闇式メリゴラウンド奇譚

オリエ堂の倉椅

小説

23,188文字

ストーリー無、展開無、吐き出したのはただ愉快で、狂ってて、にぎやかな時間。それってちょうどメリーゴーランド?
キーワードは売血、ドラッグ、行進曲。夜眺めるメリーゴーラウンドがあまりにも綺麗だったから。わくわくしたから。憧れたから。原稿用紙60枚くらい。ささっと読み飛ばしておくんなまし。

 奴隷解放宣言からだいたい百五十年の今日この頃。

 ある晴れた日のこと。僕は警察署の前でうなだれていた。免停喰らったのである。罰金を払ったら財布が空っぽになった。財布に詰まっていたのは、数日前「無人取引機」でやっと手に入れた金なのだ。

 違反金納付書の裏には「罰金は道路の補修、ガードレールの整備など交通安全に使用されます」とあった。それを見て、僕はどうしても許せなくなった。

「クソ! クソ!」

 僕は手近にあったコカコーラの自販機をぼこすか蹴飛ばし始めた。

「ゴミ! 淫売! 脱腸国家権力が! なんで俺が借金してまでガードレール直さなきゃいけねえんだよ! クソ!」

 爪先に鉄芯の入ったブーツで蹴りまくってたら、急にコカコーラの自販機が甲高い電子音を鳴らした。かと思ったら、がしゃん――。コカコーラの缶がひとつ、金も入れてないのに落ちて来た。

「……ん?」

 僕は疑問に思いながらもコーラを取り出した。壊れて落ちて来たのかな、ラッキー。近くにあった車の輪留めに座り込んで、警察署の前でひとり、コーラを飲み始めた。イライラするので音楽を聞こう。ポケットの中のスマホからイヤホンを引っ張り出し、耳に突っ込む。チャイコフスキーかレディオヘッド。僕はいつもその二択だ。

 音楽の再生ボタンを押すと同時か、それより少し早く。一人の男が現れた。つかつか歩いて来て、僕の前にぴたりと立ち止まり、かと思ったら爪先を僕の方に向けたのだ。深みのある皮革のプレーントゥ。高そうな靴だな、と思いながら男を見上げる。

「……なんだい?」

 イヤホンを外しつつ僕は男に問う。男は時代遅れのロングヘアの下、それでも長い髪がひどく似合う女型の美形をいやに邪悪に笑わせた。真っ白な顔に切られた真っ赤な弦月。

「それ、金払ったのかい? コーラ」

 男は尋ねて来た。女みたいな顔に不釣り合いの、カラスが口を利いているみたいなハスキーボイスだった。

「いいや、払ってないよ。無一文だもんで。蹴っ飛ばしてたら出て来た」

「あはは。そうだろうな。今時の自販機は強い衝撃を与えると一本出て来るようになってるんだ。防犯装置としてね。アラーム鳴らすより、係員を呼び出すより、とりあえず飲み物一杯与えるほうが安上がりだし効果的だろ?」

「ふーん。あ、そーなの」

 僕は雑に答えながらイヤホンを耳に戻し、コーラを啜った。財布の中身をそっくり持ってかれた不愉快さで、人と話す気になれなかったのだ。

 男は鼻歌うたいながら自販機で紅茶花伝を買って、何を思ったか僕の隣に座った。僕は舌打ちをしてイヤホンを取った。

「なんだよお前。どっか行けよ。あんまり機嫌が良くねえんだよ」

 僕は怒りの声を男に投げたが、男はにこにこしながら紅茶花伝を一口呑み込んで、

「……う、うわあ! こんな甘かったっけ、これ! ぐあー」

 とか言って舌を出した。舌苔ひとつ無い、ベロが売りのJAV女優みたいに真っ赤で綺麗な舌だった。

 僕は男の胸ぐらを掴み、乱暴に自分に引き寄せた。長髪の間の白い額に、痛んだ金髪の自分のデコをぶつける。

「おい、兄さん。前歯折るぞ。どっか消えろよ」

 苛々と喰って掛かる僕。男は相変わらず薄い唇を弦月みたいにして笑った。

「おい、ヒューゴボスだぞ。君が彼女に買ってやる婚約指輪よりずっと高価なスーツだ」

「そりゃ火ぃ付けたら良く燃えそうだな。なんのつもりか知らないが、野良猫と間違えんなよ。ちょっかい出される気分じゃないって、ぶん殴らなきゃ伝わらないかい?」

「あー、分かった分かった。手を離してくれ、本当に高いスーツなんだ」

「……」

 全く納得出来なかったが、僕は男の胸ぐらから手を離した。変わった奴だな、と思った。

「何か用があるのかよ」

 僕はコーラ飲みながら問う。男は答えた。

「違反金払って金がないんだろ? なんの違反だい」

「スピード違反だよ。もうすっからかんさ。最後の運試しにスクラッチくじだって買えやしない」

「ふむ。事故を起こした事はあるか?」

「ないよ。無事故有違反……。くそったれ」

「そうか。上等、上等」

 男は立ち上がった。そして八割残っていた紅茶花伝の缶をひっくり返し、中身をアスファルトの上に捨て始めた。

 びたびたびた……。オッサンのカーディガンみたいな色の液体が飛び跳ね、僕の顔に水滴があたる。

「つめたっ……おい気違い。何してくれんだよ」

「こんなサキュバスの母乳みたいなもの飲んでられるか。脳みそ溶けちゃうよ」

 空っぽになった缶を手に、男は警察署の入り口を眺めた。警邏を終えた交通課の下っ端が「腹へったー」とか言いつつ自動ドアを抜けるタイミングを狙って、警察署の中に空き缶を放り投げた。それからまた僕を見た。

「じつはかっ飛ばすのが得意な奴を探してたんだ。どうだね、私のところで働かないか? 今、仕事は?」

「仕事ー? 工場に勤めてたけど、二週間前に営業停止になっちまってな。まだ在籍してるんだろうけど、無職と変わらないよ」

「へえ。何の工場だい?」

「コンドームのオカモトさ。一人の薄汚い底辺職工が、少子高齢化対策とか言ってコンドームに穴開けてるのがバレてな。問題になっちゃってさ」

「そりゃ酷い男だ……。まさかとは思うけど、オカモトって箱に0.03のところか?」

「ああ、そうだよ」

「勘弁してくれよ……大好物のやつじゃないか」

「サガミに変えたらどうだ?」

「あれはカサカサして嫌いなんだ。そうか、オカモトが……こりゃ次からゴム使わないどくか」

 男は長髪を掻き乱し、ぶつぶつと呟いた。この奇人が変に焦ってる様子が面白くて、僕は笑った。

「そうだそうだ、ノーヘルで行け。腹蹴ってもらって二回堕胎成功したアバズレを知ってるぜ」

「ああ、私は女のケツじゃ興奮しなくてな。堕胎は心配いらん。とゆうか彼が億に一つも孕んでくれたら泣いて喜ぶ」

「……!」

 僕は絶句した。

「そうだ、仕事の話だったな。……車を運転する仕事だ。迅速に目的地まで到着するのが職務。夜勤で勤務時間は長いが、ヒマな日は寝てるだけで給料が出る。どうだ? 手取りで二十五万ってところかな。ボーナスは出ないが、社員食堂は無料だ」

 この男は血液センターを経営している若社長だった。血液は衛生の問題で長期保存が望ましくなく、そのうえ医療の現場で一分一秒を争う緊急さで必要になる。赤十字社が血液の管理をしていた時代は終わり、もっと迅速に、もっと安定して血液を供給出来る民間業者が台頭してきた。男が僕を誘った仕事は血液配送のドライバーだった。

 金も無かったので、とりあえず僕はこの男の元で働く事にした。男は「免停が解けたら会社に来い」と名刺を一枚くれた。

「君、名前は?」

 男が僕に尋ねた。

「ああ。ソーヤっていうよ」

「そうか。私の事は社長と呼びなさい」

 

 

 血液センターは病院に良く似ている。殺風景なビルで大きな赤い十字を掲げ、白い緊急車両が出入りする。献血を受ける人々の待合室や、献血を行なう処置室も含め、まあざっと病院みたいなものだ。

 医療はものすごく進歩したけど、今のところ「血を流しすぎた奴には血を与える」という輸血の原理は変わらない。職場には大きな冷蔵庫があって、そこに毎日各血液型の血でパンパンに膨らんだ輸液パックが運び込まれ、そして二日ほど使われなきゃ捨てられる。遠い昔、献血をすると一握りの金が貰えた時代もあったのだが、倫理や健康管理の点で問題があり、法律で禁止された。結果、今この国では右を見ても左を見ても「血液不足」だ。

 血液センターは二十四時間稼働。僕に与えられた仕事は夜勤として宿直室に詰めて、夜の間、病院などに「血」を届ける事だった。

 宿直室はちょうどバス一車両分くらいの部屋で、仕事机の他にソファー、小さなテーブル、冷蔵庫とレンジが完備されていた。扉一つ向こうには仮眠室もあったが、今の所そこは先輩である飾森さん専用になっていた。

「殺風景な部屋でしょ? まあすぐに慣れるよん」

 初出勤の日、初めて入った宿直室で先輩が言った。若い女だった。真っ赤に染めた頭、耳はおろか眉にも舌にもピアスが開いている。そんな装飾品だらけの顔を派手なメイクで染めて、まだ足りないのか黒ぶち眼鏡まで掛けている。エスニック雑貨コーナーみたいにごちゃごちゃした女だった。

「えーと、あんた名前は……」

「ソーヤっす」

「あそ。あたし、飾森ね。こう、飾るって字に森って書いて、しきもり。変わった名前でしょ?」

「そっすね」

 ちょっとした挨拶が終わると、飾森さんは携帯ゲーム機で遊び始めた。

「……おら。おら、死ね。死ね、犯すぞ、毛唐。死ね、死ね、ちんこ置いてけ。ちんこ置いてけ」

 ぶつくさ言いながらゲームに熱中している。ボタンを連打する「かちゃかちゃ」が慌ててズボンを履く音みたいで耳触りだ。僕は何をするでも無く、ただ椅子に座ってぼーっとしてた。と、かなり唐突に飾森さんが、

「ん、ソーヤくんだっけ」

 と言って、僕の方を見た。今までゲームに熱中してたのに。妙な切り替えの早さは精神病質を感じさせた。

「え、あ、そうですけど」

「ソーヤくん、煙草吸う?」

「ああ、吸いますよ。いるんですか?」

「ごめーん! 一本分けて!」

 ゲーム機を持ったまま手を合わせ、そう嘆願する声は妙に女の子らしかった。僕はポケットをあさり、煙草の箱を引っ張り出した。

「どーぞ」

「いやーん、ありが……うえ? 何これ、〝クール〟? お前、よくこんなカスミみたいなもん吸えるな、仙人かよ」

 飾森さんは受け取った煙草の箱を僕に投げ返し、眉間にシワを寄せながら言った。僕は腹が立って、

「なに勝手なこと……文句いうなら貰い煙草なんてしないで下さいよ」

 と言い返した。飾森さんはぶつくさ文句言いながら立ち上がり、隣の仮眠室に歩いて行った。荷物を漁るような音がしばらく聞こえて、その後で、

「あー、あったあった。これだよこれ」

と飾森さんの声が続いた。宿直室に戻って来る頃、飾森さんはすっかり上機嫌な顔で、手に「ルシファー」と書かれた銀の袋を持っていた。

「ニコチンじゃ無いけど、まあいっか。ソーヤくん、連れモクといこーよ。これから毎晩一緒に働くんだしさあ」

 銀の袋をひらひらやりながら、飾森さんはまた元の席に座った。僕はじっと飾森さんの持っている袋に目をやった。

「……煙草じゃないじゃん。それ、ダッポじゃ無いっすか? ルシファーって、確かNo.9社の」

「そー、脱法ハーブ。ハデス、ゼウス、色々あるけど、やっぱ第三世代はルシファーかアラジンに限るよね。耳にくるんだコレは」

「それ第三世代っすか。まだ売ってるんですか?」

「売ってっこないでしょー。二千ン年の包括指定でNo.9社なんてただの麻薬カルテルになっちゃったもん。昔買ったのが余ってるの。貴重品よ? あんた、ボングなんて持って無いわよね」

「あるワケないでしょ、こっちは仕事しに来てるんだ」

「あそ。じゃ、ジョイントで我慢してちょ」

 そう言いながら飾森さんは、電話や予定表で埋まった仕事机の引き出しから、手巻き煙草を作る道具類一式を取り出し、慣れた手つきで脱法ハーブを一摘まみ、誰でも見た事のある煙草の形に巻いてくれた。巻き紙の接着部分を、ピアスの付いた舌で一往復舐め、チュービングマシンでくるくる形作る。完成したら「ほい」と僕に投げ渡した。そして自分は使い古されたガラス製の可愛らしいパイプを取り出して、脱法ハーブを詰める。

「No.9社のやつ超くっさいから、喫煙所行こうか」

「ほいほい」

 なんだ、楽しい職場じゃないか。

 依頼の電話が来たときのために電話の子機だけ持って、僕たちは宿直室を出た。昼間の社員達が使うのと同じ喫煙所を目指す途中、飾森さんが「トイレここね。血液の保管庫あっち。依頼が来たら、あそこから血液を車に積み込んで出発だよ。早く覚えなきゃいけないのは病院の場所だねえ」と急に新人教育らしい事を言い出した。やがて僕たちは喫煙所に着いた。新しいビルの喫煙所って感じのガラス張りの小部屋だった。宿直室以外の照明は全て落ちてしまっているが、非常口の緑色の灯りでちょうど良く手元が見えた。

「脱法ハーブか、久しぶりだな。そんじゃ、ありがたく頂戴します」

 僕は紙巻きの脱法を口にくわえ、ライターの火を移した。煙草とは違う、薄いけど膨大な量の煙が上がった。飾森さんもパイプを咥え、マッチから火を移した。点火が終わったところでマッチを灰皿に投げ込む。じゅ、と火と水が喧嘩する音がした。

 肺一杯に毒の煙を吸い込んで、1、2、3と数えてから吐き出す。ちょうど酸欠で意識を失うのに似て、自分でも知らぬうちにTHCが脳に回って、気付けば「いつもの世界」じゃ無くなっている。

 お、きたきた。と僕は呟いた。声に出したかどうか分からない。ただ、脱法ハーブに含まれる偽カンナビノイドの作用を、僕はいつもこうやって感じ取る――それは鼓動だ。

 耳の中で鼓動が「どくん、どくん」と聞こえている。それが無限に反響して、遠くから近寄ってはまた離れてゆく太鼓のように聞こえるのだ。

 ず、ず、ず、ど、ど、ど、で、で、で、どーん(どくん)。

 ず、ず、ず、ど、ど、ど、で、で、で、どーん(どくん)。

 こうなればもう秒数を数える事さえ上手に出来ない。なるほど、時間感覚なんてかりそめの物なんだな、と気付く。たとえばツバを飲み込んでみると良い。目を閉じて咽下すれば、食道を伝って落ちてゆく液体の感覚は永遠とも思える長い時間、体感されるのだ。

 よし、キマッた。あとは楽しい事をするだけだ。僕は非常口の灯りを眺めた。普段なんとも思わないあの緑色が、今はどんな宝石よりも美しく、深奥で、純潔なものに見えた。開いた扉から出てゆくピクトグラムの人影が、なぜだか強烈に哲学的な意味を持っているような気がした。彼は最初の一人か、それとも最後の一人か。彼があの扉を越え、自由を手にし、全国の「非常口灯」から姿を消す日は来るのだろうか。

 だめだ、泣きそうになってしまった。――薬が切れた頃、記憶に残っているこうしたワケの分からぬ思考について、たとえばLSDをやる奴らは「持ち帰ったもの」と呼ぶ。

「ソーヤくんさー」

 飾森さんが豊かにパイプをくゆらせながら僕を呼んだ気がした。

「ふぁい」

 なので返事をした。話が続いたのでどうやら僕を呼んだようだ。

「なんか音楽おすすめないのー? こうゆう時聞くヤツ」

「なんすか。エロいのっすか? 海外のポルノサイトとかで〝PMV〟って調べると、エロ動画で作った音楽ビデオ見れますよ」

「んあーいいねえ。それでいいや」

 飾森さんは鼻歌なんか歌いながらスマホを取り出して、何やらネット検索を始めた。

「出て来ないよ。あ、カタカナじゃダメなの? はいはい……」

 しばらくスマホをいじっていた飾森さんだったが、やがて「ああ、もうー」と苛立った声を挙げ、スマホを放り投げた。

「なんっで糞エロ漫画の広告ばっかり出て来るかなあ。×ボタン押したっての、今! 別にいいよエロ漫画でも。なんでそれがいつもいつもレイプと近親相姦なんだよ! 嫌いなんだよ!」

 絶叫する飾森さんの声が真っ暗のエントランスに響き渡った。

「まあまあ……オレ出て来ないっすよ、そんな広告。変なサイト見過ぎなんじゃないですか」

「うるさいうるさい!」

 苛々しながら、飾森さんは自分のスマホを拾った。そして「なんか電源入らないし!」とまた怒り始めた。僕は仕方なく自分のスマホを飾森さんに渡した。しばらくして、やっと飾森さんは目的のエロ動画に辿り着いた。

「えへへ。見れた」

 機嫌が直る飾森さん。暗い喫煙室の中、僕のスマホを手にした飾森さんの顔が、ポルノ映像で明るんでいる。偶然だが、バックミュージックが僕の大好きなレディオヘッドだった。たとえそれが腐れポルノのBGMでも構わない。僕は目を閉じて、音楽に気持ちを集中した。

「なんか腹減りましたねえ。あ、そーいや社員食堂を自由に使えるって聞いたんすけど」

 手巻きの葉っぱを半分くらいまで吸った頃、僕はぽつりと言った。

「社員食堂ー?」

 ふざけたエロ動画に飽きて、人のスマホで勝手にYoutubeを見始めている飾森さんが応じる。

「ほんとにこんな夜中まで、社員食堂が開いてるんですか?」

「……あー、分かった。おっけ、おーらい。付いておいで」

 飾森さんはスマホを見ながら立ち上がった。ゲームの途中で夕食に呼び出されたアホな小学生みたいに。そして喫煙室を出て、僕をエントランスの奥へといざなった。暗闇の中、待ち合い用のベンチ、人のいない受付などがうっすらと見えるホール。その片隅に白い灯りを溢れさせている一角があった。自動販売機コーナーだ。

「ほい、Suica。たぶんこれの事でしょ」

 各社各種の自動販売機が並ぶ片隅に、カップヌードルと「赤いきつねと緑のたぬき」の自販機があった。飾森さんの持っている社員用のSuicaには八千円ほど残高があって、表面に雑な油性ペンの字で「社畜餌用」と書かれていた。このSuicaでカップヌードルを自由に喰える事を「社食」と称していたらしい。

「そうならそうと言ってくれりゃ良いのに。こっちは白飯と焼き魚でも食えると思って……」

 チリトマトヌードルをぼそぼそ啜りながら僕は愚痴った。

「ねえ、それ何味? ナポリタン味? うまい? まずい? 食べたことない」

 飾森さんが横で騒いでいる。

 そうこうしていると飾森さんがポケットに入れた電話の子機が鳴った。

「お、仕事かな」

 電話に出る。「はい血液センター。はい、はい。あー、分かりました」。間もなく電話応対を終え、飾森さんは僕を見た。

「初仕事だよ、新入りくん。あたしヘロヘロだから、きみ運転おねがいね~」

 

 

 血液センターの仕事は、献血などで新鮮な血液を募る事と、手術などで輸血が必要になった病院に輸血パックを届ける事だ。ただしセンターが民営になった今、顧客は医療関係者とは限らない。金さえ払えば誰にだって血液を届けるし、献血なんてちまちました事はせず、貧乏人に金を払って血を抜かせてもらっている。今回の顧客も一般人で、血液の届け先は自宅だった。

 僕たちは冷蔵庫から指定の血液型の輸血パックを車に放り込み、出発した。車は白黒じゃないパトカー、もしくは速そうな車種の救急車を想像して貰えば良い。真っ白のスポーツカーで、横っ腹に赤い十字が描かれ、そして天井にパトカーや救急車と同じランプが乗っている。サイレンを鳴らすことも出来るが、音は救急車と同じ「ぴーぽー」だ。

「さあソーヤくん、お手並み拝見。タイムスリップするまでアクセルを緩めないこと!」

 飾森さんが助手席ではしゃいでいる。僕は車をかっ飛ばした。目的地の住所は、多くの人にとって「お洒落してお買い物に行く街」と認識されている一帯だった。そこに自宅を構えているというのだから、さぞ財布の分厚い人なのだろう。

「こんな夜中に血液が必要だなんて、その金持ち、吸血鬼かなんかですかねえ」

 赤信号を無視して気持ちよく飛ばしながら、僕は飾森さんに尋ねた。

「んあー、映画関係者じゃない? センターが民営になってから血糊も本物を使うからね」

「へえー」

 間もなく僕たちは、この辺りで金持ちの住む街とされている一角に辿り着いた。アメリカ製のシットコムで見るような分かりやすい豪邸で、窓に入った格子のひとつでさえ高級感に溢れていた。

「あたし、葉っぱ回っちゃって人と話したくないや。あんた行って来てよ。これ渡して代金もらうだけだから」

 飾森さんに命じられ、僕は血液パックを押し込んだクーラーボックスをかつぎ、家の玄関を目指した。驚いたね、庭に噴水まである。どこで買って来るんだ、あんなの?

 インターホンを押す。録音ではなく実際の金属質を帯びた鐘の音。

「お待たせしましたー、血液センターです」

 金の馬鹿でかい取っ手がついた分厚い扉の向こうから、駆け足の音が聞こえた。乱暴に扉が開かれる。ひとりの男が現れた。

「おお、早かったな。さ、中に入ってくれ」

 中年と言って良い年齢だがスポーツでもやっているのだろうか、引き締まった体をしている男だった。しかし何があったのか、ボタンダウンのワイシャツは血でベトベトだし、ジェルで固められた頭は乱れ、ネクタイは曲がり、憔悴しきった様子だった。僕は言われるがまま家の中に入った。

「この奥だ。まあ、なんだな。簡単な話なんだよ……」

 豪奢な家具で埋まった家の中を、ずっと奥まで僕をいざなう。その途中で、男は聞いても無いのにこんな話をしてきた。

 要するに、だ。

 人生を豊かに暮らすためには一体いくらの金が必要か。月五十万? 月百万? 実は「年収一千万」の稼ぎがある多くの人々が「その所得に不満を感じている」という事実を知っているだろうか。まあ、日々の糧を得て温かいベッドで眠り、水道代を気にせずシャワーを浴びるには五十万もあれば充分だろう。だが月五十や百の金は、思いつく程度の贅沢で簡単に使い切れてしまう。いわゆる「金に不自由はしていない」生活というのは、実は「年収三千万」がボーダーライン。それだけあればやっと、庶民的な娯楽にいくら興じても金が減らないようになる。

 この男は年収二千五百万。豊かな生活を手に入れる一歩手前であり、金はあるかもしれないが忙しさも金額通り。貧乏暇なしの一番最後に立っている。仲間に負けないよう大きな家を建てた。しかし恋愛には割と真面目な男で、高校の時に初めて付き合った同級生の女の子とそのまま結婚した。子供はいない。

 そんなこの男に、たとえばこんな日があったらどうする?

 ひと月も前から約束していた仕事の打合せが、先方の事情で急にキャンセル。連絡を受けたのは待ち合わせ場所に向かうタクシーの中だった。仕方なく引き返し、喫茶店でコーヒーを一杯。何をする用があるでも無いし、たまには夫婦で外食でも行くかと早めに家に帰ったそうな。

 まあ、自宅についた段階で見知らぬ車がガレージに停まっているものだから、なにか変な予感はしたのだと言う。自宅に入り、「ただいま」と言う。返事は無い。家が広いってのも考えものさ、もう少し狭ければ見なくて良いものは見ずに済んだはずなのに。さあ、男の花嫁はどこにいる? 男は寝室の扉を――そう、ちょうど休日の朝にカーテンを開けるみたいに――開いた。裸の花嫁が、見知らぬ男の股に顔を突っ込んで、一心不乱にケツの穴を舐めている。確かにこの国のウォッシュレットは世界のセレヴに大人気だけど、肛門に舌を突っ込むのはやり過ぎた。男は悲鳴をあげたか? 言葉を失ったか? 花嫁はびっくりして男のケツから顔を離す。ヨダレを拭い、なぜだか旦那であるはずの男に対して自分の裸体を手で隠しながら、目を見開いてこう言った。

「ち、違う、違うの。私からお願いしたの!」

 これが弁明の言葉だ。向こうも慌ててたんだろうな。

「血液センターの兄さん。けっきょくのとこ、算数が役に立つのはこうゆう瞬間なんだよね。頭の中にいろんなものが渦を巻く。妻と共にツラい日を乗り越えた気持ち、あらゆる初めてを捧げ合った青春の思い出、旅行に行ったときの事。願いましては足し算、引き算。ま、そうゆうことさ」

 男は話を終えながら、寝室の扉を開けた。北欧風の家具で清廉にまとめられた暗い寝室の中、裸の女が脇腹を押さえて「うーうー」唸っていた。脇腹から血が溢れている。女は寝室に入って来た自分の旦那を見て、恐怖で怯えた目をした。寝室の床にはもう一人、血まみれの男が裸で倒れていた。男にしては綺麗な尻の割れ目から、血と白濁した液体の混合物が垂れている。

「足し算引き算の結果、二人とも半殺しにしちゃったって事ですか。それにしても、なんです、こいつのケツから出てる無知蒙昧たる液体は」

 僕は寝室を埋める惨状に顔をしかめつつ、男に尋ねた。男は爽やかに笑った。

「ああ、こいつの血と俺の精液だ。嫁がべろべろ舐め回したと思うと腹が立ってね。そんなにケツで気持ちよくなりたいなら犯してやるよってな道理で、ぶち込んでやった。そしたら生理ん時にヤッたみたいになっちゃってねえ。嫁に普段やっている通りのプレイだったんだけど、女の方が頑丈なんだな」

「きったねえなあ、もう。……ま、良いや。とりあえず血はこれね。A型を五リットル。金だけもらったらオレは帰りますよ」

 僕は輸血パックの入ったクーラーボックスを寝室の床に置いた。

「え? おいおい、輸血をやってくれるんじゃないのか」

 男は驚いたように笑って僕に言った。

「はあ? オレはバイトの血液配送員っすよ。輸血なんかできるわけないでしょーが」

「えー、まいったなあ……。ほら、嫁を見てくれ。殺すつもりで思いっきりナイフを刺したら、中途半端に生き残ってしまってな。あんまり痛がるから可哀想になったので、やっぱり助ける事にしたんだ。輸血が必要なのは、床に広がってる血の量見ればだいたい分かるだろ?」

「まあ、そりゃ……。良いじゃないですか、最初の予定通り殺しちゃえば」

 僕が言うと、さっきまで浮気相手のケツを舐め回していた嫁はわざとらしい「ぎゃあー」という悲鳴を上げた。

「そうコロコロ予定を変えるのもねえ。それに、もしそうなればこの血はキャンセルだよ」

「……ちょっと待ってて下さい。車に仲間がいるので聞いてきますよ」

 僕は一人、玄関に引き返して行った。しかし広い家だ。なろうと思えば迷子にだってなれそうだ。

 家の前に路駐してある車に戻った。車内からこもった質感で深夜ラジオの声が漏れている。

「飾森さん、ちょっと良いすか。……え、なに泣いてんの?」

 車のドアを開き、助手席の飾森さんを見て、僕は驚いた。彼女は座席の上で三角座りし、静かに泣いていた。

「ラジオさん……可哀想だよ、こんな夜中におっきな声を出して。誰も聞いてないのに歌って。私、昔ストリートミュージシャンしてたから、気持ち分かるよお」

「なんだこいつ……。ちょっと、飾森さん。なんか客に輸血までやってくれとか言われてるんですけど、どうしたら良いです?」

 僕は投げつけるように質問した。飾森さんは背中に赤い十字の刺繍された配送員ジャケットを萌え袖にして、パウダーファンデーションを叩くみたいに涙を拭った。

「くすん、くすん……私達、輸血はできないよお……ぐす」

 泣きながら飾森さんは、緩慢な動作で携帯電話を取り出した。それを僕に渡して、

「ぐす……社長に聞いてえ……」

 と最後の別れの言葉みたいに呟いた。僕は飾森さんのディスプレイが割れた携帯電話を受け取る。

「これ電源入らないっすよ。あー、分かりました。確か名刺に携帯番号書いてあったから……」

 僕は飾森さんに携帯電話を投げ返し、代わりに社長の名刺と、自分の電話を取り出した。車内灯を頼りに名刺の番号を打ち込んで、発信する。

 何度目かの呼び出し音が途中で切れて、社長が電話に出た。

「誰だい、こんな時間に」

 鴉みたいなハスキーボイスだけど、はきはきした声だった。

「あ、社長。ソーヤですけど。良かった、まだ起きてたんすね」

「おお、君か。いいや、思いっきり寝てたよ。私は声が低いから寝起きでもバレづらいんだ」

 僕は社長に事の次第を説明した。いま、とある金持ちの屋敷に来ている事。そこの旦那が妻とその浮気相手を半殺しにしてしまった事。輸血を求められている事。

「そんなわけで、困ってるんです」

「そうだったのか。男一人に女一人か。ちょうど良い、メリゴランドの部品が欲しかった所だ」

 社長が独り言のように言った。電話口の向こうで、ライターの蓋を弾く音が聞こえた。煙草に火をつけたらしい。

「めりごらん?」

 聞き慣れない言葉を、僕は問い質した。

「ああ、こっちの話だ。……よし、君に特別な仕事を与えよう。今からその主人に、私が言うように伝えてくれ」

 そこからしばらく、社長は「こう言え、こう言われたらこう言え、そしてこうしろ」と僕にあれこれ伝言を与えた。なぜそうしたいのかさっぱり分からないが、どうやら社長が「そのバカ女と浮気相手の男の体を欲しがっている」事は分かった。血液センターの仕事とは関係ない社長の個人的な用件らしかったが、うまく行ったら特別手当をくれると言われたので、僕はやる事にした。

「分かりました、やってみますよ。そんじゃ、また後で」

 僕は電話を終えて、また屋敷の中に戻っていった。高そうな家具をいちいち物珍しく眺めつつ、寝室に戻る。

「やあ、お待たせしました」

 血の匂いがうっすら漂う寝室。あれ、さっきの男がいない――と思ったら、闇の中から女の呻き声が聞こえる。目を凝らすと、脇腹をナイフで刺された奥さんの上に、血まみれのワイシャツ着た、片足にスラックスとボクサーブリーフをぶら下げた男が覆い被さっている。スカンジナビアンの家具に囲まれ、血の浸みた絨毯の上、痛みで肺病患者みたいに唸っている女とその夫がぐにょぐにょ乳繰り合っている。待ちくたびれて嫁を犯しているらしい。

「ちょっと、旦那さん。ちょいちょい」

「ん、ああ、君か。どうだった?」

 息を乱しながら男が問う。見た目は若々しく研ぎ澄ましても、性交のはふはふした息遣いはオッサンそのものだな、と僕はちょっと不愉快になった。

「ええ、上司と相談してきました。それでちょっとお話が。あの……早いとこ済ましてくださいよ」

「ごめんごめん。部屋が寒いからイキづらいんだ。悪いけど葉巻でもやって待っててくれ。そこのテーブルに置いてあるから」

 僕はちょっと面倒になり、頭をがりがり掻いた。安物のブリーチで脱色した金髪は嫌に滑らかな質感で僕の手の平を撫でた。とりあえず言われるがまま、部屋の片隅に置かれた円卓を探った。小さな陶器の箱に細巻きのシガリロが入っていた。

「お、ブランデーあるじゃん。旦那、このナポレオンも良いかい?」

「どうぞご自由に。逆さまのグラスが使ってないヤツだ。はふはふ」

 僕は円卓につき、葉巻とスウィンググラスに注いだブランデーで暇つぶしをした。葉巻の高い安いは分からないけど、お菓子みたいに甘くて吸いやすかった。ベッドのそばに世界の絶景をまとめた写真集が置いてあったので手に取った。ブランデーを一口。葉巻を一服。

「ああ、雨期のウユニ塩湖かあ。綺麗だなあ」

 葉巻を吸い終わる頃、血まみれ夫妻の情事が終わった。ズボンを履き直しながら、旦那さんが僕の方に寄って来る。ベルトをかちゃかちゃ鳴らす音。この音が嫌いだ。旦那さんはベッドの上に腰を下ろし、一仕事終えたように満足げな深呼吸をした。僕は世界の絶景についてまとめた写真集を閉じる。

「悪いね、お待たせして。で、どうだった?」

 旦那さんが汗を拭いながら尋ねて来る。闇の中に目をやると、こいつの妻が股間から米糊みたいにべっとりした精液を垂れ流しつつ痙攣していた。

「えーと、上司と話しました。で、やっぱり輸血は出来ないんですが、別の方法を提案されまして」

「ほう」

「あの男と奥様、僕たち血液センターの方で購入させていただくわけには行きませんかね。実はセンターの方で新しい治療方法の研究をしておりまして、傷を癒すついでにその被験者になってもらいたいという、まあこんな話でして」

「新しい治療法? なんだね、それは」

「はあ、えーと確か――」

 僕は社長が言っていたワケの分からない言葉を思い出す。

「そう、機械式回転木馬恢復法。まあ要するに、金を払うから入院してくれって事ですよ。そしたら結果的に輸血もすることになるし」

「回転木馬? よく分からないけど、あのバカ女と間男を持って帰ってくれるって事かい? 廃品回収みたいに」

「そう! そうゆう事です」

「なーんだ。そりゃ願ったり叶ったりじゃないか。いいよ、どんどん持ってってくれ。もう最後の一発ヤッたし、別に返してくれなくても結構だ。十代から続いた恋も今日でおしまい。僕ぁ独身で行くよ」

 思いのほかすっきりと話がまとまり、僕は嬉しくなった。頭の中に社長が言っていた特別手当の事が浮かび、思わずにやけた。

「未来の医学に貢献していただき、感謝します。じゃ、そうゆう事で。謝礼はまた後日……」

「謝礼ね。いくらなんだい?」

「えーと、五万円って聞いてますけど」

「そんなもんか。良いよ、それもいらない。輸血代が浮いただけで充分さ」

 男は気前良く笑った。僕もにやにやしていた。

 さて、使い物にならない飾森さんを何とか動かして、僕たちは一人の男と、一人の女を車に積んだ。玄関先まで見送りに出てくれた血みどろワイシャツのご主人に挨拶をして、夜の街に車を駆け出させた。

 

 

「初出動から大仕事になっちゃったねえ、ソーヤくん。で、なに? こいつら社長の家に届けるの?」

 一汗かいてやっと頭が冷えて来た飾森さんが言った。薬が抜けてゆく気怠い感覚をそのまま表して、猫目のカラコンを入れた瞳がゆっくりとまばたいている。ちょっとだけ可愛かった。

「なんかメリゴラン? に使うんですって」

 外灯ばかりが明るい深夜の街。車を郊外に走らせながら僕は答えた。

「めりご……なにそれ?」

「回転木馬が何だとか……俺も良く知らないっす」

「んー。まあ行ってみれば分かるかな」

 街の外に伸びる真っ直ぐな国道をひたすらなぞる。口の中に残っているブランデーと葉巻の味が妙に舌を渇かせて、僕は何だかお茶が飲みたくなった。ほうじ茶が良かった。

「えへ。スマホ直った」

 助手席の飾森さんがディスプレイの割れたスマホでYoutubeを見ている。舌を爬虫類みたいにぺろぺろ出し入れし、舌ピアスを前歯に当てて「かちゃかちゃ」音を立てている。癖らしいけど、僕はこの音が嫌いだ。

「うう……こ、ここはどこですか」

 後部座席から男の呻き声。長いこと気を失っていた間男が目を覚ましたらしい。

「スポーツカーのせまくて退屈な後部座席だよ、お兄さん。ケツ大丈夫か?」

 僕は運転を続けながら返事を投げた。

「僕は一体……ああ、雪江さん。可哀想に、こんな傷だらけにされて。どうかしっかりして下さい」

 男は浮気相手の女に言った。僕はルームミラーにちらりと目をやった。大人ひとりでも狭苦しい後部座席で、ゴミ袋みたいに詰め込まれた裸の男女がもぞもぞしている。何かに似ているな……そうだ、パスタだ。暗い台所でフェットチーネを茹でている景色にそっくりだ。

「あんまり動くなよ。二人とも精液と血で汚れてるんだ」

 僕は一応制したが、どうやらじたばたする元気は無さそうだったので、あまり心配はしていなかった。

「あなた達は何者ですか。僕と雪江さんはどうなるんですか」

「さあね。俺達の社長があんたらを買ったのさ。メリゴランだか回転なんちゃらの部品にするんだとさ」

「メリゴラン……メリーゴーラウンドの事ですか? 非合法の機械式回転木馬のことを言ってるのですか?」

 男がかすれた声で質問した。その言葉に、助手席で舌をぺろぺろしてご機嫌に動画鑑賞していた飾森さんが反応した。

「あれ、兄さん知ってるの? メリゴランってなに?」

 動画を眺める目はそのままに、飾森さんが尋ねる。助手席の男は細い呼吸の中、ドミノを並べるようにして答えを返した。

「メリーゴーラウンドは、一種の通信装置です。およそ円形をしていて、いくつもの柱がついており、蒸気機関や電気の力で回転します。柱にはそれぞれ異様な装飾が施されており、これを特別な形に並べて回転させると、神と交信できるのです。その装飾が宝石で飾られた馬である事が多かったので、昔の言葉で回転木馬と呼ぶのです。とても危険な装置なので、一般人が所有する事はどこの国でも禁じられています。あなたがたの社長さんは冗談を言ったのでしょう。メリゴランドの件は嘘で、本当はきっと私達を殺してしまう気なのです」

 男は騒ぎもせず、ただ残念そうに言った。最後にぽつりと「こうゆう結果になってしまい、悲しいです。僕たちは本当に愛し合っていたのに」と言った。

「あんたがどうなるか、私らの知ったこっちゃないよ。あたしは今まで彼氏のベッドで百回くらい浮気したけど、バレた事はないよ。わかる? 浮気がバレるヤツなんて最低さ」

 飾森さんは男の話に興味を失い、またスマホを眺め始めた。

 窓の向こうに映る夜の景色。背の高いビルが減り、窓枠の中で空の割合が増えてゆく。やがて闇だけがガラスにべったりとへばりついた頃、目的地に辿り着いた。今夜の出来事を過ごした街が夜景として遠くに見える。

 僕と飾森さんは車を降りて、社長の家を見上げた。およそ町外れの景観にぴったりの古びた白塗りの一軒家だった。もう少し大きければ「洋館」と呼んでも似合いそうな住宅で、縁取りのところで剥げた白い塗装が何故だか懐かしさを呼び起こした。ただ一点、どう考えても異様だったのは、屋根の上。天体観測所か軍事施設、あるいは地方のテレビ局ビルみたいな、大きなパラボラアンテナが屋根の上に乗っかっていた。空飛ぶ円盤が墜落してきて、屋根に突き刺さったみたいだ。

 車の音に呼応するみたく、玄関の灯りがついた。ホワイトチョコレートみたいな扉が開き、社長が姿を現した。真っ直ぐな黒髪を時代遅れの長髪にした、けれどその髪型がやけに似合う女型の美形。チェック柄で大きなボタンのついた、例えるならテディベアか気違いみたいな可愛いパジャマを着て、あたまに正式名称も知らぬあの「寝る時かぶる」尻尾とポンポンのついたニットキャップをかぶっている。

「ご苦労さん。待ちかねたよ」

 社長はとっても嬉しそうに笑っていた。「今日届くAmazonは誕生日プレゼントだよ」と教わっていたアホな子供みたいだ。

「社長、なんです、あのちんみょーキテレツな物体は」

 車の後部座席に積まれた男女を上機嫌に眺めていた社長に、僕は尋ねた。当然、機械仕掛けのクラゲが屋根の上で一休みしているみたいな、あの奇怪な物体について聞いている。

「ん? ああ、カルーセル昇華装置だよ。メリゴランドの生み出した呪詛を遠い場所まで届けるんだ。しっかりと聞こえるようにね。ほら、君も遠い場所の恋人に〝君が好きだ〟と言うときは電話を使うだろう?」

 社長は運転席のドアを開け、シートを倒し、後部座席に積み込まれた男を外に引っ張り出しながら答えた。僕には何を言っているのかさっぱり分からなかった。

「ねえ、社長ー、壁の塗装なんとかしたら? みすぼらしくて見てらんないよ」

 社長に手を貸しながら、飾森さんが言った。縁取りの剥げた白い塗装の事を言っているのだろう。

「ば、ばかたれ、お前は。あれは自分でああゆうふうに塗ってるんだぞ? シャビーシックと言ってな。真っ白に塗りつぶしてから、縁の部分を〝アンティークリキッド〟というものを使ってわざと汚しているんだ」

「ふーん、変なの」

 舌ピアスを前歯に当てながら言う飾森さん。何故だか僕の頭の中に、バカでビッチなハムスター、バカでビッチなハムスター、という言葉が繰り返された。

 僕たち三人は協力して、裸の男女を家の中に運び込んだ。失血ですっかりノビている女は、顔が死人みたいに蒼白くて、傾けると知恵も恥じらいもなく口の中に溜まっていたヨダレを零した。

「メリゴランドの系譜は、遥か昔。それこそ〝ぺるり〟の黒船来航があった時代にまで遡る。僕たちの先祖が腰に大小ぶらさげていた頃、遠いガリアの街で最初のひとつが〝回った〟。蒸気機関でね」

 社長のそんな話を聞きながら、僕たちは裸の男女を運ぶ。古いバラッドを胸に故郷を目指す、けなげな吟遊詩人のように。寝静まった夜の空気をそのままに、最小限の間接照明だけが灯った室内。僕たちは家の最奥、地下へ続く階段を下って行った。

「錬金術師が、占星術師が、それに気付いた。物理学者と天文学者が、それを暴いた。最後に馬を装飾して、芸術家達がそれを完成させた……。君のスマホはWi-Fiに繋がっているかい? あのマーク何かに似てないか? ウェブページの交信ボタンはなぜ〝回転〟を象っている? 時計はなぜ円形で、古い電話のダイヤルはなぜ回る? そう、全てはメリゴランドを象徴しているからだ。〝通じ合う事〟とは〝回転〟なのだよ。メリゴランドは神と対話する通信装置だ。あ、違法だよ」

 暗い地下室に辿り着いた。僕たちは背負っていた裸の男女を床に放り出した。社長が何かスイッチを押した。地下室の中がぱっと明るんだ。

 それはサーカスのテントに似た形をしていた。夜空に手を伸ばして星を掻き集め、カロリーなんて気にせずざらざらぶっかけたみたいな電飾の群れ。空白を恐怖していたかのように詰め込まれた装飾。好きな色を余す事無く使用した五歳児の塗り絵みたいな塗装。お菓子箱をひっくり返したような豪華絢爛たるキノコ傘が、中央に鎮座するお城のような支柱から広がっている。華美に飾られた宮殿を無理やり圧縮したような輝きの中、いくつもの鉄柱が屋根から床を貫き、そこに様々なものが串刺しにされている。馬、馬車の荷台、翼の生えた猫、月を中心に時計回りで追いかけっこしているイルカ、カメレオン、豚、日傘、天蓋付きのベッド。通電された豆電球達がノイズを立てている。じー……。

「う、う、うわああ!」

 床に倒れた裸の男が、急に大きな声を出した。驚いた僕と飾森さんは二人そろって肩をすくめた。男は飛び出さんばかりに目を見開いて、地下室の中央に建造された光の城壁に顔を向けている。

「ほ、本当にメリゴランが……ま、まさか、そんな事が! 君たちは自分が何をしているか――」

 引き攣った男の叫びは半ばで途切れた。男が叫んでいる間に黒いゴムのエプロンとビニール手袋を身につけていた社長が、男の顔を掴んだのだ。片手で無理やり瞼を開かせる。

「二人とも、彼をしっかり押さえて」

 命じられて、僕と飾森さんは男の上に覆い被さった。一人一本ずつ腕をもぐようにして、男の動作を封じる。社長のもう一方の手には注射器がある。男が必死で暴れようとしているのが分かった。

「あ、こら、おっぱい触るなスケベ」

 飾森さんが言った。社長は針の先から数滴こぼれる液体を確認してから、注射針を男の下瞼の裏側にぴたりと当てた。ぷつ、と音がして眼球と瞼の間に注射針が沈んだ。一筋、血の混じった涙が男の目から垂れた。

「よーほー、れりおるりー、よーれりー、よっほー、れりおるりー、よーれりー……」

 社長はヨーデルを思わせる変な歌を口ずさみながら、ゆっくりと注射器のポンプを押した。握力によって少し揺らいだ注射針が、下瞼を内側から持ち上げている。シリンジの中を満たした透明な液体が、ゆっくりと男の中に注がれていく。社長の口ずさんでいる歌、どこかで聞いた事がある。それはきっと僕だけじゃない、飾森さんもそうだし、この眼球に注射器をぶち込まれている男もそうだろう。勇ましくて、底抜けに明るくて、華やかなマーチ……。

 僕と飾森さんの下で、風船が音を立てずに潰れるみたいに男の力が消失した。僕たちは何を言われたわけでも無く、男の拘束を解いた。

「……気絶したの?」

 飾森さんがぽつりと尋ねた。

「いいや、麻痺しただけだよ。ほら、顔を見てごらん。しっかり目が覚めている」

 社長に言われて、僕たちは男の顔を覗き込んだ。男は両目をしっかりと開け、無傷な片目から涙を、注射を受けて真っ赤に血を湛えた片目から赤い涙を、それぞれ垂れ流していた。ぽかんと開いて弛緩している口といい、なんだか「まばたき我慢ゲーム」をひとりで二十時間くらいやってしまった狂人のようだ。

「これ、見えてるの? すごーい」

 飾森さんは男の目に向かって手を振った。監視カメラではしゃぐ暇人みたいに。僕たちがそんな事をしている間、社長は魚を絞めるみたいな手早さで、もうひとりの女にも注射を施した。

「ありがとう、二人とも。あとは私一人でやれるから、君たちは戻って良いよ」

 社長はビニール手袋を外しながら微笑んだ。

「あ、そうだ。社長、こいつら売ってくれたお客なんですけど、謝礼はいらないってさ」

 僕は思い出したように報告した。

「え、本当かい? そりゃ気前の良いお客さんだな。まあでも、そう言われたらなお払わずにいられないね。ほら、これが金一封だ。帰りにポストか何かに放り込んでおきなさい」

 社長はポケットから白い封筒を取り出して、僕に渡した。

「それでむしろ気分を損ねちゃうようなら、後で突っ返しに来るだろ。君たちの分は別でやるから、くすねるんじゃないぞ」

 社長は僕たちに背を向け、何か機械の準備をしながら言った。僕は制服の胸ポケットに金の入った封筒をしまい込んだ。

「ねえ、社長。これがメリゴランってものなの? とっても綺麗だね」

 物珍しそうに地下室をうろついていた飾森さんが言った。確かに葉っぱが脳に残ってる状態でこれを見たら、妖精がダンスしているみたいでさぞ綺麗だったろう。

「うん、そうだよ。ほら、よく見てごらん。所々に本物の人間がいるだろう? あの中央の厨子に飾られたピエロや、そこのカメレオンの上に乗っているトランプの重騎兵。この二人もあんなふうにおめかしして、メリゴランドの部品になるんだよ」

 楽しそうに語りながら社長が用意しているのは、どうやらこの二人に着せる衣装らしかった。飾森さんが喰いついてくれて嬉しかったのか、社長はそれについて語り始めた。

「ほら、この侏儒の衣装が男用だ。手足の生えたニンジンみたいでいかにもトボケてるだろう? こっちの女には豚のお面と豚耳をつけて、豚バニーガールにするつもりだ。それからこれ。これが重要なんだ」

 初めて赤子を持った父親がするみたいに、社長は華やかな衣装でモデルのいない机上のファッションショーをした。それから不思議な機械を取り出した。通信機に似ていて、イヤホンがついてる。でもそのイヤホンがちょっと変な形だ。耳に入れる部分から綿棒くらいの長さの針金が生えている。

「これがユリウスフチーク装置。この長い端子がついたイヤホンを耳に入れて、脳を中から直接いじくるんだ。麻酔無しでこれをやると暴れてしょうがない。針金が内耳を貫いたら耳が聞こえなくなるから叫び声もすごいんだ。ああ、そうだ。せっかくだから動かすところを見てくれ」

 社長は興奮気味に、部屋の一隅を埋める配電装置に駆け寄った。メリゴランに通じているらしい大きなレバーを下げる。がしゃん! するとクジラが息を吸うような音がして、ゆっくりと、ゆっくりと、メリゴランが「回転」を始めた。宇宙船が飛び立つような景色だった。そんなものは見た事がないけど、まあこんな感じだろう絶対。

 メリゴラン中央の支柱に埋め込まれた、機械仕掛けのピアノが鳴り始めた。白と黒の鍵盤がひとりでに動いて、先ほど社長が口ずさんでいた曲を演奏し始める。

 ああ、思い出した。この曲の名前は「剣闘士の入場」。作者はユリウス・フチーク。曲名と作者名を知る者はほとんどいないけど、何故だか誰しも聞いた事のある曲。

 よーほ、れりおるりー、よーれりー……。

 加速してゆくメリゴラン。放埒なまでに戯れる電飾の光。狂気を帯びるまでに絢爛な装飾と、虹色に塗装された木馬達。その中に幽閉され、部品と化した人間達。メリゴランの通電に合わせて耳に突っ込まれた針金から電気でも流れたのか、今まで死体みたいにじっとしていた彼らが急に暴れ始めた。全身を痙攣させつつ、絶叫している。ものすごい暴れようだけど愉快な仮装のせいではしゃいでいるみたいに見えた。

「綺麗なもんだろう。これを使って神様とお話が出来るんだ。幸せも不幸も、想いのままさ……」

 社長が恍惚と微笑み、言った。鴉みたいなハスキーボイスがやけに甘かった。

 しばらくメリゴランを眺めたあと、僕と飾森さんは引き上げた。表に出てふと空を見上げる。血液センターを出た時からすっかり位置が変わってしまった月の下、社長の家の屋根に乗った巨大なパラボラが真っ赤に光っていた。

 車に乗り込んで、僕と飾森さんは血液センターを目指した。

「あー、やっぱ後部座席よごれちゃってるよ。事務所戻ったらまず掃除だねえ。カップヌードルの続き食べながらのんびりやろうか」

 飾森さんが言った。僕は「そうっすね」と答えた。夜勤はもう少し続く。

 

 

 あれやこれやと用件をこなしつつ、僕は血液センター配送員の仕事を続けた。生活は完全に夜型になってしまったが、そのかわり夜勤なので美容室も病院も退勤後の帰り道に寄れた。街が混む時間帯は寝てたし、そんなに悪くない生活だった。社長は何かと個人的な用件で社員を使う人だったけど、そのかわりに度々手間賃をくれたので、給料は明細にあるより少し良かった。飾森さんとも気が合ったし、まあ何せ、悪くなかった。

 そしてひと月経ち、ふた月経った。そんなある日の事だった。

 ぺけぺけした木琴の音で叩き起こされたのは、仕事を終え、夕食も済ませ、やっと眠りに落ちた頃だった。僕は眠たい目を擦りながら、枕元でわめいている携帯電話を手に取った。時刻はお昼過ぎ。世間ときっかり十二時間ズレている僕の生活においては、まさしく真夜中だ。

「……はいはい」

 午後の陽射しに目を細めつつ、僕は電話を受けた。相手は、前に勤めていた工場の上司だった。

「おお、ソーヤくん! 番号が変わってなくて助かったよ、元気かね!」

 工場主任のおっさんは妙にご機嫌な声で言った。寝起きの耳にそれがうざったくて、僕は、

「あ、はあ。まあ」

 と全ての文字がAの母音で統一された返事をした。ベッドの上で身を起こし、枕元に置いてあった缶コーヒーを開ける。ぬるいブラックで唇を潤してから、放り投げてあった煙草の箱を手に取って、一本を口に咥える。

 主任が上機嫌にあれこれ話すのを、僕は必要な時にいつもそばにいてくれないライターを探しながら聞いていた。

「きみ、まだうちの工場に在籍してるよね? じつは人手が足りなくて困ってるんだ」

「何言ってんですか? 工場は営業停止でしょ。穴開きコンドームの事件で」

「それがそれが! 世の中捨てたもんじゃないね。新発売の〝焦恋0.01〟がものすごい売れ行きで、先月から工場フル稼働なんだよ! それでついに一番底辺の職工たちにも声をかけ始めているのさ。明日からでも工場に復帰してくれないか?」

「オレ、もう別の仕事してるんすよねえ」

「そう言わずに、頼むよ! 今なら給料は前の倍だよ!」

「倍って言うと……三十万くらいですか」

「え、君たち十五万しかもらってなかったの? ああ、ごめんごめん。じゃあ三倍だ」

「四十五万か……」

「いい条件だろ? 金を叩けば放ったらかしてた君たち底辺職工もほいほい戻って来ると思ったら、この数ヶ月で半数以上が野たれ死んじゃっててね、以外と集まりが悪いんだ」

「ふーん」

 僕はやっと見つけたライターで煙草に火を移した。ハッカの冷たさを含んだ煙を一息吸い込み、細く吐き出す。カーテンの隙間から差し込む昼過ぎの太陽光に、煙が板状に照らし出されている。

 ちょっと考えさせてくれ、と言って僕は電話を切った。そして煙草を揉み消して、また眠りに落ちた。

 奇妙な夢を見た。僕は大型のスーパーマーケットにいる。場所は飲料コーナーだ。冷蔵棚のところじゃなくて、ボトルがぎっしりと棚に陳列されているところだ。店内は真っ白な照明で明るみ、量販店特有の薄っぺらいBGMも流れている。でも誰もいない。広大な店内には僕しかいないのだと知っている。

 色とりどりのペットボトルで埋め尽くされた商品棚が、果てしなく伸びている。そして「やつ」がやってくる。

 天井に頭がつきそうなほど長細い体を持った女だ。そいつは僕の視力の限界点あたりにふらっと姿を現し、そしてゆっくりと確実に歩み寄って来る。ちょうど信号機の高さくらいの身長という、ひどくリアリティのある巨体の女だ。ぼろぼろのワンピースを着て、膝より下まで伸びた長い手を振りながら、ゆっくりと歩み寄って来る。

 僕は夢の中、なぜだか英語を喋っている。そして「お母さん、きみは僕のお母さんなのか」と化け物に尋ねる。斬首を遂げる審判の刃が振り下ろされるみたく、そいつの手が僕に迫って来る。その時、どこからともなく華やかな行進曲が聞こえて来る。この曲は「剣闘士の入場」。スーパーマーケットの商品棚をなぎ倒しながら、メリゴランがこちらに進軍してくる。回転する木馬が野菜を、果物を、調味料のビンを巻き込み、粉々に砕く。暴食の王みたくして量販店の中を蹂躙するメリゴラン。勇ましいマーチを伴いながら、メリゴランと巨人が衝突する。シュレッダーに突っ込まれたみたいに、ぐしゃぐしゃと音を立てながら巨人がメリゴランに飲み込まれてゆく。メリゴランは輝いていて、とても綺麗だ。

 とても綺麗だから、僕は泣いた。生まれて初めて、泣きながら目を覚ました。おかしな夢だった。

 ——それからしばらく経ったある日。

「どうしたの、ソーヤちゃん。元気ないじゃん」

 宿直室で待機中、ふと飾森さんが言った。ファッション雑誌を眺めながら、気の無い気遣い。

「今日、駅前で変なジジイに捕まっちゃって。人生がどうしたとか、社会がどうしたとか、おかしなことたっぷり聞かされたんですよ。けっきょく何かの勧誘だったんですけどね」

「へえー。大変だったねえ」

「そのせいで、なんか落ち込んじゃって。人生とかそうゆうの考えると大体落ち込むんですよオレ」

「ふーん」

 飾森さんは読んでいた雑誌を放り出して、僕に向き直った。妙に真剣なまなざしだったので、僕は少したじろく。

「あのね、ソーヤちゃん。〝基本範囲〟の話を知ってる?」

「なんすか、それ」

「一日二十四時間、一年三百六十五日。時間の条件はみーんな一緒。でも、その時間をどんなふうに頭の中で〝区切る〟か、その基本範囲はそれぞれ違う。ある人は二十四時間。朝起きて、仕事に行って、家に帰って酒飲んで寝る。ここまでを基本範囲として、ぐるぐる回る。ある人は一週間。週末をじっと見つめて円を描く」

 指折り数えながら、飾森さんはいくつかの例を出した。僕はなぜだか回るメリゴランの事を思い出した。

「二十四時間の人はどんなに一日が退屈でも、家に帰って寝る事をゴールに出来る。でも一週間の人は疲れて眠る前に、週末までの距離を思って憂鬱になる。わかる? この基本範囲がせまい人ほど幸せなんだよ」

「……それって、いわゆる〝今を生きてる〟って言っちゃうバカの事じゃないですか?」

「うん、そゆこと!」

 そんな事を話していると、机の上のブザーが鳴った。誰かが正面玄関のインターホンを押したらしい。

「ちっ……良い話してんのに、誰だよ」

 飾森さんが癇癪持ちの子供みたいに、歯を食いしばったまま吐き捨てた。切り替えの早さが精神病を感じさせる。この人が機嫌に合わせて発光する生物だったら、僕は目がちかちかして大変だろうなと思った。

 とにかく正面玄関に誰かいるらしいので、僕たちは懐中電灯を持って宿直室を出た。

 ――僕はコンドーム工場に戻らず、この血液センターに残ることを選んだ。べつに深い理由があったわけじゃない。大ヒットを飛ばした新商品〝焦恋0.01〟が販売中止になって、工場が取り潰しを受けたのだ。これを使えばレイプだろうが九十歳のカップルだろうがパスタみたいに熱く絡み合うと評判だった焦恋0.01だが、アッパー系の麻薬MDMAを大量に塗り込んである事が発覚し、問題になったのだ。おまけに麻薬の成分が原因で使ってる途中に、ガムとチョコ一緒に食べたみたいにコンドームがずたぼろに溶けてしまうのだ。「生と同じ感触!」ってそりゃそうだ。そんなわけで僕はまだしばらく、この血液センターで勤める事になりそうだ。

 僕と飾森さんは、初めての日一緒にハーブを吸った喫煙所の横を通り抜ける。何者かが閉鎖された入り口の回転扉を叩いているのが見えた。懐中電灯をそちらに向けると、よれた背広姿の男が扉に凭れ掛かるみたくして立っている。気が触れた猿みたいにガラスをばんばん叩いている。

「はいはい、どなた!」

 飾森さんが苛々と怒鳴りながら、回転扉を解錠した。鍵が解かれた事で回転扉が回り、扉の羽に体重を預けていた男がエントランスの中に運び込まれて来た。重力任せで床に倒れ込んだ背広姿の男。

「あー痛いよお。頭割れたああ」

 男は汚い声で喚いた。飾森さんが懐中電灯を男に向ける。薄目で見たら寝癖頭みたいだけど、跳ねた髪の毛の根元に気取ったフィレステーキみたいな頭皮と肉がくっついている。後頭部の辺りで男の頭がめくれ、そこから血が溢れていた。転んだのか、何かで切ったのか。

「うー、酒くっさいなあ、おじさん」

 飾森さんが制服の袖で口元を覆って言った。変に女の子っぽい動作だった。

「お門違いだよ、おっさん。じゃ、気をつけて帰りな」

 僕と飾森さんは手に触れたくないものをどかすように、足で男の体をこづいて回転扉の中に押し込んだ。二人で力を合わせ「せーの」で扉を回す。男はコンベアで搬出される泥のように屋外に放り出された。

「なんだよお、治療してくれよー、ここは病院だろー?」

 だだっ子みたいにじたばた体を揺すりながら、男が外で喚いている。飾森さんは舌打ちをした。

「黙れ、酔っぱらい! あーあ、こんなに床を汚しちゃって。てめえ、シラフになったらモップ掛けに来てくれるんだろうなあ!」

 ヒステリックに怒鳴っている飾森さん。僕は回転扉の施錠をしつつ、

「ここは病院じゃないよ」

 と付けたした。仰向けに倒れた男は「なんでだよお、人でなし。ほら見ろって」と言いながら空を指差した。

「ほらほら、真っ赤な十字が光ってるじゃねえか。腐れ目が見る夏の太陽みたいにさあ。たすけてよ、死んじゃうよ」

 こいつのだみ声がよっぽど気に入らなかったのか、飾森さんは苛々と自分の頭を搔き毟り、回転扉を蹴飛ばした。

「うちは血液センターだよ、ゴミ野郎!」

 

 

 

おしまい

2019年3月6日公開

© 2019 オリエ堂の倉椅

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