白い歯が並ぶ。
「俺の顔がおかしいか」
「ううん、全然」何だかすごく不細工な気分だ。「いつも通りよ」
 私は席を立った。夫もそうしろと言わんばかりにテレビに向き直る。この人は私が先に席を立っても文句を言わない。手を止めようともしない。ただナイフとフォークをがちゃがちゃさせて、小骨を脇にどけるだけ。
 私は洗面所の鏡に笑いかけた。やっぱり不細工な感じだ。そしてゆっくりと口を開く。奥歯が一本抜けてしまっていた。ぽっかりとそこだけ夜が訪れたみたいになんにもない。多分夕食と一緒に飲み込んでしまったのだろう。あんな固いものが胃の中にあるなんて。その場にしゃがみこむ。人差し指で胃の辺りを強くなぞった。お願いだから出て来てちょうだい。そんなにいじめなくってもいいでしょう。私はしばらくこみ上げる吐き気と向かい合っていた。洞窟になったような気分だ。その証拠に夫にも夜が訪れている。

#雨の訪れ

 翌日、雨が降っているにも関わらず、夫は釣りに出掛けて行った。彼が玄関に座ってくつひもを結んでいる間、私はずっと口をもごもご動かしていた。舌先の情報によると、また一本歯が抜けたらしい。
「昨日の夕食はおいしかったよ」
と頬にキスをしてにっこりと何かに笑いかける。彼がドアを開けた途端、冷たいしぶきが悪口のように飛び込んできた。それは私の頬を濡らし、気に入っているくつや私の服に必要の無いものをもたらす。
「早く閉めて」と震える声で言う。わかったよ、と夫はちょっと傷ついたように手を振り、今日は洗濯物を干さない方がいいようだ、と言い残し雨に打たれていった。
 なんで昨日の夕食の話なんかするの。私は濡れてしまった床を拭いていた。あんなに小骨を嫌がっていたのに。拭いても拭いても、吹き込んだ雨水は床の奥深くまで根を張って、そこから離れようとしない。それにその服を洗濯しなきゃいけないのよ。家には乾燥機なんてないのよ。分かっているでしょ? 肩も肘も沢山動かしたけれども、もう水は嘘になっていた。床に、嘘がこびり付いている。床に。
 お願い、お願いよ。
 私は諦めて拭くことを止めた。居間のソファに座ってテレビを点ける。
 教会が映し出された。きらきら光っていてガラスの建物みたいだ。人々が何かを叫んで、何かを指差している。その先には黄金色に輝く鐘があった。次の瞬間、その中から一羽のハトが飛び立った。鐘の内側に巣を作ってしまったらしい。教会の関係者は鐘を鳴らすことができないので、困り果てているようだ。
 自業自得よ。
 どっちが?
 どっちも。
 またハトが飛び立つ前に私はチャンネルを変えた今度は川が映し出される。ブルーシートと警官で溢れかえっている。以前よりもそれらは数を増しているように見える。とうとう女性の死体が見つかったのだ。被害者の家族が悲痛と怒りの表情で何かを言おうとした時、私はテレビの電源を切った。ぴィんと空気が一列になって目の前に並ぶ。さっきよりずっと見たいものがはっきりしたというのに、私は顔を手で覆う。力無く壁にもたれる。何か支えが欲しかった。そしてそれが別の形で失われつつあると分かると、このままハトになってしまいたくなった。でも、まるで川底にいる気分だった。

#円環の訪れ

 夫はちゃんと帰ってきた。私はばたばたと廊下を走りぬけ、雨で濡れた体に抱きついた。
「一体どうしたんだい」
 彼は目をぱちくりさせて私をやさしく支えた。ごめんなさい、私がいけなかったの。わたし、自分があんなこと言うなんて思わなくって。本当に言うつもりはなかったの。本当よ。
 まいったな、と夫は頭を掻きながら不意に思い出したように、クーラーボックスを漁り、ほら、と大きなマスを取り出した。
「プレゼントだよ」生臭くて、大きい、まだ生きているそれを私に押しつけると、私を押しのけてシャワーを浴びに行ってしまった。
「おいしい夕食を楽しみにしているよ」
 バスルームで声が反響した。
 マスをまな板に置くまでそう時間はかからなかった。雄々しい体を横たえると、妙に幸福な気分になった。今ならこのマスで世界が救えるわ。真っ黒に汚れたコンロを見る。そのうち掃除してあげるからね。
 包丁の先端をマスに突き立てると、何かがそれを阻んだ。慌てて引き抜くと、刃先が少し欠けてしまっていた。切り口を覗くとピンク色の身以外に鈍く光るものがある。私はそれを慎重に引き抜いた。指輪だった。あまり輝いていなかったし、汚れて安っぽそうだけど確かに指輪だった。そしてそれは誰かが誰かにしるしとして与えたものだった。
 プレゼント? よく分からなかった。多分マスが飲み込んだのだろう。この愚鈍な生き物は死ぬまで餌だと思い込んでいたんだろう。それでいい。指輪が少しでも私を映してしまわないようにゴミ箱に捨てた。そしてそのマスはとてもおいしいムニエルになってくれた。夫もよく笑ってくれた。私の歯はまた一本抜け落ちていた。

#雨は噛めない

 次の日ようやく降り続いていた雨が止んだ。あの暗くて澱んだ朝を迎えなくて済むと思うと、心はどこまでも晴れやかだった。それに夫は今日、釣りに行かないようだ。
 映画でも見に行こうか、と夫が言った。私は黙ってほほえんだ。すると夫はちょっと驚いていたが、ちゃんとほほえみ返してくれた。言葉は水と一緒にどこかに流れて行ったのだ。ずっと降っていた雨。乾燥した空気。日の匂いをはらんだ風。どれも言葉にしなくていいものだ。そして、それらは、ほとりから始まってほとりに帰るのだ。少なくとも魚にとっては。
 私は何気なくテレビをつけた。空気が一列に並んで、川が映し出される。ブルーシートに警察と、お決まりの連中だ。男が画面に映った。肩を震わせて、涙をだらしなく流している。その背中を誰かがそっと抱くと、いっそうしゃっくりの音が大きくなった。近所、そのまた近所にもこの男は映っているんだろうな、と思った。
 夫はほほえんだまま、「やっぱり釣りに行ってくるよ」と言った。私の唇にそっと触れた後、身支度をしに自室に向かった。私はそれを追う。ねぇお願い、どこに行くのよ、なんでよ、釣りになんか行かないで。
「なんか?」と夫は声を荒げた。「釣りは面白いぞ。きみもやってみるといい」
 いやよ、と一緒に口から歯が零れ落ちた。きれいな真珠が床を叩く、気高いハイヒールがオフィスビルを歩く、そんな音に似ていたけれども足元に転がっているのは私の大事な歯だった。
「なんだ、歯が抜けているじゃないか」と夫は笑い、「そんな人とはまともに会話はできないな」と言った。
 夫は歯医者に行ってきなさい、と私に現金をいくらか渡し、輝かしい日の光に包まれた。

#雨は噛めない

 ねぇ、私あなたがいなくなったらとてもかなしい

 私を担当した医者は太った中年の女だった。白衣が脂肪で波打って、まぶたは肉で出来ている。
「口を開けなさい、楽になるから」
 いやよ、あなたは単なる歯医者じゃないの。
「それならそれでいい。それならお金を貰って帰るだけ」
 悔しかった。この女の所為じゃない。イスの座り心地が悪い所為じゃない。もっと別のことで体がばねみたく不安定だった。
「一ついいでしょうか」
「なに?」
「歯が抜けると、精神はおかしくなるものなのでしょうか」
 ならない、と歯医者はきっぱりと言った。きっと間違いないのだろう。
 気分が白く濁っていって、全部がくるくる回って欲しいと思った。それなら私は回らない。夕食も小骨も、些細な事でしかなくなる。ハトになったとしてもずぶ濡れなら飛び立てないもの。
 ねぇ、私あなたがいなくなってしまったら、とてもかなしい。
 歯医者が私の口の中を覗き込む。
 それだけははっきりしているのよ。

2019年3月30日公開

© 2019 ハギワラシンジ

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