ワンルーム・ミラージュ

谷田七重

小説

16,287文字

第18回・女による女のためのR-18文学賞応募作。一次選考の時点で「女性ならではの感性を生かした作品」として評価されなかった、あるいは読まれなかったようでめっちゃドンマイです、が自分ではけっこう気に入っています。

 ふい、と目蓋の色が匂った、かと思うと由香りんは両目を見開いて僕をガン睨みした。とても寝起きだとは思えない鋭さだ。
「なんよあんた、そんな顔近づけんなや、きしょ」
 そう言って僕の顔をうざったそうに片手で押しのけた由香りんは、身体を起こしながらだるそうに腕を伸ばしてタバコとライターを手に取った。ベッドの上にあぐらをかき、咥えタバコのまま僕の存在をフルシカトするみたいに何度か煙を吐き出しながらひとしきりぼけっとうわの空。とりあえず椅子に座った僕も、由香りんの頭上にもやつく紫の煙を眺めながら放心していると、けたたましい目覚ましが鳴った。
 由香りんはうるさい時計をしばいて黙らせると、手首につけていたヘアゴムで髪を束ねた。その五秒くらいの間、すこしうつむいて伏し目がちになった由香りんの目蓋の淡いボルドーを盗み見た。なかなかいい色が作れたな、と自分で思いながら。
「またお絵かきしたん?」
 いつものやりとりが始まる。僕は頷く。
「ちゃんと水性やろね? ばしゃばしゃしたら落ちるやろ?」もう一度、頷く。
「ん」と由香りんは軽く応えると、あとはもう僕を見ない。ついでに言うと、自分自身を見ることもない。
 由香りんは、鏡を見ない。
 この部屋の鏡は、ぜんぶ取っ払ってしまった。それが、一緒に住むにあたって由香りんが提示した条件のひとつだったから。だから、彼女が寝てるあいだ僕がその顔に「お絵かき」しても、描き手の僕がぼんやりうっとり眺めるだけで、目を覚ました由香りんはそんなもんマジどうでもいいとばかりにさっさとシャワーを浴びて、僕の色を脱ぎ捨ててしまう。そして能うかぎり露出を避けたモノトーンの服に着替え、帽子と眼鏡とマスクをつけて、仕事へ行く。交通量調査のバイト。とくべつ金に困ってるわけじゃない。警備員の夜勤をしている僕と生活のリズムをずらして、起きているときになるべく顔を合わせないようにしている。由香りんいわく、「そんな汚いツラ見とうないもん」。
 ――今朝も風呂場のシャワーの音を聞きながら、僕は椅子に腰かけたまま、テーブルの上の白いパレットを引き寄せた。いろんな色の水彩絵の具はもう固まっていて、ああでもないこうでもないとためらいながら少しずつ混ぜて作った会心のボルドーも、まあ洗い流す他ない。プラスチックのチープなパレットにへばりついた色なんて。……明け方の薄明に眠る由香りんの肌に匂う色こそ、僕は残しておきたいのだけど。その時どきにしか作れない色に、その時どきの由香りんの呼吸する肌が染まり、色づき、息づく。息をつめて、僕はそのこまやかな生命を見つめる。自分が創造主にでもなったかのように感じる。でもそれはほんとうにつかの間のことで、僕のイヴは目を覚ましたとたん、悪態をつく。
 僕がキッチンの流し台でパレットを洗っていると、色を落とした由香りんは首にタオルをかけ、髪から水滴をしたたらせながら冷蔵庫を開けた。牛乳パックに直に口をつけて喉を鳴らすと、だるそうに冷蔵庫に軽くもたれて僕の手元を見た。
「せんせ」
 僕が目で応えると、由香りんは皮肉とも悪戯ともとれるようなかたちに唇を歪めた。
「せんせ、ほんと悪趣味やわ、きっしょ」
 その目は、笑っているように見えなくもない。思わず僕も笑みを返すと、由香りんの視線はすいっと流れていってしまう。牛乳パックをしまい、僕に背を向け、タオルで髪をごしごしこすりながらまた洗面所へ姿を消した。すぐに、ドライヤーの音がした。
 ――いってきます、だなんて、由香りんは言わない。そもそも、行ってきたら、帰ってくる、だなんて確証はどこにもない。でも、確信はある。おぼろに、なんとなく。だから僕も、いってらっしゃい、なんて言わない。ただ、由香りんがいなくなったこの部屋はがらんどうで、でも、あのこまやかに呼吸する肌の匂いはかすかに残っているような気がする。
 簡単に食事を済ませると、カーテンを開け放って、たっぷりとした陽光を浴び、ぐーんと伸びをする。そのままの体勢で軽く目を閉じる。そうしていると、部屋に淀みはじめた熟れかけの、甘ったるい匂いの粒子が朝の新鮮な光に濾過されていくような気持ちになる。目を閉じたまま、僕はさっきまで由香りんが寝ていたベッドにそっと突っ伏してしまう。
 光に睫毛がこそばゆい。陽光のフィルターを通した透明な由香りんの匂い、気配が、軽く閉じた目蓋の隙間から忍び込んでくるように感じる。そのまま僕はじっとして、目の裡にほのあたたかくこもる甘やかで澄んだ色味、のようなものに視界を覆われて、やがて全身を包まれ、そのまま眠ってしまいそうになる。
 ……が、こうしていても今日、久しぶりに由香りんから「せんせ」と呼びかけられたことに、少なからず動揺していて、その振れ幅が徐々に大きくなっていく。振り子のおもりはどんどん質量を増していき、頭の中をかき乱す。振り子時計がおそろしい速さで時空を遡っていく。
「せんせ、――せんせ」
 今から十四年前。由香りんは中学三年生で、春から家族で東京に越してきたばかりだった。高校受験へ向けての家庭教師を、そのころ大学生だった僕が務めていたわけだ。
 透明なゆりかごと天蓋のヴェールに守られて、つめたい雨も風も知らず、やわらかくあたたかな光だけを浴びてすくすくと育ってきたような、まぶしいほどに柔和ですなおな女の子だった。一人っ子というのも関係しているかもしれない。大事に、それこそ掌中の珠のように慈しまれて愛情いっぱいに育てられた、そんな風に感じる思春期の少女なんて、なかなかいない。それとも、僕がすでに大学生になっていたからだろうか? 同年代の女子なんて、ことごとくヤリマンのクソビッチにしか見えなかった。だから、そんなことを思ったのだろうか。
 はじめて顔を合わせた時に由香りんが見せた、花がそっと首をかしげるような、こぼれるように自然な笑み。その瞬間から、どんなかたちにせよ、僕の世界の中心にはいつも由香りんがいた。すぐ隣にいようが、鬼ごっこをしようが、かくれんぼをしようが、僕はこの十四年のあいだ、いつだって由香りんを追いかけていた。そして今も追いかけている。もちろん、これらはたとえ話だけど。
「ねえ、せんせ? またおすすめの本を教えて?」
 家庭教師をしていた僕にとって、由香りんにこうせがまれることほど、嬉しいことはなかった。由香りんの部屋の、味もそっけもないガラガラの本棚に、僕の教えた本が並んでいくさまをちらと眺めるのはちょっとした喜悦だった。僕が訪れるたびに、勉強の合間の休憩時間、あの本をどこまで読んで、こんな場面が大好きだとか、登場人物にあこがれるだとか、さらにはその先の展開を予想したりだとか。そんなことを屈託のない表情とまっすぐな言葉で伝えてくれた由香りん。何より彼女は好奇心旺盛で、利発で、そして、まっさらだった。僕にとっては、こんな女の子にいろんな本をおすすめすることは、手つかずのカンヴァスにさまざまな色の飛沫痕を残すことに他ならなかった。
 由香りんがどう思っていたのかはわからないけれど、僕は勝手にこう思っていた。――ああ、由香里ちゃん! 由香りん! 僕の紫の上!……ちなみに、お察しのとおり僕は光源氏みたいに超絶イケメンとかじゃない。ブサメンでもないが、まあ、フツメンといったところだ。そして由香りんはといえば、千年にひとりの美少女・橋本環奈にも負けないくらい、と言ったら大げさだが、それこそ僕にとっては源氏物語の若紫の再来かと疑うレベルに愛らしかった。
 ――ベッドに横たわって目を瞑り、そこまで一気に思い出しながらほろりと涙をこぼしそうになったものの、やはり僕は今の由香りんの言うとおり「きしょい」のだろう、と思った。まあそれはいい。でも由香りんを今では夜ごと、それも物理的にせっせと彩色する僕は、やはり昔と変わらないのかな、と思った。どんなに僕が由香りんに色をつけようが、きっとこれから先も、彼女を自分のものになんてできっこないだろう。まっさらだった由香りんの心のカンヴァスは、今やもうあらゆる色が濃く混ざって、重たく押し黙る黒一色になってしまっている。由香りん、かわいそうな由香りん。……そこまで考えたところで、閉じた目蓋から涙がひとすじこぼれた。それをベッドにしみついたほのかな匂いに溶かすように、僕は枕に頬をそっとこすりつけた。
 
 今の由香りんは写真を撮られるのが嫌いだ。だから、というわけではないけれど、僕も由香りんがたとえ眠っているにせよ、カメラを向けたことがない。もちろん、その寝顔に「お絵かき」して、その出来がかなり良かったりすると、写真に残しておきたいような気持ちになることもある、でも、だけど。
 たとえば、旅先の風景を写真におさめたくなるのはどうしてだろう。もちろん思い出として、旅から帰ったあとでも何度も眺められるように、楽しかったこと、すばらしかったことを繰り返し反芻するためだ。なぜなら、もう二度とそこへ行かないかもしれないから。何度も写真を見返して、写真に切り取った瞬間の風景だけでその土地のすべてを知り尽くしたかのような、まあ、ある種の私物化とでも言えばいいのだろうか。そんなふうにして、自分の都合のいいように思い出は時と共に頭の中になじんでいく。もちろん、それが間違ってるだなんて言うつもりはない、だけど。もう二度と、そこへは行かないかもしれない。
 被写体が人間だって同じことだ、いや、人間のほうがややこしい。なんとなく、なんとなくだけれど、いとおしい人、たいせつな人を写真におさめるというのは、どこかで、心のどこかで、対象がそのうち自分から離れてどこかへ行ってしまうかもしれない、という予感をはらんでいるような気がするのだ。レンズ越しに自分へ向けられた眼差し、こまやかな表情、その一瞬一瞬のきらめきのようなもの、それらを永遠のものにしようと、僕らはシャッターを切る。写真は残る、半永久的に。ただその一秒後にも、物語は続いている。もしかしたらわけのわからないような、唐突すぎる別れがあるかもしれない。一秒後とまではいかなくても、数分後、何時間か後、何日か後、何か月か後、何年か後、に別れ、がくるということを予見していて、だからこそ今、目の前にあるきらめきの一瞬をとらえようと、僕らはシャッターを切るのかもしれない。ただ、その音は妙に軽く、乾いている。カシャ。
 ――中学三年のころの由香りんに、幼少のころのアルバムを見せてもらったことがある。主に父親が撮影したものばかりらしかったが、アルバムをめくるごとに、幼い由香りんをうつした写真たちから、切実な祈り、のようなものが立ちのぼり、僕の頬をかすめていったような、今ではそんな気がしている。それは由香りんの父親が、たいせつな一人娘を見守っていた眼差しの波長だ。でも、いつしかすうっと潮が引いていくみたいに、由香りんが大学生になって少しすると、父親は家庭を捨ててしまったという。彼女が大学を卒業するまでは学費も、母親との生活費も不足なく振り込む、という条件で。由香りんにとって、そんなお金などは引き潮に取り残された砂まみれの貝殻みたいなものだったろう。……かといって僕は、彼女の父親を簡単に責めることなどできない。きっと夜、満潮のころになると、かつてたしかに父親からも愛されていた、という記憶は眠っている由香りんの心の中をひたひたと浸し、潤し、また陽が昇ると、そっと遠くへ退いていくのだろう。そうでなければ、今やすさみきってしまった由香りんが、あんなに満ち足りたやわらかな寝顔で眠るわけがないのだ。ただ僕がそう願っているだけかもしれないけど。
 ――眠っている時くらいは、夢をみていてほしい。由香りんの寝顔を見ながら、僕はそんなごく当たり前のことを思う。夢。極彩色のあたたかい、はるかなあこがれをまとう夢。由香りんはどんな色の夢をみているんだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、僕は僕で、プラスチックのパレットに絵の具を出し、水で薄めながら色を調合する。やわらかな筆の先をためらいにふるわせながらも、そっと、そっと由香りんのなめらかな肌を彩色していく。目蓋、頬、唇。それぞれの色のニュアンスはもちろん日によってさまざまだけれど、きっと由香りんは美しい夢の中で、僕の彩った顔に表情を輝かせながら遊んでいるに違いない。
 
 
 スーパーから帰ると、由香りんはガチギレしていた。
「あんたマジふざけんなや、同じ枕使うなって何回いったらわかるんよ」
 ばれたか、と僕が思うと同時に、由香りんは畳み掛けた。
「においでわかるんよ、においで。ええ? コラ。おっさん」
 ごめんごめん、疲れてて突っ伏しちゃったんだ、これから気をつけるから、とスーパーで買ってきたものを床に置きながら謝る僕からふんっと目をそらすと、テーブルの椅子に座っていた由香りんはタバコに火を点けた。
 枕をめぐるこのやりとりは幾度となく繰り返されてきたことで、そしていつも通り、由香りんは怒りながらも、問題の枕はそのまま打っちゃってある。僕にさっさと取り換えろ、とも言わない。そのうち、うやむやになる。
 僕の仕事が休みの日は、夕方から夜にかけて、このワンルームで一緒に時間を過ごすことになる。どちらかが出かけていなければ――とはいっても定期的に会う友人なんて僕にはもういないし、どうやら由香りんも同じみたいだ――まあそんな日は決まって由香りんは僕に何かしら言いがかりをつけてくる。僕が謝る。ふん、と由香りんは鼻を鳴らす。そうして、僕が作った簡単な夕飯を向かい合ってお互い無言で平らげると、由香りんはうわのそらでタバコをぷかぷかと吹かし、缶チューハイをあおりながら、つかみどころのない薄紫の煙みたいな思索にぼんやりと入り込んでしまう。僕が食器を洗っているあいだ、うつろな由香りんの視線を背中に感じることもなくはない。ただ、それに応えて振り向いたとしても、また彼女の視線はくるりと逃げていくだけだろう。
 そう、由香りんが僕とまともに目を合わせるのは、ブチギレている時だけ。あるいは――ブチギレているように見せかけてる時だけ。それでも、かつて表情を失くしてのっぺらのお面みたいになっていた由香りんの顔に、どんなものであれ感情があらわれるというのは、僕にとってはうれしいことだった。なんだか少し変かもしれないけど。
 ――今日もチューハイの三五〇ミリ缶を飲み終えると、由香りんは安ウイスキーをストレートでちびちびやりだした。この時点で、もうベッドは占領されている。まあ僕はかまわないんだけど。そしてたぶん、もう枕のことなど由香りんの念頭にはない。ベッドの上にあぐらをかいて、機械仕掛けみたいに右手でタバコを吸い、左手のショットグラスを傾ける。繰り返し。そのうち、身体まで傾いてきて、もちろん、おやすみ、だなんて言わないまま由香りんはベッドに突っ伏してしまう。僕と家にいる時はいつもそうだ。寝る前の薬を飲まなきゃならないはずなのに、そのまま眠ってしまう。僕が夜勤に行った日は、必ず忘れずに服薬してるみたいなのに。
 無心な寝顔にさそわれているような気持になって、僕はコップの水を手にベッドへそっといざり寄る。ベッドわきのサイドテーブルに乱雑に置かれた薬たちに手を伸ばす。どれを何錠ずつ飲むかを、僕は覚えている。――ねえ、ねえ由香りん、お薬だよ、お薬飲まなきゃ。そう小さく言う僕の声は、得体の知れない興奮に上ずってしまう。ん、と由香りんは眉根を寄せて、とろんと目を開ける。この時ばかりはおとなしい。腕をベッドに突っ張って眠たげに身体を起こそうとする由香りん、その様子はなんだかあどけなくて、僕はそっと背中に腕を回して支えてやる。――ね、ほら、お薬、口開けて、そう……。ふわ、と開いた唇から歯が覗き、そのあいだからすこし舌が出ている。半ば舌にそっと擦りこむみたいに、一錠一錠、与えてやる。そうして、顎をすこし上向かせて、お水だよ、こぼさないようにね、そう言って、少しずつ流し込む。由香りんは小さく喉を鳴らしながら、軽く目を閉じて睫毛をふるわせる。口からひとすじこぼれた水を指でそっと拭ってやると、由香りんはふ、と目を開けたかと思うと安心したようにまた目蓋を閉じて、僕の腕からゆっくりと滑り落ち、またすうすうと眠る。
 ――布団を掛けてやり、僕はその寝顔を倦むことなく見つめる。どうして僕がいる時に、決まって由香りんは薬を飲まないまま寝てしまうんだろう、もしかして自覚のない媚態の罠なのだろうか、とぼんやり思う。それならよろこんでその罠にかかってやるまでだ、それにしても。あの薬たちにはさらに眠りを引き寄せる作用があったはずで、それならば、由香りんにはいつまでも眠っていてほしいような、自分でもあやしいような願望が頭をもたげた。自分が飲ませてやった薬で、由香りんがずっと、覚めることなく眠ってしまう。息づいて匂う肌はそのままに。針の狂った時計を部屋のあちこちに置いて、時間を置き去りにして、時間に追い抜かれ、そのはざまでこうして、……
 なんだかうっとりとして、ベッドに上半身だけ投げだしたまま眠りそうになった、がそんな状態を目が覚めた由香りんに見られたらしばき倒されるかもしれなかった。それに今夜、こんなにたっぷりと時間があるのだから、と僕は立ち上がり、パレットと絵の具をテーブルに並べ、バケツに水を汲んだ。
 翌朝、目を覚ました由香りんは、いつものように起き抜けからタバコを吸おうと、サイドテーブルに手を伸ばした。が、自分の指先にネイルエナメルのような真赤な絵の具が塗られていることに気がついたようだ、タバコとライターに伸ばしかけた指を軽く丸め、しげしげと見入っていた。そのうち、指を広げて手の甲の側から眺めたり、そのまま手を高く掲げるみたいにしたり、いろんな角度から自分の爪をと見こう見していた。
 ――僕はそんな様子を、寝袋の中から薄目を開けて見つめていたわけだけど、由香りんのあまりに無邪気な反応に、思わず笑みがこぼれた。忍び笑いと息が一緒に漏れてしまったようで、由香りんはぴくっとこちらを見て、きゅ、と両手を握りしめ、僕を睨みつけた。
「この指のやつも、水性やろ? 洗ったら落ちるんよね?」
 僕がいつものように頷くと、由香りんもいつものようにふん、と鼻を鳴らし、今度はまっすぐタバコに手を伸ばすと、あぐらをかいて火を点けた。
 浴室に入った由香りんがシャワーのお湯を出すタイミングが、いつもより遅い気がした。実は、彼女自身が目視できるところに色をつけたのは初めてなのだった。仕事への私服も、部屋着でさえもモノトーンの服しか着ない由香りん。僕がいくら寝顔に色をつけようが、それを自分で見ることなくさっさとシャワーで洗い流してしまう由香りん。マニキュアのような彩色は、半ば僕のいたずら心みたいなものだったのだけど、どうやら彼女にとってもまんざらではないようだ。
 
 またひとしきり眠ってから出勤するまでのあいだ、僕は今日もぱらぱらとメイク雑誌を眺めていた。この夕暮れと夜のはざま、モデルたちの輪郭とメイクの色がかろうじて見えるくらいの光、これがちょうどいいみたいだ。部屋の電気はつけない。明るい蛍光灯の下でこんなどぎつい写真たちを眺めていたら、鮮明に見えすぎて、逆に隠微なものを見逃してしまいそうな、妙だけど、そんな気持ちになる。
 それでも、メイクを施されたモデルたちのいわゆる「キメ顔」、それは薄闇の中でも、ぐっとこちらに主張してくる。撮られることを前提とした、作られた表情。そこにはリアルな感情なんてなくて、撮られている、という意識だけがある、というふうに考えてしまうのは、やっぱり僕の念頭にはつねに由香りんがいるからだろう。無意識で、融けやすい化粧を施され、それを自分で見ることもなく洗い流してしまう由香りんは、他の何にも代えがたい僕だけのカンヴァスであり、モデルで、ミューズだった。
 ――でも。そうだ、むかし由香りんも、この雑誌のモデルたちみたいな、メッキのようなメイクと表情を貼りつけて、街を歩いていた。男と。メッキみたいな笑顔だ、と僕がそのとき感じたのは、中学三年の頃の由香りんを、その自然にこぼれるような笑みを知っていたから。忘れられなかったから。
 自分でも不思議だった。塗りたくった笑顔の仮面を貼りつけた由香りんに、街中ですぐ気がつくなんて。そのころ僕は二十八になっていて、由香りんは大学三年、二十一歳だった。彼女が第一志望の高校に進学して、それからたまにメールのやり取りはしていたものの、だんだんと疎遠になった。かといってこちらから執拗に連絡することもはばかられたので、僕は由香りんとの思い出を、心の小箱の中に大切にしまっていたわけだ。
 が、雑踏の街中で、思わぬかたちでその小箱はこじ開けられた。胸の軋みと同時に、錆びついた蝶番がギイイと鈍く軋む音まで聞こえるような気がした。耳をふさぎたくなった、目をおおいたくなった、が、いかにも女慣れした陽キャ男に腰を抱かれながら嬉しげに身体をくねらせて歩いている、いかにもクソビッチふうな由香りんをガン見していた。あんなにもきれいだった黒髪は軽薄な色に染められ、似合わない派手なメイクで大仰に表情を作り、そして、――ああ、由香りん! なんてはしたない恰好をしてるんだ! と思いながらも、なぜか僕は半勃ちしていた。
 それからとぼとぼ部屋に帰った僕は、思いがけない、しかも考えうる限り最悪な再会と、そして自分の情けなさにひとしきりむせび泣いた。鼻水をすすりながら、僕は携帯電話を手に取った。もちろん、もう由香りんのメールアドレスは変わっているだろう、でも、メールが届かなくてもいい、僕はなんだか無性に、由香りんに何かしら呼びかけたかった。ふるえる指でボタンをポチポチした。「由香里ちゃん、久しぶり! 僕のこと、覚えてるかな? 今ごろ大学三年生になってるのかな、元気にしてる?」とだけ書くと、えいっと送信した。なんと、メーラーデーモンに弾き返されなかった。届いてしまった! どうしよう! とひとりで焦って叫びだしたくなったものの、もちろん、由香りんからの返信はなかった。
 ――八年前のそんなことを思い出しながらも、今朝、手指に塗られたマニキュアのような絵の具をしげしげと眺めていた由香りんの表情は脳裏にうれしく焼きついていて、そのハチミツのようにとろけるあどけなさ、とでも言うべき反応を引き出せたことに、僕の心は甘い幸福に満たされていた。まあ、目が合ったらガン睨みされたけど、でも。あれは由香りんなりの照れ隠しだったかもしれない。そう思うことにして、僕は出勤の支度をはじめた。
 
 
 由香りんの足は小さくてなんてかわいいんだろう、その小粒な爪もなんて愛らしいんだろう。足の爪に絵の具を塗っていた僕はあまりのいとおしさに、いったん塗った足指にしゃぶりつき、色を口腔に融かしたい、とかいうガチの変態じみた衝動に襲われたものの、そんなことをしたら眠っている由香りんに顔面を蹴飛ばされそうでぐっとこらえていた。まあ、それにしても。由香りんはいつだって寝相がいい。
 窓から差し込むほの白い光が明るくなりはじめ、いつもどおりジリリリリ、と目覚ましが鳴った。由香りんはむくっと起き上がって時計を黙らせると、ちらとこちらを見たようだったけれどそれは想定内で、僕はテーブルに顔を伏せて寝たふりをキメていた。由香りんがこちらから視線を外すのを察知して、僕は両腕にうずめた顔をじりじりと上げ、薄目を開けた。由香りんは時計をしばいた手指を丸めて一瞬だけ見たものの、何も塗られていないことがわかるとタバコに手を伸ばして火を点け、くわえたままいつもどおりあぐらをかこうと脚を動かした。動きが止まった。僕の口元はにやけた。由香りんは目を上げてまたこちらを見た。ソッコーで目を伏せた。
 由香りんは今日はあぐらではなくベッドの上で体育座りで爪先を上げ、フューシャピンクに染められた爪を眺め、時おり足指をたわめたりしながらタバコを吹かしていた。その横顔の唇にも同じ色が乗っているのを、彼女は知らない。僕は薄目を開けてそんな様子をうかがいながら、きれいな色、と思ってくれてたらいいな、と願った。願っているうちに訊いてみたくなって、そっと頭を起こした。由香りんはぴくっとこちらを見た。その色、気に入った? と僕が尋ねる前に、彼女は目つきと語気をつとめて鋭くして――少なくとも僕にはそう見えた――吐き捨てるように言った。
「この、ド変態が」
 今日はすこし時間が余ったのか、シャワーを浴びて髪も乾かした由香りんは、元の色のない顔に戻り、またうわのそらでテーブルに肘を突いてタバコをぷかぷか吹かしていた。もちろん、足指につけた僕の色ももう消えている。
 ――また僕にはつかめない薄紫の思索に入り込んでしまった由香りんをぼんやり眺めているうちに、無力感というか、いら立ちというか、そんなマイナス寄りの感情が胸を重くしていくように感じた。その苦しさに耐えかねて、由香りんの頭に手を伸ばし、髪をまさぐり、乱暴にその奥の熱源に触れてみたいような気もしてくる。でもそうすることで、由香りんを損なってしまいはしないか、いつもひとりぼっちで何かに耐えている由香りんの最期の砦を壊してしまいはしないか、てかまず確実にガチギレした由香りんから少なくともグーパンはくらうだろう、とか考えているうちに、彼女は黙って立ち上がり、またいってきます、とも言わずに部屋から出ていった。
 ――ひとりぼっち。由香りんはひとりぼっちなんだろうか、とぼんやり考える。僕がいる。でも僕は、由香りんの中に、心の中に、うかつに足を踏み入れることはできない、でも、だけど。その外側を彩ることはできる。皮膚の内側まで色が染みこんでいくのを願うみたいに。……でも、やっぱり。
 僕がいくら由香りんに彩色しようと、彼女がみずから薄紫以外の色をまとうことはない。それはもちろん紫煙のことで、それはまとうというよりも空間を横切っていくヴェールのようなもので、そのヴェールがあるから僕は由香りんの熱源に触れることができない、かといって由香りんにタバコをやめてくれなんてことは僕には言えない。由香りん、ゆかり、紫のゆかり。僕の紫の上!
 ――由香りんがタバコを吸うきっかけになったのはどんな男なんだ、その男の匂いをまとって、ひとり武装したようなつもりになっているのか、そんなことしたって無駄だぞ、僕だってお前を彩色してるんだ、毎日毎日、……でも由香りんは毎朝シャワーを浴びて僕の色を脱ぎ去ってしまう、洗い流してしまう、そしてモノトーンの服を着て君は仕事へ行く、マスクと眼鏡をして。ほんとうは君に眼鏡なんて必要ない、なのに眼鏡をして行く、サングラスの日だってある、それは君が怯えているからだ、武装しているんだ、怖いんだ、おそろしいんだ、何がって? 自分が、自分の美しさが。自分を不幸のどん底まで叩き落したその容貌が。自惚れんなこのやろう。由香りんのばか。あほ。あんぽんたん!
 僕はいつの間にかベッドにダイブしていて、涙に濡れた頬をまた枕にこすりつけていた。由香りんのいない部屋で、その残り香にこうして涙を溶かすことでしかひとつになれないような気がした。でも、今はそれだけでじゅうぶんだと思った、そして。由香りんに直接さわれないにしても、きっと、そう、爪への彩色を由香りん自身が見てくれたことで、ほんの少しずつだけれど、彼女の心は色づきを取り戻していっているような、そんな気もしていた。
 ――だから翌朝、僕はまたひとついたずらを重ねた。由香りんは目を覚ますと、いつものようにうるさい時計をしばき、やはりちらりとこちらに目をやったけれど、もちろん僕は寝たふりだ。由香りんはタバコに腕を伸ばす前にまた手指を眺め、やわらかく脚を動かして足指を見た。どちらにも色がないとわかると、無造作にあぐらをかき、サイドテーブルのタバコを取ろうとした。手が止まった。手鏡が伏せて置かれているのに気づいたのだ。また由香りんはこちらをさっと見た。また僕はソッコーで目を閉じた。
 それでも由香りんはあぐらをかいたままのそのそとこちらに背を向け、手に取った小さな鏡を覗き込んでいるようだった。この部屋に越してきて、由香りんが鏡を見るなんてことはたぶん初めてだ。ラベンダーカラーのアイシャドウもどきは、由香りんの目にどう映っただろう。そんなことを思いながら後ろ姿を薄目でガン見していたら、鏡の端がきらりと見えて、由香りんの唇がちらと映った。微笑にほころんでいる、ように見えた。
 
 
 今日もいつもどおり、うわのそらでタバコを吹かしていた由香りんは、めずらしくまっすぐにこちらを見ていきなり、ねえ、と真顔で言った。
「なんで、なんであんた怒らんの」
 なんの脈絡もない突然の質問に、僕は曖昧な笑みで応えることしかできなかった。そんな僕を見て、由香りんはなんだか自分を恥じるように一瞬だけ目を伏せた。タバコを吸い終わると、何も言わず部屋から出ていった。由香りんは今日はお休みだけれど、たぶん漫画喫茶にでも行ったんだろう。
 ――なんとなくだけれど、ほんとうは「なんで怒ってくれんの」、と言いたかったんじゃないか、と思う。それにしたって、僕には由香りんを怒る理由なんてないのだ。でもそれが、いくらか身勝手な願望によるものだということは否定できなくて、由香りんもそれにきっとなんとなく気づいている。私はいつまでこのままでおればいいん? と、ほんとうのほんとうは、そう言いたかったのかもしれない。でも、僕は。そんなことを由香りんに言ってほしくない。
 今朝のその短い、やりとりとも言えないような言葉と視線、思惑の交錯に、一年半ほど前、僕らが一緒に暮らすようになったきっかけを思い出した。
 由香りんはある日とつぜん、「私を買ってください」とだけ書いてメールを寄こしてきたのだった。七年ごしの返信が、それだった。
 その日に会うことにして、僕は急いで待ち合わせ場所へ向かった。地下鉄の改札わきの壁にもたれて僕を待っていた由香りんは、僕の姿をみとめても表情ひとつ変えず、というか表情そのものがなく、存在そのものがモノトーンに見えたし、目の焦点も合っていないようだった。そんな顔で、小さく、せんせ、と言った。
 僕が感じたのは、まず怒りだった。由香りんに対してじゃなく、由香りんをここまで追い詰めたすべての人間、事象に対して、自分でもおどろくほどの憎しみを覚えた。そして、極限まで追い詰められ、色も表情も失くした由香りんの痛々しいほどに研ぎ澄まされた美貌、その鋭さが、僕の胸をしくしくと刺した。
 先生の、いえ、先生が、払いうる金額でいいんです、なんなら、このままどこかのホテルに、入ってもいいんです、差し支えなければご自宅でも、そう、どこでも。
 喫茶店で向かい合い、僕の目を見ているようでありながら、どこか遠くを眺めているようにも見える眼差しで、由香りんは淡々とばかなことを言った。ほんとうにばかだと思った。目の前で半ば放心しながら小さく喋る由香りんは、ほんとうに痛ましいほど美しかった。ただ、緻密でありながら用途を見出せない工芸品というか、もっぱら鑑賞用の、まさに美術品、とでも言ったほうがいい。そんな自分が、エロチシズムからむしろ遠くかけ離れていることに、由香りんは気づいてないのだ。事実、僕はチンピクすらしなかった。
 由香りんの言うことを無視するみたいにして、僕は彼女に両親のことを訊いた。一瞬、尋ねるような目を上げたものの、由香りんはごく手短に、両親は離婚し、父親は新しい家庭を作ってもう十年ほどは会っていないこと、母親は由香りんの素行に愛想を尽かして四国の親類のところへ身を寄せたこと、を話した。それらの内容から、僕は由香りんがこうなってしまったバックグランドを何となく察した、けれどそれ以上、何も訊かなかったし、訊けなかった。
 その日からいろんな手順を踏んで、僕らは一緒に暮らすことになった。その頃には由香りんはもうほぼ今みたいなキャラになっていて、僕の部屋ではばかることなくタバコをぷかぷか吹かし、何かと理由をつけては悪態をついた。明確に言葉に出さないものの、由香りんにとっては、あきらかに自分を好いているのに、それに性的な欲情が伴わない僕みたいな奴は「きしょい」らしかった。たぶん今まで、そんな男に出会ったことがなかったんだろう。僕はただ、由香りんを愛でていたいだけだったし、今でもそうだ。でも。
 それが由香りんを戸惑わせていることに、僕はほんとうは気づいていながら、気づかないふりをしているのかもしれなかった。今朝の由香りんの言動に滲み出ていた、私はいつまでこのままでおればいいん? という無言の問いかけ。そんなことを考えさせるようになったのは、この頃の僕のいたずらが度を過ぎてしまったからだろうか。由香りんはいつだってあやうく心の均衡を保とうとしている、それを揺さぶってしまったのかもしれなかった。これまで由香りんに関わって、彼女の身体と心を損なった想像上の男たちを憎んでいたものの、そいつらと僕と、どこが違うというんだろう。僕だってほんとうは、由香りんを自分の都合のいいように利用しているのかもしれなかった。
 ――僕がいつも出勤で家を出る少し前に、由香りんは帰ってきた。僕をシカトしたまま洗面所で手を洗い、うがいをした。手と口をタオルで拭う由香りんに、僕は、ごめん、とだけ言った。反応がなかったのでもう一度、由香りん、ごめん、と言った。タオルから手を離した由香りんは、ぐっと目を上げ、僕をガン睨みした。
「なんで謝るん。まだわからんの。あほ、死ね!」
 目つきや語気をいくら鋭くしようが、眉だけはごまかせないようで、八の字に歪んでいて、眉根には影があった。僕は由香りんの頭にそっと手を伸ばした。見開いた由香りんの瞳は揺らいで、身体がぴくりと硬直するのがわかった。かまわず、僕は後頭の髪をそっと撫で、そのまま引き寄せ、もう片方の腕を背中に回し、抱きしめた。
 こちらの腕の力が強くなるにつれ、由香りんの身体の力は抜けていくようだった。支えていないと一緒に倒れそうで、それならいっそ共倒れになってしまってもいい、と思ったところで、由香りんは小さく言った。
「時間。もう行かないかんやろ? 行け。出てって」
 そっと身体を離すと、由香りんはうつむいたまま、顔を上げなかった。髪のあいだからのぞく耳たぶに、赤みが差しているような気がしないでもなかった。腕をほどくと、由香りんはその場にへたり込みそうになった。思わずまた腕を伸ばそうとすると、払いのけられた。
 いってくるね、と初めて由香りんに言ったような気がする。もちろん応答はない。ドアが閉まる瞬間まで、その隙間から、灯りの中の由香りんを見ていた。由香りんはうつむいたままよろめいて壁に手をつき、そのまま壁にもたれ、両手で顔を覆った。――閉まったドアに、僕は鍵をかけた。
 
 気づいていながら、明け方、また僕は由香りんの顔に色をつけていた。気づいていたから、いつもよりもさらにやさしく筆の先をすべらせた。目を閉じた由香りんも僕が気づいていることに気づいているのだろう、それでも僕らはお互いに黙ったまま、儀式みたいに、いつもの役割を演じていた。どちらかが何かしらの言葉を発すると、これまでのすべてはこわれてしまうだろう。きっとそれも、由香りんはわかっている。
 いつもより顔がこわばっているけれど、無理にほぐす必要はない。ほんのりとばら色に染めた頬にやさしく左手を添えて、いつもよりも入念に、丁寧に、コーラルピンクの筆先を唇にそっと当てると、由香りんはとっさに唇を丸めてかくそうとした。僕は頬に添えた左手をそっとすべらせ、やわらかく抵抗する口元を指でやさしく押し広げた。前歯がすこしのぞき、そのきらめきがかすかにふるえている。なだめるように人差し指をじっと三秒ほど唇に当てると、すなおになった。僕はまたパレットのコーラルピンクに筆を浸し、片手で顎をそっと上向かせた。
 目蓋全体にシャンパンゴールドを乗せたあと、左目から二重のラインに沿ってレッドブラウンを重ねている時だった。睫毛がふるえたかと思うと、目尻から涙がこぼれた。目尻側へ向かってレッドブラウンの幅を広く塗っているところだったので、そのひとすじは色を融かしながら流れていった。あとはとめどなかった。堰を切ったように、閉じたままの右目からも涙が次々とこぼれた。
 いつのまにか由香りんは上半身を起こしていて、僕たちは頬をこすり合わせながら、互いの涙に色を融かし合っていた。
 どちらからともなく顔を離し、ためらいがちに見つめ合った。まず笑ったのは由香りんだった。由香りんの顔にもいろんな色がごちゃ混ぜになっていて、僕らは一緒に暮らしはじめてから、初めて一緒に笑った、そして。由香りんは初めて、笑ってくれた。
 はしゃぎすぎて息を切らす少女さながら、満面に笑みと色をたたえた由香りんはねえ、せんせ、と言った。お薬のんだら寝てしまうけん、今日はね、寝てしまうのイヤやったけん、飲まずにおったん、でももう寝んと、やけんね、飲まして、お薬。
 薬を飲ませる前に、僕は濡らしたタオルで由香りんの顔を拭いてやった。タオルが肌に触れるとおとなしく目を閉じ、一瞬でも肌に何かを感じないと目をぱっと開いて、きょときょととした眼差しで僕の一挙手一投足を見つめる由香りんは、中学三年の頃、初めて会った時よりもさらに幼く見えた。それでいて視線のうつろいに妙な艶っぽさがあって、それは僕が由香りんの中にまで色をつけたからかもしれない、という自惚れも感じないではなかった。
 よほど眠気を我慢していたのか、薬を飲ませてやると、由香りんはすぐにすうすうと寝息をたてはじめた。今日はもうふたたび顔に彩色する気は起きなくて、このままずっと由香りんの寝顔を見つめていたかった。前みたいに、このまま目覚めないでいてほしい、とも思わなかった。すうすうと規則的な寝息と一緒に、この部屋にひとつだけある時計の秒針も少しずつ時を刻み、やがて長針と短針が文字盤のあるべきところに行きつくと、これまでこの部屋にもやついていた曖昧なものたちの一切が弾け、またあたらしい日々が始まるような、そんな気がした。
 ――その前に、ひとつのささやかな区切りとして。僕はあることを思いつき、パレットに金色の絵の具を押し出した。
 目覚ましが鳴っても、由香りんは起きなかった。睡眠がじゅうぶんではなかったのだ。僕は時計を黙らせると、ベッドのわきに屈んで、由香りん、時間だよ、起きなきゃ、と言った。由香りんは仰向けで目を閉じたまま、軽くぐずるように顔をしかめた。僕は僕で、あやすように由香りんの片手をとり、指をまさぐりながら、いつの間にか唇に口づけしていた。由香りんはぱっと目を見開いた、かと思うと頬にいきなりビンタをくらった。とても寝起きとは思えない素早さだ。
「なんよあんたその汚い顔、ずっとそのままでおったん?」
 そういえば、僕は自分の顔を拭くのを忘れていた。
 片手で僕の顔をぐいと押しやり、由香りんはいつもどおりサイドテーブルのタバコに手を伸ばした。動きが止まった。気づいたのだ、僕が薬指の付け根に金色で指輪のようなもの、を描いたことに。由香りんは一瞬だけ手を引っ込めたものの、また指に目を落とし、僕を見上げて、言った。
「しょーもな」
 その声音は甘いものを含んでいて、頬に喜色をにじませた由香りんは首をかしげたかと思うと、花のつぼみがほころぶように微笑んだ。

2018年12月27日公開

© 2018 谷田七重

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