天井

瀧上ルーシー

小説

25,070文字

家に帰ってきた精神病の兄さんとの生活。

「本当に退院させるのでしょうか。何度も言いますけど彼は地上が逆さまになっていて自分が天井に立っているという妄想があって、何かをすると空に身体が落ちると思っているようですが……お家で暮らすのは大変ですよ」精神科病院の診察室で医者は母さんにそう言った。今日は何かあると大変だということで、母さんの車でわたしも病院まで兄さんを迎えに来ていた。「それでも退院させます」母さんが言うと医者は「沼間さんが入院している病室まで案内します」と溜息を吐きながら言った。外来があるところから、広い精神科病院内の一階を歩いて一直線に扉が並んでいる通りに出た。ついてきていた看護師が一つの扉を解錠して開くと、白いリノリウムの床の上のこれもまた白いパイプのベッドの上にいる兄さんを久しぶりに見た。兄さんは二十代も中盤なのに高校生のような幼い顔をしていた。「沼間幸介さん、今日退院です」医者がそう言うと、兄さんは驚いたようで一瞬目を大きく見開いた。髪は伸び放題だというわけではなく丁度良い短めの長さに切られている、病院内に散髪屋が来てくれるということなのだろう。「嫌だ、空に落ちたくない」

 兄さんが先ほど、医者が診察室で言っていたのと同じようなことを言った。一緒に来ていた看護師が一旦退出すると、すぐに注射器を片手に戻ってきた。

「やめてくれ」怯えた顔で兄さんはそう言うが、看護師は彼の腕にたっぷりと薬を注入した。そのまま数分待つと兄さんはコテンと眠ってしまった。

「今のうちに車に運んで家まで連れ帰ってください。起きると大変ですよ」「はあ……わかりました」時間がかかる手続きは後日行うということになって、病院の駐車場まで看護師さんに兄さんを運んでもらうと、後部座席に寝かすように仰向けにしてもらった。帰りの車の中でわたしと母さんは無言だった。兄さんは三年以上も地元の精神科病院に入院していた。家もお金持ちではないので入院費を払うのは勿体ないし、これ以上入院させても良くならないと見切りをつけて兄さんを退院させたのだ。わたしは助手席で窓の外の風景を眺めていた。田舎の広い道路で中古車屋や飲食店が横に流れていく。兄さんがもう少しまともだったら、娑婆に出て最初の一食に外食をご馳走するのだが、地面が天井だと思っている兄さんにそれはできないだろう。母さんが車を二十分ほど走らせると、築四十年を誇る我が家に帰ってきた。事前に掃除しておいた兄さんの部屋まで寝ている彼の身体を二人で運んだ。ベッドのパイプの色は黒だが、白いシーツの上に病院から今までずっとパジャマ姿の兄さんを寝かせた。もうしばらく兄さんは起きないと思い、わたしの彼の部屋の隣の自分の部屋に引っ込んだ。わたしはニートで時間は有り余っているので、この日はライフワークである小説執筆をサボってネットを見て暇を潰していた。もうそろそろ夕食だという時間になって隣の兄さんの部屋が騒がしくなった。

「白いペンキ、白いペンキを持ってきてくれ!」母さんは兄さんの叫び声を無視していたが、わたしは彼の部屋に行った。兄さんはベッドの上で胡座をかいていた。今日帰ってきたのだからそれはそうだが、兄さんの部屋は三年前と変らず、本棚には漫画の本ばかりが詰まっていて、テレビ台の上には埃が被ったブラウン管のテレビが置かれていた。テレビには地デジチューナーが繋がっている。あとはベッドと箪笥とローテーブルと同じような高さの文机があるくらいだ。

「なんで白いペンキが必要なの、何を塗るの?」

 兄さんの顔は眠たそうでそれでいて強ばっていた。「ぼくは白い天井の上以外で生活をすると、空に落っこちちゃうんだ。だから最低限、天井を白に塗らせてもらう」

 頭のおかしい妄想に思えたが、その頭がおかしい兄さんとこれからは暮らさないといけないのだ。「今すぐペンキ欲しいの?」「ああ、今すぐだ」「わかったよ」わたしは財布と携帯を持って家の外に出ると自転車に乗ってホームセンターを目指した。何故、わたしが兄さんの言いなりにならなければならないのかはわからなかったが、きっと彼に同情しているのだ。三年も精神科病院に入院して、それでも頭の調子が元に戻らない彼がかわいそうに思えたのだ。できる限り、わたしは彼の味方をしてやりたかった。片道四十分もかけてホームセンターに行き、店員さんに聞いて床を塗るのに適したペンキを教えてもらってそれと刷毛を購入した。外が暗くなる中、自転車をこいでわたしは家に帰った。ご飯が冷めちゃったと言って母さんは怒っていた。兄さんは食卓までくることができないらしく、お盆に夕飯を載せて兄さんの部屋まで持っていった。

「ペンキは?」「買ってきたよ。でも先のご飯を食べて薬を飲んで」「わかった」兄さんは白いシーツの上で夕食のとんかつとアジフライを食べていった。受験生ではないのだが、母さんが用意した精一杯の退院祝いらしい。わたしも下に降りて居間で同じ物を食べると、向精神薬とグラスに入った水、新品のペンキと刷毛を持って、兄さんの部屋に行った。夕食はきれいにたいらげられていたので、お盆を台所までわたしは運んで、自分の部屋でネットをして眠るまでの時間を潰した。その日の夜、わたしと兄さんの部屋とトイレがある二階はずっとペンキの臭いがした。

 ベッドの上で眠れるまでの間、三年前に兄さんが病院に入院することになる手前のことを思い出していた。そのときも最終的にはベッドから降りることができなくて、小便まで漏らしていたのだが、今日なんでそうなったのかわかった。兄さんは白い床の上でしか生活できないという妄想を持っているのだ。暗い自分の部屋でもう少しで眠れるというときに隣に兄さんの部屋がうるさくなった。

 おめこ!

 おめこ舐めさせて

 おめこ最高

 チンポ、チンポ!

 などと卑猥というよりは幼稚な独り言が聞えてきた。兄さんがまだ病気になっていなかった中学生の頃もこんなことはあった。とくに気にしないでわたしは早く眠ろうとした。

 

 あまり知られていないことだが、夜更かしをしないニートの朝は割と早い。朝の五時半に起きて、部屋から廊下に出ると、兄さんの部屋からトイレのドアまでの床が白く塗られていた。トイレを開けると元々は暖色だったそこの床も白く塗られていて、興味本位で、静かに兄さんの部屋に入ると彼はまだ眠っていて、畳が真っ白に塗られていた。触ってみるともう乾いているらしくペンキが手につくことはなかった。朝食までまたインターネットで時間を潰して、食卓につくと、もうすぐ会社に出かける父さんと専業主婦の母さんに小言を言われた。「お前が言いなりになってペンキなんて買ってくるから、二階が変なふうになった」父さんはそう言うのだが、どうせ元から汚い家だしこれからは兄さんと生活するのだから、仕方がないことのようにわたしには思えた。

「それと幸介の世話、瑞穂に任せたから」「嫌だよ」「嫌なら家から出て行け。ニートのお前に断る権利はない」「ニートじゃないよ、家事手伝いだよ」「家事はいいから、幸介の面倒ごとを任せた」「だから嫌だって」「なら出て行け」わたしは高校を卒業して以来、実家にひきこもって新人賞に投稿する小説ばかりを書き続けてきた。高校の頃書いた処女作が最終選考に残ったばかりにこんな人生になってしまった。それ以来、わたしの書いた小説は一次選考すら通らなかった。二十三歳の今になってもプロ作家になれる目処はついていなかった。一度はついた編集者もすぐに離れていった。

 どうせ兄さんは二階から下に降りられないと思い、トーストと目玉焼きと焼いたウィンナーとインスタントコーヒーの朝食を部屋まで持っていってやった。兄さんはもう起きていてテレビニュースを眺めていた。畳を白く塗ったので兄さんはベッドの上以外にも座れるらしかった。自分の部屋に戻るとすぐに「瑞穂」と兄さんに名前を呼ばれた。

「病院の食事の十倍うまい。もっと持ってきて。なんでもいいから」母さんに今の兄さんの台詞を聞かせてやりたかった。わたしは台所に下りると、納豆飯を作って、持っていった。兄さんはそれもがつがつと一心不乱に食べた。自分の部屋で小説を書いているとまた兄さんに呼ばれた。「煙草買ってきて。イエローピースがいい」「煙草今いくらするか知っているの? そんなの吸わせられないよ」「煙草、煙草!」

 居間に行って母さんに相談すると病院に入院しているよりはいいからと、一日一箱なら吸っていいと許可が出た。わたしのお小遣いは月に一万円なのに。自販機で煙草を買うためのタスポがないため自転車に乗らないと遠くて仕方がないコンビニまでの道のりはただただ暑かった。もう少し経てば蝉の鳴き声も聞えてくるようになるだろう。母さんから渡されていたお金を使って灰皿とライターも買って汗だくになりながら家に帰った。煙草、灰皿、ライターを渡すと兄さんは喜んで喫煙して「さすがにバージニア葉は違うな。他の煙草とはわけが違うよ」などと言った。

 毎日そうだが自分の部屋でわたしは小説を書いていった。煙草の臭いがわたしの部屋まで漂ってくる。少し甘い匂いに感じられた。兄は帰ってきてから四六時中テレビを観ているようだった。独り言と一緒にたまにテレビの音が聞えてくる。向精神薬を朝昼晩寝る前に飲ませるのもわたしの役目だった。兄さんは一日二十錠近く、薬を処方されていた。昼食を済ませて午後になると、彼氏の誠が車で家にやってきた。田舎で道が広いので、誰にも迷惑がかからない道ばたに車を無料で駐車することができる。誠は玄関まで出迎えなくても勝手に家に中に入ってくる。しばらく待っていると彼はわたしの部屋に入ってきた。誠は短い金髪の頭をしていて眉は細く整えられていて、素肌の上から白いジャージを着ていた。「廊下、白く塗られている部分があったけど、何?」「兄さんが帰ってきたの」「ああ、頭の病気の」「そう」しばらくテレビを眺めていたのだが、わたしたちはいつの間にかベッドでセックスを始めた。隣から「おめこ!」などと兄さんの叫び声が聞える。パソコンで音楽を大音量でかけてかまわずセックスを続けた。兄さんだって子供じゃない、恋人がいればセックスくらいするとわかっているはずだ。誠が帰って夜になって母さんが作った夕食を運んでいってあげて皿を下げて、しばらく時間が経った頃、兄が壁を叩いた。「何?」「暑くて気持ち悪い。風呂に入りたい」「一人で入れるの?」「床を白く塗っていいなら」「だめだよそんなの。病院だとどうしてたの?」「看護師さんが身体を拭いてくれてた」「なら家でもそうする。それでいい?」「仕方ないなあ」「なにその言い方。舐めてんの?」「ごめん……」

 わたしは洗面器にぬるま湯を張って兄さんの部屋まで持っていくと、服を脱いでもらって身体を拭いてやった。今度小説のネタに使ったことがある水を使わないシャンプーを買ってきてあげようと思う。パンツを脱がしてペニスも拭いてやろうとしたのだが、兄さんは「そこは自分でやる」と恥ずかしがった。「すごく気持ちいい」「はいはい。風俗嬢みたいに思わないでね」「思うわけないだろ」「なんで白い所以外に立つと空に落ちちゃうの?」「そんなのぼくだって知らないよ。神様がそういうふうに世界を作ったんだろ。とにかく白いところ以外に立つと天井から落ちてしまうんだ」「ふうん」

 

 わたしは兄さんの世話係で尚且つ家族の買い物担当だった。近くのスーパーマーケットまでよく自転車を走らせる。母さんは駄賃などくれないが一緒に住んでいる祖母は食べたいおやつを買ってきてあげる度に代金の他に千円くれた。黒飴や黒糖棒、ぽたぽた焼きなどを好んでおばあちゃんはわたしに買いに行かせた。

 年間に三作か四作くらい新人賞に小説を応募する。今日発売する文芸誌に新人賞の選考の途中経過が載っている。自転車で本屋まで立ち読みに行くと、該当のページにわたしのペンネームは載っていなかった。もう何回目になるか数えていないがまたわたしの小説は夢の一部と共に散ってしまったのだ。投稿生活を始めて最初の頃こそ一ヶ月何もできないくらいダメージを受けていたものだが、今ではへっちゃらだ。その日少し落ち込むくらいなものだ。極単純化して考えて一次選考とはいえ落ちる人間の方が多いのだから、ダメージを受ける人の方がおかしくて傲慢だ。兄さんに朝煙草を買ってきてやって、昼食を運んでやれば後は夜まで暇なので、同じ高校を卒業した同じくニートの友達と会うこともあった。ニー友というやつだ。わたしと彼氏とそのニー友の夏美は高校卒業のとき進路が決まらなかった三人組だ。夏美とファミリーレストランに行ってドリンクバーと安いケーキで何時間も粘ることにした。夏美の髪も彼氏と同じく金髪だった。働いていない開放感から人は頭を金髪にしてしまうのだろうか。ファミリーレストランの中は、あまり混んでいなかった。クーラーが効いていて涼しくて気持ちが良い。「病気のお兄さん帰ってきたんだって? 誠が言ってたよ」そう言い終わると夏美はメンソールの煙草をくわえて火を点けた。わたしは煙草を吸ったことがないが緑っぽい箱の煙草はメンソールの煙草だと知っていた。わたしがいないところで彼氏と話すのもメールするのも止めてもらいたかったが、数少ない友達なのでウザがられたくなくて言えなかった。「うん、まいっちゃうよね」「精神病なんでしょ。どういうところが病気なの?」「なんか話を聞いてもよくわからないんだけど、世界が逆さまになっていて、実際は普通の床にいるんだけど、自分が天井に張り付いていると思っているみたい。それでその白い所以外に立つと空に落ちるんだって。そうは言わないけど本当にそうだったら宇宙まで行けちゃうかもね」「怖い……狂ってるじゃん」「まあ身の危険はないよ。気が弱い人だもん」「本当に? そういう人に限って何かあるとヤバイかもよ」「脅かさないでよ」

 甘い飲み物は好きだがコーラばかり飲んでいたら太るのでわたしはアイスティーを無糖でかぱかぱと飲んでいった。

「誠がさ。パチンコもスロットも辞められないみたいなんだ。なんとかならないのかねえ」夏美はまたメンソールの煙草を吸って煙を吐き出した。「男だから勝負事が好きなのは仕方ないよ」「そういうものかねえ」「最近セックスしてる?」「この間したよ。隣で兄さんが『おめこ!』とか独り言言ってるの」「うわあ……気持ち悪い」「まあ音楽かければ気にならないし、ニートで居続ける大義名分もできたようなものだし、悪いことばかりじゃないよ」「ポジティブだね」「まあね」

 窓から見える外が暗くなるまで夏美と話して、それから暑い中ゆっくりと自転車をこいで家に帰った。床や壁の板がところどころ剥がれたぼろい家を見られるのがあまり好きじゃないためセックスするとき以外は彼氏とも外で会うことが多い。

 行きつけのファミリーレストランで今日もケーキとドリンクバーを頼んだ。クーラーが強めに効いていて気持ちがいい。レストランの中は涼みに来ている客達でいっぱいだった。彼氏の誠はわたしの向かいに座ってパスタをずるずると音を立ててすすっていた。男は女と違って汚く食べてもあまり問題にならないのでそこが羨ましかった。兄と再会してまだ一ヶ月も経っていないが、妙に庇護欲が刺激されて、誠に相談することにした。

「パチンコとスロットばかりじゃなくてさ。たまには海とか行こうよ」「いいよ」彼は軽い調子で答えた。「そこで相談なんだけど……」「何?」「兄さんも一緒に連れて行っていい?」「なんで」「ずっと部屋から出られないなんてかわいそうじゃん」「……別にいいけど」

 しばらく話し合って明日海に行くことになった。彼氏と別れて近くのデパートで兄さんの分も一緒に新しい水着をあまり中身が入っていない財布を開いてなんとか購入すると、自転車で家に帰った。ノースリーブの服を着ていたので腕をたくさん蚊に刺された。家に帰ってきて新人賞に応募する小説のネタを練っていると、夏美から電話があった。「明日誠と海行くんだって? あたしも行くから」「いいけど」「それじゃあね」それだけ言って夏美は電話を切った。わたしは兄さんの部屋に入って、彼を外に連れ出すために必要な物を捜した。収納ケースの中のそれはすぐに見つかったが、兄さんはなるべくなら部屋に入られるのが嫌なようだった。

 翌朝の九時頃、誠と夏美が乗った車はもう家まで迎えに来た。車は無駄に大きなところどころ改造されている白のセダンだ。わたしからするととても無駄遣いに思えた。わたしが外へ出る準備はもう済んでいる。兄さんの部屋に入って、彼は恥ずかしがったがパジャマからTシャツにズボンに着替えさせると、白い靴下とまだ家の中だが古い白いスニーカーを履かせた。それは元々兄さんの物で中学校が指定する外履きだった。そんな大昔の靴が家の靴箱にはまだ残っていたのだ。「これで床が白いのと一緒でしょ」「ぜんぜん違うよ……重力が足りない」そう言ってベッドのパイプを掴むと兄さんは一歩も動かないとわたしに示してきた。誠を呼んでくると、彼は無理矢理ベッドから兄さんを引きはがして部屋から出て階段を下りようとする。「落ちる……落ちる」と言う兄さんを誠は引きずるようにして外まで出して車の後部座席に乗せた。助手席にはもう夏美が乗っていて、荷物を持ったわたしも後部座席に乗ると車は発進した。誠は車の中でエグザイルの曲を大音量で流した。兄さんはわたしの隣で余計に震えた。「俺はそいつの世話係ってわけか」「引いた?」「すげえ引いたよ。完全に障害者じゃん」「まあ、実際精神障害者だし……」「でも可愛いでしょ?」「可愛くねえよ。そいつに比べたら蝉の方が可愛いよ」「蝉って食べるとピーナッツの味がするらしいよ」「へんなこと言うなって……」わたしが誠と話していると、夏美が割り込んできた。「今日はクーラーボックスもレジャーシートもパラソルも用意したのはあたしだから。感謝しなさい」車のトランクに入っているということだろう。「ありがとうね」実際にお礼を言ったのはわたしだけだった。車は海に着いて、近くの駐車場に駐めると、わたしたち四人は車から出ようとした。誠が兄さんを外に出そうとするのだが、彼はシートベルトを掴んで抵抗した。誠はすぐに諦めた。「そんな奴放っておいて三人で遊ぼうぜ」「うん、そうしようそうしよう」夏美は嬉しそうに誠の言葉に頷いていたがわたしは兄さんを放っておけないでクーラーだけ効いた車に残ることにした。二人の背中を見送る。「瑞穂も遊んできたなよ。ぼくは一人で大丈夫だから」「本当に大丈夫?」「大丈夫だよ」海の家の更衣室で地味めのビキニに着替えると浜辺で誠と夏美を探した。すぐに見つかって、夏美はわたしより派手なビキニを着てパラソルの下で荷物を見ていて、誠は一人で海に入って遊んでいた。「わたしも海行ってきていい?」「いいけど交代で荷物の番するんだよ」こんなところに来てまで煙草を吸いながら夏美は言った。「わかってるよ」そうしてわたしは誠と一緒に波と戯れたり、彼の身体に海水で濡れた砂をかけたりして遊んだ。三十分ほどで夏美と交代すると、彼女も誠と二人でわたしと同じようなことをして遊んでいた。そうして昼くらいになってクーラーボックスの中のコンビニのおにぎりやサンドイッチを食べると、車の中に残してきた兄さんが心配だということもあって早いが帰ることになった。水着から普通の服装に着替えて誠の車まで戻ってドアを開ける。車の中はアンモニア臭でいっぱいになっていた。誠は「ぶっ飛ばす」と言って兄さんのTシャツの首元を掴んだが、わたしは必死になって止めた。「家まで送ってくれたら水と洗剤使って洗ってあげるから。今度新しい芳香剤も買ってあげるから」「……わかったよ」そうして小便臭い車は夏美を家まで送って、その後でわたしの家の前まで来た。兄さんを先に部屋まで連れて帰った。小さな庭にある水道からバケツに水を汲んで、スポンジと洗剤を使ってわたしは合皮でできている車の後部座席を掃除した。「もうお前の兄貴、絶対に車に乗せないから」「うん……ごめんね」

 まだ不機嫌な顔をしている誠が車を発進させるのを見送ってからわたしは家に入った。パソコンで遊んでいると隣から怒鳴り声が聞えてきた。「障害者の死んだ方がいい兄だと思ってるんだろ」

 わたしはわざわざ兄さんの部屋まで行って「そんなこと思ってないよ」と言ってやった。

 

 しばらくして肌寒い季節がやってきた。性懲りも無く応募した新人賞の選考の途中経過を本屋で立ち読みして見たら、やはりわたしの作品は一次選考落ちだった。家に帰ってきて敗北を噛みしめていると、壁を叩かれて「コーヒー!」などと兄さんに叫ばれた。兄さんの部屋にノックもせずに入って、わたしは彼の頬におもいきりではないが二、三度ビンタした。「あんたわたしがニートだからってバカにしてるんだろ。召使いじゃないんだよ」「そんなこと思ってないよ」「じゃあなんでわたしになんでもやらせるの」「天井から落ちて死にたくないんだよ! だから仕方なくだよ」「もう兄さんの妄想にはうんざり」たった一人の実の兄を一生病院で暮らしていて欲しかったなどとは一ミリも思わないが、何故兄さんは白い床以外に立つと空に落ちるという妄想を信じ続けているのだ。わたしには理由がわからない。毎日たらふく薬を飲ませても治らないほどに兄さんの脳は狂っているのかもしれない。もしこのまま兄さんが正常に戻らなかったらどうしよう。そのときはわたしが未来の旦那様と二人で兄さんの面倒を見るのも厭わないつもりだ。また隣の部屋から下品で幼稚で少しだけ卑猥な独り言が聞えてきた。きっと嫌な考えを振り払おうとしているのだ。そしてすこし経つと今度はすすり泣きが聞えてきた。兄さんはわたしの兄だが赤ちゃんみたいなものだ。放っておくのは育児放棄のようなものなのではないか。そう思うとわたしの足は自然に階段を下りていて二杯のインスタントコーヒーを作って兄さんの部屋に持っていっていた。「コーヒーだよ。一緒に飲も」わたしも兄さんもブラックでコーヒーを飲んだ。兄さんは泣いたばかりなので目が赤く少し鼻水も垂れていた。頻繁に煙草をスパスパと吸っていた。少し甘い匂いがした。「こんな兄貴でごめんな」「別にいいよ、諦めてるから」「……ふつう、そんなことないよとか言うだろ」「わたしは正直者でいたいから」二人ともコーヒーを飲み終わり、小汚い台所でマグカップを洗っているとき、小説家になれないのは不本意だが、何故だか少し幸せというものを感じた。

 四週間に一度、電車で二駅離れた精神科病院まで兄さんが飲む薬を貰いに行くことになっていた。精神科病院の中はいつでも混んでいて、混んでいるのにもかかわらず、椅子を四つ占領してそこに寝っ転がり毛布を被っている女の人までいた。わたしは吸わないから関係ないが玄関には灰皿が置かれている。一説によると統合失調症の人は八割から九割煙草を吸うらしい。偏った統計だとは思うが。わたしも作家志望らしく喫煙者になろうとしたことはあるが、お金がなくてどうせ安煙草しか買えないしお金の自由が全くなくなるのも困るので喫煙者にすらなれなかった。実際にはわたしが一人で待合室で待っているわけだが兄さんの名前が呼ばれるまで、小説を読んで過ごした。もう何年も作家志望を続けているのに、プロの本と自分が書いた小説の違いが少ししか見つけられなかった。だがその少しの違いが致命的なのだ。兄さんには悪いが正常でいるより狂ってしまう方が楽な場合が多い。素面で人生を横断するのは辛い、辛いことばかりだ。だから人は神様を信じたり、いつか自分は今より大きな自分になれると夢を持ったりする。わたしみたいなのが小説を書いていることもとくに珍しいことじゃないし有り触れた構図なのだ。とかなんとか思いながら心底プロ作家になりたかった。誰かにわたしを認めてもらいたかった。兄さんの世話をするだけでは自己を肯定できないのだ。鬱々としていると兄さんの名前を呼ばれたので、わたしは診察室に入っていった。ありのままに兄さんは部屋からトイレ以外全く出ないと医者に話した。

「デイケアに通うのもいいと思いますよ。なんとか連れてこられませんか? デイケアというのは同じような人達が集まって社会復帰へのリハビリをする所です」「はあ、なんとか誘うだけ誘ってみます」それから少しだけ話をして診察は終わった。薬局で薬を貰って、一時間近くかけて家まで帰ってくる。兄さんの部屋に行って医者にデイケアに誘われたことを話した。「天井から落ちて死にたくないんだよ!」兄さんは今日もオタク用語で言うところの電波ゆんゆん状態だった。わたしは二次元オタクではないがその程度のスラングは知っていた。明かに統合失調症の人を電波系と呼ぶのは一種の優しさに思えた。

「じゃあ兄さんが天井から空に落ちて死ぬときはわたしも一緒に死んであげる。それならいいでしょ」「よくないよ……」「なんでそんなに死にたくないの? わたしは小説家になれないから毎日死にたいと思ってるよ」「だってまだ童貞だし……」「ちんこ出して」「なんで……」「いいから」誠に対して浮気をしているような気がしたが、兄さんのパジャマをパンツごと脱がせて亀頭をしゃぶって陰茎をしごいてやった。毎日拭いてやっているせいかそれとも冬のせいなのか、兄さんのちんこは別に臭くなかった。数分で息を荒くさせた兄さんが射精して口の中に出されたそれをティッシュに出してゴミ箱に捨てた。「これで半分童貞じゃないみたいなもんでしょ。明日絶対にデイケアに連れて行くから」「なんでそこまでするの……」「なんとなくだよ。わたしも小説を書く以外暇人だし」翌朝、また兄さんに白い靴下と白いスニーカーを履かせて、家の外に出た。震える兄さんの手を繋いで歩いた。「これで空に落ちるときは一緒だよ」「……違うよ、たぶんぼくだけ落ちると思う」なんてよくわからない理屈を兄さんは展開した。彼はずっとぶるぶると震えていた。ホームで待って電車が来たのでそれに乗ると、床が白いので兄さんは椅子に座らず病院に最寄りの駅に着くまでの少しの間、ずっと吊革を握っていた。そうして数分歩いて精神科病院の受付に来た。デイケアのカードを作って、大きな病院内のデイケア専門のフロアに通された。そこはキッチンやカラオケマシーンや卓球台がある広いスペースだった。

 スタッフが利用者をわたしたちの周りに集めて、自己紹介をさせられた。兄さんは震える声で自分の名前だけを言った。です、も、よろしくお願いします、も言わなかった。わたしも兄さんの妹で今日は保護者として来ました、と自己紹介した。折角来たのだから、それではわたしまで障害者みたいだが最新のカラオケマシーンで少し古い曲を何曲も歌った。最新ヒットチャートなんてわたしは知らない。兄さんの方を見ると、大きなテーブルの前の椅子の上にじっと座っていて一言も喋らないようだった。話しかけられても無視をしていた。昼になって配膳車で昼食が運ばれてくるとそれを食べた。食器は自分で洗って配膳車に戻す。そうして午後も自由な活動をして、わたしと兄さんは家に帰ることにした。兄さんは半日の間、何もしないし何も話さなかった。昼食にも手をつけなかった。

 帰りの電車の中、空いているのに兄さんはまた立って吊革を握っていた。「わたしとは喋れるのになんで他の人とは喋れないの」「怖いんだよ。他人も怖いしいつ天井から空に投げ出されないか気が気がじゃない」「そう」家に最寄りの駅について、駅前のコンビニで肉マンを二つ買うと、兄さんに一つ渡した。彼は「お母さんにあげて」と言ってそれをわたしに返した。その日から兄さんは薬と水以外何も摂取しなくなった。ハンガーストライキということなのだろうか。朝、朝食を持っていって二時間経った後に兄さんの部屋に行く。朝食はまったく手をつけられていなかった。「ごはん食べないと煙草も買ってきてあげないよ」「別にいい」いつもより暗い表情で兄さんは言った。本当に死なれたら困るので食事は三回運んでいった。それから兄さんはなんと三日間水と薬しか飲まなかった。煙草は最後に渡した煙草を少しずつ吸っているようだった。「どうしたらごはん食べてくれるの?」「一生ここに居てよくて、外に出ろって言わないなら食べる」わたしの一存では答えられなかったので、その日の夜父さんが帰ってきてから母さんと三人で相談した。父さんは「殴ってやる」などと言って、今にも兄さんの部屋に行きそうだった。だが母さんの意見は違った。

「別に外に出なくても床を白く塗ってもいい。生きてくれているだけでいい」

 感極まったのか母さんは一粒の涙を床に零した。話し合いは兄さんの要求を飲むという形で収まった。夕食を持っていってそのことを話すと、兄さんは胃が弱っているのか、味噌汁を飲んでご飯を食べるだけだった。

 

 夏美と久しぶりに会った。夜には少し手前の時間に近くの繁華街で待ち合わせをして、地元では有名な駅に近い噴水の近くでナンパ待ちをした。この噴水周辺ではゲイの男性がぬいぐるみを持って相手してくれる男性を待つ場所でもあった。現に今も筋肉隆々とした男には似合わない有名キャラクターのぬいぐるみを持っている人が立っていた。わたしは作家志望であってオタクでも腐女子でもないのでゲイにもゲイのセックスにも興味はない。ない金を絞り出して買った有名コーヒーチェーン店の甘いラテを飲みながら噴水の縁に座って、男が声をかけてくれるのを待った。この間、兄さんにフェラチオしてしまったが、わたしは浮気はしない。お酒か食事をおごってもらったらドロンするつもりだ。夏美があの香水がどうとかあのブランドのあの服がどうとかわたしにはよくわからないことを一方的に話した。わたしはスキニージーンズにセーターにその上から黒のダウンジャケットという野暮ったい格好をしていた。「瑞穂、本当に二十代? 良い服着ないと男に相手されないよ」「彼氏いるし」「もっと着飾らないとフラれちゃうよ」「なんとかそうならないようにするよ」しばらくして二人組の男に声をかけられた。おごるから酒でも飲まないか、ということらしい。正にそういう誘いを待っていたので、わたしと夏美は若い優男二人についていった。居酒屋でファーストドリンクにわたしはビール、夏美はカシスオレンジを頼んだ。女子力なんてどこかに置き忘れてきてしまったかのように、わたしはかぱかぱとビールばかりを飲んだ。男ふたりは主に夏美と話している。「へえ、二人とも働いてないんだ」「うん」「そうなんですよー」「でもまだ若そうだしね、問題ないよ」「二人とも十九歳でーす」なんて嘘を夏美は通すつもりらしかった。「お兄さん達は何やってるんですか?」「実はまだ大学生なんだ。老けててごめん」二人は自分のことを老けていると言ったが年相応の若い顔をしているように思えた。年寄りに見られたがる男がたまにいることはわたしも知っていた。初経験がどうとかという話になって酔っ払ったわたしは嘘だが、処女ですから、結婚するまで処女膜を死守します! などと言ってしまった。男ふたりはこいつはもうだめだと言いたげな苦笑いを顔に浮かべていた。そうして何度目かのトイレに行くと、時間差で夏美もやってきた。「あたし今日どっちかとやるから」「わたしは適当なところで逃げるよ。それでいい?」「いいよ」わたしはトイレから先に戻ると、「お会計よろしく」と言って居酒屋から出た。酔っ払ってふらふらしながら電車に乗って、家に最寄りの駅で降りるとまたふらふらしながら夜の地元を歩いた。酔っ払ってふらふらしているせいか兄さんが言う、自分は天井に張り付いていて、白い天井から外れれば空に落ちてしまうという妄想が少しだけわかるような気がした。家に帰ってくるとその日の兄さんの世話は母さんがやってくれたらしく、少し小言を言われただけでとくに問題はなかった。酔っ払ったままわたしは兄さんの部屋に入った。

「夜だよ、真っ暗だよ、白も黒も関係ないよ」という無茶理論で嫌がって怖がる兄さんを外に出した。

「落ちる……落ちる」とずっと地面を見ながら兄さんはわたしに引きずられた。

「落ちるときは一緒だよ」わたしと兄さんはずっと手を繋いでいた。いつしか兄さんは大きな悲鳴を上げ始めたが、わたしはかまわず地元の道を散歩した。家に帰って来た頃には兄さんの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

 

 翌日夏美と今度はファミレスで会った。夏は涼しく、冬は暖かく、ドリンクバーでねばることもできて、ファミリーレストランという場所は本当に快適だった。「昨日やった?」「やったよ、しかも3P」「避妊した?」「あたしピル持ち歩いてるから」「ずいぶんヤリマンなんだね」「そうだね、それだけが取り柄ですから」寒いのでコーヒーやココアを主に飲んだ。お金さえあれば毎日昼間からビールを飲みたい。その日は少しだけ話して夏美と別れた。翌日は彼氏の誠とデートした。冬の人が少ない海の海岸沿いに車を駐めて、誠とカーセックスした。海の音が聞えてきて物悲しい気分になる。ストレスでも溜まっているのかその日の誠のセックスは遠慮しないセックスだった。コンドームもつけていないで、はだけたわたしのお腹に射精した。服を着て舌を入れるキスをすると、誠が切り出した。「借金があるんだ。お前、ソープかヘルスかキャバで働いて、借金返すの手伝ってくれないか?」セックスしたばかりなのに言われた瞬間、誠への想いが都会で降る雪のように溶けていった。「ふざけんじゃねえぞ。別れよ。金輪際顔を見せるな」わたしは車から降りて、近くを通っていたバスと徒歩で最寄り駅まで行って家に帰った。誠からの謝罪メールが何度も来たがもう限界だった。確実に別れるために、わたしはメールに返信しなかった。

 クリスマスイブは同時に兄さんの誕生日だった。母さんと二人でピザと唐揚げを作り、ケーキも作って台所に用意したのだが、兄さんは下に下りて来られない。母さんは別になんとも言わなかったが、会社から早めに帰ってきた父さんは怒っていたので、兄さんじゃなくて病気が悪いだなんて無茶なことを言って、父さんをなだめた。作った物をお盆に載せて缶の第三ビールと一緒に兄さんの部屋に持っていった。一回では一人分しか持って行けなかったので、台所から兄さんの部屋までを二往復した。兄さんは美味しい美味しいと言って料理を食べて、ちびちびとビールを飲んだ。すぐに兄さんの前の食べ物は無くなった。残っていたわたしの分の唐揚げ一つとピザを一切れ兄さんにあげるとそれもあっと言う間に彼は食べ終えた。「誕生日おめでとう。経済的理由でプレゼントはないよ」「祝ってくれるだけで嬉しいよ。ご馳走も食べられたし」「兄さん、どこか行きたい場所はないの?」「世界中天井が真っ白ならどこにだって行きたいよ」「それは無理だよ。自分で塗ろうとしたら捕まっちゃうよ」「そうだろうね」「まだ早いけど来年は病気がよくなるといいね」「ぼく、病気じゃないし。世界の真実に気づいている数少ない一般市民だよ」「じゃあなんて薬飲んでるの? 実は捨ててるとか」「飲んでるよ。向精神薬を飲むといい感じに眠気が来て、簡単に暇をつぶせるからね」「ふうん、へんな理由で薬飲んでるんだね」そのときわたしは思った。薬を飲んでいるのだから兄さんの妄想もいつかは良くなるだろう。そうしてわたしを抜かして社会復帰したら小説家になれない自分が余計に惨めになる。兄さんの病気が良くなるのはいいことなのに、夜中そんな未来を予想して震えながらわたしは眠った。

 年末に夏美と会った。またファミレスでだ。「わたしソープで働くことにしたから。若さ故の特権をフル活用しないと」「HIVとか性病にかかったらどうするの。やめておきなよ」「別にあたしいつ死んでもいいから。そんなの怖くないよ」そのとき初めて夏美は病んでいるのだと思った。年が明けて少しした日、元彼と一緒に夏美が家まできた。「あたし達付き合うことになったから」それは夏美がソープで働くと言ってきたときから予想していたことだった。わたしと彼女はめでたく竿姉妹だ。「ソープで働いて出来たお金を貢いでいるわけ?」「そうだよ、悪い?」「なんでそこまでするの」「あんたと彼氏が付き合ってるときから好きだったからね」「ふうん」誠は居心地悪そうに黙っていた。情が薄いのかもしれないがどうでもよかった。早くプロ作家になる方が重要に思えた。もう誠とも夏美とも会うことは金輪際ないように思えたが、それとは関係なく母さんに小言を言われた。「幸介のことどうするの? 全然外に出てないでしょう」「そうだね……でもわたしにばかり押しつけないでよ」「歳が近いからあんたが適任なの」母さんはわたしにパンフレットを見せた。訪問看護のことが書かれていた。お年寄りの面倒をみるヘルパー以外にそんなものがあるとは今まで知らなかった。「今度頼んでみる」母さんはそう言った。そして二週間後には普通の乗用車に乗って男の看護師が兄の部屋にやってきた。わたしも同席した。薬をちゃんと服薬しているか確認して、持ってきた本で統合失調症の勉強をすることになった。看護師さんが統合失調症について読み上げている最中、急に兄さんが立ち上がった。箪笥からカッターナイフを取り出してチキチキと刃を出した。「帰れ、二度と来るな」「兄さん、何やってるの」「ぼくは病気じゃないんだよ。お前もぼくもそこのお兄さんだって、天井に張り付いて空に落ちないように暮らしてるんだ。ぼくは特別白い天井以外に足を踏み出すと空に落ちるようになってるんだ」「何を言っているの……」「でもそれが真実なんだよ」看護師はとっくに荷物を持って兄さんの部屋から出て、家の外から車のエンジン音が聞えてきた。母さんが兄さんの部屋にやってきて、わたしは事情を説明した。母さんはばかばかと言いながら何度もこの期に及んでパジャマ姿の兄さんの背中を叩いた。少しして看護師さんから家に電話がきたらしかった。母さんは涙をぽろぽろと零しながら頷いていた。「家はお金がないので……なんとか家で暮らさせます」そう言って母さんは受話器を置いた。「なんて言ってたの?」「こういうことがあるんじゃもう訪問看護はできないし、今すぐにでも措置入院させるべきだって言ってた」

 わたしも悲しかったが、兄さんの部屋に入り部屋の中を入念にチェックした。それだけで十分に危ないのだが、煙草に火を点けるためのライター以外の危険物をすべて没収した。

 

 兄さんは未だにトイレ以外部屋から出ないで、わたしは毎日兄さんの身体を濡れタオルで拭いてやっていた。兄さんの身体は貧相で鶏ガラのようだった。病院に居た頃計った体重をわたしに教えてくれて、身長は十センチ以上高いのに今のわたしの体重と大差はなかった。小説を書くのは捗ったが、両親と兄さん以外と接しない日々は辛かった。誠と夏美がわたしの生活を大いに彩ってくれていたのだと最近気がついた。寂しさが臨界点に達したとき、わたしは近くで開催される街コンのことをネットで調べていた。そうして予約を済ませて地元の街コンの開催日となった。わたしは精一杯お洒落をして、ボーダー柄のTシャツの上からジャケットを羽織ってロングスカートを穿いて出かけた。駅前の閑散とした道にある個人経営らしいレストランに入って受付で予約完了メールの画面をスタッフに見せた。レストランの入り口には「街コン開催のため本日貸し切り」と書かれていたので迷いようがなかった。わたしは男性二名と女性が一名座っている席に通された。全員異性に慣れていないのか一言も言葉を発しなかった。そして三十分ほどして、飲み物のオーダーをしてそれがくるとスタッフが乾杯の合図をして、街コンは始まった。わたしがついた席は恐ろしく盛り上がらなかった。とにかく誰も話さないのだ。これでは参加費を払った意味がないと思うくらい無言で酒だけ飲む時間を三十分間過ごすと、もう席を好きに移動していい時間になったので、それなりに好みの外見をした男がいる席の隅にわたしは座った。全然好みじゃない男からはある程度話しかけられたが、好みの男は人気があって女達に囲まれていた。酔っ払った頭でわたしは考えていた。わたしは見た目が良くないし性格も捻くれ者だ。結婚できないで遺伝子が淘汰されるのが神の意志ではないかと思った。だいたい高校一年生から今まで働きもしないで八年も夢を追っている女なんて気持ち悪すぎる……この間、ちょっくら胸キュンして兄さんのちんこもくわえてしまったし……きもい、気持ち悪すぎる……わたしって気持ち悪かったんだ、あはは、もういい、女の参加費は安かったし酒を好きなだけ飲んで家に帰ろう。冷えたビールどんどん持ってこい! 冷えたビールのうまさはニートにも平等だった。……気がつくとわたしは一人で眠るには大きすぎるベッドに眠っていた。誠と数回行ったことがあるので知っているが、ここはきっとラブホテルだ。街コンの会場で酒を沢山飲んでいた以外の直前の記憶が殆どない。わたしは誰かとやってしまったのだろうか? それともやる手前か? 服は街コンに行くために着替えたときと同じ服を着ていた。わたしが眠っているベッドまでシャワーが流れる音が聞えてくる。このままでは行きずりの男とセックスすることになってしまうと思ってびびっていると、シャワーの音が止まりしばらくしてポロシャツにジーンズ姿の男がやってきた。髪が濡れているので先ほどまでシャワーを浴びていた男なのだろう。「あ、起きたんだ」男は顔が整っていて短い黒髪がフレッシュさを際立たせていた。「わたし、なんでラブホテルにいるんですか……?」そうは言いながらも目の前の男と寝るのも悪くないとわたしは思っていた。「君、名前は? オレは佐藤恭一」「沼間瑞穂です……」「沼間さんって言うんだ。沼間さんは街コンの会場でもう終わるのに酒を飲み過ぎて立てなくなっていたんだよ。他に好みの女もいなかったし、沼間さんの家も知らなかったから、近くのホテルまで担いでいったんだ。ご宿泊で入ったからゆっくり休んでいっていいよ。ホテル代はそこのテーブルに置いておくから。じゃあね、オレは帰るよ」「待ってください。連絡先を交換しませんか?」「いいよ」そう言って携帯の番号とメールアドレスを交換した。佐藤さんは会社員らしかったので、会社が終わってから彼が眠るまでの間毎日メールをした。彼は大卒で大手の会社に就職しているらしかった。歳は少しだけ上で二十五歳だった。翌週の日曜日には佐藤さんとデートすることになった。初対面がああだったため、わたしはすっかり酒好きだと思われてしまい、夕方からのデートだった。一本映画を観て、ブラックライトで薄暗いバーで静かにお酒を飲んだ。他に話すこともなかったので少し脚色して精神障害者の兄の世話があるから働けないで家で過ごしているということを佐藤さんに話した。「瑞穂ちゃん結構苦労してるんだね。偉いよ」またビールを飲みながらわたしは答えた。「ちゃんといい大学を出て就職している恭一さんの方が偉い」既にわたしたちは名前で呼び合うようになっていた。「親が敷いたレールの上を歩いてきただけだよ。ああいう親を持ったら誰だってオレみたいな人生になる。別に両親には感謝しているし嫌いでも恨んでいるわけでもないけど」「わたしも両親のことは好きだよ。病気の兄さんのこともちょっとは好き」「瑞穂ちゃんは優しい子だね」それからさらに飲んで程よく酔うと、二人でホテルに行って今度こそ身体を重ねた。わたしたちは恋人同士になった。デートは週に一度くらいしかできなかったが、毎晩メールはした。わたしはつい口を滑らせてしまい、小説を書いていると言ってしまった。恭一さんがどうしても読みたいと言うので、今まで書いたものから無難な作品を選んでパソコンのメールにテキストファイルを添付して彼に送った。どういう感想が貰えるのかどきどきしながらその夜眠ると、朝起きた時にはパソコンの方のメールアドレスにメールが来ていて、長文の感想が書かれていた。付き合い始めたばかりだが大好きな彼から感想を貰えてとても嬉しかった。「瑞穂ちゃんって内面にグロテスクなものを抱えているんだね」なんて褒めてるのか貶しているのかわからない文章までもが嬉しかった。

 また夏がきた。恭一さんは両親に挨拶をしたいと言っていたので、母さんも父さんもいる日曜日に彼を家に招いた。恭一さんはスーツ姿で菓子折を持って居間で両親に挨拶をした。そうしてわたしの部屋に行こうというときに、彼は「お兄さんにも挨拶したい」と言った。わたしはだめだよと言いたかったが、兄さんに彼氏を自慢したい気持ちもあったので、二人でノックだけして兄さんの部屋に入った。「妹さんと付き合わせて頂いている佐藤恭一です。よろしくお願いします」「……妹のことをよろしくお願いします」そうしてわたしの部屋に行って、恭一さんといちゃいちゃしていると、隣の兄さんの部屋から「コーヒー、コーヒー!」と壁を殴る音が聞えてきた。「兄さん部屋から出られないんだ。コーヒー持っていってあげるからちょっと待ってて。恭一さんも飲む? インスタントだけど」「うん、貰うよ」そうして兄さんの部屋までコーヒーを持っていって恭一さんにもカップを渡すと、彼はお喋りしながらそれをゆっくりと飲み干して家から帰っていった。

 恭一さんの仕事が休みの日を狙って、去年元彼と行ったみたいに兄さんも連れて海へ行った。空に落ちると騒ぐ兄の手を掴んで恭一さんは二人で脱衣所まで行った。日焼け止めクリームも塗らないで兄さんはパラソルの下で震えていたのだが、恭一さんがまた手を引っ張って海の中まで入っていった。「荷物なんて見てないでいいから瑞穂ちゃんも海に入りなよ」と彼は大声で叫んだ。わたしは楽しい気分になって、熱い砂浜の上を素足で駆け抜けていく。三人で海水に浸かって波を楽しんだ。兄さんも笑っていた。元彼とは違って、恭一さんとなら兄さんも上手くやれそうに思えてなんだか安心できた。

 

 恭一さんと会えない日、兄さんに部屋へと呼び出された。「お前が彼氏と遊ぶのはどうでもいいから、ぼくを巻き込まないでくれ」「何か気に入らないことでもあったの」「ああいう偽善者じみている奴がぼくは嫌いなんだよ」「あんなに優しくされてたのに嫌うなんて兄さんおかしいよ」「うるさい、出て行け!」それから少しして恭一さんに近くの喫茶店に呼びされた。まだ付き合い始めたばかりなのに、彼はわたしに別れようと言った。障害者の兄がいる女とは結婚を前提に交際できないと言っていた。

 悲しかった。悲しいはずなのにどこかが乾いて冷めていた。わたしは笑顔で彼と別れた。

 家に帰ってきてもむしゃくしゃして小説が書けなかった。未だにわたしのアカウントと繋がっている誠と夏美のフェイスブックを見ると、彼らのページはデートの写真でいっぱいだった。心がきゅーっと苦しくなった。わたしに残されたものは家族と小説家になるという夢だけだった。微少ながらも箪笥貯金していたお小遣いを使って缶入りのお酒を沢山買ってきた。その日は暑いのに兄さんの身体も拭かないでユーチューブで好きな音楽を聴きながら、ハイボールにチューハイ、第三ビール、おつまみはチョコレート、それらで一人で飲み会をしていた。酔っ払いながら口をぱくぱくしながら考えていた。なんでわたしの人生はこうなんだ。新しい彼氏には逃げられたし、夢はいつまで経っても叶わない。このまま何十年も経って、両親が亡くなり兄さんはまた病院に入院して、わたしは生活保護で暮らす。そんな遠い未来がありありと想像できた。その頃に今と同等の日本があるのかどうかもわからないのにわたしは暗い未来を思って鬱になった。兄さんが帰ってきてからというもの高校生の頃から付き合っていた誠とも別れることになるし新しい彼氏だった恭一さんとは速攻で別れることになったし、気まずくて夏美とも友達付き合いを続けられなくなったし、目まぐるしく状況が変ることばかりだ。

 すべて兄さんのせいだ。仕返しに小説のネタにしてやろう。わたしは「天井」というタイトルの半分ノンフィクションの小説の執筆に着手した。まずはプロットだ。プロットという物語の設計図を書くだけで一ヶ月はかかる。友達も彼氏もいないわたしは毎日それだけをやって二ヶ月かけて「天井」を完成させた。

 

 もう秋だというある日、昼間に起きると妙に静かだった。いつもだったら早く煙草を買ってきてもらいたい兄さんがうるさいのに。部屋から廊下に出ると、兄さんの部屋とトイレを繋ぐ床は白くなくなっていた。どういうことかと思って、兄さんの部屋の引き戸を勝手に開けるとやはり畳は白くなくて本棚には昔の漫画ではなくビジネス書が並んでいた。いつの間に買ったのだ。それに素人がそんなに上手く床を塗り替えることができるのだろうか。若草色の畳はところどころ黒ずんでいて新しく替えたわけではなさそうだ。どうやって綺麗に白のペンキだけを落としたのか。兄さんの姿はどこにもなかった。下に降りて母さんに兄さんがどこに行ったのか聞くと、「会社だよ、会社」と言っていた。「はあ?」「どうかしたかい」「だって兄さんは病院から帰ってきてずっと家にいたじゃん」「病院? そんなの初めて聞いたよ」さっきからどうも母さんと話が噛み合わない。「もしかしてドッキリ仕掛けてる?」「そんなこといい大人がするはずないだろ」何が起きたのかよくわからないで一日中家の中で過ごしていると、夕飯の時間になってスーツ姿の兄さんが帰ってきた。「今日も嫌な上司に怒られてばかりで疲れたよ」「ごはん大盛りにする?」「うん」居間で兄さんと母さんは普通に会話をしていた。わたしは叫んでしまった。「兄さんは統合失調症でこの間まで精神科病院に入院していたでしょ、何ふざけてるの、からかうのは止めてよ!」「統合失調症……精神科……何のことだよ。酔っ払ってるのか?」「そうだよ瑞穂。お兄さんが疲れて帰ってきたんだからたちの悪い冗談言わないの」「……」

 なにか超常的なことが起きているのはたしかなようだった。それかわたしの頭がずっと狂っていたかだ。考えすぎて眠れそうになかったので冷蔵庫からビールを盗み、寝酒してわたしは無理矢理寝た。寝酒が効いて翌日も昼過ぎに起きると、兄さんは既に会社に行っているようだった。何か手がかりはあるのかと思って兄さんの部屋を家捜しした。前と同じで今時パソコンもタブレットもないのは一緒だった。文机の引き出しに「日記」と書かれているキャンパスノートが束になって何冊も入っていた。一番古い日記の日付は兄さんが二十二歳の頃の物だった。本来なら病院に入院している歳だ。わたしが知っている兄さんは高校中退だが、日記の中の兄さんは大学を卒業して新卒で会社に就職しているらしかった。

 日記にはこんなことが書かれていた。

 

 *年七月二十一日。昼食、コンビニの冷し中華、夕食、母が作った天ぷらとソーメン。二連続で麺ものになってしまった……不覚。

 *年十二月二十四日。クリスマスイヴだが普通に会社。ホールケーキを買って家に帰る。妹は彼氏と過ごすのか家にいなかった。ワインと唐揚げとケーキに舌鼓を打つ。両親とのささやかな誕生会。

 *年五月四日。近頃煙草を吸う量が増えた。対応策としてピースライトからイエローピースに煙草を変える。一本吸い終わると疲れた感じがするがまあいい。煙草とはそういうものだ。

 

 殆ど食べ物や飲んだお酒の量が書かれていただけだが、ぱらぱらとめくって兄さんの日記を見ただけなのに、わたしは自分の記憶に自信が持てなくなっていた。狂っていたのは兄さんじゃなくてわたしだったのではないだろうか。

 翌日わたしは精神科を受診した。本当に起ってることを言ったら入院させられると思ったので、適当に鬱っぽくて不安を感じると言って軽い安定剤を一週間分貰った。

 わけがわからないが、兄さんの何冊にも及ぶ日記はわたしの執筆活動に役立つと思った。その日から安定剤を飲みながら、兄さんの日記を読んで、今度はサラリーマンが主人公の書簡小説を書いて応募しようとした。書いている内に「天井」の選考結果が出て、やはり一次選考落ちだった。

 

 その年が変る前に兄さんが主人公のサラリーマン書簡小説は推敲を含め完成した。郵便局で出版社に郵送する。

 家に帰ってきてネットで遊んでいると、「おめこ!」などと隣から聞えてきた。嫌な予感がした。廊下に出るとトイレから兄さんの部屋まで白いペンキが塗られていた。隣の部屋の引き戸をノックもなしに滑らせると、ペニスを弄っている頭が足りなそうな兄さんがいた。「うわあ、出てってよ」「……うん」下に降りて母さんに聞いた。母さんは居間に掃除機をかけていた。「兄さんってサラリーマンだよね」掃除機の音がでうるさい中怒鳴るようにわたしは言った。「だったらいいんだけどねえ」「もしかして兄さんって精神科病院帰りで統合失調症?」「わかりきったこと聞かないでよ」

 意味がわからなかった。兄さんは障害者でいつの間にかずっと健常者だったことになっていて、今度はまた統合失調症ということになっていた。ここは現実の世界なのだろうか。自分の部屋で考えた。この世界はなんだ? わたしは管理者の一存で人物の設定が変るイリュージョンシティで暮らしているのか? 初めに兄さんをネタにして小説を書いたから天罰が下ったのだろうか。また兄さんの部屋を家捜しするために精神科病院に行って、兄さんが眠れていないと言って睡眠薬を貰ってきた。睡眠薬の錠剤を砕いて通常の三倍の量コーヒーに混ぜると、それを兄さんに飲ませた。しばらくして兄さんの部屋に行くと彼はベッドで眠っていた。睡眠薬を多少多く飲んだくらいでは死なないことは知っていた。薬が抜けるまでの時間ずっと眠っているだけだ。兄さんの部屋は殺風景で探すところなど殆どなかった。本棚の中身は前みたいに昔の漫画だらけに戻っていたし、箪笥の中も中学生が着るようなデザインの服ばかりが入っていた。あのサラリーマンだった兄さんが着ていたスーツはどこに消えたのだろうか。探すところがないでわたしは天井を眺めた。部屋の四隅の天井の一箇所に隙間が出来ていた。兄さんの部屋にはないので自分の部屋から椅子を持ってきて踏み台にして、その天井に触れると板が簡単に動いた。天井裏には「日記」と書かれたキャンパスノートが何冊も隠されていた。

 

 *年七月十四日。暑いのに妹は毎日煙草を買ってきてくれる。感謝。

 *年十一月三日。死にたくないというぼくのペニスを妹はフェラしてくれた。

 *年十二月二十一日。パチンコ狂いの彼氏にソープで働いてくれと頼まれて妹達は別れることになる。

 *年五月十五日。妹は街コンで知り合った男と付き合うことになる。

 *年七月二十五日。妹の新しい彼氏と妹とぼくの三人で海に行く。ぼくは始終気分が悪かった。

 *年八月三日。障害者の兄がいる女とは付き合えないと新しい彼氏に言われ、妹は別れることになる。

 *年十月七日。妹が新人賞に小説を応募するが一次選考落ち。

 *年三月十日。妹の精神の狂いが臨界点に達して精神科病院に入院することになる。

 

 他にも兄さんの日記にはわたししか知らないことまで書かれていた。いったいこの日記はなんなのだろう。過去の日付のものはすべて実際に起きたことだし、未来の日付の物まであった。直感だが、わたしはわかってしまった。わたしが兄さんをネタにした小説を書けば、だいぶアバウトだが逆のことが現実で起きて、兄さんが書いた日記は書いたことがそのまま現実に反映される。きっとそういうことなのだろう。何故だかわたしにはそう思えた。わたしがいつになってもプロの小説家になれないのは、兄さんの日記のせいだったのだ。わたしは人間じゃない。兄さんの日記に書かれた文字でしかないのだ。そんなことを本気で信じるのは馬鹿げているだろうか。馬鹿げていても構わない。わたしはここがわたしの知っている通常の世界ではないとしても精神科病院になんか入院したくないと思い、兄さんが寝ている内に、日記をすべて家の狭い庭で燃やした。兄さんが書いた世界は何かが終わるような音を立ててよく燃えてくれた。今わたしは誰が作った世界にいるのだろう。火事にならないように灰になったノートに最後は水をかけた。翌日の昼になってやっと起きた兄さんが隣から怒鳴ってわたしを部屋に呼んだ。「天井裏のぼくの日記はどうした」「気持ち悪いから燃やした」「ただの趣味なのに目くじら立てやがって」「兄さんは変だよ」「詩人と言ってくれ」兄さんは自分の日記の効果を知っているのだろうか。

 

 *年十二月三十一日、妹が風呂に入っていたら中年の男に覗かれる。

 

 兄さんの日記にそんなことも書いてあったなあと思いながら、大晦日今年最後の風呂に入っていると、本当に知らない男が小さく開けた窓から風呂を覗いていた。わたしが悲鳴を上げると、中年の男は無言でゆっくりと去って行った。年がまた明けた。兄さんの日記は燃やしたのに、日記に書かれていた通りになってしまった。どこにもうつしていないから本当にそう書いてあるかは確認できないがたしかに書いてあったとわたしは記憶している。わたしは精神科病院になんて絶対に入りたくなかった。ネットの知識で知っているが、一度でも精神科病院に入院すると、退院してもちょっとしたことで親と医者の独断で病気の人の意思は関係なく外にも出られない病院に入院させられてしまうのだ。一種の人生の墓場に思えた。兄さんが書いた日記がすべて現実の世界なら、わたしが書いた小説はすべて曖昧だが反対のことが兄さんに降りかかる。わたしは急いで「兄の生活」という小説を書いて、その中で部屋で首つりをしようとして思いとどまったと書いた。こんなことで本当に兄さんが「思いとどまらない」でくれるかわからなかったが、そうするしか他になかった。日付は明日ではなく明後日にした。

 翌日兄さんに、「なんかして欲しいことある? なんでもしてあげるよ」罪滅ぼしにわたしはそんなことを言った。「おっぱい吸わせて」「え、わたし小さいじゃん」「いいから」わたしが胸をさらけ出すと兄さんは十分以上もわたしの乳首を口に含んでいた。死ぬ前に妹の胸を吸うなんてチケットが売れない映画のようだと思った。その日の夕食は母さんに言って豪華なものにしてもらった。そして兄さんの部屋で一緒に食べた。ただのハンバーグとポタージュスープなのだが、それが兄さんにとって最後の晩餐になるかもしれなかった。

 翌日、兄さんはトイレのドアノブに紐をひっかけて首を吊って死んでいた。

 既に糞がぼたぼたと床に落ちていたが、父さんを呼んでくるとまずは紐を鋏で切り、救急車を呼んだ。わたしは死んだ、いや、わたしが殺した兄さんが漏らした糞を綺麗に掃除した。父さんと母さんは親族への連絡で忙しいようだった。わたしは自分が殺したのに、ぼろぼろと泣いた。兄が死んだ翌日にはファミリー葬の料金に含まれている寿司を食べて、ビールを少し飲むと兄さんの死体が入った棺桶と同じ部屋で、わたしたち家族は眠った。兄さんの葬式には親族の他に誰も来なかった。まだ何も達成しないうちにわたしは兄さんを殺してしまったのだ。今時の正座する必要がない葬儀が終わると、如何にも泣いて下さいというセンチメンタルな音楽が鳴り響き、棺の顔が見える窓が閉められて出棺された。お葬式の業者が用意したマイクロバスで火葬場まで向かう。霊柩車で運ばれた兄さんの死体が入った棺が焼かれている間、簡単な食事も食べられる畳敷きの待合室で親族達は兄さんと関係ない話ばかりをしていた。そうして箸と箸で焼かれた兄さんの骨を骨壺に拾っていった。そして蓋をした骨壺を風呂敷で包み父さんが代表してそれを家まで運んで行った。親族達はいつの間にか居なくなっていた。今気がついたのだが、わたしはずっと泣いていたらしい。兄さんの死体を見てから彼が骨になる今までまるで夢を見ていたようだ。家に帰ってくると、仏壇の前に兄さんの骨が入った骨壺を置いた。

 

 さすがに兄さんが死んでしまったのだから、文字の世界からわたしが知っている世界に戻ってこられたと思っていたのだが、生活は荒れた。安い焼酎を毎日朝から晩まで飲んで、自分が殺したのにいつでも涙が流れて、わたしの部屋の兄さんがいた部屋がある方の壁を手から血が出ても何度も殴った。人殺しの自分がとても嫌で、だけれど小説家になる前から自殺はできなくて酒に逃避した。

 そして兄さんの日記に書かれていたわたしが精神病院に入院する日、救急車が家の前で止まって、白衣を着た看護師がわたしに無理矢理拘束着を着せて救急車に乗せた。気づくと兄さんが入っていたような隔離室に入れられ、まだ身体に酒は残っていたが妙に頭の中が冷静になった。

 兄さんじゃない誰かがわたしのことを想像して日記を書いているのだろうか。わたしは誰かが書いた文章でしかない。ノートに書かれた文字の集合体でしかないのだ。わたしの自由意志などどこにもない。

 部屋の隅に便器まである隔離室でわたしは毎日叫んだ。

「出してえ、わたしを文字の世界から出してよお」

 わたしが今この場所で叫ぶことすら誰かがノートに書いたことなのかもしれなかった。

 

 了

2019年3月9日公開

© 2019 瀧上ルーシー

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

実験的 純文学

"天井"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る