サカイアトリ

倉椅

小説

23,833文字

自殺をしようと決めた一人の男。睡眠薬を飲み込もう、でもせっかくだから好きな飲み物で胃に流し込みたい。何にしようかと思案した結果、ジンジャーエールが良いと気付いた。買いに行こうと夜のコンビニに車を走らせる。そこで殴られたらしき傷のある少女と出会い「何もかもどうでもいい」二人の短い旅が始まる。原稿用紙六〇枚くらい。

1.

 

 世界は現実で出来ている。そう気付いたあの日、君は何を学び、何を失った? 分からなければ掌を太陽にでも透かしてみたまえ。空っぽだ。手の中には何も無い。自由や平等なんて代物はもちろん、今日の晴天を喜ぶ余裕さえ無い。何も無い。

 いつからだ? どうせ何一つ握ってない手だ。指折り数えてみるが良い。幾日、幾月、幾十年むかーしむかし

ひとりぼっちで声も立てずに泣いている幼い君が見えたなら、考えるのはおしまいだ。もういいじゃないか。みんな同じだ。さあ月を蹴飛ばし夜に向かおう。今度こそ、遅れてしまう前に。

 僕は暗い部屋に一人、机を眺めていた。そこには白い錠剤。工場を出荷された時と同じくらい丁寧に並べて、いま数をかぞえている。いち、に、さん。白い錠剤は睡眠薬だ。それも薬局で何錠何千円で売られてる、あの鼻炎薬をいじくっただけの睡眠導入剤とは違う。純正だ。医者が「どうやらあんたは眠ることすらマトモにこなせぬらしい」とハンコ押した哀れな奴にだけもたらされる本物。固形化した麻酔薬。綺麗に整列させてみたところ、どうやら手元に二十五錠ある。僕にとって睡眠薬はほとんどセーブポイントに等しい代物だった。それは物語を終わらせ、電源を切っても良い事にしてくれる。月に一回二十八錠もらって、毎日一回一錠飲み下す。それが僕の日課であり、その日一日を終える儀式だったが、このところ手をつけずに貯め込んでいた。「この日のために」と言えば大げさだし、「何となく」では嘘になる。たしかに今日は特別な日付じゃない。それはきっと夏休みが終わる最後の数日みたいなものだ。あれやこれやと決断したのは少し前の事で、あとは素っ気なく訪れる「心の準備」という奴を待つ。いま支度は終わった。ふと気付いてしまったのだ。幸福は落ち葉みたく偶然落ちてくるくせに、不幸は計画性を持って訪れる。安堵なんてものは目を凝らしてみれば、苦痛や焦燥の門を上手にくぐれた一瞬にしか存在しない。こんなにも非効率な遊戯が人生だ。それでも何十年という時間をかけりゃみんな夢中になってゆく。やってる事は皆同じ。ルールが複雑化してステージが派手になったきり、綺麗な石ころ集めてた子供の頃からほんの一歩だって僕たちは前には進めていない。放っておいても年は取るけど、かといってある日突然大人になれるわけじゃない――何となく分かっていたけど、まさか生命の営みって奴がこんなにも雑な作りとは思わなかった。やっと僕は選択した。プールの飛び込み台に立った事は? 勝手に地べたを削って作った人工の池。その横に佇む「高所から水に飛び降りるための」建造物。一体何の意味があってあんな物作る? 上る必要なんて無い。誰だって怖いに決まっている。それでも試しに上ってみれば、必要なのは体を宙に放り出すほんの少しの脚力だけなのだと気付く。それがたぶん、僕たちが世界と呼んでいるものの正体だ。

 やり方はもう決めている。この二十何錠の睡眠薬をフリスクみたいに搔っ食らう。ここから歩いて十五分くらいのところに廃工場があるので、錠剤が血に溶けてしまう前にそこへ行く。もう動かない巨大な機械、何もかも錆と廃棄に彩られた世界。たぶん副業で中古物件の仲介をやってるような土建屋が、売れなきゃ解体しちゃえばいいや位の気持ちで所持し、物置代わりに使ってるのだろう。およそひと気は無いものの、時々覗くとどこからか回収してきたガラクタが増えている。ただの産廃、瓦礫の類いもあれば、いくらでも使えそうに見えるが近寄ってみればカビ臭いソファやベッドがあったりもする。そんな廃工場のガラクタ達にある日、壊れた浴槽が仲間入りしたのだ。ところどころ破れた天井から階段みたいに差し込む陽光の下、陶器で出来た猫足の浴槽はひどく美しく見えた。僕はそれを祭壇にしようと決めたのだ。昼間のうちにガソリンの入った携行缶を浴槽のそばに置いといた。錠剤が血と混じり合い、意識が混濁し、やがて何も出来なくなる前に、僕はあの浴槽に身を収め、ガソリンをかぶる。火を放つのが先か、睡眠薬に神経を切られるのが先か。どっちでも良い。なにせ全てがロールカーテンを下ろすみたいに閉じてゆき、今思いつくあらゆる全てから「無関係な存在」になれる事だから。それは授業をサボって机上に眠るようなものだろう。

 さて始めようか。僕は睡眠薬を掌にじゃらじゃらと集める。と、ここでふと停止する。水分だ。まさか二十五錠を本当にフリスクみたくガリガリやるわけにはいかない。うまいものじゃないし、口の中の気持ち悪さはきっとずっと付きまとう。これを呑み込むためには水分がいる。部屋を見回す。薄暗い部屋。半年前に仕事をやめ、郊外に越して来た僕にとって、ほとんどヤドカリのヤドに近い空間。見当たるのは空のペットボトルだとか、最後まで飲んだ事の無いスターバックスのフラペチーノの残骸だとか。台所に行けば何かあるだろうけど、せいぜいミネラルウォーターと、何かの機会に買った飲まないバーボンくらいのものだ。そもそもこの人生の終点、大事な一局、最後に用意すべき飲み物は何だろう。この錠剤を呑み込み、僕は廃工場の浴槽に身を落とす。ガソリンで満ちた湯船の中、火を放つ。順調に行けばほんの一時間くらい未来に起こる事だ。何も戯曲めいた演出をカマしたいわけじゃないけど、最後の最後、僕を「終わり」とやらに流れ着かせる液体は、一体何がふさわしいのだろう?

 牛乳は? 牛乳で薬を飲むと胃が荒れないと聞く。でも僕は胃痛を気にする局面に無い。それに最後が何処の馬の骨、ならぬ牛の乳……ワケの分からぬ生物の母乳だなんて気に喰わない。思えばそうだ、俺は子牛じゃない。では珈琲なんてどうだろう。睡眠薬をハラワタに運ぶのが眠気覚ましのカフェインなんて洒落が効いているかもしれない。いや止そう。駄洒落だ。アルコールは出来れば避けたい。酒に背中を押してもらうほど、僕は怯えてもいなければ迷ってもいない。ましてや台所にあるのはジャックダニエルだ。最後の飲み物に良く知らない外人の名がついているのは気に喰わない。そいつの顔はビンに書いてあったのでうっすら知っているが、気性は全く知らない。女の子のからかい方ひとつ上品にこなせない、騒ぐ事とユーモアの区別もつかないような男だったらどうする? 危険だ。

 あれやこれやと思案した。それは僕の悪い癖だったと思うが、それでもしばらくして、ふと頭に「ジンジャーエール」が浮かんで、僕は思わず「ああ」と感心の声をあげた。

 そうだ、ジンジャーエールだ。何より好きってわけじゃ無いが、まあ嫌いじゃない飲み物だし、その名前の響きといい存在感といい、なんだか儀式めいた香りがするじゃないか。

 やれやれ、と僕は机の上に睡眠薬を戻す。また元のように整列させたところで椅子から立ち上がる。背もたれに着せてあったノースフェイスのマウンテンパーカーに袖を通し、最後の一仕事をこなしに行く。腕時計……やめてしまった仕事に新人として入った時、記念に買ったボールウォッチに目をやる。時刻はどうやら午前二時だった。

 玄関の扉を蹴って外に出る。半年前越して来たアパート。今まで過ごした街を遠くに望む、国道が山を貫く途中にあるような小さな町。ここが僕の選んだ最後のねぐらだ。国道を進む長旅の車なら夜のうちに越えてしまう、そうでなくとも旅の想い出には残りそうも無い、ただ「通過点」でしか無い小さな町。その昔この辺りに道を通したり、別荘地を開拓した人々が残してくれたアパート、そこが僕の家だ。さすが郊外、アパートと言ってもコテージみたいな作りをしていて無駄にだだっ広い。目の前に洗車もできそうな広い駐車場がついて家賃は四万円。お買い得ってものだけど、目の前が国道だから道路の騒音は都会の住宅街よりよっぽど酷いし、歩いてどこにも行けないから車を用意しなきゃならなかった。救急車のサイレンが大嫌いな僕は自分の考え足らずを後悔したが、どうやら近くに大きな病院が無いようで、交通事故でも起きなきゃサイレンは聞かずに済んでいる。

 玄関の前には夜の闇が広がっている。都市とは違う本物の闇だ。森の木々の刺刺した輪郭線が頭上に暗い夜空を戴いてこちらを見下ろしている。街角に闇があるのではない、闇の中にぽつんと自分たちの野営地がある。そんな中、国道の緋色の街灯が道路をぼんやり明るめ、なんとか「ここは人間が通るところなんです」と主張している。僕は夜の空気を一息吸い込んでから自分の車に近寄った。これまで住んでいた地域の自動車保有率はせいぜい各世帯に一台あるか無いかで、多くの人は公共交通機関を日常の足としていた。僕も車は持っていなかったが、運転する事の多い仕事だったので自動車を持つことに抵抗は無かった。この辺りは冬場雪が降るのでなるべく四輪駆動を選ぶべきだったが、僕は旧型のクラウンを選んだ。前席がベンチシートになっていてコラムシフトで運転する、やっとこさオートマになった頃のクラウンだ。旧車然とした外見に比してやたら重量感のある車体は特有の違和感を放つ。その違和感を感じ取れる程度に旧車をたしなむ者のうち、十人に一人はこの車がクラウンエイトだと気付いてくれる。状態が良いものを買ったおかげで、こうした車にありがちな「白人になりたいお化粧」はされていなかった。

 重たいドアを開け、乗り込む。「自分は高級車なのだ」と過去の栄光を誇るみたく、おおげさにふわりと揺れて僕の体重を受け止めるサスペンション。エンジンをかける。古い日本車の風貌に似合わぬV8の機関が回る。ライトをつける。辺りが明るくなり、やっと人間様は自然と対等になる。さあ最後の仕事に出かけよう。クラウンエイトは地面を蹴って、鉄の体を国道へと滑り出した。夜の海で泳ぐみたいに、暗い国道をライトで切り裂いて進む。大空一杯の墨汁をこぼしたようにそこらじゅうが闇に浸っている。一番近い自動販売機まで歩いて何分かかるだろう? 草で埋まった歩道をたっぷり二十分は歩くだろう。一番近いコンビニまで、前後まったく車の無い深夜の国道を飛ばして五、六分だ。田園風景を貫く国道のかたわらに、ぽつんと人工の光が見えて来た。田舎のコンビニ特有のだだっ広い駐車場。深夜に見かける客は仮眠中の長距離トラックの運転手くらいのものだが、今夜はその類いもいない。全く車の停まっていない駐車場の中、ぽつんと光るコンビニ。品を入れ替える時間なのか、コンテナを床に置いて行ったり来たりしている店員が見える。がたがたと不安げに揺れる自動ドアを越え、店内に踏み込む。電気代をけちって飛び飛びに蛍光灯を消してある陰気な雰囲気の中、ふと目についたのは雑誌棚の辺りに佇んでいる若い女だった。やや派手な装いをした女は、足下に大きな鞄を置き、つまらなそうに女性向けファッション雑誌を読んでいる。不思議に思ったのは外に車が一台も停まっていない事だ。歩いて来たと言うのか? この辺りは昼間でも歩行者は見かけない。ましてや夜中なんて歩行しているというだけで不審者扱いされてもおかしくないような田舎だ。歩道どころか街灯さえ無い百メートルも珍しくないような夜道を女が一人で歩いてくるだろうか。女は僕のやや訝しげな視線に気付いてこちらを見た。が、冷ややかな一瞥をくれたきり、元通り視線を雑誌に落とした。興味無さげに眺めているファッション雑誌の表紙に良く似て、若い時代を楽しんでいる事だけを主張するような服装。軽薄ではあるかもしれないが、洗練されてもいる。脱色した髪は「茶髪」とか「金髪」とかで括ろうと思えば簡単だが、灰色がかったサビがあり金も手間も掛かっているのが分かる。こんな田舎の、こんな夜のコンビニには果てしなく場違いであり、彼女は今そこに存在するだけで「変わった夜」を作り出していた。のみならず彼女は口元の辺りに、どうやら殴られたらしい痣の痕を持っていた。もう一度目が合えば睨まれると思ったので、僕は観察をやめ、自分の用事を遂行する事とした。ジンジャーエール、ジンジャーエール。冷蔵棚のところに行く。そう言えばジンジャーエールってどこのコンビニでも普通にあったっけ、と少し気がかりしたがどうやら見つけた。それもペットボトルでは無くてホテルに置いてあるみたいな瓶入りの奴だ。瓶の飲み物は好きだったが、ジンジャーエール、ドライのものと普通のものがある。これには困った。ドライとは何だ? 前に飲んだのはどっちで、今、舌の上に記憶として浮かんでいるジンジャーエールはどっちだ? 勘弁してくれ。適当に選ぶわけには行かない。喉が渇いているわけじゃ無いんだ。俺は今、人生最後の幕引きを膳立てているところなんだ。両方買って試飲し決議せよ? 笑わせるな。そんな事して儀典性を穢すくらいなら冷蔵庫に放り込んであるミネラルウォーターで良かったのだから。僕は冷蔵棚の前に立ち尽くし、悩んだ。両方のビンを手に取り、成分表やら何やらを眺めた。その時、ふと背中越しに人の気配を感じた。視界の隅に先ほどの女が映った。どうやら僕がいる辺りに用事があるらしい。ちょっと避けてやろうと靴のつまさきに力を込めた、それとほぼ同時に。

「どいて」

 愛想の無い声がして女が僕を押し退けた。荷物で手が塞がっている時にドアを開けるみたいなやり方で僕を排除し、彼女はブラックの缶コーヒーをひとつ取る。BOSS、アイス。女はさっさとレジの方へ消えていった。

 僕はもちろん驚いたけど、特に抗議を口にすることもなかった。それよりもジンジャーエールだ。僕はまたしばらくの時間成分表を眺めていたが、やがて両方買ってみる事に決めた。どうやら二つとも液体の色は同じようだ。パッケージを剥いでしまえばどっちこっち分かりゃしない。部屋に帰ったら目をつぶって片方選んでしまえば良いのだ。困り果てた時は運命任せに限る。最高の平等とは完全な無作為のはずで、必要なのは体を放り出すちょっとした脚力だけだ。後は明白な必然とやらが僕を受け入れてくれる。違うか?

 僕は二本のジンジャーエールを手にレジへ向かった。レジは無人だ。棚入れをしている店員を捕まえようと目をやるが、コンテナが放置されている通路に店員の姿が無い。おや、と思ったところで、やや苛立った男の声が聞こえた。

「ちょっとお嬢さん」

 レジにジンジャーエールを置いたまま、僕は声のする方――雑誌棚の方へ行ってみた。腕組みして突っ立ってる中年男の店員。その足下に、先ほどの女が缶コーヒーを床に置き、しゃがみ込んで雑誌を読んでいるのが見えた。飲み物を選んだから帰ったのかと思っていたが、どうやら「腰を据えて」立ち読みをしているようだった。ちょっとお嬢さん。

「ちょっとお嬢さん、いい加減出てってくれよ。仕事の邪魔だ」

 店員はそう言った。店員にしてみればそれなりの決意をして発したはずの言葉だのに、女は無視を決め込んだ。その態度に覚えたあからさまな苛立ちを、少し薄くなりかけた頭をがりがり掻いて表した店員、言葉を続ける。

「お前、何歳だ? 家は? こんな時間にウロついてて良いのか」

 女は無視。店員は続ける。

「警察呼ぼうか。こっちは構わないんだよ。俺はさ、ひとりでも客がいたら奥に入れないんだ。こっちも疲れてんだから、迷惑かけるな」

 女は無視。店員は最後一言、試すと言おうか、付け加えると言おうか、「おい、ひっぱたくぞ」と言った。女は横顔にちょっと不機嫌な色を差し、そして一言、

「死ね」

 と言った。店員が逆上したのは僕の目にもはっきり分かった。その中年男の周囲で湯気が立つみたく空気が変わった。しゃがみ込んでいる女に対して店員が乱暴に手を伸ばしたのは、ちょうど彼の怒りが神経を伝達するのと同じくらいの速度だった。とぐろ巻いた蛇がしゃーしゃー言ってかふべを敵に投げるがごとく、彼の手は女の腕を掴み、そして無理やり立ち上がらせようとした。

「ふざけんな!」

 そう怒鳴った店員、声は引き攣っていた。女の口元の殴られた痕と合わせ、まだ始まっていない暴行が暴行の途中みたいに見えもした。ああ、ここまでだな、と僕は思った。目の前の出来事が次の展開を迎えないよう、僕は店員に近付き、その肩をぽんぽん叩いた。店員は真っ赤に血の昇った顔で僕を睨んだ。

「なんだ!」

「レジ」、と僕は言った。店員は「なにが! お前、この女の連れか!」と怒鳴った。僕は首を否定の方向に振った。そしてもう一度「レジ」と言った。店員は日本語も英語も通じない外国人旅行客を前にしたみたく口ごもったけど、それでもさらに何か言いかけた。が、僕は詰め寄り、ただ客としての権利を主張した。「れ、じ!」。店員は気に入らなそうな顔だったけど「……ああ」と返答未満の声をもらし、そして深く息をつきながらレジに向かった。「……二点、二百円」。前後の流れを知らなかったら驚くべき無愛想だったろうが、まあ仕方ない。気持ちは分からんじゃない。ここでちょっと用事を思い出したので、僕は店員にこう問いかけた。

「話は変わるけど、えー……古川さん」ネームプレートの名前を呼ぶ。「ここにジンジャーエールが二種類ある。ドライとそうでないもの。一体なにが違うんだ?」

 古川さんは「いらっしゃいませ」と僕を迎え入れた時とは随分ちがう、あからさまな敵意をこめて「はあ?」と言った後、

「知らねーよそんなこと。ドライのが渇いてんだろ、ドライなんだから。もう良いから二人とも早く帰ってくれ。疲れ――いや忙しいんだ」

 と、言った。僕はジンジャーエールを持ってレジを後にする。店を出る時ちらりと目をやると、先ほどの女はもういなくなっていた。

 さあ帰ろう。ずいぶんと時間を食ってしまった。僕は相変わらず駐車場に唯一停まっている自分の車に乗り込んだ。ジンジャーエールを後部座席に投げて、「あ、投げちゃヤバかったか炭酸だ」と思った後、エンジンをかける。車のライトを点灯する――と、明るんだ店の軒先、かたわらの地面に大きな旅行かばんを置いて、腕を組んで立っている先ほどの女が見えた。街中に置いたら遅刻している恋人でも待っているように見えたであろう彼女。不機嫌な顔が車の中の僕を見た。ふと思う。これで帰宅し、僕の思う「明白な必然」とやらに駆けて行ったなら、彼女は僕がこの目に写した最後の人類、という事になろうか。ふむ、先ほどの古川さんよりはずっと綺麗だ。ありがとう。僕は綺麗な物が好きなんだ。

 車のギアをバックに入れる。さあ帰ろう、とベンチシートの肩を抱き、車両後部に顔を向ける――ちょうどその時だった。こん、こん、と窓を叩く音がした。目をやる。窓の向こう、脱色され、時と場所とそれに服装が違えば高貴と呼んでも良かったであろう緩やかな波を与えられた髪、手の込んだメイクの不機嫌そうな顔、派手な恰好のせいで分からなかったがよくよく見れば実は少女と呼んでも良かったであろう年齢の、その女がいた。僕はギアを戻し、この車が出た当時は先端技術であっただろう電気の駆動で、窓を開ける。

「なに?」

 少女、に問う。彼女は相変わらず不機嫌そうな、冷ややかな目で僕を見下ろしていた。

「ねえ、乗せてってくれない?」

 表情のせいで抗議みたいになっているが、それはお願い事だった。

「なにを?」

 僕が問い直す。女は暗い国道の方に目をやって、言葉を続けた。

「私を。しばらく待ってみたけど、あなたを逃したら他に車が来る前に地べたで寝る事になりそうなの」

「……あんたどこから来たんだ?」

「この先に大きな交差点があるでしょ。そこまでは通りがかりの車に乗って来た。そこからここまでは歩いて来たわ」

 大きな交差点、僕は思い浮かべる。大きいか小さいかは分からないが、この先に信号のついた交差点があるとすれば、一キロほど向こうになる。その間は森の間を通る直線だけだ。

「ヒッチハイクか。ずいぶん変わったところで降ろしてもらったね」

「関係ないでしょ」

 彼女は素っ気なく言い返した後、はっとしたみたいに口をつぐんだ。ほとんど反射的にキツい言葉を返す癖があるようだが、それを謝罪する事は出来ないようだった。少し気まずそうな顔をした後、彼女はカバンの横のポケットから何かチラシのようなものを取り出した。僕にそれを見せながら、もう一度問い質す。

「私、ここに行きたいの。どこでも良い、あなたの迷惑にならない範囲で、ここに一メートルでも近づければ良い。乗せてくれない?」

 色が薄い安普請のチラシはどこぞの教会で開かれるらしいフリーマーケットを示していた。

「イエスかノーか、早く教えて。ダメならあなたの次に適した人が来るのを待つだけ」

「適した人ね」

「そ。あなたはヒッチハイクのお礼に荷台で抱かせろなんて言わないでしょ」

 顔をそっぽに向けている姿は、愛想の無い彼女の喋り方によく似合っていたが、同時に彼女の口元の傷――表情とメイクの使い道だけ間違わなければ端正だろう貌を冒涜する一抹の痕跡――を、まざまざと見せつけてしまった。そしてまた彼女が先ほどの店内での一連を経て、奇妙な信頼というか連帯感を僕に抱いている事を知った。それにしてもこれから焼身自殺をしようとしている世捨てを捕まえるとは、この少女もたいがい変な星の下に生まれ落ちたのだなと感じる。僕は何となく、少し笑った。彼女の姿が無作為の運命に身を投げているように見え、自分と同じだと感じたのかもしれない。

「いいよ、乗りな。どこか近くの駅まで運んであげよう。お嬢さん名前は?」

 そう問うと、彼女はちらりと僕の車のダッシュボードを見た。そして二秒後、

「カナ」、と答えた。ダッシュボードには、たぶんどこかの喫茶店か何かで読もうとして積みっぱなしの一冊の本があった。本の題名は児童の精神医学。著者は児童精神科医、レオ・カナー。あからさまな上、行き当たりばったりな偽名に、僕は笑った。

「そうかい。じゃあこっちはレオだ。助手席で良いかい? 後部座席には大事なものが積んであるんだ」

 カナと名乗った少女は頷いて、助手席に乗り込んだ。そして「ありがとう」、「お願いします」と言った。僕はアクセルを踏んで、車を国道に投げ出した。暗い夜道を駆ける最中、ふと通り過ぎた自分の居宅……机の上に並んでいる白い錠剤を思い出し、ふと郷愁に似た何かを感じた。

 

2019年1月2日公開

© 2019 倉椅

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