嘔吐また

オリエ堂の倉椅

小説

4,369文字

嘔吐に性的な興奮を覚える人が過食嘔吐を繰り返した末、便所にバケモノが育ってしまうお話。
原稿用紙12枚。昔のメモから発掘。ばっちい話。これでも僕はかつて「作品に汚物、性的な事柄、もふもふした生物以外の生物を描かない」ことをポリシーとした少年でした。てへぺろでありんす

 何はともあれ性癖は人それぞれ。弾ける青春の女子高生にヨダレ垂らしてる者もいれば、自分の母親より年上に抱かれる事を熱望する者もある。かたや愛する人を虐げてこそ恍惚とする者あり、こなた虐げられてこそ愛を発見する者あり。同性に恋をするなんて初歩も初歩、性対象が種の保存から逸脱してこそ「変態」は走り始める。そうだろ?

 僕は嘔吐するのが好きだ。それは十代、声変わりして陰毛が現れ始めた時代。鏡に映る自分を「醜い」と感じ、僕は自己嫌悪の扉を開けた。無自覚な生命として、ただ子供らしく遊んでいれば良い時代が終わったのだと気付いた。鏡の中、うすら暗い顔でこっちを見ている「そいつ」が「自分」なのだと初めて理解した。中学生だった。その日以降、僕は自分を少しでも美しくしようと努力した。男女問わず思春期にありがちな行動だと思うけど、僕のは少しだけ異常だった。金も知恵も無い少年が「美」を求める努力、その矛先が真っ直ぐ減量に向かっていったのは当然かもしれない。世の中に整形手術というものがあると知り、金さえあればつむじからつまさきまで隙間なくメスを入れたいと願った。が、中学生の僕に出来るのはやっぱりただ減量することだけだった。食事をしない。何も食べない、何も飲まない。その頃の僕にとって歩行とは、貧血で倒れ、また立ち上がるを繰り返す事だった。そんな有り様だった。僕の通っていた学校は弁当持参だったので、昼食の時間は校舎の隅っこで隠れていた。親が持たせてくれた弁当は便所に捨てていた。しかし重要な原則、僕は人間であり、人間は物を喰わずに生きてゆけない。飢餓はやがて生命の危険信号となる。僕の生命が「ダメだ、こいつに運転は任せられん」とため息をつく。そんな時、僕は我を失って物を喰った。冷蔵庫にある未調理の食材を、調味料を、手づかみで食した。ここで嘔吐が出て来る。急にものを入れた胃が拒絶反応を起こして僕は吐いた。当時は「罪悪感で吐いたのだ」と理解していたが、それは僕にとって幸せな事だった。僕の体は僕が求める美に賛成してくれているのだと思った。物を喰え、肥え太れ、と叫ぶ悪魔。美しくなれと叫ぶ天使。僕は便器を抱いて胃をひっくり返しながらそんな構図を自分の中に感じた。顔面の穴中から体液を滴らせ、呼吸も絶え絶えの苦しみに襲われつつも、僕は自が血を神に捧げる殉教者のように気高く、清廉な心持ちだった。嘔吐の苦痛がそのまま自分の魂の洗練に変換され、僕は自分を少しの間だけ愛する事が出来た。やがて周囲が僕の異常に気付き、少年少女向けのカウンセリングを受けさせられたり、食事をちゃんとしているか大人の監視が光るようになった。僕は食事をまともに取るようになっていったが、嘔吐の癖だけは残った。吐いている時の苦しみ、脳に血が上る感覚、全てが罪悪感を洗い流してくれた。胃の中にあるものを全て吐き出し、それでも足りず、大量の水を飲んでまた嘔吐するを繰り返した。吐瀉物から食い物の残骸が消え、やがて冷たく澄んだ水だけが吐き出される。その時、僕は自分の魂が磨かれている事を感じたのだ。ある日、便器を抱いて吐きまくっている最中。下腹部の辺りに強烈な熱を感じた。焼けた石を押し付けられているような焦熱だったけど、苦痛では無かった。ふと目をやると自分の生殖器が異常に屹立しているのを見た。「え?」と思った一瞬あと、性器から腰全体に渡る激しく抗い難い震えが起きた。なぜだか「ヤバい!」と思った。下腹部の熱が風呂に入ったみたく全身に広がり、背筋を伝って脳に届いた。神経が焦げ付くような甘い痺れの後、子供のころ寝小便をしでかした時みたいに下半身が温かくなった。初めての射精だった。トイレのドアを父親が叩く。

「おい、何してんだお前!」

 父親の怒鳴り声。僕には遠く感じた。こうして僕は嘔吐が性に直結していったのだ。

 後に知ったところではあるが、タイの中部に「嘔吐」を儀式とする寺院がある。麻薬中毒を克服しようとする者を集め、嘔吐を誘発する薬を飲ませたあと、薬草の煮汁を飲んで吐いてをバケツ一杯繰り返させる。儀式を経験した者は魂が洗浄されてゆく感覚を覚えるそうだ。

 大人になるにつれ、僕は自分と同じく嘔吐を性の対象に捉える人の存在を知った。多くは「隠されたものを見たい」という性癖の先端が「異性の胃の内容物」に届いてしまった人々だったが、少なからず僕と同じ「魂の洗浄」に魅入られた人々もいた。同好者の中には「嘔吐しやすいように前歯を抜いてしまった」者もいたし、例のタイの寺院で儀式に参加した者もいた。同属の存在を知り、僕の性癖は加速した。自分で金を稼げるようになった僕は、より過食嘔吐しやすいように汲取式の便所がある古い家を探り出し、そこに越した。世界を知り、金で手に入るものを知り、嘔吐を誘発する薬品というのも手に入れた。異物を飲み込んでしまった際に応急処置として使われる「催吐剤」と呼ばれるものの一つで、原産国の先住民に「ゲロ吐き草」と呼ばれている多年草から作った薬だ。こうして僕は、釣りを嗜好するものが生活の自由な部分を釣りで塗りつぶすように、プライベートと呼べる時間を嘔吐趣味で飾りつくしたのだ。

 さあ不愉快な話をつらつら続けたが、間もなく終わる。嘔吐しやすいように汲取式便所のあるこの家に越して来て間もなく二年。実は先日、この趣味をそろそろやめようかと思う出来事があった。

 それは夜中の二時くらいの事だった。聞き慣れない物音に気付いて、僕は目を覚ました。何かを引きずるような音。しばらく布団でぼけーっとその音を聞いていたが、音量といい聞こえて来る距離といい、どうやら自分の家の中から聞こえてくるものだと分かった。恐る恐る布団を出て、音のする方へ向かった。自室の外、廊下の方から聞こえて来る。廊下に出ると冷えた夜の空気に混じって瘴気めいた汚物の匂いがした。思わず顔をしかめる。便所が逆流したような匂いだと思い、視線を便所に向ける。闇の中、便所の辺りの廊下がてらてら光っているように見えた。何かと思い、廊下の電灯をつける。トイレから雑巾をかけたような水気の軌跡が続いていた。近付いてみると屎尿らしき水分に汚物の残滓が混じったものだった。便所に突っ込んだモップを引きずったような跡。目の前の異変が理解できず、ただ「なんだこれ?」と立ち尽くす僕。その時、また家の奥から何かを引きずるような音が聞こえた。先ほどまで呑気に寝ていたと思えぬほど、体中が緊張にぴりついていた。音の根源に足を進める。扉の向こう、扉の向こう。

 扉を開けると、聞こえていた音が一気に大きくなった。闇の中、窓から差し込む蒼い月光が絨毯のように広がっている。その中に一塊、ちょうど赤子くらいの大きさの影があった。僕は犬を飼っているのでそいつだと思い、犬の名を呼んだ。何かを引きずる音がぴたりと止んだ。闇に目が慣れ、僕は二つの事を同時に理解した。ひとつ、何かを引きずる音は「血を啜る音」だった。ふたつ、赤子のような影の正体は巨大なゴキブリらしき虫だった。

 虫はこちらに顔を向けた。刺刺して鉄のような光沢を持つ手が抱いているのは僕の愛犬だった。死んでいる。虫は僕の愛犬を抱き、その首に食らい付き、血を啜っていた。

 表情が凍りつく僕。赤子ほどの大きさがある巨大な虫。便所から続いていた濡れた汚物の軌跡は、こいつが這い出して来た痕だった。そいつは僕の愛犬を殺し、それを喰っている。なぜ夜更けの自宅でそんなグランギニョールが繰り広げられているのかさっぱり分からないが、僕は混乱と恐怖にとっぷり浸った脳髄の隅っこで、これは自分の嘔吐趣味と関係がある事だと直感していた。

 虫は死んだ僕の犬を放り出し、こちらに体を向けた。

「我が王、我が母、我が豊饒の神。謁見に与り光栄でございます」

 虫は恭しく口をきいた。老いた兵のように重い声だった。

「あなたの寵愛を受け、わたしはこのように育つ事ができました。これからはずっと一緒でございます」

 虫は言葉を続けた。僕の神経はもう何十秒も前から、この異常に対応しきれていなかった。

「何を言ってるんだ? 俺の犬をどうした。なんだお前?」

 すでに脳が応答をやめている僕は、ほとんど夢見心地でそう言った。

「我が母、豊饒の神よ。あなたがお造りになった命です。これからはずっと一緒でございます。ところで王よ、私は何をすれば良いのですか? 何を成すために豊饒の雨を――」

 虫は幸せそうに何か言っていたが、僕は最後まで聞かなかった。手近なところにたまたま置いてあったワインのボトルを手に取り、虫に投げつけた。派手な音を立ててビンが砕け散る。虫は「きい」という悲鳴を上げた。

「オレの犬をどうしたバケモノ!」

 僕はネジが飛んだように怒鳴った。震える声は自分のものと思えぬほどケダモノじみていて、虫が喋る声のほうがよっぽど紳士的だった。

「分からない。私を愛しておられないのですか? 下の世界ではあなたの雨が降るようにと祭りが行なわれております。雨を降らせるあなた様のお顔を模した像、私はそれを崇拝して育ったのです」

「口を利くな虫けら!」

 僕は次なる攻撃の手として椅子を持った。手が届く範囲にある一番重たそうなものがそれだった。虫は僕の姿を見て、逃げ出すでも襲いかかるでもなく、ただ残念そうに玄関の方に体を向けた。

「分からない。では何故わたしをお造りになったのか」

 最後にそう言い残し、虫は羽根を開いた。原付がアクセルを噴かすような羽音がして、虫の体が宙に浮いた。

「いつか分かり合えると信じております、我が王、豊饒の雨をもたらす我が母よ」

 ごう、と腐敗した汚物の匂いがする風が僕の髪を撫でた。次の瞬間、砲弾が放たれるようにして虫は窓を突き破り、月光満ちる夜の空に消えて行った。僕と死んだ愛犬がそこに残った。

 だいたいこのような事があって、僕は嘔吐趣味に疑問を覚えたのである。しかし不安は三つ。まず窓を突き破って行った巨大な虫。あいつはどこに行ったのだろう。近ごろ巷で犬猫の死体が山ほど見つかっている事と関係が無いと良いが。ふたつめ、あいつの言っていた「下の世界」とは何だ? これに関しては考えたくもない。最後に。僕は嘔吐趣味をやめたいと望みつつある。しかし嘔吐を伴わなくては性的に興奮の出来ぬ僕――はじめて女と寝床を共にした時、性交の最中股を開いてきゃんきゃん喘いでいる女の顔面にゲロしたような僕――は、一体このあと普通の男に戻れるのだろうか?

 世の中にはいろーんな人がいる。それが分かった所で僕の性癖に関するお話は以上である。

 

 

おしまい

2019年1月6日公開

© 2019 オリエ堂の倉椅

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