町外れの古い洋館。尖塔が異国の森みたく並び、ガーゴイルはおろか飛び梁までついている、凝縮されたゴシック様式の教会みたいな建物。その刺々しい輪郭は闇よりなお黒い。降りしきる今夜の雨に濡れ、それはあたかも巨大な生物のようであった。
その男は雨に打たれながら洋館を睨んでいた。疲労と、じりじり焼ける怒りが宿る瞳は、二階辺り、ぽつんと緋色の灯りが漏れる窓辺を見つけた。男は憎しみに眼を細め、それからふと来た道を振り返った。はるか遠くに夜景として街が見える。今頃あの無数の光の中を警察が駆け回って、男を捜している事だろう。妻と息子を惨殺した殺人犯として。
男は一度うつむき、固く眼を閉じた。亡き妻と息子に捧げる黙祷か、あるいは涙をこらえたか? 病んだ憎悪に染まる顔はひと時、悲しみに染まった。しかし彼が来ている血みどろの背広とワイシャツにはやはり怒りの表情が似合った。男は顔を上げ、弾かれるように洋館の門扉を蹴り破った。広いエントランスを時代遅れのガス灯が仄かに明るめている。調律のずれたピアノがヘンデルの「サラバンド」を演奏している。音の来る方を見やると、暗がりの中でアップライトピアノを弾いている人影があった。男はその人影に歩み寄り、ほとんどピアノから引き剥がす勢いで肩をつかんだ。
サラバンドの旋律が半ばから千切れる。
「おい。あいつはどこにいる。あの女は!」
男はピアノを弾いている人物に怒鳴った。が、すぐに手を離し、その人物から離れるように数歩あとずさった。
「……だーだん。だ、だーだん……」
ピアノを弾いていた女は茫然自失の表情に涙を貯めて、中断されたサラバンドの旋律を口ずさみ始めた。感情ひとつ無いゼロの顔が宙を見上げ、白痴の者が自分だけの世界で戯れるがごとく、泣きながら歌っていた。その女は学生時代付き合っていた恋人だった。
男はしばし呆然とした。しかし間もなく恐怖と、そして先ほどにも増した怒りに震えた。もう〝あの子じゃない〟昔の恋人から顔を背け、先ほど見えた二階の灯りを目指した。
古びた市松模様の廊下を駆け抜け、やがてただ一つうっすらと光の漏れる扉を見つけた。男は前に進む事でしか呼吸の出来ぬ捕食者みたく扉を目指し、最後の門番を殺害せしめるが如く扉を叩き開けた。
扉の向こうは寝室だった。窓辺に漏れていたのに同じく緋色の灯りで満たされ、ペルシア張りの絨毯の上、天蓋の付いた大きなベッド、猫足の古い家具が並んでいる。窓辺に置かれたアールヌーボ調の書き物机に、一人の少女が座っていた。胸元に大きなリボンが付いたクラシカルロリータ風のドレスも、年寄りくさく肩にかけたチェックのブランケットも、この部屋にあってはファッションで無く「ただの必然」になってしまう。紅茶のカップを手にした少女は、大きいくせに眠たそうに細めた瞳を男に向けた。
「あら、とってもお早いご到着ですね。でも待っていました」
薄いけれどはっきりとした朱を湛えた唇で無邪気に笑みの形をつくり、少女は紅茶のカップを置いた。そして部屋の隅、扉ほどもあるドレッサーの前に置かれた椅子を、男に恭しく示した。
「さ、どうぞ。こちらにお掛けになって」
纏うドレスのフリルよろしく、ふわりと微笑んだ少女。ほとんど完全に近い美貌をまるで出し惜しむ事ない親身な笑顔。男は苛立ちに牙を軋ませ、今開いた扉を乱暴に閉じると、すかさず腰元から拳銃を抜いた。ぴたりと少女に照準を合わせる。
「君は一体なんなんだ……。俺の妻をどうした! 息子は!」
およそ少女に向けるべきではない成人男性の怒号に、優雅だが古めかしい幾何学模様の壁紙が震撼する。少女は小銭でも落としたみたいに小さく可憐な「きゃー」という悲鳴を上げつつ、苦笑気味に耳を指で押さえた。クラッカーを鳴らされたようなおどけた反応に、拳銃を握る男の手が怒りで震えた。
「魔女め……ずっと俺に付きまとって、俺の生活をめちゃくちゃにした……」
男は憎悪のあまり、情けなくも涙が込み上げるのを感じた。
ここで少女はふと表情に不愉快そうな色を差した。
「嫌です、そんな事ばっかり言って。私の生活だの、妻だの……。あの女こそ、私からあなたを奪ったんです。横取りするなんて浅ましいわ」
「な、何を……」
「あの女と何回寝たんです? ちゃんと数えて謝ったら、許してさし上げます。それにあの醜い子供……うー、いやだ。一途だったあなたはどこに行ったの? たった千年で約束を忘れちゃうなんて、あんまりですわ」
少女がため息まじりに言う。悪戯した犬を叱るような口調だ。男は顔を手で覆い、俯いて、二三度首を否定の方向に振った。もういい、もうたくさんだ。
「……君は狂ってるよ。良く分かった。もう何もかも元には戻らない。おしまいだ」
男はゆっくりと少女に詰め寄った。もう表情に怒りは無かった。ただ〝残念だ〟という気持ちだけが虚ろな眼の奥に揺れていた。
手を後ろに組み、撫でてもらうのを待っているみたいな笑顔の少女。男はその目前にまで歩み寄ると、夕暮れを紡いだような少女の美しい髪に、銃口を押し当てた。
「元に戻らない? 何を言ってるんですか。これから全て元通りになるんです」
少女は天使のような微笑みで言った。男の耳には入らない。男は神に祈っていた。
――天にまします我らが父よ。御心の天なるごとく……私がこの銃弾を以てかの者を許すように。どうか私の罪をお許し下さい。アーメン。――
引き金にかけた指に力を込めた時、男の視界がぐにゃりと歪んだ。首筋に痺れるような痛み。突き付けていた銃口が少女の髪をさらりと梳き、天井に向く。
――あれ、あれ?
空気が抜けるみたいに足の感覚が無くなり、糸を切られた操り人形のように倒れる。それが妙にゆっくりと感じられた。やがて膝を折って床に倒れ込む時、いつの間にか自分の後ろに立っていた元恋人の姿が見えた。手に持っているのは注射器か?
「だら、だら、らーん、ら、ららーん。だーん」
元恋人は子供みたいに笑いながら、口ずさむサラバンドを終わらせた。
視界の色がにじんでいる。それなのに妙に光がクリアだ。男は自分が泣いているのだと気付いた。少女が男を見下ろして笑っている。そして元恋人をロバのように使役して、男を椅子に座らせた。部屋に入った時、恭しく勧めた通りの場所。ドレッサーの前にある椅子に。
「さ、元通りにしましょう。私の旦那様」
椅子に座り――否、椅子に置かれ、ぬいぐるみのようにうなだれた男。その耳元に少女が囁いた。椅子に革のベルトで縛り付けられ、男はワイシャツを剥がれた。雨と血に濡れた胸板に、少女は鼻歌混じりに口紅で何か描き始めた。ぐらぐらする視界が目の前のドレッサーを捉える。胸に描かれたのは魔法円だった。誰でも一度は見た事があろう、異形の文字と禍々しい象徴が造形する、あの不気味な円形だ。とても長い時間をかけて魔法円を仕上げると、少女は「よし」と言って立ち上がる。男は魔法円が奇妙な熱を放っているのに気付いた。骨肉を掻き分けながら、体にその円形が埋没してゆくような感触を確かに覚えた。肉体に異物が侵入してくる強烈な違和感に、「うーうー」と唸りながら必死で麻痺した体を暴れさせた。少女は椅子に座る男の後ろに立って、毛布をかけるみたいに優しく男を抱きしめた。
「はい、怖くない。怖くない」
聖女のような囁き。遠くでまたヘンデルのサラバンドが聞こえる。元恋人がエントランスに降りて、またピアノを弾き始めたのだろう。
だー、だん。だ、だー、だん。……
男は眠たくなって、眼を閉じる。しばらくして眼を開ける。まだ少女は男を抱いている。
また眼を閉じる。開ける。少女は机について紅茶を飲んでいる。
サラバンドが聞こえる。窓の向こうで夜が明け、また夜になり、また夜が明ける。
ドレッサーの扉みたいに大きな鏡の中で、男の体が少しずつ形を変えていった。体中に蒼みがかった暗い銀色の毛が生える。瞳がエメラルドのような緑色になる。口の中に大きな牙があって、氷砂糖を舐めているような違和感だ。元の何倍にも太くなった腕が椅子の革ベルトを千切った。しかし男にもう暴れる気力は残ってなかった。
ある夜、少女は男の胸に飛び込んで来た。ばふ、とベッドに飛び込むような音がした。
「ああ、旦那様……」
男は、頭の中で薄れてゆく人間だった頃の記憶を一生懸命追いかけていた。でも目の前のドレッサーをエメラルド色の瞳が捉えた時、そこに銀色の獣が写っているのを見て、もう考えるのを辞めた。なんだっけ、この生き物。そうだ、狼男だ。
少女は狼男の胸にすがり付き、外見そのままの少女然とした様子で泣きじゃくった。
「旦那様、旦那様。ずっと待っておりました。ずっとずっと……」
少女は千年分の寂しさを込めて泣いた。家に帰れたグレーテルみたいに泣いて、千年分の温もりを取り返すみたいに強く狼男を抱きしめた。彼女の細い両手なんか絶対に回らない、鋼を束ねたような狼男の胴体にすがって。月夜の草原みたいな狼男の毛並みに顔をうずめ、泣き続けた。
――ああ、そうか。僕はずっと昔、こんな顔をしていた。滅んだ大地で、神に忌まれ、人に嫌われ、ひとりぼっちだった僕を、唯一愛してくれたお姫様がいたっけ。僕たちは世界を敵にして、二人きりの静寂を求めて……。悪意の炎に焼け落ちる教会で誓ったんだ。いつの日かきっと、いつの日かきっと……。
「旦那様、私です。私を覚えておいでですか? どうかお答え下さい、旦那様……」
「わう」
僕は答えた。少女は曇天が晴れるみたいに、涙を残した顔いっぱいの笑顔を浮かべた。
【サラバンド:おしまい】
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