くらくらとおいしそうな黄色のイチョウ

応募作品

牧野楠葉

小説

4,023文字

「犬小屋のような部屋に本がたくさんある」合評会2019年1月応募作品。ピエール・ボナール《村の早春のための習作》1912年、油彩、カンヴァス、70×64.5cm、オルセー美術館蔵。

 夜の重苦しい靄の中でくらくらとおいしそうな黄色のイチョウだけが錯乱するように揺れていた。かれは時間と寒さを忘れしばらくそれに魅入った。その千葉の奥にあるイチョウの木に囲まれた自宅は彫刻家の妻のアトリエも兼ねていた。今日妻は美大時代の同級会に出席し東京で一泊すると言って朝、仕事に行くかれと共に家を出た。
 八年前、百貨店の経理の仕事をするかれと妻はちょうど今頃に行われた新年会で出会った。あの入り口に置いてある彫刻の。あ、あ、そうですそうです。初めの会話は確かそうだった。そのときはただの一雫の潤いに過ぎなかった、目の前に美女がいる、それだけだった。女の彫刻の意図も何もかもわからなかったし美術の教養もないが故に話も弾むわけがないが明らかにクライアントに呼ばれたから来たに過ぎないという激しい倦怠が顔に映し出された目の前の女を放ってどこかに行くわけにもいかずかれは隣で酒を飲んだ。酒が進むにつれ、女が彼の四つ下の二十九才であり、有名賞を受賞したそこそこ名の知れた現代彫刻家であり、ネットで検索すればwikipediaを筆頭にインタビュー記事などがずらと並び、将来をさらに期待されており——それはそうだ、この若さで大手百貨店の店頭を飾れるほどなのだから——しかし話はさらに深くなり、女も酔っ払い始め、ほとんど事実婚状態だった同じく彫刻家の男が突然家で首を吊ってから人間不信になったという話を聞いてもいないのに話しだし、かれは目の前のこの女とこれからどうなりもしないと断定した。おれは魔法使いではない、女と違っておれはただの凡人で会社員なのだ、歪に入り組み重く閉ざされた心を開けるほどの愛や情熱などくだらない労働に貪られたこの体のどこにもありはしない、しかし連絡先を聞いて別れてから二週間後にかれは女と東京の自分の賃貸マンションで目覚めていたのだった。自分の腕に絡んだ、そのあまりに冷たい指に一筋ぴり、と通う血の生ぬるさを肌で感じたその瞬間、そう、その瞬間、女は生きている、生きている、——でももう疲れて、「普通の」幸せが欲しかったから昨日、近所のイタリアンで目の縁に涙を溜めて死んだ男との滅茶苦茶な生活の話を散々した挙句ここに泊まって行ったんじゃないのか? もっと暖めてほしいんじゃないのか? この女は、いつでも帰れる巣があればもっと羽ばたけるんじゃないのか? ……色々考えるうちに——もう隣の女は勝手にかれの中で大輪の華となり勝手にそれまでの無味無臭の人生を覆い尽くし意味不明としか思っていなかった女の彫刻の鮮やかな色彩が洪水のごとくかれの足をからめとっていくのがわかった。かれは勝手に女と結婚しようと思った。
 付き合って一年が経ち二人で千葉に散策に来たとき、このくらくらと揺れるイチョウを見たのだ。奥には大きな犬小屋のような寂れた空き家があった。こんなところ、人が住む場所ではない、誰が買うんだと思った。でも、
「黄色、」女がイチョウと、かれを交互に見て、そう言ったのだ。それこそ、歌うように。かれは一年間で初めて女の、そんな歓喜の声を聞いた、女の鋭いまでに白く細い喉にかれは魅了された。黄色、と言うと同時に、見つけた。とも女の魂は言っていた。女はこのイチョウの木の群れに囲まれ確かにそのような本心を、素の気持ちを、かれに晒した気がした。かれはその家を買った。
 それから女は妻になり、黄色いイチョウの光に誘われ閉じ込められた蝶のように陰気に、彫刻制作に励んだ。そのさまは苛烈そのもの、異様なエネルギーが妻の周りにびたと貼りつき大きな仕事の前は痩せこけて話しかけるのも躊躇われるほどだった。しかもかれは彫刻制作の過程がこんなにも「あの」妻のイメージとかけ離れた泥臭いものだとは知らず、やけに苛々した。艶やかな黒髪を埃まみれにした妻がアトリエに何日間も、ときには何週間も籠るなんということは想定外だった。彫刻家だから当たり前なのにそれだけ「あの」妻に心を奪われていたのだ。たまに共に夕飯をとっても木のかすにまみれた妻にわけのわからない作品の構想を語られるのが単につまらなくなってきたのだ。あなたは野球やサッカーや、会社でのちょっとした愚痴でしか構成されていない男だと間接的に言われているような気がしてならなかった、その整った唇から繰り出される雄弁な語りにはいつもドブを煮詰めたような煙草の匂いがまとわりついていてかれは吐きそうになった、かれは煙草をやらなかった。妻が昔の男と住んでいた家から運んできた大量の彫刻、資料や文学作品を見るたびに針で爪と皮膚の合間をグッと刺すような血の怒りが湧いて滲んだ、「あの」妻の眼差しを熱烈に享受し続けるそれらをかれは憎んだ。初めて二人で迎えた、昔の東京の賃貸マンションでの朝の断片がまざまざと脳味噌を抉っていった。
 かれはいつの間にか鼻水が唇を濡らしたのに気づいた。もう三十分近く経っていた。かれは歩いて行って家の古い引き戸を開け、靴を脱いだ。そしてコートをハンガーにかけ、急いで暖房をつけリビングで部屋着に着替えながら大音量でテレビを流した。名前もわからない芸人が異国の怪魚と格闘しているのを尻目に冷凍庫のミートボールとラップに包まれた飯をレンジで温めながらビールを開けた。かれはその番組をみてげらげらと笑った。妻がいない夜をかれは心から楽しんでいた。妻の存在の気配が消し去られていることをかれは気づきもせずひとりの大衆的生活をくつろいでいた。三缶目のビールを空け、四本目のビールを取りに立ち上がろうとしたとき、かれは茶褐色の食卓の上に置かれた白い箱に気づいた。

 

 

 昼休み、派遣の若い女の子が運んできた薄いコーヒーを飲みながら、後輩は言った。
「えっ。え? 本当に疲れてるんじゃないですか? 大丈夫ですか? そのちんこの彫刻? 奥さんの昔の男の型だって言うんですか? ……流石に、流石に……それはないでしょう。奥さんがいくら彫刻家でも、だって、多分型取りにそれなりに時間かかるでしょうから、その昔の男が寝てる間? それとも死んでるのに気づいてからその型を取ったか、どちらかしかないでしょう」
「寝ているときか死んだ後かは知らんよ」
「それかその人も彫刻家なら、なんか、起きてても、どうぞどうぞ、型ぐらい取れよ、みたいな協力的な人だったのかなあ?」
「トイレ行きたくなったらどうするんだ。第一そんな変なやつはおれが生きてきた世界には存在しない」
「怒らないでくださいよ……」
「でもこれだけはわかるよ。写真撮ってきてお前に見せたらよかった。妙にリアルだし、もうそのものにしか見えない。玉袋や陰毛まで完璧だ。さすがプロだと思ったけど、明らかにおれのじゃないんだ」
「そんなん、写真撮られてきたって見たくないですよ……でも、もし死んだ後、警察に電話する前にもし型をとったんだとしたら、一晩とかかかりますよね? すいませんけど、奥さん気が狂ってるとしか思えませんよ。型をとるのにどれぐらいの時間がかかるのかなんて僕のような素人はわかりませんし、そもそもですよ。まずね、第一、その男のものかもわからないじゃないですか。ただ、彫刻家の方だから、ちんこ作ってみよ、純粋にそう思っただけかもしれないじゃないですか。何で型取りしたのかはわかりませんけど……今、アマゾンで何でも買えますやんか。だから僕ら百貨店がひいひい言うてるじゃないですか。まあそのちょっとちんこ作ってみよ、って考えすらちょっともう僕なんかは信じられないですけど……色々考えすぎですよ。今晩、飲みに行きましょ、久々に。奥さんも帰るの遅いってさっきライン来たんでしょ」
「逆に、今、おれが飲む気分だと思う?」
「飲んだら変わるかもしれないじゃないですか」
「……」
 時計の針が一時を指した。そしてキーボードを打つ音がまた始まり、オフィスの中が電話やらシュレッダーやらの雑音で覆われた。しかしかれは当たり前に全く集中できず、自分のデスクの上の、長年使っている灰色の電卓に仕方なく目を落とした。

 

 

 夜の重苦しい靄の中でくらくらとおいしそうな黄色のイチョウだけが錯乱するように揺れていた。かれは後輩と何軒もハシゴして泥酔していた。夜の重苦しい靄の中でくらくらとおいしそうな黄色のイチョウだけが錯乱するように揺れていた。終電なんかいいですやんお姉ちゃんの店行きましょうよ、という魅惑的な誘いを断って、千葉に帰ってきた。重苦しい中年の体を引きずって、家の古い引き戸を開け、靴を脱いだ。そしてコートをハンガーにかけ、急いで暖房をつけリビングで部屋着に着替えながら大音量でテレビを流した。名前もわからない芸人が異国の怪魚と格闘していた。昨日も怪魚と格闘していたのにまた今日も怪魚と格闘してるのか。怪魚と格闘するしか能がないのか。でもかれはその番組をみてげらげらと笑った。昨日の芸人よりもリアクションが上手くてなんだかかれは笑い転げた。しかし即座に怪魚で笑い転げている自分のつまらなさに発狂しそうになり、食卓の白い箱に手を伸ばし、薄く上質な和紙で包まれた陰茎の彫刻を見つめた。赤黒い血管が電流のように走った、毛むくじゃらのそれ、いかにも今まさに切り取って持ってきたかのような、かれのものではない誰かの陰茎。
 かれにはわかっていた。おそらくそれが昔の男のものだということを。伊達に八年間一緒にいたわけじゃない。必然性のないことなどあの女がするわけがない。あの女は男が死んで遺しておきたい、と思ったから型を取ったのだ。それと同時にかれにはよくわかった。自分が結局、あの女の心を全く奪えなかったことを、こんなものを目につく場所に置いていったことが全ての証明だ、ただ、あのイチョウの黄色に狂わされて、幻を見ていたのだとも思った。もう帰ってきて欲しくなかった。
 鍵穴ががちゃ、といった。かれは玄関を見つめた。

2019年1月3日公開

© 2019 牧野楠葉

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"くらくらとおいしそうな黄色のイチョウ"へのコメント 8

  • 投稿者 | 2019-01-21 22:27

    イチョウの木が印象的で、陰茎の彫刻と夫婦の倦怠を主に書いてるとは思えない様な美しい物語だと思います。とても体の細やかな描写が上手いなと感心しました。

    ただ、犬小屋のような家の描写が少し弱いかなと思いました。妻や昔の男にも大きな物語がありそうなので長編で読んでみたいです。

  • 投稿者 | 2019-01-24 21:38

    文章がやや鈍重だが、きれいにまとまっている。陰茎の彫刻は単に昔の男の存在感を示すだけでなく「『あの』妻のイメージ」にそぐわない部分を受け入れられない「かれ」に対して突きつけられた他者性の表現だと感じた。イチョウの葉はしばしば乙女の陰毛の三角形に見立てられ、女性的なイメージを持つ植物である。イチョウに囲まれた家を買う「かれ」は、いわば妻に美しい女性のイメージを求めていると言えるだろう。しかし彼女の芸術家としての苛烈さや泥臭さはそのイメージにそぐわず、「かれ」は妻のすべてを理解することができない。かれが理解できない部分を最も端的に象徴するものが、男性的な陰茎の彫刻なのではないか? 私は本作のイチョウの視覚的描写に、本作に書かれていないイチョウの精液に似た臭気が持つ男性性を勝手に補足して読んだ。

  • 投稿者 | 2019-01-24 21:56

    停滞した夫婦の生活と、それとは別の次元で鮮やかに葉を広げるイチョウのコントラストが美しい。
    文章のバランスもよく抑制がきいている。外へ向かう破壊力ではなく、内向的な微妙さや繊細さ、倦怠感のようなもので勝負していて、牧野さんの新しい一面を見た気がする。
    「異国の怪魚」はとてもいい。「昨日も怪魚と格闘していたのに今日も怪魚と格闘している」というのもいい。
    人物が、怪魚のようなちょっとしたものにひっかかったり、こだわりを持ったりすることをさりげなく書くことで、逆に切実さがぐっと押し出されて目に見えるようになるんだなと思った。すごく効果的だと思います。

  • 投稿者 | 2019-01-25 13:29

    男視点のこの物語だけを読むと、人間不信なのはむしろ男の方に見えるのが面白かったです。自分が信頼されていると信じることができない、という不信が、女に対する文化的素養の劣等感などによって育まれていて、「何者かである人間」に対する「何者にもなれなかった人間」の悲壮を僕は感じました。幻と現、嘘と本当などの二面が、葉の裏表でひらひらと翻り続けるように、イチョウの木で表現されていて美しかったです。

  • 投稿者 | 2019-01-26 19:58

    黄色いイチョウを背景に、二人が見ていた全然違う夢が無惨です。一瞬、甘い夢を見せて後々まで引きずらせる型の女を書かせると牧野さんは無敵ですね。

    芸術家って案外と俗っぽくて金に汚くて他人へ厳しく己れに甘く、褒められたい衝動だけは人一倍強いと相場が決まっていますが、ここに出て来る女はあまりそういう匂いがしません。ただし自分の創作のために寄生する男を探していたことだけは間違いなくて、それに気が付くのに八年もかかるってどうなのかなと思ったりしました。昔の男の局部の彫刻をわざわざ目に付くところに置いたということは、夫がもはや不要になった、あるいはどうでもよくなったということでしょうか。
    彫刻のことを会社の後輩に話しているけど、私としては夫本人にとことん悩んでほしかったです。まあ、悩みに耐えられず簡単に人に話してしまうあたりが凡人なのでしょうけど。
    テーマからはやや脱線気味かな?

  • 投稿者 | 2019-01-27 13:00

    するするとながれるような文章でありながら、細部の細部までピンと糸の張ったような繊細さ、葉脈の隅々にまで行き渡ったエネルギーに目を見はりました。
    お題との関連性はひとまず置いといて、ひとつの掌編を読む、という愉悦を味わえる、かなり完成度の高い作品だと思います。
    後輩との軽いやりとりも効果的だと思いますし、そのあとの文章のリフレインに胸をかきむしられるような切実さ、悲哀を感じました。その書き方もあくまでさりげなく、うまいなあと舌を巻きました。
    モチーフの扱い方もさらりとしているようでいて、鮮烈なイメージが残ります。
    たしかにこれまでの牧野さんの作品とは一味違っていて、しずかで、じわじわと胸に染み込んでくる何かがありました。
    あの、すみません。合評会当日、サインください。

  • 編集者 | 2019-01-28 12:58

    俺の感覚ではテーマからは半歩外していると思うが、人間関係の描写や彫刻を巡る陰鬱とした思考に目を見張った。ペニ刻に対する単なる嫉妬以上の感情を描写できるのは流石だ。イチョウまみれの幻想から覚めた後に何が起きるかは、考えない方が良いのだろう。第二第三のペニ刻が出来るんだろうか。

  • 編集長 | 2019-02-26 18:56

    夫婦間の息苦しさがよくかけていた。人は孤独だ。ちなみに、私の大学時代の同級生で、部屋に木彫りの男根を彫っていた男がいたので、リアリティを感じた。

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