くらくらとおいしそうな黄色のイチョウ

応募作品

牧野楠葉

小説

4,069文字

「犬小屋のような部屋に本がたくさんある」合評会2019年1月応募作品。ピエール・ボナール《村の早春のための習作》1912年、油彩、カンヴァス、70×64.5cm、オルセー美術館蔵。

 夜の重苦しい靄の中でくらくらとおいしそうな黄色のイチョウだけが錯乱するように揺れていた。かれは時間と寒さを忘れしばらくそれに魅入った。その千葉の奥にあるイチョウの木に囲まれた自宅は彫刻家の妻のアトリエも兼ねていた。今日妻は美大時代の同級会に出席し東京で一泊すると言って朝、仕事に行くかれと共に家を出た。
 八年前、百貨店の経理の仕事をするかれと妻はちょうど今頃に行われた新年会で出会った。あの入り口に置いてある彫刻の。あ、あ、そうですそうです。初めの会話は確かそうだった。そのときはただの一雫の潤いに過ぎなかった、目の前に美女がいる、それだけだった。女の彫刻の意図も何もかもわからなかったし美術の教養もないが故に話も弾むわけがないが明らかにクライアントに呼ばれたから来たに過ぎないという激しい倦怠が顔に映し出された目の前の女を放ってどこかに行くわけにもいかずかれは隣で酒を飲んだ。酒が進むにつれ、女が彼の四つ下の二十九才であり、有名賞を受賞したそこそこ名の知れた現代彫刻家であり、ネットで検索すればwikipediaを筆頭にインタビュー記事などがずらと並び、将来をさらに期待されており——それはそうだ、この若さで大手百貨店の店頭を飾れるほどなのだから——しかし話はさらに深くなり、女も酔っ払い始め、ほとんど事実婚状態だった同じく彫刻家の男が突然家で首を吊ってから人間不信になったという話を聞いてもいないのに話しだし、かれは目の前のこの女とこれからどうなりもしないと断定した。おれは魔法使いではない、女と違っておれはただの凡人で会社員なのだ、歪に入り組み重く閉ざされた心を開けるほどの愛や情熱などくだらない労働に貪られたこの体のどこにもありはしない、しかし連絡先を聞いて別れてから二週間後にかれは女と東京の自分の賃貸マンションで目覚めていたのだった。自分の腕に絡んだ、そのあまりに冷たい指に一筋ぴり、と通う血の生ぬるさを肌で感じたその瞬間、そう、その瞬間、女は生きている、生きている、——でももう疲れて、「普通の」幸せが欲しかったから昨日、近所のイタリアンで目の縁に涙を溜めて死んだ男との滅茶苦茶な生活の話を散々した挙句ここに泊まって行ったんじゃないのか? もっと暖めてほしいんじゃないのか? この女は、いつでも帰れる巣があればもっと羽ばたけるんじゃないのか? ……色々考えるうちに——もう隣の女は勝手にかれの中で大輪の華となり勝手にそれまでの無味無臭の人生を覆い尽くし意味不明としか思っていなかった女の彫刻の鮮やかな色彩が洪水のごとくかれの足をからめとっていくのがわかった。かれは勝手に女と結婚しようと思った。
 付き合って一年が経ち二人で千葉に散策に来たとき、このくらくらと揺れるイチョウを見たのだ。奥には大きな犬小屋のような寂れた空き家があった。こんなところ、人が住む場所ではない、誰が買うんだと思った。でも、
「黄色、」女がイチョウと、かれを交互に見て、そう言ったのだ。それこそ、歌うように。かれは一年間で初めて女の、そんな歓喜の声を聞いた、女の鋭いまでに白く細い喉にかれは魅了された。黄色、と言うと同時に、見つけた。とも女の魂は言っていた。女はこのイチョウの木の群れに囲まれ確かにそのような本心を、素の気持ちを、かれに晒した気がした。かれはその家を買った。
 それから女は妻になり、黄色いイチョウの光に誘われ閉じ込められた蝶のように陰気に、彫刻制作に励んだ。そのさまは苛烈そのもの、異様なエネルギーが妻の周りにびたと貼りつき大きな仕事の前は痩せこけて話しかけるのも躊躇われるほどだった。しかもかれは彫刻制作の過程がこんなにも「あの」妻のイメージとかけ離れた泥臭いものだとは知らず、やけに苛々した。艶やかな黒髪を埃まみれにした妻がアトリエに何日間も、ときには何週間も籠るなんということは想定外だった。彫刻家だから当たり前なのにそれだけ「あの」妻に心を奪われていたのだ。たまに共に夕飯をとっても木のかすにまみれた妻にわけのわからない作品の構想を語られるのが単につまらなくなってきたのだ。あなたは野球やサッカーや、会社でのちょっとした愚痴でしか構成されていない男だと間接的に言われているような気がしてならなかった、その整った唇から繰り出される雄弁な語りにはいつもドブを煮詰めたような煙草の匂いがまとわりついていてかれは吐きそうになった、かれは煙草をやらなかった。妻が昔の男と住んでいた家から運んできた大量の彫刻、資料や文学作品を見るたびに針で爪と皮膚の合間をグッと刺すような血の怒りが湧いて滲んだ、「あの」妻の眼差しを熱烈に享受し続けるそれらをかれは憎んだ。初めて二人で迎えた、昔の東京の賃貸マンションでの朝の断片がまざまざと脳味噌を抉っていった。
 かれはいつの間にか鼻水が唇を濡らしたのに気づいた。もう三十分近く経っていた。かれは歩いて行って家の古い引き戸を開け、靴を脱いだ。そしてコートをハンガーにかけ、急いで暖房をつけリビングで部屋着に着替えながら大音量でテレビを流した。名前もわからない芸人が異国の怪魚と格闘しているのを尻目に冷凍庫のミートボールとラップに包まれた飯をレンジで温めながらビールを開けた。かれはその番組をみてげらげらと笑った。妻がいない夜をかれは心から楽しんでいた。妻の存在の気配が消し去られていることをかれは気づきもせずひとりの大衆的生活をくつろいでいた。三缶目のビールを空け、四本目のビールを取りに立ち上がろうとしたとき、かれは茶褐色の食卓の上に置かれた白い箱に気づいた。

 

 

 昼休み、派遣の若い女の子が運んできた薄いコーヒーを飲みながら、後輩は言った。
「えっ。え? 本当に疲れてるんじゃないですか? 大丈夫ですか? そのちんこの彫刻? 奥さんの昔の男の型だって言うんですか? ……流石に、流石に……それはないでしょう。奥さんがいくら彫刻家でも、だって、多分型取りにそれなりに時間かかるでしょうから、その昔の男が寝てる間? それとも死んでるのに気づいてからその型を取ったか、どちらかしかないでしょう」
「寝ているときか死んだ後かは知らんよ」
「それかその人も彫刻家なら、なんか、起きてても、どうぞどうぞ、型ぐらい取れよ、みたいな協力的な人だったのかなあ?」
「トイレ行きたくなったらどうするんだ。第一そんな変なやつはおれが生きてきた世界には存在しない」
「怒らないでくださいよ……」
「でもこれだけはわかるよ。写真撮ってきてお前に見せたらよかった。妙にリアルだし、もうそのものにしか見えない。玉袋や陰毛まで完璧だ。さすがプロだと思ったけど、明らかにおれのじゃないんだ」
「そんなん、写真撮られてきたって見たくないですよ……でも、もし死んだ後、警察に電話する前にもし型をとったんだとしたら、一晩とかかかりますよね? すいませんけど、奥さん気が狂ってるとしか思えませんよ。型をとるのにどれぐらいの時間がかかるのかなんて僕のような素人はわかりませんし、そもそもですよ。まずね、第一、その男のものかもわからないじゃないですか。ただ、彫刻家の方だから、ちんこ作ってみよ、純粋にそう思っただけかもしれないじゃないですか。何で型取りしたのかはわかりませんけど……今、アマゾンで何でも買えますやんか。だから僕ら百貨店がひいひい言うてるじゃないですか。まあそのちょっとちんこ作ってみよ、って考えすらちょっともう僕なんかは信じられないですけど……色々考えすぎですよ。今晩、飲みに行きましょ、久々に。奥さんも帰るの遅いってさっきライン来たんでしょ」
「逆に、今、おれが飲む気分だと思う?」
「飲んだら変わるかもしれないじゃないですか」
「……」
 時計の針が一時を指した。そしてキーボードを打つ音がまた始まり、オフィスの中が電話やらシュレッダーやらの雑音で覆われた。しかしかれは当たり前に全く集中できず、自分のデスクの上の、長年使っている灰色の電卓に仕方なく目を落とした。

 

 

 夜の重苦しい靄の中でくらくらとおいしそうな黄色のイチョウだけが錯乱するように揺れていた。かれは後輩と何軒もハシゴして泥酔していた。夜の重苦しい靄の中でくらくらとおいしそうな黄色のイチョウだけが錯乱するように揺れていた。終電なんかいいですやんお姉ちゃんの店行きましょうよ、という魅惑的な誘いを断って、千葉に帰ってきた。重苦しい中年の体を引きずって、家の古い引き戸を開け、靴を脱いだ。そしてコートをハンガーにかけ、急いで暖房をつけリビングで部屋着に着替えながら大音量でテレビを流した。名前もわからない芸人が異国の怪魚と格闘していた。昨日も怪魚と格闘していたのにまた今日も怪魚と格闘してるのか。怪魚と格闘するしか能がないのか。でもかれはその番組をみてげらげらと笑った。昨日の芸人よりもリアクションが上手くてなんだかかれは笑い転げた。しかし即座に怪魚で笑い転げている自分のつまらなさに発狂しそうになり、食卓の白い箱に手を伸ばし、薄く上質な白い紙で包まれた陰茎の彫刻を見つめた。赤黒い血管が電流のように走った、毛むくじゃらのそれ、いかにも今まさに切り取って持ってきたかのような、かれのものではない誰かの陰茎。
 かれにはわかっていた。おそらくそれが昔の男のものだということを。伊達に八年間一緒にいたわけじゃない。必然性のないことなどあの女がするわけがない。あの女は男が死んで遺しておきたい、と思ったから型を取ったのだ。それと同時にかれにはよくわかった。自分が結局、あの女の心を全く奪えなかったことを、こんなものを目につく場所に置いていったことが全ての証明だ、ただ、あのイチョウの黄色に狂わされて、幻を見ていたのだとも思った。もう帰ってきて欲しくなかった。
 鍵穴ががちゃ、といった。かれは玄関を見つめた。

2019年1月3日公開

© 2019 牧野楠葉

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