嫌な予感

応募作品

長崎 朝

小説

4,952文字

2019年1月合評会「犬小屋のような部屋に本がたくさんある」応募作。

サービスエリアで用を足し、トラックへ戻った途端に嫌な予感がした。見知らぬ二人組の男が暗がりから姿を現して、ドアを開けようとする僕を両側から挟み込んだ。

「恐れ入りますが、鍵を貸していただけませんか」

低く、丁寧な口調だが、有無を言わさぬという威圧感に満ちていた。

「我々の顔を見る必要はありません」

「鍵を渡したら?」

「荷台にお乗りください」

考えている余裕はなかった。もしかしたら抵抗することもできたのかもしれないが、たとえそうしたところで結果は変わらないのだ、だから抵抗するだけ無駄なのだと言われているような気がした。男たちがエンジンをかけ、車が動き出してから、僕はどうせならコーヒーを買ってくれば良かったと思った。しかし考えてみると、自分はもう運転しないのだから、眠気覚ましのコーヒーも当面必要ないのだろう。用を足しておくことができただけ、ありがたく思わなくちゃいけない。

荷台にはぎっしりと新刊書が積まれていた。僕は今夜桶川の流通センターを出発したばかりで、一晩かけて仙台まで行かなければならない途中だった。何度もこなしたことのある仕事で、道のりも時間帯も慣れたものだった。

それにしても、いったいどうして僕が自分のトラックの荷台に積み込まれるような羽目にならなくちゃいけないんだろう。銀色のリアドアとサイドパネルには、そこそこ名の知れた出版取次業者の企業マークが印刷されているし、どんな人間が見たって現金を輸送しているなんて思うはずはなかった。男たちが必要としているのは中身の書籍なのか、あるいはただたんに移動手段としての車そのものということだってありえる。本だって金にならないわけではないが、これだけの荷物を扱ったり隠したりする苦労を思えば、本のためだなんて考えられない。人質にさえその目的を分からせずに事を遂行してしまう手口からすれば、間違いなく彼らは犯行のプロだろう。

犯行? そもそも現在起こりつつある出来事は、犯罪なのだろうか? 僕は脅迫され、彼らの人質として捕らえられたと断言できるだろうか? 僕は被害者としての自信を失いつつあった。

あわててジャンパーの胸ポケットに手をやってみる。……あった。男たちに何も取られないままここに格納されたのだからあって当たり前なのだけれど、こうしてあるべき場所に存在するものにあらためて手を触れられることの喜びに、小躍りしたくすらなる。思わず顔をほころばせながら、携帯電話を取り出して、その無機質な冷たさと硬さを両手で味わった。

特に新しいメッセージもなさそうだ。親指で連絡帳フォルダをひっぱり出し、流通センターの電話番号の見覚えのある数列を目にした瞬間、胸の裏側に、濡れた埃を素手で拭うようなためらいがこびりついた。くだらない連中だ。今しようとしている連絡がただの業務上の報告だとしても、理不尽で下衆くてたむし﹅﹅﹅みたいにしつこい上司に、律儀にご報告なんて、考えただけで馬鹿らしくなった。会社にいると生きた心地がしない。人質のほうがまだましだ。どこに誘拐されようとこっちの勝手だろう。しかし本当は、職場の番号の次にチラッと目に飛び込んだ、新井香奈という名前のせいかもしれない。急な減速で体が進行方向にひっぱられる。扉のほうを向き、本の壁を背にしていたから、後頭部を軽く打ってしまった。その拍子に発信ボタンを押していた。

体勢を立て直し、急いで電話を耳にあてる。

「あなたから電話なんてめずらしいわね」

「もう会えなくなるかもしれない」

「奥さんにバレたとか?」

会社に電話したほうが良かったような気がしてくる。でも、今さら切るわけにいかない。

「いや、そうじゃない。実は今、誘拐されてるんだ」

「殺されるの?」

「そこまで剣呑そうな奴らじゃなかった」

「ふーん。ならどうして?」

確かに。殺される心配がないなら、もう会えなくなるリスクもそれほど大きいわけじゃない。僕はあわてて自分のほうから別れ話を切り出してしまったみたいだ。大げさなことを言ったものだ。まだ「犯行」だって決まったわけでもないのに。

「そんな気がしただけだよ。声が聞きたくなった」

「ねえ、めずらしく電話なんかしてくるから何かと思ったけど、あなた少し変よ。今どこにいるの?」

「さあ。移動し続けているんだ。トラックの荷台に、大量の書物と一緒に閉じ込められて。サービスエリアで乗っ取られたんだよ。今がどこだか、地図上ではなんとも言えない。おそらく那須塩原を過ぎたあたりじゃないかな。はっきり分かるのは、僕がこの犬小屋みたいなひんやりした暗い場所に閉じ込められてるってことだけだ」

彼女は少し考えているようだった。僕だって、こんな電話が夜中にかかってきたら、きっといたずらに違いないと思うだろう。でも、世の中には百のいたずら電話のうちひとつくらいの割合で、本当の告白や、本当のSOSや、本当の感謝が含まれているものなのだ。僕の場合はその三つをいっぺんに彼女の耳に届けようとしている。彼女が少し考え込むのもわけはない。

「どんな本?」

「え?」

「どんな本が積まれてるのよ」

「どんなって、ほとんど全部、村上春樹の新刊だよ。ほら、週明けに一斉販売だろ。全国の書店で午前〇時から」

「間に合わなかったら大変ね」

「まだ日にちはあるさ」

「きっと、それが犯人たちの目的なのかも」

「どういうこと?」

「ここからの景色覚えてる?」こちらの質問には答えずに、彼女は話を変えた。「私、最近も眠れなくて、たまにこうしてベランダに出るの。右のほうには暗い透明の空間が遠くまで広がっていて、下半分は地球の備品たち。左目を左に動かすと右目も一緒についてくる。金色のウエハースみたいなビルがたくさん視界を遮っている。手摺りに寄りかかって下を覗き込むと、黒い空中道路がカーブを描いて延びていて、その上を自動車が連なって移動していく。もうずいぶん一睡もしていないような気がするわ。眼球の裏側にピストルを突きつけられて、『眠り』の居場所を打ち明けるように脅迫されているみたい。居場所なんか知らない。ほんとに、知らないの」

何て言葉をかけたらいいか分からなかった。彼女には彼女の個人的な問題があるのだ。そして僕は確実に彼女から今遠ざかりつつある。まるで愛の不可能性の証明のために連れ去られているようなものだ。今みたいにたとえ言葉が浮かんでこなくとも、それでも何かを言わなければならない瞬間が必ずあって、半ばヤケを起こして無理に口を開いたところで、大抵の場合その台詞はその場にふさわしくないものだということを知っているだけに、暗い気持ちにならざるを得なかった。

「君にこんなことを言うのは間違っているという気がするんだが、もし僕が生きて帰れたら……」

「ねえあなたって、なんだかさっきトイレに行ったばかりなのにもう尿意を催してるっていうような声してるわよ」

「なんでわかったんだ?」

「声に書いてあるわ。これからどうするつもり?」

「しばらく人質を続けようと思っている」

「そう。ねえ、おやすみって言ってくれない?」

耳の奥が突然真っ暗闇になる。携帯電話をあてていた耳がある側の世界が認識できない。逆側の耳元から、今までとは明らかに違う密度の空気が体を浸していく。トンネルだ。

彼女に指摘されたせいか、それとも通話が途切れたことで緊張が緩んだのだろうか、下腹部が重たく膨張して熱を帯びてきたのが、もう誤魔化しようもなくなっていた。異常事態に見舞われているとはいえ、この場で用を足してしまうことには抵抗がある。

急激な加速で体が投げ出され、扉に思いきり肘をぶつけた。同時に本の壁が一部崩れて、上に積んであった束がばらけ落ちた。高速道路でこんな運転をするなんて、やはりろくな連中ではなさそうだ。その代わり、我ながら名案を思いついたことにも感謝しなければならない。さすがに村上春樹の本にする﹅﹅気にはなれない。何か、手頃な、たいした価値のなさそうな本……。できれば粗い製本の、紙質もざらざらとした吸収の良さそうな……。なにげなく手に取った一冊。薄目で見ると、著者名は長崎朝と書いてある。ヒモになった超ひも理論学者の話みたいなものばかり書いている退屈極まりない小説家だ。僕はためらいなくファスナーをおろし、ページを開くと、はじめのほうにある「もくじ」のところにまず二秒間くらい放尿した。そこで陰嚢の付け根のあたりに力を集中し、一度尿を止める。左手でページを繰り、再び股間の筋肉を弛緩させる。続きの尿が次のページに降り注ぎ、紙が慌ただしくそれを吸い取って言葉の連なりに染みが広がっていく。次第にコツをつかんだ僕は、いちいち放尿を中断することなく出し続け、ひとつの見開きが限度を迎えたと判断すると片手でページを次々と送りながら、そうやって何ページにもわたっておしっこを本に染み込ませていった。

本に放尿しているうちに目も慣れて気づいたのだが、これはどうやら短編集で、本の最も後半部分に掲載された一作には『素敵な予感』という題名がつけられているということが分かった。ざっと尿を通した限りでは、主人公がサービスエリアで用を足し、車に戻った途端に誘拐される話のようだった。

耳の奥に光が降り注ぐように、再び澄んだ空気が戻ってきた。トンネルを抜けたのだろう。揺れる車内であわてて用を足したので、ズボンにおしっこが少し(というかまあまあ)垂れてしまった。急に何もかも嫌になってきた。僕は本をばたんと閉じて放り投げると、ズボンを脱ぎ、乾かすために両手で持ってバサッと旗のようにはためかせるなどしてみたが、なにしろ大量の本の山が邪魔でうまくいかない。何が「恐れ入りますが」だ。怒りにまかせてもう一度ズボンで空気を殴りつける。その瞬間、何か黒くて小さな塊が空中に出現したかと思うと、僕の顔面をめがけて吹き飛んできた。あまりの痛さに思わず頓狂な声が出る。気が動転し、当たったのは顔なのに咄嗟に股間を庇おうとしてしまい、傷を確認するためか自分でもわからないがパンツも脱いでしまった。そうすると不思議と痛みは股間には存在せず、顔のほうにあったのでびっくりしてパンツを頭からかぶってしまった。そうこうしているうちに胸のポケットで電話が鳴っていた。

「ねえあなた今何してるの?」

「頭からパンツをかぶっているんだ」

何も言わずに通話は切れてしまった。何かが決定的に失われていくときに立ちはだかるような無言だった。ははん、何か匂うぞ、こいつは罠だな、と思った。匂っていたのは自分の小便だった。誰かが僕をひっかけようとしているに違いない。だが、ひっかかったのはおしっこだった。

そのときトラックの尻をギロチンにかけたみたいな派手な音がして、パンツの目隠しをずらして見るといきなりリアドアが全開になり、僕を誘拐したはずの二人組の犯人たちが荷台に投げ込まれてきた。走っている最中にだ!

「おや、これはどうも」

彼らの後ろでドアが閉められた。

「お取り込み中のところ失礼します」

「どうしたんですか⁉」

「実は、トラックが乗っ取られました」

「乗っ取られたって、サービスエリアではじめに……」

「しっ」と言って片方の男が人差し指を唇の前に立てた。「落ち着いてください。詳しいことは後ほどお話します。我々は今危険な状況に置かれています。職場に電話できますか?」

「え、職場はちょっと……」

「それなら警察に! はやくかけて!」

僕は言われるままに携帯電話を操作して警察の番号を入力し、発信ボタンを押した。現在の北陸地方の天気が晴れであることを報せるアナウンスが耳に聞こえてきた。

「すみません、何か間違えたみたいだ。東北のほうに向かってるはずなのに」

「何を言ってるんです。警察ですよ、天気が知りたいんじゃない、さっさと通報してください」

気を取り直し、震える指をコントロールしながらひゃくとおばん﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅をしたはずなのに、なぜかもう一人の誘拐犯の携帯電話にかかったようだった。我々は三人で顔とパンツを見合わせた。一人も口をきこうとしなかった。まったく読み込めない状況下に置かれながら、僕はなんとなく、これはまずいことになったなと思った。下半身がすうすうして、新しい尿意が、夜明けの訪れが間もないことを告げていた。

2019年1月21日公開

© 2019 長崎 朝

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"嫌な予感"へのコメント 9

  • 投稿者 | 2019-01-22 21:55

    ミステリー調ながらコミカルな描写で楽しく読めました。

    個人的には、2人組の描写がもう少し欲しかったかなとは思いました。

  • 投稿者 | 2019-01-24 21:59

    パンツを被った主人公が下半身をすうすうさせている絵面を頭に思い浮かべると、本当にしょうもなくて笑える。私は不条理小説の熱心な読者ではないため「きっとそれが犯人たちの目的なのかも」という香奈の決定的な言葉が放り出されたきり、主人公が思い出すことさえない点がもどかしく感じられた。彼女の予想どおり、村上春樹の新作を発売前に略奪して読もうとする原理主義的ハルキスト集団の犯行であるとすれば、わざわざ気を使って長崎朝という才能ある作家の小説に尿をしみこませるのは愚策に他ならない。盛大にハルキ・ムラカミの新作にまき散らしてやればいいのだ。略奪品が台なしになれば、不条理な誘拐も終わるはずだ。

  • 投稿者 | 2019-01-26 14:47

    僕の小説は、いわば悪いハルキ感が出てるみたいで、対して長崎さんの小説は良いハルキ感があるなあ、と感じ、勉強になりました。
    地の文や会話文、独特な比喩表現や言い回しはとても素敵で、ああ、短編の「眠り」、前に読んだなあなどと思っていたら、「長崎朝」が出てきてそこからニヤニヤしながら読みました。結末部の、謎を残し不穏な雰囲気のまま終わる感じすら、まるで村上春樹の短編みたいで、とても面白かったです。何と言っても、「犬小屋みたいな部屋に本がたくさんある」というお題から、トラックの荷台を舞台にする想像力に痺れました。

  • 投稿者 | 2019-01-27 14:34

    不条理なコメディーのようです。わけのわからないトラックジャック、彼女とのかみ合わない会話にトイレに行ったばかりなのになぜか次々と催す尿意、パロディーになっている作家「長崎朝」に最後はパンツを頭に被って……
    豊かな想像力が走るままに書いていたらこうなった、という感じがするのですが、とても面白く読みました。こういうのを書いても上手いですね。
    他の方も言及されているように、おしっこは村上春樹の本にばらまいてやればよかったと思います。 

  • 投稿者 | 2019-01-27 16:22

    この上なく洗練されたスマートな文体、表現でこの内容。そのギャップに何度も噴き出しながら夢中で読みました。
    とにかく何もかもが噛み合っていなくて、一見おバカにも見えるけども、相当な技術が必要だと思います。
    特に「長崎朝」の本のページに次々と放尿するシーンは妙にリアルで、おそらく作者はたわむれに同じようなことをした経験があることがうかがえます。
    お題の扱い方もさすがです。

  • 編集者 | 2019-01-28 13:07

    お題に対し、犬小屋と本ならぬ犬トラックの珍走で答えたのは面白い。閉鎖性がもっと強くなっている。二人組が何したかったかは考えない方が良いのだろう。
    ションベンはやっぱり村上春樹に掛けるべきだと思う。村上春樹の本は多分世界のトイレットペーパーの総量より多いから、そう大した損害にはならない筈だ。今度「騎士団長殺し」の文庫版が出るし。限りある紙資源を大切に。

  • 投稿者 | 2019-01-28 14:54

    「それにしても、いったいどうして僕が自分のトラックの荷台に積み込まれるような羽目にならなくちゃいけないんだろう。」
    移動中の荷台を「犬小屋みたいなひんやりした暗い場所」
    と表現しているのですね。

    女のよくわからないポエム的なセリフがハルキストを静かに攻撃しているのかと思いました。(笑)
    それは置いておいても、
    「金色のウエハースみたいなビル」はいい表現ですね。

  • 投稿者 | 2019-01-28 23:12

    トイレを我慢しながら読んだので非常に臨場感がありました。あいにく手元に長崎さんの著書はなかったため黙ってトイレにいきました(騎士団長殺しはあったんですがね)。

  • 編集長 | 2019-02-26 19:04

    私も村上春樹の本によく小便をしているので、共感できた。というのはさておき、文章がこなれており、読みやすい。

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