安藤仁子料理教室

応募作品

駿瀬天馬

小説

4,152文字

合評会2019年03月応募作品 。
Love is Blind.
恋ではなくて愛のLoveです。

安藤仁子料理教室はJR市ヶ谷駅から歩いて一〇分、お堀に沿って真っ直ぐ行って、坂を上って右に折れ、横断歩道を渡ってすぐのビルの三階に入っていた。通りから見える看板には明朝体ででかでかと「安藤仁子料理教室」と書いてあり、看板の四隅にはそれぞれお玉とフライ返しとトングと菜箸が描かれていた。

看板のデザインをしてくれたのは安藤仁子の学生時代からの友人で、つまりもう四十年来の仲ということになるのだが、ほとんど無料みたいな金額で頼んだのにも関わらず立派なものをきちんと納品してくれたその友人に、安藤仁子は大変感謝し、「素晴らしいわ」「素敵」「とても立派に見える」と大げさにその仕上がりを喜んだ。同時に胸の内で、友人がさほど料理が得意でなかったことを思い出し、何の調理器具を描いてどう配置するかのアイデアくらいは自ら出すべきだったかもしれないと後悔していた。看板完成から数年後、オリンピック種目となったカーリングの試合をはじめてテレビで観戦したとき、安藤仁子はカーリングストーンが友人の描いてくれた看板のお玉にあまりにもよく似ていたので笑ってしまった。

教室は二面採光になっている。とは言え、片方の窓は通りに、もう片方は隣のビルに面しているため、実質日の光が入るのは通りに面している窓だけである。隣のビルは一階と二階が不動産屋になっていて、三階はここ数年何を扱っているのかよくわからない何かの会社が入っていたのだけれど、去年の末にその会社がどこかへ移転したのか倒産したのかとにかく出て行ってしまったので、しばらく空いたままになっていた。その会社の前は学習塾で、その前はもう覚えていないがおそらく何かの会社だったような気がする。

それでしばらく空いたままだったのが、この頃改修工事が行われ、什器のようなものが搬入されて、徐々に室内には様々なマシンが並べられるようになった。安藤仁子はおよそ三ヶ月間のその経過を、教室の窓から興味深く観察していた。教室のあるビルの方が、隣のビルよりすこし背が高く、背が高いというか全体の規格が大きいと言えばいいのだろうか、たとえば同じ三階のフロアでも、教室の窓からは隣のビルの三階フロアを見下ろすようなかたちになった。以前入っていた会社は営業中も終業後もほとんどずっとブラインドが下りた状態であったのだけど、今やその窓のブラインドは取り去られ、もはや目隠しblindされてはいない。がらんと空いた内装はやがて整えられ、表通りには次のような看板が出た。

<ボールドジム>

果たして窓から見えるそのフロアは、スポーツジムへと変貌した。そう大きくはないフロアの中に、安藤仁子には使い方のわからないマシンがいくつも並べられていた。

その辺り一帯と、そして安藤仁子料理教室の郵便ポストの中にも例外なく入れられたチラシに書かれていたオープンの日がやってきた。その日になっても窓にブラインドは設けられず、文字通り公開openとなっていたわけだが、目隠しblindされなくなった窓からの光景は彼女に不意打ちblindsideを食らわせた。

マシンの動作を調べるように歩く一人の男。その姿は彼女に我を忘れblindedさせた。ぴったりとした黒のTシャツとスパッツはほとんどスイムウエアのように彼の体に貼りつき、肉体の隆起や曲線をくっきりと浮かび上がらせている。ゆったりと、まるで海底を歩行するダイバーのように彼はマシンの間を練り歩く。そして時折、壁にとりつけられた大きな鏡で自らの姿を確認する。確認する度に、彼は自らの姿勢を少しだけ修正するような動きをする。納得のいく角度に筋骨が配置されたのを確認すると、ふたたび歩き出す。髪はサイドを短く刈られ、頭頂部のすこし長めに残された部分はしっかり撫でつけられており、彼の一連の動作の間も微動だにしない。何らかのスイッチの確認、鉄の棒やシートの汚れの確認、そしてマシンの裏をのぞき込むときでさえ、まるで食品サンプルのスパゲッティーのごとくその髪は一本として揺れることはない。対照的に、彼の身体を分厚く包み込んだ筋肉は、彼がひとつひとつの動作をするたびに凹凸や陰影の強度を大げさなほどに変化させていく。

なんという力強さ。なんという神秘。

そして、と安藤仁子は思う。

なんという美。

安藤仁子は息を飲む、というかほとんどもう息もできないほど真剣に、食い入るように男の動きを見つめる。

男から目が離せない。こんなに胸が高鳴るのはいつぶりだろうか。いやこんなにも胸の高鳴りを感じたことが、かつてあっただろうか。心臓をぐるりと包む心筋が肋骨の裏側で猛烈にパンプアップして、全身へ熱い血を送り出しているのを感じる。自らのそれを感じれば感じるほど、視線の先にいる男の中にも流れているはずのその血汐、それが駆けめぐり躍動し、燃える筋肉を安藤仁子は感じることができた。

きん肉の あつき血汐にふれも見で かなしからずや 窓枠の我。

血の巡りが急激に良くなったせいか、安藤仁子は思わずそんな歌を詠まずにはいられない。詩歌などとは縁遠い人生を送ってきた。これからもそうだと当たり前に思っていた。しかし人は美を前にして詩人にならずにはいられない。そして自分の凡庸さを悔い、美の前にひれ伏すのだ。

呼吸を整えるために、平静を取り戻すために、安藤仁子は窓枠に置いた自分の手を見る。青い血管の浮き出た手の甲は筋張り、シミのあるうすい皮膚の下にその輪郭をのぞかせる骨はどれも細くあまりにもたよりない。先週授業で使った手羽先だって、もうすこししっかりした骨をしていた気がする。

そもそも手羽先なんてものを使っているからダメなのだ、と安藤仁子は思う。だめ、だめだめだめだめ。あんな食べるところの少ない、そのくせしっかり皮がついているから油分だけは多いような部位。ぜんぜん美しくないじゃない。もはや美を知ってしまった安藤仁子にとって、手羽先はその名称も見た目も栄養価も醜悪なものになり果てた。せめて胸肉にしなくてはいけない。たんぱく質の不足は筋肉を減少させてしまう。たんぱく質こそ至高、なぜならたんぱく質こそ神へ奉納されるべき唯一の栄養素であり、美へとつながる道を築く石畳なのだから。

安藤仁子はふたたび窓の外に視線を戻す。男はマシンの点検を終えたのか、今は鏡の前に立っている。いくつかの神聖なポオズを確認し、おもむろに床に手をついた。そしてとてつもないスピードで、腕立て伏せを開始した。

安藤仁子はもはや正常な思考を保つのも精一杯だった。たんぱく質、たんぱく質、と先ほどまでの思考の切れ端にほとんどすがるようにしがみつき、ぎりぎり理性を保とうとする。たんぱく質、タンパク質、蛋白質、みんな違ってみんないい。たんぱく質は蛋白質。蛋白とは卵の白身のこと、蛋とは卵のことだから。では蛋白質とは質草となった卵の白身のことかしら。いいえ質に入れてしまうくらいなら私の卵をいっそあなたに献上します。どうぞ私の卵をあなたの血汐に、筋肉に、美の礎にしてくださいな。ああけれど、私にはもう卵がないの。

「先生」

背後から呼ばれて、安藤仁子は我に返る。生徒が数人、ドアを開けて入ってきたところだった。「おはようございます」生徒の一人が言う。「大丈夫ですか?」別の生徒が言う。「すごい汗ですよ」

「大丈夫です」

安藤仁子は答える。額に手をやり、そこがまるで霧吹きでもしたかのように濡れているのを知る。

「むしろ体調はいいんです」

そう言って、また窓の方へ向き直った安藤仁子の背中越しに、生徒は隣のビルを見た。

そこでは一人の男が汗にまみれて一心不乱に腕立て伏せをしていた。男の肌はいかにも人工的に浅黒く、わざと小さなサイズにしているからなのか着ているウエアの布地は今にもはちきれそうに引き延ばされて、背中に入った「Bold」の文字がitalicになっている。髪の毛は整髪料のせいか濡れているのかとにかくぬらぬらと艶めいて、あまりに粘度の高い網膜からの情報に生徒の一人は思わず「ひっ」と言って目を逸らす。男の髪から肩から脚までが、湿っているのか脂が浮いているのか油をぬりつけているのかあるいはその全てなのか、まるでシャチの背中のように蛍光灯の下で黒々と光っていた。シャチというよりは茄子のようでもあった、と別の生徒は後日自宅でその姿を思い出す。夫に一番好評な、麻婆茄子は安藤仁子料理教室で習ったものだった。「茄子は水分量が多いから低カロリーですし、その上抗酸化作用もあるからアンチエイジングにもいいですよ」安藤仁子はつやつやとした小ぶりの茄子を掲げながらそう言い、生徒たちはそれを手元のメモ帳に書き込んだ。茄子eggplant 低カロリー アンチエイジング

男は腕立て五回ごとに、目の前の鏡で自らの姿を確認しているようだった。その姿は鏡に向かってエクストリームな高速土下座を決めているようにも見えた。しかも鏡に映っているのは、同じようにエクストリームな高速土下座をしている黒光りの男である。二人の男は向き合いながらものすごい勢いでエクストリーム高速土下座を決め続け、五回ごとに目を合わせてにやりと微笑みあっている。

「素晴らしいと思わない?」と安藤仁子はこちらを見ないまま問うてくる。生徒たちは眉をひそめて顔を見合わせ、唇の端を痙攣させながら、「そうですね」と答える。「素晴らしBlinderいですね」

 

【blind】

〔形〕

1〈人が〉目の見えない,盲目の,目の不自由な;視覚障害者(用)の

2≪現実・状況などに≫気づいて[わかって]いない

3盲目的な〈信頼など〉;衝動的な〈憎悪・怒りなど〉;無計画な〈買い物など〉

4死角になっている,視界のきかない;先が見えない〈壁・道など〉

5情報を伏せた,素性を隠した

6酔いつぶれた

〔動〕

1〈人〉を失明させる,…の聴力を失わせる

2〈強い光などが〉〈人〉の目をくらませる,一時的に見えなくさせる

3〈人〉の理性を失わせる,判断力を奪う;≪現実などを≫〈人〉に気づかせないようにする

4〈窓など〉の光[景色]をさえぎる

〔名〕

1(窓の)目隠し,ブラインド;ロールカーテン

2目隠し,ごまかし,真相を隠すための演技[組織]

3(野鳥・動物観察用の)隠れ場所

4(ポーカーでの)ブラインド

 

参考文献『ウィズダム英和辞典 第4版』株式会社三省堂

2019年3月19日公開

© 2019 駿瀬天馬

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"安藤仁子料理教室"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2019-03-20 23:29

    個人的にかなり好きな作品です。安藤仁子料理教室の中での料理の話かと思いきや、友人に描いてもらった看板の話、隣のビルの三階フロアの変遷、新しく入ったジムと、そこで動きまわる筋肉男を観察する話へと、どこへ連れて行かれるかわからないこのワクワク感、音楽が音楽を聴いている間しか存在しないように、小説というのは小説を読んでいる間にしか小説たりえないという保坂和志の言い分ではないですが、結果としては何も残らないんだけど、その「残らなさ」が残るという、でも読んでいるあいだだけはたしかにそこにいられた、ストーリーとかではなく、文章の狭間に漂うことができた、そういう小説を読むよろこびをディープに与えてくれる素敵な作品です。初期の小島信夫や第三の新人を彷彿とさせるような散文ワーク、僕の考える小説とはこういうもののことです。興奮しました。★五つです。

  • 投稿者 | 2019-03-21 14:40

    破滅派のレビューでのチャートに少し悩みました。この作品、「わかりやすくて前衛的」でした。羨ましい。あと、知性を感じるのに、野蛮です。ちょうど仁子とジムのマッチョメンみたいで。googleでもまだ編み出せないであろう、あなたの脳内の検索システム、独自の基準で見出されたデータとリンクを。それを上手く調理することまで含めて、ニクいです。

  • 編集者 | 2019-03-21 22:07

    ビル越しの視線(というか覗きか)に興奮する風景が凄まじい。単語の使い方は高度だ。色々な高タンパク低カロリーの想像がある中でも、強い印象を残す作品だった。

  • 投稿者 | 2019-03-21 22:33

    神の如く美しい男の身体については一家言を持つ私にも、納得の行く描写でありました。そう、ぶっとい骨の上で躍動する筋肉、弾む関節、伸びる筋。鶏や豚や牛の骨や筋肉構造について熟知している安藤仁子の目は確かなのです。
    決して交わることのない赤の他人を、ガラスの向こうから絶対的な美として捉える一瞬の物語(一瞬ではありませんが)って好きです。車のすれ違いで目に入った人とか、テレビの画面にチラリと映った見知らぬ国とか。
    そしてまた悲しいことに、そのような美しさに気が付くのは年を取ってからだったりするのです。そのようなことを思わせてくれた良い作品でした。

  • 投稿者 | 2019-03-22 16:50

    いつも僕が昼に飲用しているウィーダーゼリー、これまでマルチビタミンとマルチミネラルの二本体制で生きてきたのですが、この小説を読んだあとに僕の両手に握られていたのは二本のプロテインタイプでした。官能的な描写の鮮やかさ、苦にならないほどの執拗さ、描く対象物へのひたむきな視線など、とても素晴らしい小説だと思いました。読者を揺さぶる力のある小説でした。
    また、言葉への拘りもきちんとわかるように示されていて、とても楽しく読めました。

  • 投稿者 | 2019-03-23 04:01

    隣のビルから観ているという設定、その視点が面白い効果を出していると思いました。主人公が観ているその角度での茄子男の姿がリアルに浮かび、爆笑しました。[blind]の言葉の絡め方も面白かったです。
    「きん肉の あつき血汐にふれも見で かなしからずや 窓枠の我」この笑えてしまう切なさがなんともいえませんでした。

  • 投稿者 | 2019-03-24 12:22

    食と性は対極にあるようでいて通ずる部分があり、その対比がうまく表現されていて感心しました。安藤先生の内から湧き出るリアルな感情描写に所謂男性美に見とれることのない私も湧き上がる何かを覚えました。

  • 投稿者 | 2019-03-24 18:45

    love is blindということで、そこにこだわったのだと思いますが、ルビが逆にひっかっかってしまったので分かる人には分かるという感じでも良かったのではないかと個人的に思いました。あと、冒頭の建物の描写が少し長く感じました。後半の安藤先生の胸の高鳴りと筋トレワードが絡み合うところはとても素晴らしいです。教室の生徒の描写が少なくて物足りなさがありました。

  • 投稿者 | 2019-03-24 21:42

    視点が次々に変わるんだけれども、それを読者に促す筆致が無理のない見事なもので、作品の世界に引き込まれていきました。
    とにかく描写が見事で、安藤仁子の目線を同時に追うような、まさに舐めるような表現、そしていきなり出てきた与謝野晶子パロディに笑ってしまいました。
    その対比としての仁子自身の肉体の衰えが切ない。
    「安藤仁子はもはや正常な思考を保つのも精一杯だった。たんぱく質、たんぱく質、と先ほどまでの思考の切れ端にほとんどすがるようにしがみつき、ぎりぎり理性を保とうとする。たんぱく質、タンパク質、蛋白質、みんな違ってみんないい。たんぱく質は蛋白質。蛋白とは卵の白身のこと、蛋とは卵のことだから。では蛋白質とは質草となった卵の白身のことかしら。いいえ質に入れてしまうくらいなら私の卵をいっそあなたに献上します。どうぞ私の卵をあなたの血汐に、筋肉に、美の礎にしてくださいな。ああけれど、私にはもう卵がないの。」
    長い引用になってしまいましたが、ここは作者がある種のグルーヴみたいなものに乗って書いたような、それを目で追う自分もその中で体を揺らしているような心地よい文章です。こういうものにこそ小説の醍醐味がある、と思わせてくれます。
    そこからの、仁子と離れている生徒たちからの目線、真逆の感想!めちゃめちゃ面白い。
    確かな筆力と知性とユーモア、それらがすべて備わっている作品だと思います。素晴らしい作品だと思いました。

  • 投稿者 | 2019-03-25 15:42

    看板完成から数年後、オリンピック種目となったカーリングの試合をはじめてテレビで観戦したとき、安藤仁子はカーリングストーンが友人の描いてくれた看板のお玉にあまりにもよく似ていたので笑ってしまった。

    という人物造形のディティール描写がとても好きでした。

  • 投稿者 | 2019-03-26 00:44

    序盤のモタツキ(時間軸がごちゃごちゃ)が気になったので、あまり期待せずに読み進めたのですが、黒光り男子の登場からじわじわと加速し、「安藤仁子はもはや正常な思考を保つのも精一杯だった。」からの段落は最高にファンキーで素晴らしく、生徒の登場でばっさり分断されるのも小気味がよく、結果的には非常に素晴らしい出来栄えでした。

  • 投稿者 | 2019-03-26 02:33

    仁子の目から見たジムの男の描写と生徒の目から見た彼の書き分けが秀逸。言葉で世界を紡ぐ小説ならではの仕掛けを大いに楽しめる。私は最初、映画『愛に関する短いフィルム』のように覗く者と覗かれる者の駆け引きに発展していくと思いながら読み進めていたが、見事に予想を裏切られた。ひとつ注文があるとすれば、ジムの男が自分の姿に陶酔しているばかりで見られていることに完全に気づいていない点。見られるかもしれないスリルがあったほうが、安藤仁子の窃視はずっと盛り上がると思う。視線を返される不安がなければ、この物語はテレビに映る対象などでも成立してしまうのではないか?

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