カンブリア紀の白い壁

吉川敦

小説

4,077文字

白い壁のお話です。カンブリア紀とありますが、現代のお話です。たぶん。

 部屋には南向きの窓がある。一昨日の夕暮れと同じに見えた。ぼくは、隔世遺伝の空と名付けた。
 
 明日から、街は無計画な雨季に入る。始まりは予測できるが、終わりは気分次第だ。気分は街を形成しているコンピュータが司る。コンピュータのご機嫌を左右するのは太陽の放つ宇宙線が要因だと噂されていた。噂を確かめた科学者は誰もいない。
 
「鳴りましたね」
 六日前に、街外れにある天体観測所のパイプ・オルゴールが宙空に響いた。雨季を告げる合図だ。予報はハズレたことがない。一日中、オルゴールのメロディが続く。メロディは、あらゆる空気を伝わる工夫がされている。だから、あらゆる場所でメロディが耳に入ってくる。とても心地よい共鳴だ。
 
「鳴りましたね」
 その日の挨拶は、オハヨウでも、コンニチハでも、アリガトウでも、サヨウナラでもない。職場でも、学校でも、道端でも、糸電話でも、鳴りましたね、が挨拶になる。それから、街の住人は雨季に備えた、食料や生活必需品の準備にとりかかる。
 
 部屋の西側にある壁は特殊なコンクリでつくられている。ぼくは壁の前に家具や調度品を一切、置いていない。殺風景な白い壁だけが部屋の西にある。ぼくは、その壁に太いフエルトペンでメモを残していく。つい、さっき、すべてのお買い物リストをクリアしたところだ。メモは手のひらで軽くこすると、すぐに消える。元の白い壁に戻る。とても、便利なコンクリだ。
 
 ぼくは、生まれつきの雨季マヒ健忘症シンドロームと診断されていた。オルゴールのメロディを聞いた二日後あたりから、物忘れがひどくなる。統計では十人にひとりぐらいの割合で発症するらしい。症状のメカニズムは分かっていない。予め決められた無意識なクセみたいなものだ。ぼくは、そう、理解している。ドクターに処方された赤い錠剤を、ぼくは噛む。ほんの気休めにしかならないけれど、服用しないよりはマシな気になれる。
 
 白い壁に残っているのは数日前、古代生物の図鑑を見ながら描いたヘタクソなイタズラ書きだった。海から陸にあがってきた長いカタカナ名の生き物だ。一匹だけ、壁の左隅に寝そべっている。白い壁に黒色で描かれたものは、オタマジャクシがカエルへと成長する過程へ変種のナマズを加えた未知のネズミみたいに見えた。ぼくにはセンスと呼ばれる能力が欠けている。
 
 ぼくは、再度、買ったものをチェックした。同じ折り紙セットがふたつあるのは、ご愛嬌だ。窓越しに月が見える。しばらくは、お月様と会えない。ぼくは、赤い錠剤の副作用である、めまいのする夢をやわらげるドリンクを吸った。しばらくすれば、眠りがやってくる。雨の音で目が覚めないように遮音カーテンを閉め、ぼくはベッドにもぐった。
 
 雨季の期間は最上級にヒマだ。朝から晩まで一秒たりとも、空の厚い雲が消えてくれない。アルカリ性の小雨が降り続ける。鉄道、地下鉄、モノレール、バス、自転車タクシー、など。すべての交通機関は営業を中止する。もちろん、職場も停止状態に入る。外出禁止令は無意味だ。必要がない。街の住民は、自己責任において、外に出る自由が法的に認められている。
 
 雨季に入って三日目。モニターがニュースを表示しなくなった。どうやら、街すべての機能がマヒしたようだ。ぼくも、二日目までは仕事の雑務連絡や生活の整理整頓で時間を埋めていた。でも、それ以降は何もすることがなくなってしまう。日常は、ぼくの思い通りにいかない。それは雨季と別の話だ。雨季でなくても、毎日は、ぼくを不平な場所に置く。ぼくの予想は空回りする。ズレた現実を、ぼくは受け入れるしかない。
 
 ふと、ぼくは、フエルトペンを握って、また、ラクガキをする。図鑑のページを開いて水生動物や植物、微生物を描いていく。次の日も、また、その次の日も、ぼくはそれを続ける。とにかく、ヒマ。白い壁のラクガキが増えていった。ラクガキは単純化されていく。手抜きだ。やがて、白い壁の大半が黒で覆われた。
 
 七日目の朝。目覚めると、白い壁のラクガキが消えていた。壁に近づいてみる。黒い線が、ランダムな模様をつくっている。ぼくは何もしていない。ぼくは、壁に書いたインキをひとつも消していなかった。勝手に動いているのかもしれない。動かされているのかもしれない。ランダムな線のいくつかは、リノリウムの床まで伸びていた。
 
 ぼくは、そっと、人差し指で、黒い線を触ってみる。いつものように手のひらでこすってみたが、黒いインキは消えない。壁は濡れていないようだった。わずかばかり湿っているような気もする。湿り気は部屋に入りきれなくなった水蒸気が凝結した名残りだろう。それほど珍しい現象ではない。雨期には、よく、部屋のなかに小さな雲ができる。この現象の専門用語を、ぼくは知らない。消防局へ連絡すれば、見えない水蒸気を専用ポンプで吸い取ってくれる。
 
 ぼくは当局へ通報するかどうか、少し考えた。雨粒で汚れた窓を通して、外を眺めてみる。雨季が始まる前にベランダは折りたたんであった。この街の重要なルールだ。もし、折りたたまなければ、ベランダが小さなプールになってしまう。六階から、道路を見下ろしてみた。道路には、さまざまな異物が流れている。クルマのドアや、折れた信号機、年老いたヒトたち。特別、気になるようなモノはない。これもひとつの日常だ。
 
 ぼくは、もう一度、壁をさわってみた。今度は全体をなでるように。黒い線は、わずかばかりの膨らみを持っていた。もしかすると、壁そのものが膨張している可能性もある。いや、気のせいではない。ぼくは後頭部の脳を両手でかいた。かきむしった。最低最悪の状況を想像する。ぼくの思考ではベストな案が浮かばない。ぼくは三分先の想像力も欠如している。脳のリミットを超えていた。ぼくは、何事もなく知らないフリをして逃げる案を選ぶ。逃げる。とても、カンタンで安易な方法だ。
 
 壁のラクガキは歪んでいた。まるで、五次元に生息する複雑奇妙な異星体のように見えた。元の姿の面影すらない。ぼくは、壁に右耳をあててみた。壁が、ゆったりとした周期で波打っていた。コンクリの壁に、何かが含まれている。そう、感じた。鼓動のような振動が、ぼくの鼓膜を揺さぶっていた。ぼくは右手で壁を押してみる。少し凹んだ。絶対に気のせいではない。マチガイでもない。確かに壁が変異している。ぼくは当局に連絡する選択をゴミ箱に捨てた。
 
 ぼくは身分証明カードを上着のポケットに入れ、気泡レインコートを羽織った。紫色のビニル傘を持って、ぼくは部屋の外に出る。どこへ逃げるのかは決めていなかった。道路に行っても、異物のひとつになるだけだ。それぞれのビルに設置されている空中歩道をつかうしか術はない。ただ、アルカリ雨に溶かされた空中歩道は屋根に穴が開いていて、小さな川になっている場所もあった。今の期間、補修工事は中断されている。
 
 プチッ。
 
 部屋のなかで低い音がした。何かが弾ける音だ。廊下まで聞こえるのは、決して、小さな音でないことを意味する。しばらくして、ドアの下から粘性の高そうな黒い液体が顔を出した。廊下に這い出た粘液は、ゆっくりと、その量を増やしていく。フエルトペンのインキが溶けた? 白い壁が崩れた? ラクガキがホントの生き物になった?  良からぬ事実が目の前で起きている。何かが起きてしまった。この場所を離れよう。急げ、と、ぼくの五感がざわめく。
 
 ぼくは、このビルに設置されている空中歩道の入口へと向かって、歩き出す。自然と、早足になっていた。無自覚な行動だ。ぼくのなかのロジックが消えていく。細胞が先走っていた。慌てている。足が勝手に動く。でも、頭には別の文脈が浮かんでいた。ツマラナイこと……壁は鏡になった、あの奇妙な生物は真のぼく自身の姿、あの壁のなかに入っているのはぼくの異物な遺物、部屋から溢れてきた黒い液体はぼくの体液に近い成分……そんな、とても、ツマラナイ妄想だ。ぼくはツマラナイを消した。ツマラナイは錯綜した神経回路をジャマする。
 
 後始末は、どうにかなる。これまでの過去と同じように不測の出来事が生じても、やがて、時間がキレイに浄化してくれるだろう。まだ、しばらく、雨季は続く。訳の分からない黒い液体は廊下や階段を伝って、大きな道路まで辿り着けばいい。流体なら低い場所へと流れていく。異物と混ざり合い、彼方へと去っていき、いずれ、キレイを取り戻す。
 
 視線の先に空中歩道の入口が見えた。少し雨で漏れているようだった。歩道の天井が傷んでいる。歩道のあちこちに水たまりがあって、側溝にはカビた雨水がゆったりと流れていた。このビルには水中歩道がひとつしかない。ぼくはビニル傘を広げた。空は濁った紫色。行き先は少しでも高い場所だ。ぼくは、水たまりを避けるようにして、また、歩き始める。
 
 雨季の終わりを告げるパイプ・オルゴールは鳴らない。かつて、幾度か、天体望遠鏡のある山からメロディが流されたらしい。それは、街の住人を不快にさせた。雨粒でメロディは乱反射する。微妙な振動はメロディを混濁させる。住人は時間が過ぎるのを待つしかない。いつか、雨季が終わる日がやってくる。そう、ぼくたちは不確定な未来を待つ。それが運命という代物だ。
 
 ぼくは、空中歩道の真ん中あたりで、大切なことに気づく。部屋に薬を置いてきてしまった。もう、遅い。ポケットは空っぽだ。後ろには戻れない。現在形は一瞬で過去へと色褪せていく。諦めた。部屋が、どうなっているのかはムシだ。無関心になればいい。いろいろと諦めた。ぼくは、ビニル傘の柄を持ち直す。そして、ぼくは、どこでもない明日の方角へと向かっていった。
 
 部屋の西側には壁がある。白い壁だった。ぼくは、カンブリア紀の白い壁と名付けた。
 
 
 XTC – Dear God

2018年11月21日公開

© 2018 吉川敦

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